永遠のお別れ

お礼

 

2010年10月6日午後12時6分、宮嶋貴志子は永眠しました。
葬儀にあたり、徳洲会総合病院、中西ウィメンズクリニック、大同商事、テックドゥを はじめとする皆様には多大なるご支援ご協力を賜りありがとうございました。
また、故人のご友人様には、格別の温情を頂き遺族にとても励ましとなりましたことは、本当に感謝してます。 合掌



前日 10月5日

午前9時、貴志子を病院に送って行こうとしましたが、家から出ることができず、119番しました。
病院に着くと「救急車は楽やねぇ」と、
待合で待機してると、処置が済んだのか看護師さんが「宮嶋さんこちらに来て下さい」と案内された。
「あれ?なんで僕ってわかったんやろ?」と貴志子に聞いたら、笑いながら「待合にアンパンマンがいます。それが旦那ですから、すぐわかるよって看護師さんに言った」と
案内した看護師は笑いながら聞いてた。
「せめて筋肉マンぐらいにしといてくれ」と言うと、貴志子、看護師さんのリアクション見て「筋肉マン 看護師さん知ってるんだ」
看護師さん「私こう見えても、けっこういってる(年取ってるの意)」「ほーそうみえんけど」と貴志子、上手なお世辞で周りの笑いを誘う。
救急で病院に来た時、診察して頂いたのが、 10年ほど前に癌により、子宮卵巣リンパ全摘手術した実母の腹部の手術が本日10月5日午後3時30分より始まる日でもあり、その執刀医でした。
執刀医に「母のことお願いします」と、執刀医は驚いていたところ、貴志子「実母なんです。」と執刀医「全力を尽くします」と言った。
そんなやり取りを見てたら、今までどおりの貴志子で内心ほっとしました。CTが撮れず、レントゲンでの判断しかできないと病院側が焦っている様子が気になってましたが。
主治医が来た。
目を皿にして、貴志子は「私、治るよね」と言い、主治医は、「がんばりましょう」と返答した。
背中の痛みにより上向きに寝れない為に、その痛みを取るため「モルヒネ」を打ちますとの説明に「えっ?」と思いながら貴志子が楽になり治るのならいいかなと思ってました。
当然入院、おむつの説明や、手続き等に追われて自宅を往復してました。病室も空いていないので処置室で、しばらく点滴を受けていました。
看護師さんが、貴志子に尿を取る管を付けるために
「宮嶋さん、少し外の談話室で待ってて下さい。」と、
談話室で座っていると、偶然なのか必然なのか、貴志子の父と妹が目の前を通過した。
「おとうさん」
「実は。。。。。」
と本日の経緯を話す。
その頃、処置が済み中にはいれるようになった。
義父に 「お母さんも大変ですが」
「よかったら貴志子覗いてやって下さい」と言って
自宅に、足らない書類を取りに行くことを伝え病院を後にした。
午後4時ごろ主治医の大野先生から説明があるとのことで病院に出向きました。
ナースセンターに病室どこですかと尋ね行ってみると
病室は、個室でした。中に入り
「よかったやん、個室で」貴志子、「。。。。。」無言
看護婦長さんが呼びに来た。
正直嫌な予感半々
看護婦長も、意味深な顔
主治医が「宮嶋さん、いよいよ覚悟を決めて頂かなくてはいけない時が来た。」とパソコンでカルテを出し映像を見せながら言った。
「え?」
さらに「今までの、抗がん剤の投与も聞かず、乳がんが肺の中に温床してしまってる」と
「危篤状態です」と
「えええええ?」
「家族に今の内に会わせて下さい」と
「えええええええええええええええええ?」頭の中が真っ白になる、医者の声がだんだんフェードアウトしていく。
どうしたらよいのか思考能力も機能しない。ただうなずいて
「はい」と返事をすることしかできなかった。
涙こらえ、病室に戻る。
「どうや調子は?」って聞くと
「ちょっと寒い」と背中痛そうにして小声で言った。
救急車に乗ってきたときのジャージの上着を見つけた僕は、
「エアコンの吹出し口が真上やで、寒いわ」と言いながら
貴志子の背後から掛けてやった。
「ありがとうございます」と貴志子
「なんや、よそよそしい、治って家に帰るんやよ」と苦し紛れなセリフ
「また後でくるで、寝てやあよ」と居ても立っても居られない僕は、足早に病室を去った。
悔しくて、切なくて、涙をこらえるのが精いっぱい
エレベーターで降り、売店の前を通る、涙が止まらない。スローモーションで周りが見える。
前から、偶然に義妹が来る。
「ゆっちゃん」
「おにいさん」
「おねえちゃんどうやった?」
「落着いて聞いてね。もう、あかんらしいわ 危篤状態だとさ」
涙がもう止まらない。
「最後に会ってやってね。お父さん(義父)に伝えてね」
義妹も号泣。。。。。。
「なんでおねえちゃんやの」と悔しがる義妹

この現実を息子たちに伝えると長男は
「医者なんか信じれるか、ママ必ず元気になるって」と、逆に励まされた。
次男は、涙を流しながら
「かあさんに、何もしてやれんかった。いつも心配ばかりかけて。。。。。」と
思い起こせば、1週間前の9月28日に背中あたりを痛がる貴志子を病院に連れてった時、「レントゲン撮って肺に水溜まってないので薬「デカドロン」(ステロイド剤)1週間分出しておきますね」で1週後の予約で危篤?娘も「あの薬飲むようになってから、足がむくんで歩行困難になったよねぇ」と今頃言っても遅い気もするが。。。(汗) 娘に電話連絡したら、夜に帰宅 事情を説明したら、。。。。涙心配と不安が隠せない様子

当日 10月6日

朝7時頃娘は、あわてて病院に「麻有ちゃん、昨日泊まって行ったの?」と貴志子「うん」麻有
看護師さん「朝少し、動いたらまた苦しくなって今この状態」と麻有に、麻有は少し安心した。
僕の母と病院に、
「麻有ちゃん、ママどうだった?」
と聞くと前述の朝からの一連を話してくれた。
「なんでこんなにえらいの?と看護師に聞いたら、肺の中に水が溜まっているから」との返答に
貴志子は、病室から出ていく看護師に指でクルクルパーとした。麻有(苦笑)
心配な麻有は、
「パパ今晩から付添でママのところにいてもいい?」
「書類看護師さんからもらったからパパここにサインして」と
「いいよ」
とサインして看護師さんに手渡した。酸素付け苦しそうな貴志子、しかし看護師さんは、「おむつと食事が取れないから、冷たいか氷系のアイスがあるといいよね。」
とのことで母と娘は買い出しに近所のコンビニへ出かける。
病院に帰って来て、ナースセンターに渡し、
3人で食事(母の家におむつを取りに行って)、薬局により買い物をしている途中に病院から電話
「血圧が下がりましたので至急病院に来てください」と
麻有と二人で病室について唖然とした。
もう死にそうやんか。。。。。。
慌ててナースセンターへ
「血圧下がったどころじゃ無く、家族全員よべじゃないのかぁあ」怒りがおさまらない
携帯で息子、実父母、父母、実妹、妹に、こういう時に限ってつながらない。。。。焦る
振返ると貴志子は、息をしなくなってきた。
麻有と二人で「息、一緒にしよう!!すーはーすーはー」
それに合わせて貴志子も「すーはーすーはー」と
しばらくしたら、息が止まった。
泣きじゃくりながら「ママー死なないでぇええええ」と麻有
「戻ってこいよぉおおおお」と叫んだが、
医者は「。。。。。」
「あゆのコンサート一緒に行くって約束してたやん」と「ママー帰ってきてぇえええええ」と号泣する麻有、
目を閉じた貴志子の右目から、うっすら涙が出た。この姿を見た僕は、彼女との22年の歳月が走馬灯のようによみがえる。 (涙)
主治医が来て「なんともならんのかぁあ」と聞くと首を横に振る「.....」
主治医が去って、義妹が病室に「え?」
麻有号泣「。。。。」
義妹も、大粒の涙が頬をつたう、 「おねぇえええちゃああああああん」
「麻有ちゃん、ごめんね〜〜〜」
「何もしてやれなくて〜〜〜」
涙が止まらない。何もしてやれなかった悔しさと重なってさらなる涙が頬をつたう。
父母もタクシーで駆けつけ唖然とした表情。
父は窓から外を見て「しかたない」と時折むせながら涙
弟が病室に「かあさん死んじまった」と伝えると、号泣し、
「かぁさああああああん」
後にかけつけた実父、長男も涙ながらに絶句とともに大粒の涙が、突然の死に戸惑いを隠しきれない。
義父は、「処置室覗いたら顔色が良いので「安心した」のに、こんなに早く死ぬなんて」と
妹が来るのを待って、葬儀屋を手配し、貴志子の携帯電話の履歴から親しい友人に連絡を麻有ちゃんに頼んだ。
「パパこの係り、2度としないからねっと」
「皆、号泣で私辛かった」と。。。
病院から変り果てた姿で貴志子は戻ってきた。
満面の笑みでの帰宅が家族を勇気付けてくれたことは、一生忘れられない。



10月7日 お通夜

朝8時より自宅で、御経を受け葬儀場へ、もうこの自宅には来ないと思うと涙が止まらない。
葬儀場で、湯灌の儀式をすることにした。
湯灌の儀式とは納棺をする前に斎み清めることです。 斎み清めるということは佛や神の御前に行くときに心身を浄めることになります。
現在においても、我々日本人は神仏にお参りする際には、まず手を清水で洗い心身を清めお参りしてます。
これと同様、死者も又、極楽浄土に導かれるためには現世での悩み・苦しみや煩悩をも洗い流し、無事成仏できると信じられている精神性の高いしきたりです。
そして、来世への旅装束を整えてさしあげて、ご冥福を願いながら清らかに送り出してさしあげる儀式です。
いよいよ貴志子との最後の別れの儀式が始まる。
湯灌儀式の口上。
心をひとつにし、厳粛な湯灌の儀が始まります。
逆さ水の儀式。
交替で、左手で足元から胸元に逆さ水をかけてお清めの儀式を行う。
泣いてる場合じゃなく、皆、真剣な眼差しで、儀式を滞りなくおこなった。
「貴志子もこれで、極楽浄土出来、今までの苦悩から解放でき、僕らの心の中に一生綺麗なまま生き続ける。」
「貴志子の新たなる旅立ちを、涙するが、皆でしっかり送り出してやることが、僕らの貴志子にしてやれる最後の奉公」
「夫婦って、空気みたいなんだよねって、いつも僕は言ってた。人には見えないが、貴志子がいるという、感覚は未だに感じる時がある。」
告別式の喪主として、泣崩れることなく胸を張って堂々としようと決意した。
刻々と時は過ぎ、いよいよ、お通夜が始まる。葬儀場の祭壇、花とのバランス、彼女の遺影、どれをとっても貴志子の人生のように華やかなそして透通る空気を感じる。

棺の中の貴志子は、満面の笑み、綺麗なお顔で、訪問者の涙を誘う

「貴志ちゃああああん」「貴志子ぉおおおおおおおお」と古くからの友人が泣叫ぶ

決意は、

瞬間に消える。テンションも消え涙が止まらない

でわ聞いてください。娘 麻有との最後の約束の唄を。。。。。




時だけが、無情に進む。通夜も終わり葬儀場に一泊する。
義父は、子どもの頃に歌った「線路は続くよどこまでも」を会場で子どもたちと謡う。

夜遅く、遠方から貴志子の友人が訪問するたびに、涙。
皆、貴志子を絶賛し彼女を称える度に、涙

気になることが。。。。手術後集中治療室にいる貴志子の母に、なんて伝えたらいいのか。。。
「しばらく黙っていてほしい」と貴志子の父と妹、彼らなりの悩んだ挙句の判断ですから(納得は50%)そうすることにした。

酒飲んで、ごまかしてとにかく寝た。

「寝たふり貴志子」ってよく言ってたこと思い出しながら。。。。。。



10月8日 告別式

朝、目覚めると、「はっほ〜はっほ〜」って、子どもが小さい時に、朝起きるのが苦手な家族を僕が起こしてた時のように起こす。
皆、不機嫌に起きる。
自宅にお供えのご飯を麻有と取りに行った。炊飯器にまだご飯があるはず。。。。
しかし、戻ったらあるはずのご飯が。。。。。無い

貴志子が食べちゃった?と2人で苦笑

しかたがないので、コンビニで買って用意した。
弔問客が、次々と会場に、いよいよ告別式が始まる。
お経、引導、焼香も済み、いよいよ喪主のあいさつの時が
泣くまい、挫けるまい、立止まらない、どうどうと、しゃんとしてと貴志子に誓い「あいさつ」
「まぁまぁ合格かな?」と貴志子に聞いてみたが、返事なし。
返事無しってことは、合格かなって自分に言い聞かせる。

いよいよ、出棺前の最後のお別れの儀式を迎える。

「棺の中に喪主様より、最後のお別れの、お花を添えて下さい」との案内
最後の貴志子の誕生日に子どもたちが書いた色紙の文章が朗読される中
立ち上る、一歩一歩棺へ歩いていく、時が止まるスローモーションで周りが見える、
花を一輪持って「ありがとう」と貴志子に添える、同時に大粒の涙が頬をつたう
「このへんで、勘弁してくれ」と囁いて、娘、長男、次男が花を添える、すする涙の音が一段と大きくなっていく。
「貴志子との最後の別れになりますので、来て頂いた方、沢山供えてください」と、ごまかしてた。
葬儀場スタッフも気が動転し花器を落としたりするほど、悲しみが周りを誘う。
想い入れのある品を貴志子の周りに入れていく。身内はもちろん、親しかった友人も
「貴志ちゃああああん」「貴志子ぉおおおおおおおお」と泣き崩れる。
hideさんとのつながりで、大阪から和歌山経由(レモネードカフェ)で来て頂いた泉さんからのチーズケーキや、おろくさんの櫛、
貴志子の高校時代の交換日記やドラゴンズ関連グッズ、好きだった和菓子(栗ようかん)、彼女の好きな曲の歌詞、棺の中は、彼女のお気に入りGOODS でいっぱい。

人の想いも、涙も、貴志子の笑顔も
そして思い出

いよいよ出棺「どうどうと胸張って、しゃんとして最後まで貴志子を送り出そう」と心に誓ってました。
貴志子が、「病気で痛み苦しんだ」ことと比べると辛いとか、悲しいとか思えませんでした。
一歩一歩踏みしめ、彼女と暮らしてきた日々を想い出しながら

後になって、思い出したのが、貴志子が生前中に言った言葉
「私がもし、先に逝った時はこの曲で送り出してね」って
「縁起でもないわ、じゃあ僕がもし先に逝った時は、それに対抗するならツェペリンの天国への階段だね」って
そこで、貴志子が言ってた曲を聴いてください




貴志子らしい外車の霊柩車で火葬場に、閉まるドアが淋しさだけを伝え、火葬場へ向かった。

葬儀場を後にした僕ら家族に、さらなる物語がこのあと続く。。。 

実家の経済状況で、檀家である普賢寺さんと縁が遠くなってた。
事情を説明したら、快く承諾して頂いた普賢寺の御住職様ならびに
突然の事にいろいろご教授して頂いた東岐葬祭様には、ホント感謝してます。

夕暮れ

火葬場に着き、いよいよ貴志子の肉体はこの世から無くなる。
葬儀の時に涙が出尽くしたのか、皆何故か冷静さを保っている。
棺の中に、思い出いっぱいの品々を入れ過ぎて、大丈夫かなって
ちょっぴり不安でもある。(苦笑)
棺の上に線香を1人1人、お供えし
ドアが閉まる。
「あ〜〜あ、とうとう骨になっちゃうのか。。。。」
淋しい気もするが、癌で侵された肉体が無くなり、
天国で新らしい肉体に、もしもなれるのでしたら
そのほうが良いのかなって
ちょっぴり思った。
棺を炉に入れ「合掌」
しばらくすると煙突から煙が出てきた。
「雲の上へ、行っちゃったね」
名残りおしいが、
再び葬儀場に戻り、食事し、再び火葬場へ、14時10分収骨
骨を拾う、残念ながら仏さん(喉仏)が見つからない、
高温で焼いたのか? 癌によるものかは定かでないが
貴志子は、小さな壺と箱の姿になった。
再び葬儀場に行き、帰り支度をして葬儀場を後にし、自宅に帰った。
祭壇に、遺影、お骨、お花、好きだったグッズを添え

合掌

実父母を自宅に送りながら 菩提寺である、「普賢寺に向かった」
雨が降ったり止んだり、貴志子の気まぐれな性格と良く似た天候
お寺に着き住職とお話、
「これからは、僕たちで先祖の面倒を見ます」ということになり
以前あった位牌はどこにあるのかがわからないと住職、
「前の住所から、察しますと、この辺りにあるはず」とういうことで、
ジーと眺めてて、僕は「これです。」と昔のかすかな記憶が。。。。指をさした。
中を開けてみたら正解!!
「先祖が呼んだんですね。」と住職もビックリ!!
「こんなこともあるんですね〜〜」

語録


モネ「印象 日の出」展で
「上手下手ではなくて、その時の空気を感じられるこの絵は素晴らしい」
「いまのとおるちゃんなら、クリアな絵が描けるよ」

「私死ぬなら、苦しまず楽に死にたい」

言い合いになると「あんたより、先に死んでやるでね」「私のこと大事にしてたらよかったと思わせてやる」

その時の僕のセリフは「あと今の倍生きる人が何であと30年しか生きれない人に言うんだ」

「絶対俺が先に死ぬんだよん」というと、微笑んで仲直りしたものでした。


当時の政治に関しても熱心に語っていた。当然政策に対してだ。

「子ども手当、私たちお金に困り家も取られ苦労したのに、なんで今私たちには何もないの?」
「国民すべて平等は、嘘なのか」
と、当時の総理鳩山を「あの、ばか鳩め」とも言っていた。
返答に困った僕は
「今の人たちは、政府の援助が無ければ皆、死んでしまう可哀そうな人たちだよ」と
会話してました。