鉄鼠てっそ

頼豪の霊鼠と化と、世に知る所也。

むかしむかし、平安時代中期辺りに 頼豪*という僧がいました。

彼は園城寺(三井寺)の権僧正心誉に師事し、円行から法を受け実相院に住して遂には阿闍梨にまでなりました。
阿闍梨とは高位の僧侶の称号で、日本では天台宗や真言宗において高貴な身分の僧や、天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられる職位です。とっても偉いのです。

さて時の天皇である白河天皇は後継ぎに恵まれず、頼豪に皇子誕生の祈願を依頼しました。
いかなる恩賞も思いのままとのことです。

すこぶる張り切った頼豪は承保元年(1074年)、寺に引き篭もり祈りまくりました。
百日間の必死こいた祈りが通じたか、無事に敦文親王が誕生。
ミッションコンプリートです。

頼豪はさっそく戒壇の建立を望みました。

戒壇とは僧に戒律を授ける儀式を行う所です。
この儀式を受けることで正式に僧になれるわけです。
つまり僧になるためにはこの儀式を受けなければならない。

戒壇があるなしで寺のランクがまるで違うわけです。
本社と支店どころか、大企業と下請けくらいの違いと言ってもいいかもしれません。
さらに当時は延暦寺が幅を利かせていましたから、戒壇はほとんど連中の独占状態に近かったのです。

同じ天台宗とはいえ派閥の違う延暦寺と三井寺。
しかし戒壇は向こうにしかないので、立場は圧倒的に下と言わざるをえません。

しかし!!ここで戒壇を建立出来ればもう連中にでかい顔はさせません。
必死こいて祈った甲斐があるというものです。

しかし戒壇の建立は比叡山延暦寺の横槍で却下されてしまいました。

さすがの白河天皇も賀茂川の水に双六の賽そして山法師(比叡山延暦寺の僧衆)だけはどうしようもないと嘆いたという故事があるくらいで、比叡山延暦寺に睨まれては、ごり押しすることも出来なかったわけです。

さあ、ここで頼豪はプッツンします。

憤慨した頼豪は寺に引き篭もって断食し、怨み憎み呪いに呪います。
せっかく誕生した敦文親王は四つで亡くなってしまいます。

さらに頼豪の祟りは彼の死後も続きます。

彼の憎しみ、恨み、怨念は遂には鉄の牙と石の体を持つ大鼠に変じ、8万4千匹もの鼠を率いて延暦寺へと襲いかかり、仏像や経典を食い荒らしたと云われます。

恐れ戦いた比叡山は麓にある日吉大社に御霊鎮めの小さな祠を建てた。鼠の秀倉こと鼠社という。
さらに鼠に対抗するため高僧が大猫を呼び出したとされ、その猫を祀った猫の宮という祠が作られました。

なお安土桃山時代、当時の宮司が書き記した神道秘密記では十二支の最初「子」を祭った祠であり、鉄鼠とは関係ないとしている。

また園城寺も頼豪の霊を祀るための鼠の宮と呼ばれる祠を作りました。
因みに鼠の宮は比叡山の、猫の宮は園城寺の方に向けて作られています。

平家物語、愚管抄、源平盛衰記、太平記にもこの話が記され、後世の妖怪絵師も鉄鼠を描いています。