「ああ、これは志ん生だな」って思った。古今亭志ん朝



モンクを最初に聴いたのは、日暮里の「シャルマン」というジャズ喫茶で、『セロニアス・イン・アクション』というレコードです。この時のことは、よくおぼえてます。

中学生くらいからジャズを聴き始めて、高校生の頃JATPの初来日公演を聴きに行ったりして、それから二〇代前半くらいまでが一番よく聴きましたね。有楽町の「ママ」とか上野の「イトウ」とか、ほうぼう聴き歩いてました。コンサートもよく行きましたね。

当時、家が谷中だったんで、「シャルマン」にはもう毎晩のように行って、ご主人とも大変ご懇意にさせていただきました。

一九五〇年代後半から六〇年代初めあたり、アート・ブレイキーとかソニー・ロリンズとかジョン・コルトレーンとか、何かそれまで聴いていた音楽と比べて全く違う感じのものが、急激にレコードのかたちで入ってきまして、「へぇーっ、こういう人達がいるんだ」ということで、すっかり夢中になりました。当時一番好きだったのはマイルス・デイビスですね。あのミュート・トランペットのカッコよさね。そういうのを聴いて「わーっ、カッコいい、気持ちいい」っていってノッてた時に、フッと不思議なピアノが耳に入った。それがモンクです。

ある日、「シャルマン」に行ったら『セロニアス・イン・アクション』がかかってた。

それまで、モンクってついぞ聴いたことがなかったんですよ。とっても不思議な音でね。

なんでここへ行くのに、ここの横町を曲がって、こう曲がって、こう曲がって、こう行かなければいけないんだ、こっちからも行けるじゃないか、というようなね。一、ニ、三と歩いていって、当然この次は右足が出るだろうと思っているのを、急に止められて、左足が出ていっちゃうんで、聴いてる方は「おっとっとっと」となる。普通だったら、当然ここでこういうフレーズがくるんじゃなかろうかと思って、ノッていこうとすると、そこでとてつもない不思議な音がくる。

ただ、私は音楽でも絵でも、前衛的なものって嫌いなんで、最初は「俺、こういうの嫌いなんだよなあ」と思いながら聴いてた。

それが、聴いてるとちっとも不快じゃなくて、楽しくなってきた。で、店のご主人に「これ、何ていう人?」「セロニアス・モンク」「セロニアス? モンク? ヘンな名前! 他にもあるの?」「こういうのがあるよ」なんていいながら、いろいろ聴いてた。そうやって聴いてるうちに「ああ、これは志ん生だな」と思ったんですよ。

モンクは、志ん生だね

私の親父、志ん生の芸というのは、私なりの見方でいいますと、まことにブロークンなんですね。

たとえば、ジャズでいうとテーマがあるでしょう。テーマを本当によく分かっていれぱ、アドリブもとてもうまくできる、というもんじゃないかと思うんです、ジャズというのは。

そういうところが、うちの親父にもあって、この話は、こういうことを笑っている話なんで、順序としては、これがこうなって、こうなって、こうなるんだという、ただそれだけを、親父はよーく頭の中に入れておいて、あとはその時によって、アドリブに近いくらいにしゃべっていくんですね。

話を教わるのでも、私なんかも、最初はずいぶん困ったんですけれども、たとえば「こんちは、隠居さんいますか?」「誰だい?おぅ、八つぁんか、こっちへおあがりよ」というふうに教わったから、一生懸命覚えて、あくる日もう一回稽古してもらうと「誰だい?そこにいんのは。おぅ、熊さんか、こっちへおあがりよ」といったりする。初めて教わる人は「……あれぇ、昨日は違ってたな」というんで分からなくなっちゃうんですね。

そういうところが、うちの親父にはあって、話自体を全部、そういうふうに自分が好きなようにやるんですね。

楽屋にネタ帳というのがあって、前の人がやったネタが書いてある、それを前座が、次に高座に上がる人に「よろしくお願いします」って見せると、それを見てそれまで出てない話をするわけです。それを、うちの親父はあんまり見ないんですね。見ないでスッと上がっていっちゃって、前に出た話をやっちゃう時がある。そういう時は必ず楽屋から「それ出たよ、出たよ」って知らせるんです。すると親父は、何かフアフアーっていいながら、うまーくごまかして、他の話にフーッと平気で入っていっちゃったりする。そんなことをする人は、本当に他にいないですね。

それから、「間」が他の人と違うんです。とてつもない、妙な間があいたり、そうかと思うと、普通の人が間をあけるだろうと思うところを、いきなりバッと出ていく時もある。そういう展開が、モンクの音楽にもあるでしょう。

モンクには「フラ」がある

私達はなし家の符牒で「フラ」というのがあるんです。これは、声音とか、口調とか、顔から受ける印象とかで、同じことをいっても何かおかしい、そういう雰囲気を持ってる人がいるんです。それを私達の方では「あの人にはフラがあるね」という。フラがある方が得だし、うらやましいんです。うちの親父なんてフラのかたまりでね。まともなことをいったって、人が笑っちゃう。

それが、モンクにはあるんですね。雰囲気が何かこう、おかしいんです。ユーモアというか、おかしみがある。ジャズを聴いていて、おかしい人というのは少ないですね。ピアノだって、何だか子供が側へ寄ってきて触ってるみたいで、聴きようによっては稚拙な感じがしますよね。本当はヘタで、弾けないんじゃないかと思わせるような。そこに魅力があって、いい意味の「いいかげんさ」がある。

もう一つ、志ん生とモンクが似てるんじゃないかと思うのは、芸に対する真面目さなんです。うちの親父は、何だかいいかげんな印象を与える人でしたけど、その実、芸に対する姿勢はまことによかった人だと、私は思うんです。「ここをこうやった方が、より効果が上がるんじゃないか」というようなことをいつも考えていた。それから、自分が大変尊敬している人というのがちゃんといて、私と一緒にお酒を飲んでいて、それまでは自分が天下取ったようなこといってても、そういう人の話になると全然違うんですよ。「文楽のここがいいんだ」とか「金馬のここにはかなわない」とか。そういうことに対して、非常に真面目なんです。

モンクというのも、聴いてると、実は真面目な人なんだろうという気がする。

ただ問違いなく演奏すればいいというんじゃなくて、この人は、みんながもう弾いちゃってるようなのは弾きたくない。ここで音を出したいんだけれど、普通の和音ではつまらない、誰でもやっているんだから。この音とこの音を混ぜたらどんな音が出るだろう、というような、音の追求をしているようなところがあるような気がしてしようがないんです。「そういうところが、とっても素晴らしい」という話を、僕がある所で夢中になってしていたら、たまたまそこに亡くなった林家彦六師匠がいらっしゃって、「その人はもう永いのかい」というんですよ。「何がですか」っていったら「だから、ピアノ弾きになって永いのかい」と。だから「それはもう、永いんです」っていったら、「そんなに永くやってて、どんな音になんのか、まだわかんねえのかい」と(笑)。

あたしもムキになる方だから「そうなんですよ!」ってワーッといおうと思ったんだけど、みんながワッと笑っちゃったから、それまでになっちゃって、こっちも黙っちゃったんだけれども(笑)

ゾクッとこないと、もの足らないね

モンクのレコードでは、「セロニアス・イン・アクション」を最初に聴いたということもあって、テナー・サックスがジョニー・グリフィン、太鼓がロイ・ヘインズという組み合わせが、一番私には親しみがありますね。「ミステリオーソ」とかね。

この二人が、お弟子さんじゃないかと思うくらい、モンクとやってるとものすごくいいんですよ。ジョニー・グリフィンは、ロリンズとかコルトレーンなんかより、はるかにモンクに合うような気がするんです。ジョニー・グリフィンが自分で出したレコードを聴いていても、そんなにピンとこない。モンクとやってる方がいい。ロイ・ヘインズの太鼓は、非常にクセがあるでしょう。それがモンクにとってもよく合うんですね。素直な太鼓では面白くないんじゃないかな。アート・ブレイキーとか、マックス・ローチとかともやってるんだけど、あたしはこの組合せが一番好きですね。

音楽は、何かゾクッとさせるような部分がないと、私はもの足らなくてね。モンクには本当に特異なものがある。ただ、前衛的とか進歩的なこと――音楽でも、踊りでも、あるいは落語でいったら新作とか、新しいかたちの落語とか、そういうものは私は自分ではできないから、そういうことをする人達を尊敬もするし、素晴らしいと思うこともあるんですけど、こういうものに一つ足らないのは、楽しさがないんですよね。変わってるなとか、人のやらないことを追求してるなとか、偉いなとかいうふには思うんですけど、楽しめないんです。

ただ、モンクの場合は、唯一楽しめるんですよ。そこがやっぱり志ん生に通じるところですね。一種独特の、なんともいえない、やっぱり「フラがある」ということだと思います。


講談社「セロニアス・モンク ラウンド・アバウト・ミッドナイト」より転載
1991年1月10日第一刷発行:発行者:野間佐知子 2013年現在絶版
転載許可:講談社エディトリアル 2013年6月