小説とは無関係な管理人の戯言です。適当に増える・・・かも。 思ったことをそのまま書いてる場所なので、気の迷いを過分に含みます。お察しください。 言うまでも無く偏りまくりな意見なので気に障ったら即効で閉じるか戻ってください。 あと、大真面目に読むと「何だ手前は」というようなことも書いています。 可能な限り多方面からの目で書こうとしているものの、限度があるため半端になっている部分もあることと思います。 私自身は何かの考え方を完全に嫌っていたり、好んでいたりはしません。これは明確にしておきます。 〜責任の負い方、負わせ方〜 私は日本に関してしかろくに知りません故、異国のことについての言及は可能な限り避けておきますが…。 少なくとも日本は、大問題の責任を「辞任」だけで片付ける傾向にあるように思えます。 求める側すら「辞任しろ」ですし、風潮から考えれば正しいんでしょうが…。 辞任ならば、確かに生活は厳しくなるかもしれませんし、何より同一犯による再発を可能な限り潰せます。 一方、本当にそれだけで終わります。枠で物事を測りがちな人間の中では残される者は良い迷惑でしょうし。 はっきり言って、過ちは誰でも犯し得ることです。何の過ちも犯さずに生きていられた人間など居ません。 過ちに対し怒りに満ちた反応ばかりをするよりは、理性的な判断で処置するのも良いのではないでしょうか。 確かに腹が立てばそれをどうにかしたいと思うでしょうが、激情は往々にして判断力を奪うものですから。 間違って良いわけではありませんが、間違いを「始末する」のでなく、「活かす」ぐらいでも良いでしょう。 どれだけ頑張っても間違いからは縁が切れないのですから、付き合い方を工夫したほうが得策に思えます。 難しいことではありますが。だからこそ、簡単なほうに流れがちなのでしょうね…。 〜他愛と自愛〜 自らだけを尊重すれば、短期的には大変に良い結果を招く助けになるでしょう。 良い物は独り占めし、他者の手助けなどせず、己の都合のままに生きていれば。 しかし結局、人は一人では生きていけません。 他に何も他者を惹きつけるに値する力を持っていなければ、孤独の内に破滅を迎えるのみです。 高い地位にある者が自己中心的であってもやっていけるのは、力があるからこそ。 でも、その力を失った時。きっと誰も助けてはくれないでしょう。 何があるかも分からない世の中で、わざわざ破滅の危険を増やす行為であることを認識すべきです。 それでも行う人間が居るのは、それだけの魅力があるからこそ、なのですが。 逆に人に尽くす生き様は、当然ながら他人を喜ばせ、好まれる人間になれるでしょう。 その代わり、様々な痛みすらも受け入れねばなりません。 同じことを二度書くのは避けますが、結局は上記の逆を歩めるわけです。 無論、こちらも高い価値はあるはずです。孤独に生きていける種族ではありませんから。 どのように取り繕っても、最終的には「己の利」に繋がるのが人間の行動です。 そうだとしても、「他人の喜びを愛する」ことが卑しいことなどと考える人はそう居ないでしょう。 受ける側にとっても「己の利」を与えてくれる行為を嫌う理由などないのですから。 しかし滑稽なものですね、群れで他者を害する人間の姿は。 群れている時点で、他者との繋がりの大切さは認識しているはずだというのに。 …いや、した上であってすら自愛に価値があるということの表れ、なのか…。 〜法と正義〜 以下、不本意ながら不安定な言葉である「正義」という単語を用いています。 ここでは(私見ながら)一般的な認知であろう意味で用います。 抽象的ですが、他者を害さず弱者を保護するというのがそれであろうと思います故。 一応、「悪」はそれに反する行為として認識いただければと思います。 責任の件とも被りますが、たまに聞く言い訳が「法には違反してない」。 だ か ら ど う し た と思った方も中には居られるのではないでしょうか。 法さえ護ってれば正義だとでも思うなら、法の抜け穴から伸びた手に害されても文句もつけられませんよ、と。 確かに法は、弱者が寄り集って強者を封じ込むための檻ではあります。 責任の件で触れたとおり、己だけでやっていく力があれば暴虐の限りを尽くそうともやっていけはしますから。 でもそれ以上ではない。法が正義と同列に並べるかと言えば、そうでもない面が多いでしょう。 法とて道具のうちです。悪用しようと思えばいくらでも出来るのですから。 結局、他者を虐げていればいずれ因果は廻って来るはずです。 跳ね除ける自信が有るぜ!なんて暢気な構えで居られる者であればいいかもしれませんが。 しかし、力がある時に因果が廻って来てくれるなどという保証はありませんし、その規模すら知れません。 本当に己が大切なら、少しぐらい眼前の利益以外にも目を向けてはどうでしょうか。 他者とて満足させておいて損ばかりするわけではありませんよ? 〜知るべからざるもの?〜 というより、気付くべからざるもの、かもしれませんが。 あらゆる行為が所詮己の利のためだと悟ってしまうと、どうにも空虚感が抜けないことがあるかもしれません。 実際、それを踏まえて冷静になれば計算ずくで歩んでいけてしまいますから。 知ってしまえば、恐らく簡単には戻れないでしょう。 しかし知って得たものもあるはずです。仕方ありませんから、それを活かす道を歩みましょう。 〜因果応報〜 ゲーム類の話にしても良かったのですが、重さが重さなのと話逸れ気味なのでこっちに。 大概、悪役というのは惜しげもなく殺される役どころです。 それも、己の犯した罪故に。己が他者を虐げたために、己が虐げられる事態を誘発してしまいます。 そうなってしまえば、彼らとて善人と同じように己が利に基づいて動いている同族であることなど考えにも含まれません。 私は改めて悪人を嫌悪しようとは思いません。 どうせ我が身を害そうとすれば腹が立ちますし、腹が立てば感情の影響で勝手に嫌悪することでしょうし。 他人を害した者に関しても、わざわざ部外者が嫌悪してやらずとも勝手に嫌悪されていくでしょう。 …しかし、そのような状況にあろうと、本質的に同族たることは揺るぎません。 殺人鬼だろうとなんだろうと、彼らなりの事情があって行動したことは確かなはずです。 理解したくもない、理解できない事情だろうとも、彼らなりに信条を貫いたのでしょう。 確かにそんな相手を庇護することは危険も多大に含みます。 そうだとしても…何も理解せず、ただ罪だけを見据えてただただ邪悪と断ずる行為。 それ自体が時に独善に過ぎぬ行為であることも確かなのです。 「癌」の自浄作用をより強く持つように構成された集団性生物の宿命やもしれませんが。 下地がどうあれ、集団にとって内を荒らす存在が邪魔で疎ましい文字通りのゴミクズであることも確かですし。 いつものことですが、別にどうしろと言いたいわけではありません。 罪人をただ悪と断ずる前に、その境遇にも少しぐらい思いを馳せてみてはどうだろうか、というだけです。 本当に罪深いものが何なのか、その行為によって見えてくることも時にはあるのです。 どれほど己が気に喰うまいと、事実は揺らぐことなどないのですし、ね。 〜愉快な本音〜 インターネット上のコミュニティを見ていると、普段は耳にしないような極端な意見の宝庫になっていることがしばしばあります。 匿名であることに勢いづけられ、普段ならば体面を気にして口に出来ないような言葉が書けるということでしょうか。 匿名で極端な意見を掲げる人間だとしても、実名ではそんなことは言えない人も少なくないはずです。 古来ならば独り言や日記のように、己の内にのみ響いていたはずの本音。 それがインターネットの存在により、世界中に容易く発信出来るようになってしまいました。 実名で口に出せないような言葉なだけあり、それは他者の耳には世辞にも聞こえが良いとは言い切れない場合も多々有ります。 まして匿名同士となれば何ら前提となる関係すら無い間柄、その議論も品のあるものになるとは限りません。 そもそも、ろくに責を負わずに叫ぶ言葉に、わざわざ本気で力を入れるかどうかは分からないものです。 余談になりますが、私は機会があれば平気で本音を叫ぶ、はっきり言えば五月蝿い上に鬱陶しい奴だと思われます。 しかし私はもう、可能な限りは嘘や偽りで己を隠してはいたくない。その価値は認めますが、弊害が受け入れきれません。 皆がこうであったなら、さぞや世界は恐ろしいことになっているでしょうけれど。 話を戻します。 別に本音を包み隠し、出しやすい場でだけ出す行為自体はさほど問題があるとは感じていません。 しかしそのような「本来隠れているべきもの」が目にするものにどれほど刺激的かは、少しぐらい考えてみても良いのではないでしょうか。 見る側も、匿名という盾に隠れて発する卑怯の極みでしかない言葉など、本気で受け止めてやる価値があるかどうかを見極めるのも悪くないはずです。 〜ぼやき1〜 本当にぼやきです。 いくら無責任な意見とはいえ、本音同士がぶつかる光景はインターネット上でも興味深い会話であろうと思います。 尤も、私のように両方の意見を穿って見れる人間にとっては、お寒い光景にしか見えない面もありますが。 何度も書いていますが、意見や説得とて結局のところ自己の理論の押し売り以上にはなれないわけです。 世界自体が正義や邪悪を明確に規定してくれなかった以上、その定義は皆個々に委ねられるもの。 その時々の支配勢力の掲げる正義と邪悪が、被支配側の基準にされるというだけですから。 結局、力なきものは淘汰されるという現実だけが冷たく輝いています。 己の意見を認めさせ、支持させるだけの力(それが例え恐怖からであっても)が無ければ、どんな理想とて意味は成しません。 …変な言い方かもしれませんが、傍観者から見ればさぞや退屈しない世界であろうと思います。 結局、この世界の存在意義は一体何なのでしょうか。何も分からぬ以上、玩具としての存在だったとしても不思議はありません。 我々が楽しむだけのためにゲームやアニメの形を与えて生み出してきた、幾多の世界のように。 何も確かなことはありません。ありませんが、万一その想像が現実であったとしたならば。 その現実を知った時、その現実に対し…我々は一体、どのような気持ちを抱くのでしょう。 〜もうね〜 ちらりと聞いた素粒子に関する実験について、折角なので少し調べたんですが…。なぁにこれ。 上昇志向は見習いたいことですが、一体どこまで昇るつもりなんでしょう。天まで逝く気かとも思えてきます。 盲目的に発展してきたことが、現状に相当な禍根を残していると分かっているのに、敢えてまだ昇っていこうという意思には、感心しつつも呆れます。 「やってみなければ分からない」のは確かなことです。…でも、取り返しの付く事態で終わるかも分からないのが現実です。 過去の人々が、現状を予測しながら発展してきたわけは無いのでしょうから。万一予測していながらやっていたら、少しだけお恨み申し上げねばならないでしょうか。 中には、新たなエネルギーの発見に期待し、尚且つそれが世界全体の貧困を無くすことを期待しているようですが。 酷い言い草だろうと思いますが、正直な話、理想主義の域を出ないようにも思えます。 人間の中には他人よりも恵まれたいと願う者があるのですから、彼らが強い力を持つ限り、家畜には必要なだけしか与えられないでしょう。 それ以前に、ここまで大掛かりな実験装置を使わねば実験できないような素粒子に、役立つものがあったとしても、量産が効くという期待は無理があるような気もします。 研究者たちの行動理由は、発展への期待なのか、それともただの知的好奇心なのか。 何も私には分かりません。分かりませんが…このような所業を黙って見過ごす気には、なれません。 〜善なるものの恐ろしさ〜 善や光といった言葉は、上手く名乗れればただそれだけで素晴らしい力を持つ名です。 悪や闇といった言葉と対をなすものとして、文字通り善き存在としての意味合いを放つ名。 しかし、内実が常にそうだとは思えません。 むしろやっていることは、対なすものを撃滅しようとする行為…つまり、他ならぬ対なす相手と似たようなものであることも少なくありません。 語感に惑わされず、内実を見れない限り、これらの言葉は全てを善行に見せるだけのものを備えています。恐ろしい話です。 悪意無き世を心から望むようなものは、一体どれぐらい居るのでしょう。 そこを目指し躍進しようとしている人々を見ると、幾許かの哀れみすら浮かびます。 確かに得るものはあるでしょうが、失うものについては本当に目を向けられているのか…。 彼らの叫ぶ数々の真実(と彼らが言うもの)も、敢えて叫ばねばそのまま消え行くことを許されたとも言えます。 確かに小賢しい手口で己の利を得る行為は、特に被害者から見ればたまったものではありませんが。 それでも、詐欺などの悪行と呼ばれるものを悪と定めたのはあくまで人間のはずです。 弱者が虐げられることを嫌ったものが生み出した(動機は兎も角)のであろうもの。それはあくまで一つの意見でしかないとも言えるはずです。 絶対視されるほどの影響力を誇るようになったのも、教育というものがあってこそでしょうし。 真に正しいことなど見えません。少なくとも、世界はそれを明確な形で我々に示していませんから。 考えれば考えただけ新たな可能性が見えます。結局、どこで納得するかがその人の価値観を決めるのかもしれません。 〜所詮人は〜 獣と変わりません。知恵が回るだけそれより恐ろしいでしょう。 今日、イスラエルの行動に対し(あくまでも水面下では)多数の批判が行われています。 彼らは人道に反する行為であると認識し、そして強い批判を確かに行っています。 しかし、それでも彼らの意志は国家間という天上の舞台には反映されていません。 彼らは確かに理想を持っています。しかしながら、力までは持たないがために。 どれだけ素晴らしい理想であろうとも、それを現実のものにする力がない限り、理想の域を出ることはありません。 そしてどれほど下劣な考えだとしても、力ある者にとっては容易く形に出来るのです。 それは肉食獣が草食動物を遠慮なく食い殺す光景や、強い動物が弱い動物を蹂躙する姿などと、決して遠からぬ様相を見せています。 私自身は己に危害が加わらない状況なら、どちらの肩も持つつもりはありません。 人道は所詮人の間で生まれた理想、大本の自然に他者より何かを奪うことへの制約などありはしません。 それでも、自然は制裁だけは課し続けています。多くの存在が敵に回っていくという形で。 イスラエルを批判する人々が決して少なくないことも、このことを再認識させてくれます。 私のような捻くれ者一人がその流れから外れようとも、いずれ彼らは危機に直面するのでしょう。 尤も、あまりにも複雑化した今の人間世界に、自然の法が上手く影響力を保てているかは分かりませんが。 自浄作用とも言える自然の流れに抗い続けるようなことがあれば、恐らく人間は…。 いくら抗えるようになっても、克服することまではできない以上、最後に待つものは目に見えているのですから。 〜議論をするのに〜 相手と同じ道具を使う必要性はない。 相手と同じ土俵で戦う必要もない。 そもそも相手を傷つけるのに、相手自身を殴りつける必要が常にあるわけでもない。 と、延々と平行線を辿る議論を見ていると思います。 互いが重んじるもの、それも簡単には揺るがないものが違った場合の平行線は無理からぬことだとは思います。 しかし、言いがかりに近い言葉で相手を揺るがし、黙らせることで「議論に勝った」と喜ぶこともできないわけではありません。 そういった目的であれば、相手の戦意を殺ぎさえすればいいわけです。相手が呆れて止めた場合でも問題はないわけです。 尤も、周囲から見ると理解できない行動にしか映らない覚悟は必要ですが。 どうあれ、何かを主張する場合にあたって反発は避け得ないものなのでしょう。 完璧なる意見など存在し得ないと考えたほうが気楽ですし、人間の寿命で求め得るものだとは私は思えません。 あらゆる行動が多様な「属性」とも言えるものを持ち合わせている以上、ある面で最適な解が別の面でも最適とは言い切れないわけですから。 それにしても、そうした主張によく分からない噛みつき方をする人々にうんざりしている人も少なくはないはずです。 反論は言い訳としか受けず、自身の考えこそが全てと言わんばかりの高圧的な話しぶりがそうした批判の特色とでも言えるでしょうか。 言うネタが切れたら最後は呆れた振りをして無学だの愚かだのと捨て台詞を吐いて去れば自尊心は保てるのでしょうから、確かに良い遊び場かもしれません。 ただし、それが出来るのも建前上の匿名性に覆われたインターネットという場であるからこそなのでしょう。 匿名性でない場でそんな真似をすれば、失言後の政治家のように叩きのめされ槍玉に上げられ、笑いものになるのでしょうから。 なお、別に匿名性の場での議論が無益だと言うわけではありません。匿名故に言い難い言葉でも形にできるという面もあります。 匿名、実名の片方を重んずるも、両方を利用するも、個々の自由です。結局それも、それぞれに利点と欠点を持つのです。 〜よー分らんのですが〜 組織の一人の責任を組織全体のものと見なすのはどーいう意図からなんでしょう。 24時間へばりついて一心同体でやってるわけでもないでしょうに。 ましてやった本人がとっくに叩き出されてるとかなると尚更。 防げなかったのは組織も悪いだの仰る方は自分が完璧に他人を正せるのかお考えくださいとしか言えません。 ついでに言うなら、相手の隠し事をすべて見抜けるのかも。 …まぁ、恐らく当事者になるまでは理不尽さには気付けないのかもしれませんが。 それでも気付かないぐらいの人がワラワラ居たら軽く絶望できそうです。 こんなこと言ってると連帯責任の意味を理解してないとか言われることもしばしばですが… むしろそう思われるなら理解できるように説明してほしい気もしますね。罪に罰が要るように無知に説明も要りますので。