の歴史

 

1.季刊ひだか伝説より(夏・第二集 昭和61年8月5日発行)

              編集 相馬 肇

              発行 文林堂出版

 

 

慶応年間にえりも入りした人に後の駅逓取締人から
廻漕業を営んだ「柳田勘次郎」がいる。
青森県八戸の出身で、一人で渡道し漁師に成った、
えりも観光ホテル・柳田旅館を経営する柳田正敏はその四代目である。
付随文書 当時のえりも
日高の東の玄関は、えりも町である。 ホロイツミ(幌泉)といわれたその昔からえりも町の
歴史は古く、幌泉のアイヌが 文献に記録されたのは室町時代の永正十二年(1515年)の庶野コウシの反乱であると町史は伝えている。それから八十年後の慶長年間には漁業基地「幌泉場所」が開設された。 静内の酋長シャクシャインが猛威をふるって和人二百七十人余りを殺戮した寛文九年(1669年)には松前藩の知行地として交易が行われていたのである。
 北海道の文化の原点ともいえる漁場の盛衰は町そのもの消長を意味している。 東蝦夷地の日高管内に限っていえば幌泉場所の隆盛は群を抜いていた。 元冶元年(1864年)春の勇払以東の九場所の運上金を見ると (年季は七年間)
  勇払・沙流          百二十五両
  新冠                 十三両
  三石          五百三十五両
  静内・浦河・様似   二千五百十両
    幌泉         三千ハ百五十両
となっていて、釧路でさえ二千三百両であった。
これは幌泉の昆布の収穫の増大によるものとされているが往時の幌泉が如何に豊かな漁場であったかを物語って余りある。
明治維新後、幌泉場所は廃止され、沖の口番所は海官所と改められたが、開拓使の新料地となった幌泉には、特別に移民募集対策が施かれ明治三年には、100戸400人が移住したという。

 

えりも町郷土資料館「ほろいずみ」より抜粋         

1916年 大正5年 小越駅逓所設置された。 当時は、えりも岬の事を小越と呼んでおりました。小越駅逓所は、「柳田旅館」の事です。 過去に柳田旅館が歴史資料に出てくる文献は有りませんので、一応この年を創業年とさせて頂きます。
1928年 昭和3年 小越駅逓所廃止される。 廃止後もかなりも期間、駅逓旅館の看板は、張っていました。

1946年 昭和21年 様似・広尾間 歌別ー襟裳   国鉄バス運行

この頃より、国鉄バス乗務員指定旅館となる。
1952年 昭和27年 襟裳巡査駐在所が置かれる。  
1954年 昭和29年 15号台風襲来、青函連絡船 洞爺丸転覆。  
1970年 昭和45年10月1日をもって「えりも町」と改称すると共に開基90年町名改称記念式典が挙行された。  
1975年 昭和50年9月 えりも岬地区がダイヤル式電話になる。  
1970年 昭和55年 10月 開基100年記念式典  
1989年 平成元年 4月 「えりも岬寒風マラソン大会」がスポーツ100選に選定。  

 

昭和20年〜25年の柳田旅館(写真に写っている人物の現在の年齢から推定)

秋祭りの様子。

 当時の田舎で、立て開きの窓と四つ切の屋根は、珍しい。

  えりも町郷土資料館「ほろいずみ」には、この時代の柳田旅館の模型が展示されている。

 

 

   

上の写真の拡大

玄関左の看板には、「駅逓旅館

「旅人の宿」、「自動車停留所」の看板が見られる

写真右端の女性は、3代目柳田喜惣二の妻 柳田キサです。 

  上記の青文字は、推理です。
   

 

2. えりも町史より
明治以前より小越しに住んでいた人は、山形又兵衛、柳田勘之助、会田善九郎、吉井大吉、飯田勘次郎等である。
(えりも町史より)
当時は、陸路が無く食糧、物資の運搬は、函館より船で運ばれていた。沖合に停泊した船に昆布漁に使う小舟が昆布や塩サケを積み荷の交換を行っていた。     
時化が続くと何日も乗組員は、沖で停泊し船酔いも酷いものであったので柳田勘之助は乗組員を帰りの小舟に乗せ陸上で休養出来る為に部屋を増築した。
これが船宿の始まりであった。 (三代目 柳田喜惣冶 談)  平成21年6月2日記

3.マノア号の遭難

古く伝わる、この写真が謎なのである。 次会を、「楽しみに」    平成21年6月2日記

では、解っている範囲で写真の人物紹介をしましょう。右からバスの運転手(メガネをかけた黒服の男性)右から2番目バスの車掌さん
(白服で腰にバックを下げている。)右から3番目が柳田キサ、4番目乗組員、5番目のメガネの男性は、遭難後に来た通訳と思われる
6番目の腕組をしている男性がマノア号の船長さん。後は船員と近所の男性が一名。    平成22年4月21日記

 

私は、この古い写真を、柳田キサからマリーナ号の乗組員と聞いていた。
又、ボンネットバスを国鉄バスと思い込んでいたのがこの写真のなぞ解きを遅らせた原因だった。
昭和58年の春に、この船長の孫娘さんが柳田旅館に2泊し、えりも岬灯台と海上保安庁にお礼の品を
持ちえりも岬に訪れた事を記憶している。えりも岬の海岸から花束を流し夜は、通訳がいないので
祖母キサとこの写真を見ながら身振り手振りスケッチブックを使っての会話をし翌日は、えりも岬灯台、浦河の海上保安庁を訪ねた。
お帰りになってから私なりに二人の会話を解釈するとえりも岬で遭難した時のお礼をするのがこの船長さん一家の夢だったらしい。
孫娘さんが一家の夢を叶えた事になります。

キサから聞いた話では、オランダ船で1か月位宿泊し、帰る時にお金が無いので、遭難前に日本で買い求め母国のお土産に持ち帰るつもりの壺が唯一の財産で、それを宿泊費代わりに置いて行ったと云う話と畳の上に直に眠れないと言われ近所からみかん箱を集めてベット代わりにしたと云う話くらいで子供の私は、この話に興味が無かったがホームページを作成する時に
この話を、柳田旅館の歴史の一つとして紹介しようと思いましたが兎に角資料が無いのとキサからの聞いた話だけなので5年の時間が掛かりました。

まず調べるのに灯台が無人になり浦河海上保安署に行きましたが遭難船の記録が有りません。
えりも町史にも記録が無いのです。国鉄バスがえりも岬に運行されたのが昭和21年の事ですからその後の年から調べていたのですから調べても無駄だったのです。浦河海上保安署に転任された知人ににお願いしたら
「いくら調べても資料が無いのでそれ以前ではないのか。」と云われ信頼できる方でしたので、
その言葉を信じて時間をさかのぼり
日本の海上保安庁が設立されたのが昭和23年ですからそれ以前の資料を探しました。

えりも町図書館に何度も通ってやっと公式文書ではないが元小学校の校長先生をしていた方が定年退職後にえりも岬の出来事を文書化した小冊子を見つけ、まずこの事に違いないと確信しました。「マリーナ号」と聞いていたのが実は、「マノア号」でした。

小冊子の題名は、「えりも岬のあしあと」と云う題名で、平成2年6月「斉藤 徳太郎氏」の著作でした。
内容を紹介しましょう。

 [銅谷 七五郎ー日記メモによる]
昭和12年8月2日 マノア号(9,200トン)は、枕木材を中心に7,300トンの荷を積み中のくきとう近くで
概ね進行方向に、そのまま座礁し幸い正常位を保ったままであった。
その後、函館サルベージ会社の手によって曳下げが成功した。船底に二か所の穴があったが枕木の浮力と船体の重量を計算して、そのまま曳下げし無事室蘭に曳航修理した。

 [小松 延枝による]
乗組員は、およそ20名近く、その中には、女性3名を含みまた黒人もまじっていた。
急遽水産倉庫を開放して宿舎に当てたが、強く固辞され、その結果柳田旅館と金丸旅館に分宿することになった。
当初、幹部は灯台に宿泊とも聞く。

 [金丸モト(大正11年3月15日生)談  当時15才]
初め言葉が通ぜず困惑したが、その後通訳が来てからは心のふれ合いが深まり また親切でもあった。
主食は、米飯を勧めても食べれず船から随時食料を運び、また店から野菜類・果物・バター・魚などを求め
自分達で料理をしていた。
初めて馳走になったカレーが辛かったのを覚えている。
ある日、船長の好意で当時の青年学校生徒(女子裁縫)が佐々木サダエ先生共々船の見学に連れて行ってもらった。
日常生活は明るく、楽器を鳴らし、ダンスをし・・・・・
然し 9時の消燈などきちんと守り、規則正しい生活であった。
女の人は早めに帰り、その他の人は、2週間位滞在したと思う。

 [柳田 キサ]談
当時 船長らと共に柳田旅館前で庶野行きのバスをバックに写した写真と、記念にもらった花びんを所有。

・当時マノア号乗組員から貰ったコインを所有・・・・福士 徳治

以上が「えりも岬のあしあと」から写したものです。句読点等もそのまま模写しました。
しかしこの小冊子の「銅谷 七五郎」氏の日記、その他の方々の口述にも船籍・国籍が出てきていません。
これは、不思議です。著者も情報提供者も今は逝去されており真相の確かめようも有りません。
概ね、えりも岬で昭和12年に外国船が遭難し柳田旅館と金丸旅館に宿泊された事は事実でしょう。
ついでに私が国鉄バスだと思っていたのは「青線バス」と云うそうです。バスの側面に青のラインが引いて有る事から
そう云われたらしいのですが正しくは、「日高自動車株式会社」が正解です。国鉄バスが運行する前に
民営のバスが運行していた事には、驚きました。
当時のバス運行事情を調べればもっと早く真相に辿りつけたかも知れません。

さて、宿泊費代わりに置いて行ったのか記念にもらったのか分かりませんが「花瓶」です。
代々、大事に持っていた様で、私の目に触れたのは、4年前です。母が持って来て
「お前が管理しなさい。」との事で、責任重大です。壊さない様に大事に所有しなければいけません。
世間では、あまり価値が無くても柳田旅館にとってはお宝です。
   平成22年4月21日記

これが船長に頂いた花瓶です。

壺と云うのかも

図柄は、同じですが右と左が向き合っています。
箱のクッション材は、わらでしょうか?

良く腐らないで保存できました。