太歳
中国などの伝説に存在する。
大歳とも書く。
たいさい、あるいはたさいが普通の読みだがおおどしとも。向こうの読みではタイソェイかな。
陰陽道の八将神に同名のがいる、こいつはまた別項で扱うとしよう。
風水などで木星を指す・・・正確には木星の鏡像を象徴する架空の星。
木星を使った歳星紀年法というのがあり、木星の公転周期は12年(正確には11.862)で12に区切って年を表したものだ。
これが十干・十二支の基になったという。
そして後に、太歳紀年法というものができた。
当時の人がよく使った十二辰に対して運行や順序が逆だったため、木星の反対側に太歳という架空の星を作ってそれの天球における位置で年を表したのだ。
もっとも、これも廃れ星の位置に関係なく機械的に干支を進めていく干支紀年法がとられるようになる。
民間ではこの十二支の部分だけを使って、それに動物を配当した生肖紀年法が使われてますね。
太歳紀年法は太歳在○で表す。
○のところに子・丑・寅と表記し、子ならば子の位置にあるということ・・・ちなみに木星の鏡像なので木星は反対側の卯に位置するわけだ。
他に位置する年にそれぞれ名称をつけるというのもある。
子:
丑:
寅:
卯:
辰:
巳:
午:
未:
申:
酉:
戌:
亥:
また漢代に入ると十干にも歳名が付けられるようになる。
甲:
乙:
丙:
丁:
戊:
己:
庚:
辛:
壬:黓
癸:
この十干(歳陽)、十二辰(歳陰)を組み合わせて年を表記する。
閼逢摂堤格から始まり、旃蒙単閼、柔兆執徐と続いて昭陽赤奮若の次から閼逢摂堤格に戻る。
全部で60種類の歳名。
ただし、前述の通り木星の公転周期は正確には11.862年なので、実際には少しづつずれてい く。
およそ86年に一辰ずれることになり、これを超辰と呼ぶ。
これを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。
前漢の太初元年(紀元前104年)の改暦(太初暦)では超辰をおこない、丙子を丁丑に改めた。
後に三統暦の補正では超辰は114年に上 辰ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始二年(95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始二年から見かけ上 、同じになる。
ちなみに太歳の位置する方位を太歳方と言い、その方向は凶を示す。
風水ではこの方位に太歳牌や太歳符などの化殺道具を置いたりし て厄払いをします。
太歳符の中央には太歳〇〇年陸明星君到此鎭とか本年太歳星君到此鎭と書いてあります。
太歳星君がここ(本年の定位置)に来て鎮まるようにという意味です。
太歳牌の使い方としては太歳の方位に掛けたり置く他に、玄関や入口に掛けたり置くのがいいとされます。
風水上はこの方位に向かって移転や土地に関する事、土木工事、造作、増改築など土を犯す事を禁じています。
また日本では、太歳神は木性であるから破壊行為は厳禁だが、逆に木を植えたり、建築・造作・商取引・移転・結婚・従業員の雇用などは吉
とされます。
太歳の化身
中国において地中に住むといわれる怪物で、赤い肉の塊のような姿をしており、身体中に数千の目がついている。
太歳の化身であり、太歳の動きに合わせて地中を移動するのだという。
太歳方に当たるところで土木工事などをしてはいけないとされ、もしこれを掘り出してしまったら祟りで一族が死に絶えてしまうといわれる。
これを防ぐには太歳をすぐにもとの場所に埋め、工事を中止するしかない。
ところが宋の時代に書かれた太平広記ではそれをしたのに、一年で一族が死に絶えてしまったものがいる。
厄の逃れ方には他に、鞭で百叩きすればいいともいいます。
食べると美味しかったという話も・・・本当に何でも食うな、あの国は。
太歳の記述は古くは始皇帝の時代にも見られ、史記によれば、始皇帝はかつて上老上死の仙薬を求め、当代きっての名医であった徐福を東方の蓬莱山に派遣している(一説には日本の富士山)。
そしてその仙薬を構成する最も重要な要素がこの太歳であったと伝えられている。
肉霊芝、肉万年茸とも呼ばれ、地理書である山海経や、薬草など効用を記した医学書本草綱目にもその存在が記されている。
さらに肉霊芝の発生は白亜紀まで遡り、現存する最古の古生物のひとつであるという説もある。
また米国の科学者によれば、それはあたかも石化した生物であり、人類を含む全ての動植物の祖先であるとも述べられている。
最近発見された
中国広東省佛山市、南海区獅子山にて、石のような姿をした謎の物体が発見され、太歳ではないかとして話題を呼んでいる。
現在物体の調査に当たっている中山大学生命科学研究所員らによれば、物体は薄黄色に黒い斑点を持ち、長さ縦30cm、横15cm、高さ15cmの丸い形で、重さは2kg前後である。
底部は平たく表面には一つの小さな穴が空いている。
内部はおそらく表面と同じ薄黄色の物質で構成されており、何ら異物らしきものも見られない。また表面に力を加えると、すぐに元の形を回復し、表面を傷つけた場合にはネバネバとした粘液のようなものが滲みだ
し自己治癒するという。更に水で洗おうと試みたところ、内部に水を吸収することなどが明らかになっているという。
発見者の呉氏は、一ヶ月ほど前に川辺の泥の中でこの物体を発見。
当初はただの石だと考えたものの、どことなく奇妙に思い、木の棒で突いてみたところ、表面に穴を開けてしまったと話している。そしてしばらくした後、再び川辺を訪れたところ、物体は一ヶ月前よりも明らかに大きくなっていることに気づき、更に呉氏が開けた穴がふさがっていたことが明らかになったのである。
そこで呉氏はこの物体を何らかの「宝物」であると考え、それを家に持ち帰ったという。
その後、呉氏が地元の老人に物体を見せると老人はそれが何なのか全く分からず、呉氏のもとに見物に訪れた町の人々の間からは「おそらく怪物だから捨てるべきである
」と言った意見が出たという。
しかし、ある人物がそれは「太歳」に良く似ていると呉氏に話したため、呉氏はひとまず生物を捨てずに研究所に見せることにしたのである。
ちなみに太歳の正体は粘菌の一種ではないかという説もある。