遥か中世への浪漫の旅 ドイツ ・ ロマンチック街道  1988,2012

田園風景のなかに中世の街並み、時を紡ぐ古城が点々と連なるロマンチック街道は、遠く 「ローマへの巡礼の道」
と云う意味を持って整備された。ロマンチック街道として、観光街道となったのは1987年のことである。

ドュッセルドルフからケルンへ


ケ ル ン

ケルンは、紀元前1世紀に古代ローマ帝国のゲルマニアの拠点となり、コロニアと呼ばれていたのが語源である。
(ちなみに、フランスのオーデコロンとは、ケルンの水と云う意味らしい。)
中世の8世紀には大司教が任命され、ケルン一帯は大司教が支配する宗教領邦となった。


ケルン大聖堂<世界遺産>

正式名称は、ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(聖ペトロとマリア大聖堂)

現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことで、最も古い聖堂として知られていた。
2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士の聖遺物がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。
3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまったが、16世紀に入って宗教改革を発端とする財政難から工事が途絶。
建設が再開されたのは19世紀に入ってからで600年以上後の1880年に完成した。ドイツ・ゴシック建築の極みといわれる大聖堂で、
塔の高さは157mとドイツのゴシック教会としては最大で、常に修復が繰り返されている

床にはモザイク画が描かれていた

ケルマン産のペルシャ絨毯が敷かれた祭壇

フレスコ画のステンドグラスには皇帝と大司教が誇らしげに並んで描かれている

ケルン大聖堂こそは、ケルン宗教領邦を支配するケルン大司教の権威の象徴であり、彼らは聖職者でありながら離宮をも建設して暮らしていたのだ。


権力者が当時読み書きもままならぬ民衆の人心を統一し、支配していく道具としてキリスト教を利用していくのみならず、
大聖堂建設は、いわゆる「公共工事」としての意味を持ち、雇用を生み、完成後には巡礼者を呼び込み経済に寄与させることを意図したものと言える


当時、巡礼者の信仰の対象になる「聖遺物」、たとえばキリストの遺体、聖ペテロの遺体、キリストの血、聖○×の腕、聖○×を縛った鎖、
最後の晩餐の杯等など。これらを戦争を起こしてまで争奪を繰り返したらしい このケルン大聖堂には、星に導かれてキリストの誕生に立
ち会ったとされる3人の聖人 (東方三博士) の遺体が安置されているとか。何処からどうやって探し出し、運ばれたのかは不明だが、とに
かく立派な教会を型どった、金で出来た棺が3つある 巡礼者はこの棺に祈りを捧げるために遠くから訪れるらしい



ケルン旧市街

  

マルクト広場の一等地にマイセンの店がある

ドイツ・ケルンでは像も
おだてりゃ木に登るのだ!!



ライン川沿いを古城を見ながらリューデスハイムへ <世界遺産>

ライン渓谷中流上部は、2002年世界遺産に指定。









ラーンエック城
1244年マインツ大司教建立



シュトルツェンフェルス城 トリアの大司教
アーノルトU世が1248年に 不法な徴税の
ために建立 神に仕える者が権力を握り、
本性を現した?

マルクスブルグ城 1100年頃建立


敵兄弟の城 リーベンシュタイン城と
シュテレンベルク城 10世紀頃

鼠城
1556年トリアの大司教ベームント建設
シュタールエック城
1134年ゴスバン・フォン・シュタールエック






ライン川沿いの小さな町サンクト・ゴアルスハウゼン

1284年にカッツェンエルンボーゲン侯爵領になり、1324年に街が形成された。
対岸にはラインフェルス城(1245年)がもともとあったが、街の形成後には、関所としてカッツ(猫)城が建設(1371年)された。

 

 

  

ラインフェルス城
カッツェンエルンボーゲン伯爵1245年
ローレライのカッツ(猫)城
カッツェンエルンボーゲン伯爵1371年
ライン川を挟んでサンクト・ゴアハウゼンの街側に猫城が、川の西対岸にラインフェルス城(現在はホテルとして使用)がある。



シェーンブルク城
1166年バルバロッサ皇帝

シュタールエック城
12世紀ケルン大司教

ライン川の中州に建つ
プファルツグラーフェンシュタイン城
14世紀ルートヴィッヒ4世
ライヒェンシュタイン城
11世紀コルネリミュンスター僧院が建立




帝政ローマや神聖ローマ帝国時代の古城の城主が皇帝ばかりでなく、キリスト教会の大司教などであることがかなり多い。これは、何故なのであろうか?

帝国において、諸候の自立性が強く、皇帝は帝国としての統一を確保するため、制度的に安定した支配基盤の必要に迫られ、教会勢力と結んで国内統治を
行うという政策をとった(帝国教会政策)。それは、国内の司教、大司教、帝国修道院長など側近の聖職者を主要役職に配置し、広大な領地や特権(貨幣鋳
造権、市場開設権、関税徴収権等)を与えて保護し、さらに王領地の管理権までゆだねて、教会組織を国家統治機構のなかに完全に組み込むというものだっ
た。かくして聖職者が政治権力と癒着するばかりか、権力そのものとなって君臨し、圧政と宗教裁判に名を借りた民衆の弾圧、拷問や公開処刑、不正徴税や
                         聖職売買、宗教戦争まで行ってきたのだ。 こうしたことはキリスト教に限られたことではないのだが・・・・・。                                                       


ワインの産地 リューデスハイム  つぐみ横町

「ラインの真珠」と呼ばれるライン川沿いの小さな街。正式名称はリューデスハイム・アム・ラインと云う。ドイツ・白ワインやアイスワインが楽しめる

カッツェネルンボーゲン伯の事業として、ワイン畑は1399年には既にリューデスハイムに存在していたようで、
今も高品質の白ワイン(ドイツワインの90%は白ワイン)が作られている。

   

 

  

 

  



ハイデルベルク

古城街道の名城 激動の時代の爪痕の残るハイデルベルク城

建築は11世紀頃になるそうだが、12世紀に、後に選帝侯となるプファルツ伯の所有となる。
その後増改築が繰り返されたため、ゴシック、ルネサンス、バロックなど、さまざまな建築様式を持つ。
1618年に起きた30年宗教戦争とその後のプファルツ継承戦争によって破壊され、一部は廃墟のままだ。

ゲーテゆかりの碑
ゲーテも散策した

城からハイデルベルクの旧市街を望む

城から見たネッカー川とカール・テオドール橋


  

  

 
フリードリヒ館


 

  

 

  



ハイデルベルク旧市街

  
カール・テオドール橋 ネッカー川に架かる石組の橋で1788年に建造された 旧市街側には2つの塔を持つ門が付いている

  

  
          聖霊教会

ハイデルベルク城を
思わせるホテル

マルクト広場(市が立つマーケット広場の意味)

聖霊教会で結婚式を終えたカップルが、
アウディR8で新婚旅行に

 
旧市街からハイデルベルク城を見上げる



ハイデルベルクからマウルタッシェンを通り古城街道をローテンブルクへ

  



”中世の宝石” ローテンブルク


中世に帝国自由都市として栄えたローテンブルクは、古城街道とロマンチック街道が交差する標高425mの高台にあり、
すぐ横の60m下にタウバー川が流れていることから、正式にはローテンブルク・オップ・デァ・タウバー(タウバー川の上方にあるローテンブルク)と呼ばれる
城塞都市ローテンブルクの堅牢な城壁
木組みの家並みが数多く並ぶ

ギムナジウム(ラテン語学校 1589年)

聖ヤコブ教会  1311年より170年かけて建造
フォイヤーライン張り出し
奥は聖ヤコブ教会の通り抜け

マンチェスターに移籍が発表された
ドルトムントの香川のユニホームが売られていた
ヘルン通りのヘルン噴水

  
マルクト広場  市庁舎(左)と市の主時計(1683年 右)

市の主時計(市参事宴会館)
この主時計は仕掛け時計になっている

時計の両側の窓から11〜15時と20〜22時になると三十年戦争”マイスタートルング”の主役のヌッシュ市長とティリー将軍が登場し、杯を飲み干す。

ティリー将軍は強硬な市民の抵抗を退け、1631年にローテンブルクを占領し、市参事は処刑される運命にあったが、占領翌日に市民は、フランケン 地方の最上級ワイン3.25リットルが入った大杯を差し出し恩赦を願ったところ、将軍は「もし市参事のいずれかが、この大杯を一息に飲み干すなら 恩赦を与えよう」と提案した。それを受け、ヌッシュ市長が10分ほどかけてみごとに飲み干し、その後3日間眠り続けたものの、それから37年健在 で80歳の長寿を全うしたとか。これを記念し毎年祝祭が行われている。

1274年にローテンブルクはハプスブルク家のルドルフ1世から帝国都市の特権を与えられ発展してきたのだが、1544年にカトリックから、プロテスタ ント(ルター派)に改修、1631年にティリー将軍(カトリック)が街を攻め落とした(三十年戦争=ハプスブルク派(神聖ローマ・カトリック派)と反ハプス ブルク派との権力闘争であるが、それぞれに聖職者が組していたのでローマカトリックに反旗を翻すプロテスタントとの宗教戦争と云う様相を呈した。)
            
クリスマス用品店の車

ヘルテリッヒ噴水
(聖ゲオルク噴水)

プレーンライン(中世の趣を伝え、ドイツで最も美しい
都市景観に数えられる小広場")
ジーバー塔
コボルツェラー門

  

  



ノイシュヴァンシュタイン城 と ホーヘンシュヴァンガウ城

 

若き狂王の夢の跡 ノイシュヴァンシュタイン城

19歳の若さでバイエルンの国王となったルードヴィヒU世は、たび重なる政治的混乱と婚約解消の中で、政治への関心を失っていった。
そんな時、フランスのヴェルサイユ宮殿を訪れた王は、中世の騎士が住むにふさわしい「夢の城」の建設を思い立った

 
第4代バイエルン国王、ルートヴィッヒU世が即位からわずか5年後の1869年に 『この世で見られる城の中でも最も美しい城の一つにする』
ことを求め、財政が破綻するほどの巨額を投入して築城した豪華絢爛な城である。「新白鳥城」 との別名を持つ。

  
政治を顧みない築城への熱狂と財政の破たんに、次第に周りの信頼を失った王は、即位から22年後の1886年に精神の病を理由に
王位をはく奪されベルク城に幽閉され、翌日の6月13日シュタンベルク湖で、41歳の若さで謎の死を遂げた。

 

標高1,000mの崖に立つ白亜の城は、優美な外観にとどまらず、城内には、王が心酔し支援したワーグナーのオペラや中世の騎士道物語を
テーマにした豪華な空間が広がっている。王の突然の死によって未完のままにもかかわらず、ロマンチック街道屈指のスポットとなっている。

ルードヴィヒU世
第4代バイエルン国王
(1845〜86年、在位1864〜86年)
玄関ホール
玉座の間
食堂

寝室
書斎
歌人の広間



ルードヴィヒU世が少年期を過ごした 「父の城」 ホーヘンシュヴァンガウ城

12世紀の城の廃墟をルードヴィヒU世の父、マクシミリアンU世が発見し、1832年から1836年にかけて再建した

 
ノイシュヴァンシュタイン城からホーヘンシュヴァンガウ城とアルプ湖を望む



  



ヴィースへ

  



ヴィース巡礼教会 <世界遺産>

「ヴィースの奇跡」で有名なヴィース教会は、アルプスの麓の草原、ロマンチック街道沿いにある
その素朴な外観からは想像を絶するロココ様式のメルヘンチックな美しい装飾が内部にあふれる



  

 



オーストリア・ザルツブルクへ

 
モーツアルトの故郷、オーストリアのザルツブルクまであと35km


EU、ユーロ圏は実に便利だ 高速道路は繋がっており、検問所があるわけでもなく、両替の心配もなく外国に行き来できる
日本で東京に行こう、九州に行こうという感覚でユーロ圏の各国に行けるのだから

1980年代に仕事の関係で、フランクフルト、ハノーバー、ハンブルグを訪れたことがある。その当時は、ワーゲンかドイツ・フォードの
1500ccクラスの車がほとんどで、ベンツやポルシェ、BMW、アウディー等の高級車をほとんど見かけなかった。ドイツ人のしまり屋
というか、見栄を張らない国民性を痛く感じられたものであったが、今回は、それらの高級車をもそこそこ見かけた。その車の持ち主
                                  がドイツ人か外国人かは定かではないが。

オーストリア旅行へ



よかった! また行きたいところ
残念! もう行きたくないところ
ロマンチック街道は何処も全体的に良かったが、メルヘンチックな街だからと期待していなかったローテンブルグが特によかった。
ケルン大聖堂




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