わたし達日本キリスト改革派静岡教会は、教会設立50周年を迎えるに当たり、前年度より、50年以後の教会形成に向けて、教会としてのヴィジョンを明確にすることを祈りの内に願い求めてまいりました。2004年度当初から、教会のヴィジョンとして求められることは、信徒や役員個人の願望や教会としての願望が相応しいのではなく、何よりもまず、教会の主イエス・キリストの御心に即しているものでなければならないことを明確に示されてまいりました。そしてかつ、信徒全員が理解することが出来、確信を持って告白し得る、聖書の信仰に基づくものでなければならないことを示されました。
そこで、主御自身が祈願され、かつ使徒たちに教示して下さった「主の祈り」にこそ、教会の進展と建設に最も不可欠のヴィジョンが提示されていることを示されました。
そして、私たちはそのヴィジョンを主題とする宣言作成について、わたし達の教会が神の御摂理によって、日本キリスト改革派教会の中に設立され、その歴史の中で形成され、今日に至っていることを思い、日本キリスト改革派教会の創立の精神を継承し続けると共に、その60年にならんとする今日に至るまでの改革派教会の歴史の成果を道標として、21世紀という新時代に向けて対応して行く健全な教会を建設して行くことを念願して、上記のような記念宣言がまとめられました。栄光のうちにいます「父なる神」と「御子イエス・キリスト」からつかわされ、私たちの教会に御臨在下さる「真理の御霊・聖霊なる神」が、力ある御手をもって、御国への船路を守り導いて下さいますように切に祈ります。
主の2004年6月1日(火)
日本キリスト改革派静岡教会小会
宣言の草案解説T(静岡教会50周年記念宣言草案)
【聖書】詩篇103編 2004年3月14日昼の礼拝にて
《T》ヴィジョンT「願わくは御名をあがめさせ給え」から(神の栄光のために)
@日本キリスト改革派教会創立の主張第一点と共に
私どもは、50周年を迎えるに当たり、そして今後の教会形成の歩みを勧めるに当たり、原点に立ち返って教会の進むべき目標やヴィジョンを確認し、思い新たに50周年以降21世紀に向けて突入して行かねばなりません。教会は神の国の完成に至るまで、地上にある限りは、ある意味で荒野の旅路を歩まねばなりません。旧約のイスラエルが進む上で神が与えられた目標を「昼は雲の柱、夜は火の柱」の中に信仰をもって確認しつつ進んだように、21世紀の私たちも、はっきりと進むべき目標を確認して歩んで行くのです。
しかし現在の教会には、指導者モーセの他、何の歴史的経験も史料も持たなかったイスラエルとは異なって、雲や火の柱のような物理的目標ではなく、「旧・新約聖書」と「世界の教会の公同信条」や「ウェストミンスター信条や教会規程」という、旅の進路を定めるいわば水先案内があります。何よりも、教会のかしらキリスト・イエスによる執成しがあり、真理の御霊による導きがあり、更に私たちの静岡教会は、日本キリスト改革派教会という枝に連なる教会として、これまでの進路計(ウ信条)を補修したり、増補した現時点の進路計となる10年毎の「宣言」を持っているのです。これらの積み重ねのデータが、これからの教会の進むべき進路を指し示しているのです。つまり、これら全ては、教会の旅路のために役立つものであり、私どもは、闇雲に進むのでも、好き勝手に進むのでもないのです。
そして今までに、50周年に際し、我が教会の抱くべきヴィジョンとして、主の祈りより、第一に「神の栄光のため」第二に「神の国(教会)の進展のため」第三に「神のみこころを行なう良き業・愛の業の推進のため」を掲げ、このヴィジョンを反映した宣言の作成を目指しているところです。そこで、今回は、第一のヴィジョン「神の御名の栄光のために」を反映する宣言の第一章から考えたいと思います。このヴィジョンは、我が日本キリスト改革派教会創立の第一主張点でもあり、旧新約聖書の神の目標であり、救済の世界史に啓示された普遍的かつ不変的な目標です。ですからまず、@『私たち静岡教会は、50周年を記念して、教会と信徒は信仰と生活の全面のおいて“神の栄光を現わすこと”を、第一の目標として掲げます。』と謳うべきです。それは、詩篇103編に謳われていますように「神の栄光を現わす」とは、「神の御名が、自分を含めて全ての人々に崇められ、神の権威の偉大さ・素晴らしさ、神の慈愛と真実の豊かさが褒め称えられること」を意味し、私たちが生きること、語ること、行なうことのすべての第一目的が「神の栄光のために」に、置かれるべきことを意味します。
従って、次に告白すべきことはA『私たちは、まず主の日の礼拝を捧げることをもって、神の栄光を現わします。』詩篇103編1節に歌われる如く、神の民であるキリスト信徒が「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。」と、神を賛美する礼拝なくして、神の栄光を現わすことはできません。
T
“神の栄光のために”信徒の交わりとしての教会が主の日ごとに共に集まることによって、神に栄光を帰し、神を褒め称える。そこに、初代教会の姿があり、宗教改革の姿があったのです。教会が教会として、信徒が信徒としての本分である神礼拝に誠実であることの故に、初代教会は神を知らない周りの人々から好意を寄せられたのです。そこに神の栄光が現われていたからに他なりません。参照使徒2章46〜47節
もちろん“神の栄光を現わす”ことは、礼拝を捧げることによってだけ、という意味ではありません。信仰と生活の全面において“神の栄光を現わすために”とことを意味します。そして、“神の栄光のために”ということは二重の意味を持っている訳です。
“神の栄光のために”という一つの意味は、「神の栄光」に関係のない分野・領域はこの世には、どこにもないということなのです。かつて教会は「信仰と救い」に関することのみに関わり、信仰と社会生活は別、という二元論的な生き方にあったと言われます。キリスト信仰を自分の魂の救いのみに狭く限定して、社会の問題や政治的問題に関りなしとしたのでした。もちろん、全くない訳ではなく、個人的には社会の貧困者や病人・弱者に対して深い関心を持った賀川豊彦や長谷川保 (聖隷事業団) らの、社会から捨てられた結核患者を救う熱心な活動はありました。けれども、国権(政治)によって教会の組織制度が統治されるなど(教会の自律性の損壊)、教会は国家との関係や、教会自身のあるべき姿について、明確な信仰と理解を持ちませんでした。それは、魂の救いに限定したというよりも、ウ信条のような聖書真理の体系的な理解がなかったために、神ご自身を限定し、信仰を限定し、教会自身が己の口を噤ませたのでした。日本キリスト改革派教会の創立は、そこに創立の要因の一つを見出している訳です。
つまり、“神の栄光のために”とは「神に関わりのない領域はない」という一元的・全包括的Comprehensivelyな意味を持っているということなのです。
そして、
“神の栄光のために” というもう一つの意味は、「神の栄光のため」という目標と、「人間の栄光や幸福のため」という目標とが相並んだ場合(大抵の場合はそうです)、神の栄光を第一の目的とし、人の幸福を第二の目的と見る(それは決して人の幸福を否定することではない)という優先順位・Priorityの原理を意味しています。もし、人の栄光が、神の栄光に優先してこれを後ろに回すならば、その結果は、かえって人間の幸いを損なうことになるからです。「ルカ福音書9章24〜25節 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」
まして、21世紀の世界の様相は、何が真理であって何が虚偽であるか、国家も個人も自己正当化的(宗教的には自己義認)の傾向を示し、自国のために、自分のためにを最優先にする傾向を、これ程、露に見せている時代はかつてなかったように思われます。ポストモダンの21世紀は、ますます強者と多数者の論理が専横になって行くかの様相を呈しています。あるいは又、新しい時代の思想や隆盛を極めるような思潮が目を奪い支配的になって行く傾向にあります。そのような中でこそ、多数や隆盛を優先するのでも、かといって、単に弱者・小者を優先するというのでもなく、何事よりも教会・信徒は「神の栄光のために」という、神の慈愛と神の権威を秘める真理に生きることこそが、全てに優先されるべき要石なのであり、それこそが、この世界からも真に希求される生き方とな Uるのであります。しかし、教会が、教会の活動領域を越えて政治文化経済に活躍して行く道はありません。従ってこれからの時代は、キリスト者は、教会《組織体としての教会》を包含している《有機体としての教会》すなわち「神の国」《神の恵みと聖旨による支配》の信仰理解をもっと深め、「神の栄光」のために、政治文化経済のあらゆる分野に関心を示して、これに配慮し、あるいは参画することによって、公共の場に神の栄光を現すこと(全てが御名を崇める)を自覚しなくてはなりません。
《日本キリスト改革派教会創立30周年記念宣言に表された“神の栄光のために”》
そこで、《T》で告白された“神の栄光のために”を、更に一歩進めて具体的に告白するためには、どうしても日本キリスト改革派教会30周年宣言「教会と国家に対する信仰の宣言」に静岡教会として組みすることは避けられません。宗教的に無知(宗教とカルトの区別がつけられない)にして、多元的宗教国家である我が国は、国民を楽観的ニヒリズムへと向わせるか(現今は正にこの様相)、カルト的宗教に結び合わせるか、さもなくば国権によって国民を神道宗教と結び合わせる(これからの時代)という傾向を常に持っています。このような中で今後、教会・キリスト者が、万物の上に置かれたキリスト・イエスの主権に信服することはこの上もなく重要なことになります。
かつての我が国が、あらゆる宗教の上に超宗教として「国家神道」を位置付け、実質的に国家権力を最高位に置いた不法は二度と犯されてはならない。それは、国民と国家の破滅に直結する邪道だからです。そういう伝統的資質を持つ国に建てられた教会の使命は、キリストの主権をどれだけ高揚しなくてはならないか、私たちはよくわきまえねばなりません。しばしば、「政教分離原則」が逆手に取られて、教会は宗教以外の問題(政治)に口を出すべきではないと、口噤む傾向があります。したがって私たちは今回の宣言においてB『私たちの教会は、日本キリスト改革派教会創立30周年記念宣言「教会と国家に関する信仰の宣言」を基礎として、常に「キリストの主権」に従って行きます。又、21世紀に起こり来る新たな社会的課題に対しても、真摯に主の御心をたずね求め、神の栄光のために対処します。』
この後半は、信仰生活の全面において“神の栄光のため”に生きることを告白するのですから、それは“教会と国家”のことだけに限定されるのではなく、文化・経済・社会のあらゆる事柄に有神的人生観・世界観を持って関わる訳です。ですから、21世紀に起り来るであろう事柄、既にある事柄、例えば生命科学倫理の問題、同性愛の問題等々の問題に対しても、唯世の趨勢に委ねるというのではなく、聖書に聴き、聖霊の導きを祈り求め、神の栄光のためをモットーに対処して生きることを意味している訳です。
宣言の草案解説U 2004年3月28日昼の礼拝にて
【主題】ヴィジョンU「御国を来たらせ給え」より《神の国の宣教と教会形成》
《T》40周年「聖書・聖霊・福音の宣教宣言」・50周年「予定・伝道の宣言」
《U》創立の主張第二点(信仰告白・長老政治)と共に
《V》御国の完成を待望する教会として(60周年宣言)
V
《T》40周年「聖書・聖霊・福音の宣教宣言」・50周年「予定・伝道の宣言」
そもそも、日本キリスト改革派教会が創立された歴史的な経緯の一つには、「ウ信条を信奉する教会」であるべきであり、また「ウ信条を信仰内容」とするべきであることを創立者たちが痛感されたことにありました。それは、16世紀に開花した宗教改革の花々としてのプロテスタント諸信条の花壇に、17世紀半ばに咲いたウェストミンスター信条は、それらの花々の最後を飾るにふさわしい、聖書真理の最も体系的に整った「リフォームド・エキュメニズム(松谷好明師)」の花を咲かせたものと判断されたからでした。
もちろん、かと言ってそもそも信条は、聖書に導かれた教会が、歴史の中で聖書から教えられた真理を「かく信ず」と、公に告白し続けて行くものです。ですから、信条には永遠に変らない不変の真理の告白だけでなく、時代の神学的要請(聖書論など)により、又国により、歴史的・地理的に異なる状況に応じて書き換えられたり、言い換えられたり、言い加えられたりすべき要素もある訳です。(例えば、国家為政者との関係や、理性の自律的思潮への対応、新たなる聖書真理の発見など) 従って、信条はどこかの時点で固定化することを許されない要素を持っています。そういう意味から言って、ウ信条の作成が、キリスト教の世界(異教徒伝道の必要性のない英国)でなされたという、歴史的な事情を考慮しなければならない現実的な問題があります。
何故なら、異教徒が圧倒的に多い我が国にとって、ウ信条には言い加えられなければならない不十分な要素のあることが考慮されなければなりません。それは、一つは時代的・国家的な制約のあるウ信条23章「教会と国家」の関係の問題(宣言草案Tで扱った)であり、一つは「福音宣教」の課題(ウ信条では考えられる必然性がなかった課題)であり、福音宣教と聖書論に伴う課題としての「聖霊論」があります。
そこで日本キリスト改革派教会としては、30周年を期に、多元的異教国家日本の文脈に合わせて「教会と国家の関係」を宣言し、40周年には「聖書論」「聖霊論」と共に「福音の宣教」に対する宣言を採択し、更に50周年においては「伝道の宣言」を採択することによって、上記の課題に対処してまいりました。そして、これは正しく、わたし達のヴィジョンU「御国を来たらせ給え」の一翼を担う課題に関わるものです。
そして「福音の伝道」こそ、「御国」(主イエス・キリストにあってなされる神の恵みの支配のこと)の要請であり、今までわたし達の教会の未達成の課題(ウ信条になかった項目は、教会全体としての取組において不十分になってしまった)と言わざるを得ません。
そこで、ヴィジョンUから導き出される宣言Uの第一はC【福音の伝道】「わたしたちは、※「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる神」の、大いなる愛の御心に迫られ、心を込めて神の国の福音を宣べ伝えます。そのために、恵み豊かな神の憐れみにより、聖霊の恵みによって、人々の心が耕されて福音を受け入れ、実を結ぶ心とされますよう熱心に祈ります。※Tテモテ2:4」D「わたしたちの教会の生命は、神の国の前味としての公的礼拝にあります。それ故、神の言葉が宣べ伝えられ、聖礼典が喜びの 内に行なわれる主の日の礼拝こそ、伝道の最高の機会と考えます。」
《U》創立の主張第二点(信仰告白・長老政治)と共に
50周年を記念しての教会のヴィジョンのUは、主の祈り「御国を来たらせ給え」の具体W化であり、ヴィジョンの解説において、すでに第一に「御国・神の国」は「既にと、未だの間にあり」、「終末の完成」を待望しつつある状況にあることを確認しました。そしてヴィジョンの解説の第二において、「神の国」の狭い意味における「教会」の進展として捉えると、教会のあるべき姿は、初代教会の姿にその原型(御言葉の教え、パン裂き、信徒の交わり、祈り)が示され、宗教改革の教会がその姿の復興を目指したことを考えました。
そしてわたし達日本キリスト改革派教会は、創立宣言の主張の第二点として「信仰告白、教会政治、善き生活の確立」を掲げました。この主張は、初代教会時や、宗教改革時の教会の姿の、より聖書的に具体化した姿を描いた主張であると言えます。
そこで静岡教会50周年宣言草案Uにおいては、「信仰告白」と「教会政治」を扱い、「善き生活」は草案Vの扱いとします。
そこで、まず第一に「信仰告白」に関しては、世界の基本的・普遍的四大信条(使徒信条、ニケア信条、カルケドン信条、アタナシウス信条)に加えて、ウ信条(ウ大・小教理問答書・ウ信仰告白)を、全教理に亘り純正に福音的、かつ体系的な信条として最も完備したものとして受け入れたのでした。しかしながら、前述しましたように、信条というものは如何に優れていたとしても、それ自体で停止したり固定化すべきものではありませんから、10年毎に「信仰の宣言」として採択して来たのでした。
従って、ウ信条を尊ぶということは「教会と国家、聖書、聖霊、福音の宣教、予定、終末の宣言」を加えることによって初めて、真にウ信条を尊ぶことになることをわきまえる必要があります。そういう訳ですから、私共はヴィジョンUの「神の国・御国」の進展、強いては「教会の進展」に対して、まずこれらの六宣言を含めた意味での「ウ信条」を、わたし達の信条として捉えなおしたいと思います。
「信条」とは「信仰の規準」であって、「聖書」に教えられた「教会」が必然的に生み出すものです。それは教会にとって神学以上のものです。「神学」には個人的な要素もありますが、神学が教会の中で公的な見解になったものが信条(信仰規準)です。従って、「教会」は「信条」によって「聖書」との正常な関係を樹立して行くのです。(岡田稔)
つまり、私達の教会は信条を軽視しては、教会を進展させることが不可能なことを覚えねばなりません。
そこで、静岡教会50周年宣言草案Uとしては【信仰告白】E「わたしたちは、世界の四大公同信条と共に、ウェストミンスター信仰規準を告白し、日本キリスト改革派教会の歴史の中で採択された「信仰の宣言」に学びつつ、教会形成に励みます。」
次に、宣言草案Uは創立宣言第二主張点のもう一つは「教会政治・制度・組織」に関するものです。世界には、幾つかの教派に分かれ、それがそれぞれ異なる政治形態を形成しています。しかしそれらは結局監督制,会衆制,長老制の3形態に纏められる。
私達の教会は、長老主義政治を、最も聖書的な神的政治形態として採用しています。これはウ信条には規定されず、現在ではウ会議「教会政治について」を基礎としたPCUSAの「政治規準」に詳細に解説されています。今回はその解説は省きます。
そこで宣言草案は【教会政治】F「わたし達の教会の政治形態は、長老主義政治こそ最も聖書的な形態であると信じます。それ故、わたし達の教会は、長老主義政治について、聖書と共に政治規準・訓練規定・礼拝指針を良く学び、中・大会の交わりを尊重し、主の聖旨に適う教会の形成に努力します。」 X
《V》御国の完成を待望する教会として(60周年宣言)
ヴィジョンU「御国を来たらせ給え」から導かれる残された大切な要素は、「キリストの再臨と、神の国の完成を待望する」姿勢です。主は「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。使徒言行録1章11節」と約束され、主御自身も「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。ルカ福音書21章」と予告されました。日本キリスト改革派教会は、60周年宣言(2006年)において告白する準備を開始しています。それがわたし達の教会の(再臨と終末)の告白すべき内容となりますが、静岡教会50周念宣言において前もってそれを受け止めておきたいと思います。そこで、現在告白すべきことを含めて以下のような草案とします。【主の再臨と御国の待望】G「わたしたちは、日本キリスト改革派教会60周年を記念して採択される「終末に対する信仰の宣言」に則り、今、主の御名によって集う、わたしたちの礼拝の唯中に聖霊において臨在しておられる主が、その御身体をもって再臨され、神の御国の完成の祝福の中へ導き入れて下さることを待ち望みます。」
宣言の草案解説V 2004年4月18日(昼の礼拝)にて
《T》ヴィジョンV「御心をなさせ給え」から愛の業・善き業の推進
《U》静岡教会40周年宣言に謳われた「弱者・障碍者と共に」との関係について
《T》ヴィジョンV「御心をなさせ給え」が意味する愛の業・善き業の推進
ヴィジョンVを検討したところで、初代教会、宗教改革教会が共に、執事的愛の活動・行動を伴なう働きの不可欠性・必然性を体験し、教会の中にこれが制度化されて行ったことを見て来ました。ところが、宗教改革に到るまでの中世時代には、長期に亘り教会の執事的制度が無秩序に陥った経緯があり、また宗教改革期後も、啓蒙主義時代(17〜19世紀)において、個人主義的影響により、教会の執事制度が任意団体に委ねられるような崩壊の危機を迎えた時代があり、20世紀に到り、再び回復の兆しを見たことを確認しました。歴史の教訓は、この働きはともすると教会において、ないがしろにされる危険性のある働きであることが示されています。
旧約時代の祭司職がしばしば堕落し、神の国イスラエルの存亡を脅かす歴史もありました。日本キリスト改革派教会においては、政治基準第十章において、五箇条(56〜60条)に亘って「執事」の職務が定められていますから、制度を失う危惧はないと言えます。しかし、制度は如何に確立されてはいても、その働きが生きていないということは起こり得ることですから、常に配慮される必要があります。そこで、50周年宣言においては、教会の執事的働きの充実はもちろんのこと、今日の人々の愛の冷えて行く社会状況を考慮するとき、ますます信徒個人における万人祭司の務めとしての善き業・愛の業に努める姿勢を謳う必要があると考えられます。Y
そして教会としても、個人的にも、20世紀後半から世俗政府における福祉(慈善・貧者・弱者)への配慮が目覚しく開花して来たことが認められます。半面教会の福祉への活動は、その制度においても、その規模においても、あまりにもひ弱です。それ故、 教会・キリスト者は、世俗(政府や民間のNPO・NGOなど)の福祉の情報に明るくなければなりませんし、それに対して、唯受けることにだけでなく、精神的な支援をし、特に神への祈りにおいて執り成すことに熱心でなければなりません。政教分離原則は、決して、教会・信徒が世俗社会や政治に対して無関心や、敵対心を抱くべきことを意味するものではありません。
教会と国家は相互に生ける真の神に仕える僕なのです。相互の働きかけや賢明な協力、共通の関心事についての理性的・神学的な批評は教会と国家に相応しい事です。(エルシー・アン・マッキー著「執事職-改革派の伝統と現代のデァィアコニア」p156) そこでH「わたし達は、主の御心が天になる如く、この地上にも行なわれることを祈り求めつつ、教会の制度としても、又信徒としても、すべての善き業、とりわけ執事的愛の業に積極的に取り組みます。そのために教会の内外に注意深く心を配り、何が神の御心であり、何が主に喜ばれる善いことであるかをわきまえるよう祈り求めて歩みます。」
《U》静岡教会40周年宣言に謳われた「弱者・障碍者と共に」との関係について
最後に、第三のヴィジョンに関して、静岡教会としては40周年において「弱者・障碍者と共に歩む教会」であることを宣言し、そう心掛けても来ました。現実に静岡教会は、視覚障碍を負われた会員が数多く、また身体的に弱い会員も比較的多い教会としての特徴をもって形成されてきました。あえて「弱者・障害者と共に歩む教会」と謳わなくとも、教会は、本来弱者・障害者が共にいてこそ、ノーマルなキリストの教会のはずです。そして、それは霊的にも肉体的にも、健常者が支え、弱者・障害者が支えられるという構図ではなく、皆が、キリストの身体の肢体としてお互いが霊的に仕え合い、支え合って、キリストに仕えるという構図なのです。もちろん、肉体的な弱さの部分においては、健常者の支える役割が多くなることは当然のことです。しかし、わたし達の教会の場合、今までは、肉体的には支える側であった健常者たちも、次第に高齢化し、肉体的には次第に衰えつつあります。更に加えて、現在及び将来に亘って教会を担うべき世代層(20〜40歳代の陪餐・未陪餐会員)は、殆ど教会から離れてしまっています。従って、静岡教会の今後の教会形成のためには、若い世代に福音を宣べ伝えることは急務です。
その意味で、50周年記念事業の一環として設置しつつある、インターネット・ホーム・ページの活用や、50周年記念集会に後援・協力して下さった福祉団体や、社会問題(DVや虐待)等に取り組む諸団体との交わりを深めることも重要になって来ます。この課題は、前述の《T》で扱った、「世俗の善き業」への理解を深め、彼らのためにも「神の恵みや導きの執成し」に関わる重要な課題と言えます。
そこで、I「わたし達は、福音を現代社会に伝達するための有効な手段であるホームページを活用するなど、苦しみ悩む人々の心に福音を提供すると共に、すべての称賛に値する善き業について理解と関心を抱き、神の御心に適う働きに対しては、神の恵みと導きとを執成すことによって協力してまいります。」 Z