越後毛利の流れ 佐橋神社 越後毛利本庄跡 ------ 専 称 寺
北 条 城 址 奥の湯 伝説 米山検校シリーズ 旧北条町の沿革 *******
南条いにしえロード 北条いにしえロード 長鳥いにしえロード ブログ [BLOG] YouTube Kss-Netチャンネル


YouTube Kss-Net チャンネル

紹介 今回の歴史探訪ご紹介は新潟県妙高市
 鮫ヶ尾城 
御館の乱 (1578-1579 天正6年-天正7年)
最終決戦地 上杉景虎が自害した場所です。


我がふるさと 新潟県柏崎市山澗 (やまだに)を紹介

伝説

今回の伝説話は新潟県柏崎市山澗(やまだに)の深川神社の「おまえん」
山澗の「深山神社」に古い「おまえん」がある。
「おまえん」「こまえん」と言って一対あるはずなのに、この深山神社には片方しかありません。
片方は柏崎市赤尾の「白山神社」にあると言伝えられています。
昔、山澗の深山神社と赤尾の白山神社と、「おまえん」「こまえん」のとりあいの争いをしたそうです。
そこで一体ずつ分けて祀られてありますが、そのため昔から山澗と赤尾は縁組しないと、言われています。
参考にした資料「柏崎市伝説集」

【湯之谷】(伝説) 東南、柳沢峠を下ると、湯の谷という谷間が北条の山澗(やまだに)地内へとつづいてる。
この中ほどに、湯の谷の湯治場があった。上の湯、下の湯と二軒の湯小屋があった。
昭和10年頃から終戦まで中断したが、戦後、湯小屋の主人が変わり復活した。
その後昭和30年代後半まで続き、近郊の人達の湯治場として人気があり、賑わっていた。
我がふるさと山澗ではよんたにの湯と呼んでいます。
参考資料「柏崎市伝説集・中通コミニティセンター」
写真「中通コミニティセンター提供」看板は明治時代の物で現存してます。


画像 画像 画像


越 後 毛 利


毛利家家紋
毛利氏はもともと南条(なんじょう)に館を構えていた。
時代の流れとともに、南条から北条城諏訪神社周辺に館を移しました
南条(なんじょう)から北条(きたじょう)に移住後
毛利(もうり)性北条(きたじょう)性に改姓しました。
南条毛利 1270年文永7.7.15 
大江経光(大江季光 四男)は越後国佐橋南条地頭職を二男(時親)に譲る
時親は(安芸毛利始祖)である



越後毛利発祥の地 南条(なんじょう)  佐橋神社

宝治元年(1247)、三浦泰村の乱(宝治合戦) 宝治合戦で敗れた三浦一族と季光らは、源頼朝ゆかりの法華堂で自害した。 季光と長男広光、二男光正、三男泰光が自刃する中で、奇跡的に四男経光が越後で生き残った。かろうじて 毛利家が後世につながった。
( 越後毛利氏・安芸毛利氏  )の始祖




本庄跡

北条毛利氏館跡 (本庄跡) 鎌倉時代中期 毛利氏当主家の居館跡 この地で政務をとった



北条城

北条毛利の居城  室町〜戦国まで
越後毛利の嫡流(ちゃくりゅう)  12代北条景広まで
御館の乱天正6年(1578)〜天正7年(1579)で上杉景虎方の主将であった。
毛利丹後守景広に至って落城する。

正徳5年(1715)の「村鑑」(むらかがみ)
● 本  丸 東西14間(25.2メートル)南北79間(142.2メートル)
● 二の丸 東西20間(36メートル) 南北25間(45メートル) と記載がある


米山検校(よねやまけんぎょう)


米山検校(よねやま けんぎょう)
● 画像は米山検校の生家です
 元禄14年 (1702)〜 明和8年 (1771) 享年70歳)
平沢の山上徳左衛門の子銀一である
現在の新潟県柏崎市東長鳥杉平集落に生まれ、幼くして盲目で、十七歳で江戸に行く
その後、江戸石坂検校・嶋補検校について鍼道を修得 し財を成した。
故郷が大飢饉の際には救援米を送って飢餓を救った。

米山検校之塔・お礼塔
岩の入のセナカ峠(十二の木)と大角間入り口に2基のお礼塔が建立されています。
それと平沢にある米山検校之塔があります。

その際の御礼塔は現存し地元の皆さんが守っています。



米山検校 両親の墓石

米山検校の子孫(曾孫)に勝海舟、その妹の順子(佐久間象山の妻)がいる

江戸城無血開城を果した勝海舟 ふるさと
現在の新潟県柏崎市東長鳥(ヒガシナガトリ)の  杉平(スギヒラ) です。

勝海舟坂本竜馬の先生でもあった

米山検校(よねやまけんぎょう)
● 画像は幼少の米山検校が学んだ能満寺
○米山検校=男谷(おたに)検校
○盲人としての最高位の検校に昇進
○盲人学校開設の歎願
○旗本男谷氏の株を買い男谷検校と呼ばれた



越後広田 奥の湯シリーズ

広田鉱泉100年以上の歴史があります。
広田鉱泉の発祥は天保末期(1840〜1844頃 )
大広田の村山家が隠居所に 源泉を引いて利用したのが始まりとされています。
幕末には湯治場として近郷に知られるようになった。
「年表でつづるふるさとの足跡」( 北条公民館発行 )では、明治13年(1880)広田奥の湯 開業、と書かれている。




我がふるさと (北条地域)

○ 概 要 
位   置    柏崎市の東端、長岡市とは八石山脈と接している。

○ 平安時代   「佐橋荘」(さはしのしょう)に属していた。
○ 鎌倉時代   毛利(大江)経光が佐橋の荘の一部である南条(なんじょう)に居館を構え地頭として支配した。

毛利経光(もうり つねみつ) ⇒  ( 越後毛利氏・安芸毛利氏 ) の始祖である。
○ 江戸時代 
南条村・北条村・小島村・山澗村・広田村・長鳥村に分かれていた
○ 江戸時代 後期 
儒学者藍沢南城(あいざわ なんじょう)が南条にて学塾「三餘堂」(さんよどう)を開きました。
40年間にわたって塾生を世に送り出し続けましたが
学制発布(明治6年)により閉塾される
儒学者 藍沢南城(あいざわ なんじょう) サイトにリンクします
○ 明治時代 
明治34年11月に南条・北条・小澗・広田・長鳥の5ケ村が合併して、人口7,655人、軒数1,223戸の新北条村が誕生した。その後、昭和31年9月吉井黒川を合併
○ 昭和時代 
昭和32年10月町制を施行(初代町長:佐藤稔) 昭和46年5月柏崎市と合併し、自治体としての70年の歴史の幕を閉じた
○ 北条地区の歴史 
この北条地域は豊かな鉱泉・名所・旧跡は数多く、そのひとつとして北条城とその城主毛利氏(12代約280年)の歴史がある。江戸時代には長鳥出身の米山検校(勝海舟はその曾孫)が大飢饉の故郷を救済した、現在も地元に米山検校のお礼塔が、いまなお現存している歴史あふれる北条地域です。。。。 。

柏崎ふるさとだより 我がふるさと  最終更新日 2017.01.25 更新

【 我がふるさと編集部 ご意見 お問合せ 】

<KSS> 柏崎総合サービス ホーム Top

PageTOPへ戻る

Copyrigft(C)2014 KSS-PC All Rigts Resrved