Kishiko forever

11月 朝晩寒くなってきましたね。暖かくして風邪ひかないように・・・・お元気ですか?





        


Kishiko forever 展

お礼

2010年10月6日午後1時5分、宮嶋貴志子は永眠しました。
葬儀にあたり、徳洲会総合病院、中西ウィメンズクリニック、大同商事、テックドゥを はじめとする皆様には多大なるご支援ご協力を賜りありがとうございました。
また、故人のご友人様には、格別の温情を頂き遺族にとても励ましとなりましたことは、本当に感謝してます。 合掌

走馬灯

昭和40年5月24日、血液型O型、双子座、多治見市喜多町出身、宇野家の長女として生まれる
 
美人で朗らかな彼女の周りはいつも笑顔が絶えなく、小学校、中学校、高等学校からの友人が多い。
 
ただし、夫である僕から見ると、機嫌を損ねると大変なことにもなったりしてた。

ケンカしてつけた貴志子のあだ名が「キングギドラ」で<(_ _)>
僕のことを「アンパンマン」と貴志子は言って、娘は「ママ違うって〜正義感のないアンパンマンだよ」と言ったら(貴志子 大爆笑)
平成元年2月26日に挙式、長女、長男、次男と、子どもにも恵まれ平穏な人生かと思ってた。

実母、癌のため子宮卵巣リンパ全摘手術し余命宣告、会社倒産、自宅競売、借金など、波乱万丈でもあった。
4年ほど前に乳がんとなり、摘出手術後5年再発なければいいと思ってましたが、2年後の2009年12月再発。骨、肺、脳に転移が見つかる。
γ(ガンマ)ナイフ、全脳照射、で脳のガンが消えた。がしかし、心臓の周りに水が溜まったり、肺の周りに水が溜まったりするようになった。
息が苦しくなると、水が溜まってて水を抜けば、また元気になるとの繰り返しで過ごしてきましたが、3種の抗がん剤も効かず帰らぬ人となった。
突然の死を、誰も予言できなかった。前日の様子からしても信じられない。貴志子本人も調理師免許や、介護福祉士の国家試験にも合格し、
社会復帰するばかりの身支度等、悔いだけが残ります。
「結婚した当時に戻りたい」といつも言ってたのが、印象に残ってます。

墓:多治見市小泉町ケナシ墓地

曹洞宗 普賢寺が檀家である。
戒名:明恵貴幸信女
享年:46歳

次男と貴志子 一色魚広場で食事     貴志子と長男 安城の堀内公園にて

東山魁夷

東山魁夷
明治41(1908)年横浜に生まれ、3歳のとき神戸にうつる。東京美術学校日本画科を卒業。昭和8(1933)年ドイツに留学。日展に出品をつづけ、22(1947)年特選受賞。31(1956)年日本芸術院賞受章。40(1965)年日本芸術院会員となる。44(1969)年文化勲章受章。皇居新宮殿壁画、唐招提寺御影堂障壁画等を制作。平成7(1995)年東山魁夷心の旅路館開館(岐阜県中津川市)。 平成11(1999)年5月6日逝去。享年90歳。従三位勲一等瑞宝章を贈られる。長野市善光寺大本願花岡平霊園に葬られる。平成17(2005)年香川県せとうち東山魁夷美術館、市川市東山魁夷記念館開館。
代表作品
『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)
『道』(1950年、東京国立近代美術館収蔵)
『光昏』(1955年、日本芸術院収蔵)
『曙』(1968年、財団法人北澤美術館収蔵)
『年暮る』(1968年、山種美術館収蔵)
『花明り』(1968年、個人所蔵)
『白馬の森』(1972年、長野県信濃美術館東山魁夷館収蔵)
『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年、唐招提寺障壁画)
『朝明けの潮』(1968年、皇居新宮殿壁画)
『夕星』(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵) 絶筆



貴志子が好きだった画家です。
岐阜県立美術館に題して
『日本画家父子の清らかな画業 川ア小虎と東山魁夷展』
2007年7月20日―8月26日の間に開催された展覧会をどうしても見たいと貴志子は言って
出かけました。大作が多く書籍しか見たことのなかった僕は新たなる感動を覚えたのも記憶に新しい。


岐阜県立美術館(岐阜市)


貴志子が一番好きだった 『白の風景』


『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)

宮川香山

宮川 香山(みやがわ こうざん)、男性、(天保13年(1842年)−大正5年(1916年))は日本の陶芸家。明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼きの創始者。子は2代目宮川香山・宮川半之助。
経歴
香山は天保13年京都の真葛原に生まれた。父は陶工宮川長造。幼名は虎之助。19歳の時、父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。その腕は評判を呼び慶応2年(1866年)25歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。 明治3年(1870年)29歳の時、薩摩の御用商人梅田半之助、実業家鈴木保兵衛らに招聘され翌年、横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房・真葛釜を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく有名な工房があるのは京都や中国地方などに集中していたため、この地に工房を開くのはかなりの苦労を伴う事業だった。 香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼き」と名づけて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は制作費に多額の資金を必要とするため香山は新しい技法を生み出す。 「高浮彫(たかうきぼり)」。 金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を精密な彫刻を掘り込むことで表現し薩摩焼の技法に変わる新しい表現方法を確立。より細密な表現を身に着けるため庭に鷹や熊を飼うまでした。 明治9年(1876年)35歳の時、高浮彫で作られた真葛焼きはフィラデルフィア万国博覧会に出品されると多くの国に絶賛され真葛焼きと宮川香山の名を世界に知らしめた。 ところがのちに高浮彫は生産が難しいだけでなく精度を上げるほど完成まで何年もの時を必要とする生産効率の低さが問題化することになる。これに対処するため、香山は以後、作風を一変。清朝の磁器を元に釉薬の研究、釉下彩の研究に没頭しその技法をものにした。この技法で新たな魅力を築いた真葛焼きはその後も輸出産業の主役の一つとして持てはやされた。大正5年(1916年)逝去。享年75歳。
代表作品
『高浮彫・渡蟹水盤』
『高浮彫・枯蓮二白鷺花瓶』
『高浮彫・南天二鶉花瓶一対』
『高浮彫・牡丹二眠猫覚醒蓋付水指』
『高浮彫・鴫花瓶』
『高浮彫・桜二群鳩花瓶一対』
『赤雲釉白竜紋花瓶』
『彩磁紫陽花透彫花瓶』
『磁製紫釉盛絵杜若大花瓶』
『青華山水花瓶』
『陶製木調弁天像』
『南蛮意建水』

貴志子が好きだった陶芸作家、「多治見の岐阜県現代陶芸美術館でまさか見れるとは」と、感激して言ってました。




岐阜県現代陶芸美術館(多治見市)


初代宮川香山作
「浮彫蓮子白鷺翡翠図花瓶」

モネ「印象日の出」展

2008年12月23日より2009年2月8日まで 名古屋市美術館にて開催された展覧会
平成21年1月28日に2人で出かけました。モネの日本初公開作品「印象日の出」を、見入ってました。

貴志子は
「上手下手とかじゃなく、この場の空気が読取れるすばらしい作品」と絶賛してました。

「今のとおるちゃんなら、透通った絵が画けるよ」
と言っていたのが昨日のことのように思い出されます。


「印象日の出」  

音楽/ドラマ

カラオケが上手な貴志子でした。
出会った頃は、安全地帯、J-WALK、初デートのとき「なんでとおるさんJ-WALK、知ってるの?」って盛りあがったよね♪
平成元年2月26日披露宴での入場曲は「I LOVE YOUからはじめよう」安全地帯でした。
デビュー当時のSMAPのキムタク、「キムタクのどこがええの?」って聞いたら
足が短いところが僕に「ソックリー」と言ってた。
最近は、長女長男の影響で、hideさん、長女の影響で浜崎あゆみさんを聞いていました。
ドラマは「ゲゲゲの女房」を毎日欠かさず見てました。
あっそういえば、いつだったか忘れたがどこで入手したかも忘れましたが
タッキー&翼のコンサートを笠寺まで見に行きました。
「タッキー♪翼(つばさ)♪」って、
隣の席ののおばちゃん叫んでるのみて、
2人で目と目を合わせて(苦笑)したっけ

ドライブ

花が好きだった貴志子は、見頃になると新聞、ラジオ、テレビからでしょうか情報を手に入れ、そこへ行こう!と休日は、よく出かけました。
ドライブ中は、「仕事先であの人あんなこと言ってたけど、どう思うの?」「友達からこんなメールの相談あったけど、どう思うの?」等
自分のことじゃなく人のことばかり心配してた。
適当に「こうじゃないの?こう言ってやったらどうだ。」って返事すると、大きな声で笑ってた。
運転手はいつも貴志子で、疲れたかなっと思い、「運転代わろうか?」って聞くと「あんたが、運手すると車が壊れる」と言って代わろうともしなかった。
2010年の3月、南木曽へ出かけた。飯田に行ってみようかということで、下道で峠越えを目指す。
ところがまだ雪が残っててだんだん貴志子の表情が曇ってきた。
「怖いぃいいい」「滑るぅうううう」スノーモード付いてますが、ノーマルタイヤ、ちょっとした集落を超えたところで
さらなる上り坂で峠越えは無理と判断し「引き返そう」と提案する。
「運転かわるわ」と言ったら、さすがに貴志子は諦め、また、放射線治療後で疲れてたのでしょう、
「ぶつけやあすなよ(方言でぶつけるなの意味)」と言って交代。Uターンし、素早く下りていく。
「きゃあああ」「怖いぃいい」 「ぶつかるぅうう」苦笑いしながら彼女が登ってきた速度の倍であっという間に雪のないところまで降りた。
「じゃあここで交代?」「助手席って楽やね」この時から貴志子は遠くに出掛ける時助手席に乗るようになった。
高速道度で、ハンドルから手を放して運転してると後頭部にパーンチ!!
「危ないわ、ぶつかる」容赦なし、「いてぇなぁああ」「この瞬間のほうが危ないわぁああ」と笑ってドライブ
「この車、こんなに速く走れるんだ。」「カローラなのに、レクサスぼって(追う、追いかけるの意味)どうするの?」
子どもたちに「パパね、今抜かして行ったスポーツカー、速く見えるけどあんなもんじゃなかったよ」なんて、
結婚する前の、元気で若かった頃を、懐かしんで、楽しんでた。
「なんで、こんな道知ってるの?」「しゃあないやんか、仕事でよく通ってたんだよ」
偶然なのか必然なのかはわかりませんが、貴志子の行きたいところは、だいたい僕が仕事で行ったことのあるところが多かった。
在宅酸素持出して、気分晴らしに出かけたこともありました。
日帰りしかできず、「治って、子どもが就職して一段落したら泊まりで出かけよう」とも貴志子は言っていた。
ETC付け、日帰りの距離が月日を追うことに延びていく。
最後のドライブは、9月15日、白川郷→白山スーパー林道→九頭竜→白鳥走行距離は不明ですが、白川郷でお昼ご飯食べた時に
在宅酸素も効かず歩くのが辛くて「えらいで、早く行こう」と言ってたことが昨日の事のようです。

貴志子の最後の愛車「シエンタ」
今では、長男の愛車です。

梅、桜、あじさい、かたくり、菖蒲、藤、ヒメコウホネ、ささゆり、紅葉等を好んでまして、よく出かけていた方面は
トヨタ鞍ケ池記念館のアートサロン「ただで、良い作品見れるよ」と言っては「企画展」出かけたものでした。
今度住むならこんな家が良いとも。。。



香嵐渓、小原


蒲郡のあじさい、吉良吉田、一色魚広場(海鮮丼)、刈谷ハイウェイオアシス、安城、岡崎


美濃、関市方面、板取の水、九頭竜湖、白鳥、郡上
御嶽山(おんたけさん)、南木曽、阿寺渓谷、馬篭
高山、下呂、白川郷、白川(茶)、八百津、恵那、中津川、瑞浪、土岐
子どもと伊吹山へ
羽島、岐阜市


先日長男と出かけましたが涙をこらえるのに大変でした。
病気療養中、お風呂に入れない為に、足湯のある道の駅に連れて行ったら大変喜んでいました。
夏場に天然鮎を食べましたが、息が苦しくて食べきれなかったこともあった。
秋になったら「松茸ずくしが、食べたい」「曽木の紅葉見に行こうね。ライトアップしてて、綺麗だよぉ」と、言っていたのを今でも忘れられません。
つぼいのりお、みや〜〜ち、人生相談をお昼のラジオよく聞いてました。FM-PiPiのかかる曲が、世代が良く合うとも言ってました。
そうそうホタルもよく見に行きましたね。

子どもたちが小さいときよく行った「人道の丘公園」


枝垂れ梅 名古屋コーチン親子丼食べて、ニンジンジェラードをデザート感覚で立ち食いし、 美濃焼売ってて、こんなところに欲しい皿がと、
衝動買いしそうになり、こんなとこで買わんでもええやんかとケンカしたね


中馬のお雛様 鮎の塩焼定食(時期はずれなのにあえて)こんにゃくの刺身で嫌になり、イノシシのコロッケ衝動食いしたがイマイチだった


着くや否や蛇出そうと言ってたら本当に出た!それも真黒な蛇。。自宅で調べてみたがカラス蛇といって田んぼを守る神様らしい。そういえば、 川で蛇が下って来たと思ったら僕らの前でUターンし、パホーマンスしてくれました事に終日お驚いてました。花はヒメコウホネ、場所は岐阜市


自宅のベランダから見える花火大会、最後になるとは、この頃誰も知らなかった。(涙)


「天然鮎?香りあまりしないよねぇって」って言ったら「やっぱりそう思う?」って2回目だったけど2人で(苦笑)したね。


最後のドライブになった。白川郷とスーパー林道の滝


行くはずだった曽木の紅葉。子どもたちと以前行って綺麗だよって言ってました。

買い物

ハンドバックが好き。衝動買いですわ
お値打ち品を探すのが得意、
「なんでこんな店知ってるの?」っていつも聞いてました。
宝くじ(内緒で買ってたね)
普通の八百屋「つい寄りたくなっちゃう」と言ってました。

野球

ドラゴンズファン
巨人ファンの僕との毎日は結構思い出すたびに笑える
土岐市の球場で福留選手の場外ホームランの話をよくしてました。
いつも人生の逆転満塁ホームランを狙っていたね
 

SPEC

モノマネ
「隣のトトロ」ばあちゃんが「めいちゃん」からのくだり、子どもが小さいときよくやってた。
職場で誰誰さんがこんな風に言ってたよって真似すると、聞いた人はまるで本人が言ったと錯覚するほどでして
あの人以前こんなことあった人だよって、いい加減に言ったことが本当だったりした。
絶対音感、耳コピー出来る人
字が上手、筆ペン持たせたら大変上手で、へたくそな僕はいつも感心してました。
文才、新聞に投稿すると必ず採用されます
琴、自宅でたまに弾いてました。弾いてる時の貴志子の姿を思い出すと、着物が似合う貴志子の姿をもう一度でいいから見たいと思います。
 

ありがとう

最後に貴志子から聞いた言葉
「ありがとうございます。」でした。
すでに主治医から、危篤で助からないと聞いた後だった。
「治って家帰るんやよ」ってごまかしても
貴志子は自分の寿命を知っていたのかもしれない
今でも
「ただいま」って帰ってきそうですから
位牌の右側空いてるのを見るとなんだか淋しい。
息を引取ったとき貴志子の右目から涙がうっすらと出た。長女は見えなかった

それが貴志子の最後の優しさだった( 涙)

22年間本当にありがとう。「感謝」<(_ _)>  

奇 跡

長男と長女がhideさん好きで、貴志子もよく聞いてた
長女の名は麻有(まゆ)、麻有は、hideさんが生前「貴志真由子さん」との繋がりを知る。
「ママの名前 貴志子でしょ、私の名前は麻有(まゆ) 足すと「貴志真由子」になるよね」と気づいて言いだした。
貴志真由子さんは、ロックバンド「X JAPAN」のギタリスト、故・hideさん(享年33歳)のファンとして知られ、
先天性代謝異常の難病と闘っていたが2009年9月30日午後2時ごろ、和歌山市内の病院で肺出血による呼吸困難のため、亡くなった。28歳だった。
親族によると、貴志さんは1995年12月にボランティア団体を通じ、hideさんと対面。
手編みのマフラーを贈ったり、メールを交換するなど交流を続けてきた。 hideさんのレーベルにちなみ家族で開いた「レモネードカフェ」は行列ができるほどの人気店となり、
2010年5月の東京ドームライブにも駆けつけるなどしていた。
mixiやツイッターで、麻有が、乳癌で自宅療養中の貴志子(ママ)のことをhideさんの音楽聴いて、頑張ってるよって呟きだした。
僕自身も受け止めることができなかったのが末期のガンだったということ。信じたくないし聞かされてないし必ず治る、僕のほうが先に死ぬんだという気持ちでいっぱいでした。
麻有はネットで貴志子の症状をとある病院に問合せると「末期です」と返答が来たと言っていた。
そんなはずないやんと一蹴して笑い飛ばしてた。
レモネードカフェから、麻有宛に「がんばって」というエールが来た。
hideさん関連グッズや、チーズケーキまでも
「元気になったら、和歌山行こうね」と盛りあがってた。知り合った泉さん、葬儀の際にわざわざ大阪から和歌山経由でチーズケーキ持参で葬儀に駆け付けてくれた。
長女、長男hideさんの誕生日コンサートに神奈川県に出かけると聞いた。出かける際に長男に「ママも連れてってね」と遺影を渡した。

ここから奇跡が。。。
hideさんの誕生日コンサートの前日元hideさんのバンドメンバーのDIEさんのコンサートにも出かけるって。
泉さん呟いたらチケット完売なんだけど用意してくれるってDIEさんから返事来たよ。(本当に?!)

その用意されたチケットは、長女、長男の2枚で無くなんと、貴志子の分までチケットにメッセージ入りで用意されてた。(涙)

宮嶋貴志子様 『地球の病を人類みんなで治癒できたらいいな』 Earthwards by DIE 

長男に富士山見れたかって聞いたら 「晴天で見れたよ。」との返事、生前貴志子が見たがってたから。遺影渡したかいがあったと思ってたら。
麻有「パパそれだけじゃないよ。行くとこ行くとこ必ずそばに席が1つ空いてたんだよ。ママが一緒に行けるように神様がしてくれたんだねって」

偶然なのか必然なのかは定かではありませんが、皆様のおかげ(神も仏も含む)です。

ありがとうございます。


「長男(勇大朗)、長女、DIEさん」2010年12月11日 DIEさんのコンサート会場にて

でわぁ、最後まで見ていたNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」 の主題歌いきものがかりで『ありがとう』を貴志子に捧げます

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