丑の刻参り

恐らくは、日本で最も有名な呪いだろう。
一般に丑の刻参りは、白い着物を着て髪を振り乱し、白粉で顔を白くし、歯にはお歯黒(鉄漿)口紅は濃くつけ、頭に鉄輪を被り、その三つの足にローソクを立てて灯す。

胸には鏡を掛け、口には櫛(五寸釘とも)を咥え、履き物は歯の高い下駄(一本足とも)を履きます。
右手に金槌、左手に藁人形を持って出かけるわけです。
・・・怖いですな。夜中にあったら絶対逃げますよ。

そして寺社の古い神木に、丑の刻に憎む相手を模した藁人形に、呪詛を吐きながら五寸釘を金槌で打ち込むのが典型的な作法とされている。
そして人に見られる事なく七日間丑の刻参りを行い、願いが届いたなら帰る途中に黒い大きな牛が行く手に寝そべっているので、それを恐れることなく乗り越えて帰るとみごと呪いが完成するという。

ちなみに鉄輪とは昔、火鉢の中に置いた鉄の輪に三本の足を付けたもので、五徳ともいいます。
本来はヤカンなどを乗せて湯を湧かしたりする為のものです。
丑の刻参りのメッカは貴船神社という京都の寺社です。

丑の刻参りの原型は屋台本平家物語の劔巻上にある「宇治の橋姫」という物語だそうです。
宇治の橋姫は悪阻に苦しんでいたので、夫に「七尋のワカメを獲ってきて下さい」と頼みます。
しかし、海に出かけた夫は美しい龍神に囚われてしまいます。というか、浮気ですな。
会うことも叶わなくなった橋姫は憎い龍神を呪うことを考えました。
その頃、心願成就で知られた貴船に参詣し「私を鬼に変えて下さい、憎い龍神と裏切った夫を呪いたい」と祈願すると、貴船の神は「髪を松脂で固め角を作り、その先に火を灯し、鉄輪を被って、三本の松明を持ち、宇治川に二十二日間(三十七日とも)浸りなさい」とお告げがあり、そのお告げの通り一心不乱に宇治川に浸った橋姫は鬼になり、竜神と夫を(さらにその親類縁者を含むとも)食い殺したといいます。

この物語は室町時代になると謡曲「鉄輪」として登場します。
下京に住む男が後妻を迎えたことを妬み、先妻は貴船に参詣し、「赤い布を裁ち切り身にまとい、顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ロウソクを灯せば鬼となる」と橋姫伝説と同じような神のお告げを受けます。・・・邪神の類ですかね?
一方の男は鬼と化した先妻の悪夢に悩まされ、陰陽師安倍晴明の元を訪ねます。
晴明は人形かたしろをもって祈祷を続け、先妻の生霊と対決し、鬼を祓います。
これが謡曲「鉄輪」の大まかなあらすじです。

橋姫伝説において、「橋姫」は元来は水辺、特に橋の守り神とされます。
宇治には橋姫神社があります。
今は少し宇治橋から離れてはいますが、元々は宇治橋の袂にあったそうです。
また宇治橋に限らず古来の橋には橋を守る一角として、祠が設けられたりしていたようです。

さてここまでで疑問に思ったことはありませんか?

藁人形を五寸釘で打ち込む描写がないのです。
この五寸釘が丑の刻参りで登場するのは江戸時代になってからのようです。

今では全部ひっくるめて貴船神社と丑の刻参りが結びつけられたりしますが、その発端が貴船の神に心願成就のご利益が備わっていたことと、森深い神秘的な貴船の地がそうさせたのかもしれません。

ちなみに五寸釘が打ち込まれた跡は縁結びで有名な地主神社にも残ります。
傍らには「おかげ明神」と云う小さな祠があり、ひとつだけ必ず願いがかなう神様が祀られています。
その祠の背後には「いのり杉」、「のろい杉」とも云われる杉があり、無数の丑の刻参りの五寸釘の痕跡が残ります。

小松和彦 著者「日本の呪い」によれば、奈良時代に呪禁道の「厭魅」として流布したものが、民間レベルでは、陰陽師が呪詛の時に敵に見立てた「人形祈祷」と関係をもち、それを丑の刻参りへと入りこんだものが藁人形であり、社寺の神木や社殿・神像・仏像にまで釘を打ち込み、神仏を痛めつけてまで呪咀の願いをかなえてもらおうとする「呪い釘」による呪咀法が混じったものだという。

また出典は確認できなかったが、足に「五寸釘」を打てば「足が悪くなる」。
胸に打てば「内臓が悪くなる(苦しむ)」。
手に打てば「手ぐせが直る、浮気が直る」。
頭に打てば「一撃必殺」という伝えがあります。

また一思いに殺したい場合は一撃で五寸釘を打ち込むといいともいいます。

丑の刻とは十二支を時間に対応させたときの、時刻の言い方でこの場合、午前一時〜三時のこと。

この時刻は丑の刻から寅の刻へ至る時刻、丑寅といい、十二支で方位を表したとき鬼門と呼ばれる方角になる。すなわち、鬼がやってくる方角である。そして丑の刻とは鬼の時間と考えられるのである。

こうして江戸時代ぐらいで、いまの一般的なイメージの丑の刻参りが出来上がったようである。

ちなみに本来の貴船神社の丑の刻参りとは、貴船明神が貴船山に降臨したのが「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」であったということから心願成就の参拝方法であったのである。
お百度参りに近いものだったようで、病気の回復を祈願したりといったのが本来の目的だったようだ。