トリノ聖骸布

Shroud of Turin

聖遺物の一つ聖骸布Holy Shroud。
トリノのヨハネ大聖堂に保管されているため、トリノ聖骸布と呼ばれる。

杉綾織の亜麻布で、縦4.36m、横1.1mほどの大きさである。

この布は、イエスが死んだとき、頭を真ん中に、布を二つ折りにして遺体を包んだものであるといわれ、日本では聖骸布と呼ばれている。

布自体は黄色っぽく変色しているが、ぼんやりと人の姿らしい物が写っている。
1898年に、初めて聖骸布を写真撮影したセコンド・ピア氏のネガから布に刷り込まれた男性の姿が発見され、それがイエス・キリストの姿だといわれているのだ。

様々な研究の結果、筋肉の反応や神経の流れなどから実際にこの布は死体を包んだものであるという。
血液型はAB型で、写った像に両手の親指が見えないのは、磔刑に処された人体に必ず見られる反応で、手首(一般に考えられているように手のひらではないとか。手のひらでは体重が支えられないらしい)に打ち込む楔が神経を切断し、親指が手のひら側へ深く折り込まれたような感じになるためだという。ちなみに、磔刑に使われた十字架の種類も、ローマ人の使っていた種類であることが分かっている。
さらに頭には、キリストがかぶらされたと言われるものと同じ荊の冠 をかぶらされたと思われる血痕があり、右目の下がひどく腫れ、顔の表面に傷がある。 背中には伝承通り激しい鞭打ちの傷の跡が見られる。

また研究家ウゴレッティにより、左眉の上にNAZARENUという謎の文字が刻まれていることが発見されている。

その存在は西暦33年にエルサレムですでに確認されていたという。
ヘブライ人の経帷子を意味するシンドネと呼ばれ、544年にはエデッサという町にあったという。
その後、ビザンチン軍の侵入により944年現在のトルコ、コスタンティノープルへ逃れることになるが、戦火を逃れてやってきたものの、その後の戦で所在が分からなくなり (十字軍が略奪したらしい)1204年以降、1世紀以上もはっきりとした消息がつかめなくなってしまう。

この間の空白はさまざまな仮説が立てられている。

1205年にはギリシャのアテネに存在したと言う文書や、1204年から1253年まではフェデリコ一世の下イタリアのコゼンツァに保管されていたとする説、フランス北西部ノルマンディーのテンプル騎士団総長ゴッフレッド・ディ・シャルネイ関連説、ロンドンからはるか西のトーントンという町近郊にテンプルコンベという町のテンプル騎士団の城にある礼拝堂に祀られていたなどなど。

現在の聖骸布がはっきりと確認されたのは1357年フランスのリレー。

ちなみに布には手首の部分に杭打たれた傷跡が発見され、一部の信仰者達を混乱させた。
何故ならば、それまでの伝承ではキリストが杭打たれたのは手首ではなく手のひらであると信じられていたからである。
しかし、当時の科学者達の見解では実際には手の平に杭打って身体を十字架にくくり付ける事は困難であり、身体の重さをしっかりと支えるために手首に杭を打ったのではないかと結論したのである。

さらに1453年サボイア家は聖骸布を現在のスイス国境近くのシャンベリーへ移し、同家の礼拝堂に保管されることになる。

だが1532年12月4日未明の火災ではあわや消失の危機に見舞われる。高温に熱された聖櫃の中で折りたたまれた布の四隅が焼ける損害をこうむるが、クラリス会修道女の手により2年間かけて継ぎあての修繕がなされた。(しかし、継ぎあてられた布も変色と傷みがが激しく、2002年の修復作業によって取り除かれている。)

その後大司教カルロ・ボッロメオが徒歩で聖骸布の巡礼にやってくるが、シャンベリーまでは遠すぎるとエマヌエレ・フィリベルトというやつが一時的にトリノに移そうと提案・・・一時的にといいながらいまだにトリノにありますが・・・

さらにその後、仏軍の侵入にあうが仏軍がどんなに聖櫃のなかを探してもみあたらず、連中が退散した後またもとの場所に収まっていたなどの奇跡が伝えられている(自分には与太話に聞こえますが)

1997年4月の火災(原因は未だ不明)のときも、トリノの消防士等の手によって奇跡的に救い出された。

実は偽物?

1986年〜1988年、聖骸布の組織が世界中の研究機関に配られ、調査が依頼された。

1988年、オックスフォード、チューリッヒ、アリゾナのツーソンが合同で行った調査では、C14炭素測定法を用いて布の年代が計測され、この布が実際には1260年から1390年に縫合されたもので、良く出来た捏造物であると結論された。

もっとも布に浮かび上がった男性の像は何の説明もされなかったが。

やっぱり本物?

だが最近行われた布の修復作業の際に、修復に当たっていたスウェーデンの織物研究家メヒティルト・フルリーレンベルグが布の後ろ側に新たに縫合 跡を発見し調査を進めた結果、縫合方法は当時のものであることがわかった。

さらに火災で焼けたために修復して継ぎ足された部分などがあり、以前の計測結果は修復部分のものである 可能性が高いことがわかった。
そして、微量分析を用いて当時の分析に使われたサンプル布片と今回新たに用意された布片を比較したという。

微量分析は、極めて微量の試料を用いて行う検査方法である。
そして調査の結果、オランダ布(前回の炭素測定で用いられた部分)からはバニリン(バニラ香料成分)が検出されたが、その他の部分からはそうした成分は一切検出されなかったという。
バニリンとは植物に含有されるグリニンの熱分解によって得られる物質で、主に麻などに含まれるが、経年的にその含有量は減衰し、最終的には消滅することが明らかになっている。
その為、例えば中世の布からバニリンを検出することは可能である一方、それ以前のものからは決して検出されることはないということだ。
そして今回、このバニリンの欠如から分析を行った米ロスアラモス研究所のレイモンド・ロジャー博士は、聖骸布を1300年から3000年前のものであると結論したという。

またマーク・ガシン氏は、聖骸布を本物である証明とする最も重要な証拠はスペイン北部のオビエドから発見された血塗れの布片であると語る。
その布はキリストの頭部の血を拭った布であると信じられておりその布片を調査した結果、あっさりと紀元一世紀前後のものであることが明らかになった。
またその布片についていた血痕はAB型を示していたという。

検査の結果、その布片についていた血痕とトリノ聖骸布についていた血は同一人物のものであることが明らかになった という。

キリスト像

テキサス大学教授ステファン・マッティングリー氏は聖骸布に浮かび上がったキリストの像は人間の死後、人体に繁殖するバクテリアによって作られたと説明している。

「これは奇蹟などではない。単なる物理現象で、必ず科学的な説明が可能なはずです。それに実験の結果、特定の条件の下ではこれは誰にでも起こりえる現象であることが明らかになったんです。つまり、誰でも死後にこういう布を作る事は可能である、ということです」

また別の解釈としては南アフリカ大学の教授ニコラス・アレン氏はこのキリスト像を人類最古の写真(偶然写真の ように布に像が写った)であると推測している。

トリノ聖骸布製造法

米アイダホ州の高校教師、ネイサン・ウィルソン氏はトリノの聖骸布と同等の物を、極めて簡単な方法で作ることに成功、その全貌を明らかにしたという。

まずガラス板にペイントを施し、それをリネン布の上に乗せた状態で、日光に晒して数日間放置する。
そして数日後にガラスを取り除くと、ペイントされていない部分は日に焼けて明るくなり、逆にペイントによって日光をさえぎられていた部分は元の布の色が残されるため、それは丁度写真のネガのように浮かびあがるという寸法である。

聖骸布専門家のダン・ポーター氏は今回のウィルソン氏の発表に対し、その方法を巧妙なものであるとしながらも、実際に聖骸布のサイズ(高さ4.5mと幅1m)の布で、発表された手法を再現するのは凡そ不可能であると否定している。

またポーター氏は特に、これまでの検証でも確認されたとおり、布に顕れた姿は明らかに何らかの化学反応によるものであり、単なる日焼けによるものではないと反論している。

また更にポーター氏や他の懐疑論者らは、仮に聖骸布がウィルソン氏の方法で捏造可能であるとしても、中世において高さ180cmもの大きさのガラスを作ることは出来なかったのではないか、と指摘している。

 

さて・・・聖骸布をシナリオに生かそうのコーナー・・・思いつきません(おい
まあ、気軽に使いづらいので・・・聖骸布が出てくる作品って自分も覚えがなー。

というわけで唯一知ってる聖骸布が出てきた作品の話を・・・
とあるノベルゲームで主人公が片腕吹っ飛びます。
で、そのとき一緒にやられた英霊(英雄の幽霊、詳しい設定は割愛)の腕をくっつけます。
実はこの英霊、未来で英雄になった主人公なんですが、それでも人間より上位の存在。
このままだと腕に侵食されてしまう・・・というのでそれを抑えるために腕に巻いたのが聖骸布。

もっともこっちはトリノのではなくマルティーンの聖骸布でしたが。