イスラム文化を色濃く残したキリスト教国エスパーニャ=スペイン  2011

エスパーニャという国を理解するうえでのキーワードは実に多彩だ。イスラム支配とレコンキスタによるキリスト教徒の勝利、
コロンブスの新大陸発見、ドンキホーテ、フラメンコダンス、闘牛、リーガ・エスパニョーラ(サッカーのスペインリーグ)、ベラ
スケス・ゴヤ・ピカソ、ガウディーなどモデルニスモ建築等々がそのキーワードとして挙げられる。また世界一の生産を誇るオ
リーブオイルやバレンシアオレンジの生搾りジュースも魅力だ。

古代ローマ時代より、タホ川に囲まれたその地形から要塞都市として栄えたトレドの旧市街 世界遺産

世界一の生産を誇るオリーブ。車で走れど、走れど、数時間このような同じオリーブ畑の景色だ。



マドリード(マドリッド)


「太陽の沈まぬ国」と云われたスペイン王国の輝きをとどめるスペインの首都

  
ホテル・アウディトリウムのタペストリー


スペイン広場とドンキホーテの像


   
スペイン広場の中央にある塔の前にドンキホーテの像が、 後ろは噴水になっている


オリエンテ広場


  
フェリペ4世の騎馬像と王宮  王宮は1,500室もあり、大きすぎるので、
王はここには住んでおらずもう少し小さい(とは言え350室)処に住んでいるらしい


ゴヤの像とプラド美術館


ベラスケス『ラス・メニーナス』
ゴヤ『着衣のマハ』『裸のマハ』

その他の街並み


  



ト レ ド


カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都 タホ川に囲まれた古代ローマ時代からの要塞都市 世界遺産

 

 


 

 

カテドラル(大聖堂)と教皇の王宮


サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂(Catedral de Santa Maria de Toledo)と教皇殿
カテドラルとは、司教座聖堂すなわち、その教区における中心の聖堂、大聖堂と訳される。(英語はcathedral:キャセードラル)

大聖堂と教皇殿(法王の王宮<左>)



教皇殿



この正門はバチカンの大教皇と王様が
来たときのみ開けられる
やはり、庶民には開かれていないのだ。
権力者と教皇のものだから?


だからこの大聖堂が内部の写真撮影禁止なのも、教皇殿(法王の王宮)は何処も非公開なのもうなずける。どんなにか贅沢に暮らしているのだろう? カトリックはとにかく金持ち。世界遺産になるほどの立派な大聖堂を持ち、教皇(法王)も自らの王宮に住んでいる。 まぁ、宗教は多かれ少なかれこんなものか!?

1226年、カスティーリャ王フェルナンド3世の命により建設された教皇殿には、神聖ローマ帝国の双頭の鷲の紋章が掲げられている。
皇帝からトレドの大司教に与えられた証しなのだ。大司教はトレドの領地、貨幣鋳造権、市場開設権、税金徴収権等の特権を与えられ、 特権と強権を発動して、この地に君臨したのだ。神聖ローマ帝国の支配の道具として完全に取り込まれて・・・。

富は、権力者大司教のものであり、貧困は神から民衆に与えられた贈り物 (神が与えたもうた試練)なのだ。


パラドール PARADOR DE TOLEDO



なかなか予約が取れないパラドールだが、今回はここに宿泊

パラドールの裏庭 ここからの眺めが下の画像


一夜明けた朝、パラドールの裏庭からの眺めがこれだ!! だんだん明るくなり朝日に照らし出されてゆくトレドの旧市街



ラマンチャ地方


  
ドンキホーテが巨人と見間違えたといわれる白い風車
 



コ ル ド バ


その歴史はローマ時代にまで遡るが、とりわけ8世紀から11世紀にかけてはイスラム王朝の首都として栄えた古都だ
コルドバ歴史地区は世界遺産

ロ ー マ 橋


  



サン・ラファエルの勝利塔

メスキータ(モスク)


イスラム支配の時代、キリスト教の聖堂があった場所に785年ウマイア朝の創始者アブデラマン1世の命でモスクが建設された。 その後、都市の繁栄と人口の増加に伴い増築が繰り返され、10世紀後半には幅130m・奥行き180m、2万5千人の信者を収容できる 世界最大のモスクとして完成した。
1236年にコルドバがキリスト教徒に再征服されると、アーチやミフラブをはじめとしたモスクの基本構造をそのままにして、 中央の天井をぶち抜いて塔を建て、その下に中央礼拝堂を建立した コルドバの歴史を雄弁に物語る世界遺産だ

  

円柱の森 イスラム時代の祈りの空間
メッカの方角を示すミフラブ   モスクとして建てられてたことを偲ばせる


 
モスク式の天井

聖堂として改装されたことを示すパイプオルガンと中央礼拝堂

イサベル女王によるイスラム最後の砦
アルハンブラ開城の絵画が誇らしげに飾られていた。

ヨーロッパにおけるキリスト教国への誇り=反イスラムの感情は、我々日本人の想像を遥かに超えるものがあるようだ。
トルコはEUに入りたくて仕方がないのに、EUが絶対入れようとはしないのはトルコがイスラム教国だからに他ならない。

花 の 小 路


  
行きどまりの文字どおりの小路だ 白塗りの家並みの窓に花が飾られ、
小路の間からメスキータの鐘楼が望める景色を観光客が見つけ近年人気に



セ ビ リ ア (セビーリャ)


メリメ作『カルメン』や戯曲『セビリアの理髪師』の舞台として知られているセビリアは、
大航海時代に繁栄を極めたアンダルシア地方の州都

 
スペインと云えば闘牛とこのフラメンコダンス オーレッ!


カルメンの一幕

ス ペ イ ン 広 場


  

ドンキホーテ
1492年グラナダ陥落、イスラム支配の終焉


マリア・ルイサ公園

 
塔の頂上に王の象徴のライオン(イサベル女王フェルナンド国王)、
中腹に新大陸を発見したコロンブスの船(イサベル女王が資金を出した)
ユダヤ人街

 

アルカーサル


   世界遺産
  
9〜11世紀のイスラム時代に建てられたムデハル(イスラム)様式の王宮をカスティーリャ王ペドロ1世が改修

カテドラル(大聖堂)


このカテドラルもイスラム時代のモスクを約1世紀をかけて教会に改修したものだ 世界遺産

教皇殿(法王の王宮)

 


コロンブスの墓 カスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバラの4王国旗をまとった像が棺を担いでいる

 

ヒラルダの塔(鐘楼)からセビリアの街を望む

闘牛発祥の地
マエストランサ闘牛場(18世紀)




ミ ハ ス


アンダルシアの海抜420mの山あいに広がる小さな白い村

  
この村にはオリーブ石鹸の店など2軒の日本人の経営する店があったりする
   



グ ラ ナ ダ


シェラ・ネバダ山脈に抱かれたグラナダは、13世紀後半イスラム時代の最後のナスル王朝の首都として栄えた

アルハンブラ宮殿


グラナダの街を見下ろす丘の上に建つアルハンブラ宮殿は、1万4000uという威容を誇り、イスラム建築の粋を結集した宮殿で、レコンキスタ(国土回復運動)によって キリスト教徒の勢力が増しイスラム教徒の支配がグラナダ王国のみとなった13世紀前半にナスル朝ムハンマド1世の命により着工された この宮殿は、約170年の歳月をかけて 建設され、いたる所に透かし彫りなどの装飾が施されており、イスラム建築の最高傑作といわれている 庭園もまた楽園を彷彿させるものとなっており、世界遺産に登録されている

  
アルカサバ(城壁)と水道橋

水は遠くシェラ・ネバダ山脈の雪解け水を引いているそうだ

アルハンブラ宮殿内のホテル・アメリカ
アメリカとはアメール・リカでアメールはコロンブスが海を渡って
新大陸を見つけ、リカ=リッチになったということらしい

カルロス5世宮殿
馬車のたずなを繋ぐリング

  
カルロス5世宮殿内部

  


− 王 宮 −

メスアールの間

メスアールの中庭

  

アラヤネスの中庭

   
大使の間

王宮よりグラナダの市街を望む

二姉妹の間
ライオンの中庭

 


−パルタル庭園−

 

  

  


−ヘネラリフェ(夏の別荘)−

  

  

 



バ レ ン シ ア


マドリード、バルセロナに次ぐ第3の都市バレンシアは、地中海沿岸の温暖な気候と肥沃な土壌を生かして米とオレンジ(バレンシア・オレンジ)の生産が盛んだ


水田が広がり、田植えの時期を迎えていた

バレンシア駅
闘牛場



カ テ ド ラ ル


大聖堂

教皇殿

大聖堂と教皇殿は
渡り廊下で繋がっている

特別なミサが行われており、
花で作ったタペストリーが飾られていた
この大聖堂の売りである
最後の晩餐で使われたという酒杯

ガラスが高価なものであったこの時代、大理石薄く切って淡い光を取り入れている
ステンドグラスの最も古いデザイン

大礼拝堂
大礼拝堂の周囲には金を出した貴族の
プライベートの礼拝堂が並んでいる


ラ ・ ロ ン ハ


15世紀末に建てられた絹の交易取引所

1996年ユネスコ世界遺産に登録された
柱がねじれているのは絹の布ひだを、柱から天井のデザインはヤシの木を表しているとか

2階は銀行として使われていたそうな

  
3階は取引上のもめ事を解決するための裁判所だったらしい


メルカード(中央市場)


 
食料品は非常に豊富なうえに日本の3分の一位と安い 金額表示はキロ単位だ 勿論少量でも買える



モ ン セ ラ


のこぎり山の別名を持つ険しい山モンセラ(モンセラット)には、カトリック・ベネディクト会の修道院が建てられている
この山の形状がガウディのサグラダ・ファミリアの鐘塔のデザインのもととなっているそうだ

  

11世紀に建設が開始され、16世紀後半に現在の大聖堂が完成
黒いマリア像


   

  



バ ル セ ロ ナ


バルセロナでは公用語がスペイン語ではなくカタルーニャ語が使われ、自分たちカタルーニャはスペインではないとまで言わしめる自治意識・カタルーニャ主義が強い
よって、闘牛・フラメンコと並び立つほど盛んなサッカーのリーガ・エスパニョーラ(スペインリーグ)でのFCバルセロナ対レアル・マドリード戦ともなれば、その対抗意識と 盛り上がりは尋常ではなく、熱狂の嵐が吹き荒れる。また、2013年からバルセロナでは闘牛が中止され、数年後にはスペインからの独立の是非を問う市民投票が計画されているとか。

コロンブスの塔
頂上のコロンブスの像はアメリカ大陸の方角を指さしている


グ エ ル 公 園


富豪グエル氏の依頼によりガウディはイギリス風の住宅街を作る予定であったが、60区画中2戸しか売れず計画は頓挫し、その後市に寄贈され公園になっている
世界遺産

このピンクの邸宅は売れなかったのでガウディが買い
取り住んでいた。現在はガウディ資料館になっている


  
このドラゴンの像のある階段の頂上はギリシア劇場といわれるテラスになっている。そのテラスから見下ろすガウディ作品とバルセロナの街


ピ カ ソ 美 術 館


天才ピカソの10代の頃と青の時代、晩年の作品が所蔵され、ピカソ作品の変遷がよく解る 14歳の頃の作品はまさに天才を偲ばせる
晩年子供のように描くことをめざし、「ここまで来るのに時間がかかった」とのことだ

   
このピカソ美術館はかつての貴族の館、実に素敵な建物だ 残念ながら内部は撮影禁止
  


サグラダ・ファミリア(聖家族教会)


奇才ガウディのモデルニスモ(新しい芸術)建築の集大成 今尚未完成の大聖堂だ 建築中なのに世界遺産

誕生の門
聖母マリアがキリストを抱いている像や
キリストが十字架に張り付けになっている像が
キリスト教では一般的で、父ヨセフは描かれていない
サグラダ・ファミリアはヨセフ・マリア・イエスの聖家族を意味する

外尾悦郎氏の作品
受難の門 栄光の門は今後建築予定
礼拝堂
この上に聖母マリアに捧げる中央塔が建築される予定







<キリスト教について> ウィキペディアより

初めにお断りしておきますが、私はキリスト教の信者では決してありません。家系は仏教で、キリスト教系の学校に行っていた関係で 中学時代は洗礼こそ受けていなかったものの殆どキリスト教徒でしたが、中学3年生の頃から疑問に思い出し、現在の私は無宗教です。

キリスト教(キリストきょう、基督教、英語: Christianity)は、ナザレのイエスを救世主イエス・ キリスト(メシア)と信じ、『旧約聖書』に加えて、イエスや使徒たちの言行を記した『新約聖書』を基準とし、 隣人愛・愛(アガペー)を説く伝統的世界宗教である。世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の 中で最も多い。

紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。 この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、 70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教 としての自覚を持つに到ったとされる。
ローマ帝国統治下でキリスト教はローマ帝国の多神教文化と相容れず、それを批判し、また皇帝崇拝を拒んだため、 社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かの弾圧を経験した。 しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされ、 キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒するに到った。



仏教が多くの宗派に分裂を繰り返してきたのと同様に、キリスト教も分裂を繰り返してきた。

初代キリスト教会は、1054年東方教会と西方教会へと分裂

○西方教会 - 西ローマ帝国・西欧で発展した教会で、その後カルト的な教会を除いたメジャーな教会としては次の3つに分裂した。

 ・カトリック教会 - ローマ教皇(バチカン)をトップとする派で、立派な聖堂や教皇殿を持ち、形式を重んじる。
       とりわけて、ローマ帝国、神聖ローマ帝国と結びつき大きく発展した。
       ローマ法王という呼び方は、日本独特のもので、教皇というのが正しい。
       日本のカトリック系の学校は、上智大、聖心女学院、海星、仁川学院などがある。

 ・聖公会(英国国教会) 16世紀宗教改革でカトリックから分裂- カトリックとプロテスタントの中間に位置づけられる性格
       プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、
       政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となってローマ・カトリックから分裂したため、
       典礼的にはカトリックとの共通点が多い。
       よって祈りに際しては、ひざまずき、両手をクロスさせて合わせ、又十字を切る。
       日本における聖公会系の学校としては、立教、桃山、神戸松陰、平安女子、神戸国際などがある。

 ・プロテスタント - 16世紀の宗教改革運動によりカトリックから分離した諸教派で、プロテスタントという総称は、その担い手達がローマ・カトリック教会に抗議(ラテ
       ン語:プローテスターリー)した事に由来する。プロテスタントとしてのまとまった教会はないが、以下のような諸派が存在する。
    ルーテル教会(ルター派)
    改革派教会(カルヴァン派、長老派教会、改革長老教会)
    会衆派教会
    バプテスト教会
    アナバプテスト
    メソジスト教会−英国で生まれたが、英国よりも植民地のアメリカで普及した。日本へはアメリカから伝来し、教会を持たずメソジスト系の幼稚園にて日曜学校を
       開いている。カトリック教の宗教歌が「聖歌」であるのに対して簡易な「讃美歌」を普及させた。
       祈りをカトリックのように聖母マリアやキリストに捧げることはなく、「天にまします我らの神」に祈る。形式を排してひざまずいたり、十字を切る事
       もないが、「私も同意します」という意味で「アーメン」と唱えるのは、カトリックや聖公会と同様だ。
       日本におけるプロテスタント・メソジスト派系の学校は、関西学院、青山学院などがある。
       同志社、神戸女学院、梅花女子などは、同じプロテスタントの会衆派教会系、国際基督教大学はプロテスタント長老派教会系のようだ。

○東方教会
 ・正教会(ギリシャ正教) - 東ローマ帝国・ギリシャ・東欧で発展した教会
       イタリア・ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂は、当初はこのギリシア正教だったが、1807年この地を占領したナポレオンによりローマ教会の大聖堂になった。


更に今日では、キリスト教を名乗る新興の「エホバの証人」や「統一教会」などをはじめとしたカルト集団的な教会も存在する。
 とりわけ、統一教会は、「共産主義はサタンだ」として反共=反北朝鮮に人心を導くための、南北に分断された朝鮮半島という特殊性に基づいたカルト集団だ。






<世界遺産に思うこと>


私はヨーロッパを旅して、数々のキリスト教の大聖堂を見てきた。そしてその絢爛豪華さ、贅を尽くした大聖堂と教皇殿に改めて驚かされた。

そして、それが信者の献金によるものではなく、時の王侯貴族の命により建造されたことを知り、その豪華さも納得させられたのだが、又改めて疑問がわいてきた。

それは、何故に王侯貴族は教会に帰属する大聖堂と教皇殿に、そこまでのお金と、時の技術の粋を注ぎ込んだのかということだ。
王侯貴族が、時には弾圧してきた教会にあのような立派な大聖堂と教皇殿を寄付したのは何故なのか?

当時、読み書きもままならない民衆の民意をまとめ、時の権力者がその民衆を支配していくために、教会とキリスト教を利用したのではないか? この考えが唯一私の疑問を解決してくれる。

他方で、教会もまた消極的に、または積極的に権力者に取り入る(国教として認めてもらうなど)ことにより、権力の庇護のもとで、他の宗教、宗派との布教活動に打ち勝ち、信者を増やしてきたのだろう。

教会もキリスト教も民衆のものではなく、王侯貴族のものであり、民衆はその素朴な信仰心を巧みに操られ、悪政によって虐げられてきたのか?
かくして富は特権を与えられた聖職者のものとなり、民衆には神は貧困をお与えになったのだ。そして最早、現世では幸せはなく、来世に天国を夢見るように導かれたのだろう。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書)。この思想からは、百姓一揆も革命も決して生まれるわけはない。悪徳権力は安泰だ。・・・これが歴史において宗教が担ってきた役割なのだろう。

かくして、大聖堂や教皇殿がかくも絢爛豪華であり、時の建築技術の粋を注ぎ込んで造られているのは、権力の象徴に他ならないからだ。
王宮や城(時の権力者の住居)の中に大聖堂があるのも珍しいことではないし(チェコの聖ビート大聖堂はプラハ城内にある)、
ハンガリーの聖イシュトバーン大聖堂の祭壇には、そこにあるべき聖母マリア像や、キリストの像はなく、バチカン容認のもと国王の像が据えられており、聖遺物も国王の右手なのだ。


色々調べてみると教会が果たしてきた役割は、もっと深刻で、カトリック教会(ローマ教会)そのものが権力に組した存在、更には権力そのものだったようだ。
歴史書をひも解いてみると、そもそも、諸国王はローマ教会への影響力を強めて勢力拡大や挽回を図ってきたと云うのが前提のようである。

神聖ローマにおいても、諸王国は自立性が強く、皇帝はいかにして国家的統一を維持してゆくかに苦労せねばならなかったようだ。そこで当初は近親者を部族大公
に任命し、人的つながりによって統一を確保しようと試みたようだが、反乱に遭い、人的関係というような不安定なものでなく、制度的により安定した支配基盤の
必要に迫られ、教会勢力と結んで国内統治を行うという政策に転換した。それは、国内の司教、大司教、修道院長など教会の側近聖職者を帝国の主要役職に配置
し、広大な領地を寄進して、貨幣鋳造権、市場開設権、関税徴収権等の特権を与えて保護し、さらに王領地の管理権から、ときによると伯領 (=国家)そのもの
の管理までゆだねて、教会組織を国家統治機構のなかに完全に組み込むというものだった(帝国教会政策)。かくして聖職者が政治権力と癒着するばかりか、
権力そのものとなって君臨したようだ。

古代ローマ帝国時代には、古代ローマの神々を否定するキリスト教は弾圧の対象であったが、2世紀には奴隷を中心にキリスト教の普及の拡大の中で、その反乱を恐れたローマ帝国は、キリスト教会を取り込む政策に転じた。313年にはコンスタンチヌス1世によって公認され、392年テオドシウス1世の時に国教に定められた。
カール大帝が、ローマ教会への影響力を強めて勢力拡大や挽回を図ってきたのが6世紀のことであり、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。
このようにキリスト教が、台頭した歴史そのもが政治権力との癒着の歴史であり、強大な権力をも獲得していった歴史なのである。(カール大帝は800年にローマ教皇
により皇帝に戴冠。ドイツ・アーヘン大聖堂の神殿に埋葬された。) そして、権力の獲得は、聖職者の不正や堕落、聖職売買、不当な蓄財、民衆の弾圧、宗教裁判、公開処刑、 宗教戦争までをも引き起こしてきたのだ。三十年戦争もプロテスタントとカトリックの宗教戦争の様相を呈したのも、こうした聖職者を中心とした権力覇権闘争だったからである。




英語の国名読みは何処から来たのだろうか。
日本をジャパン?!、ドイツをジャーマニー!?、トルコをターキー??七面鳥でもあるまいし。
日本語のドイツや、トルコはまだ現地の読みに近いではないか。
しかし、スペインだけはエスパニアから日本も英語読みにならって変えている。なんでやーッ!!



よかった! また行きたいところ
残念! もう行きたくないところ
アルハンブラ宮殿
全体的にはまた行きたい国だ
サグラダ・ファミリア
グエル公園




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