私共の店は、京都市伏見区は「淀」の地にあります。

北へ100mほど行けば「豊臣の淀城」跡、
南へおよそ300mほど行けば「徳川の淀城」跡があります。
店の前を通る道は、「納所の関」から東寺の南にあった「鳥羽口」まで通じる
「鳥羽街道」です。 現在は「千本通り」と呼ばれています。

「淀」は、新選組の活躍が華やかなりし頃はほとんど登場しません。
幕府軍が「鳥羽伏見の戦い(戊辰の役)」に破れ、再起を期して大阪に向かった途上にあります。

慶応 3年10月、徳川幕府は朝廷に大政奉還を願い出て、許されました。
しかし、徳川家を倒さなければ自分達の今後にとって邪魔になると考えた薩摩は、江戸を荒らす挑発行動に出ました。

当時大阪にいた将軍慶喜は幕府の倒薩論を押さえきれなくなり、
翌年正月1日、薩摩と戦う許可を得るべく朝廷に訴え出ようとしました。
翌2日、諸藩から集まった兵 1万5千人は、淀城を本陣として入城します。
城主の稲葉氏は、春日局を出した家系で徳川家との繋がりが深く、当時の藩主
稲葉正邦氏は老中として江戸ありました。

翌3日、幕府軍は淀で二手に分かれ、本隊は淀堤から伏見へ向かい、別働隊は
鳥羽街道をのぼります。
全軍で都に突入する予定でしたが、朝廷は幕軍に撤退を命じました。
陣を構えた朝廷軍と「都に入れろ」「朝廷の許可を待て」の押し問答の最中に
両軍の衝突が起こり、全面戦争に突入してしまいました。これが「鳥羽伏見の
戦い」です。
薩長軍は幕府軍の僅か3分の1の5千人でしたが、坂本龍馬達の奔走が実を
結び、その甲斐あって入手した近代火器で武装し、幕府軍をよく攻めました。
戦況が苦しくなった幕府軍は一旦淀城に退き、翌4日早朝再び出撃しました。
戦闘は5日にまで及び、土方歳三率いる
新選組や会津藩士は伏見方面に向かいますが、長州兵達と激戦になり、会津藩士は
ほぼ全滅、新選組も30数名が戦死しました。
今は「八番楳木戦場跡」として小さな碑が残るばかりです・

現在、戦死者の遺骨は「京都淀競馬場」の
駐車場の片隅に葬られていますが、この話には続きがあります。

昭和45年、京都淀競馬場の拡張工事の為
慰霊碑を動かしました。ところが事故が
続出し、その上、夜毎に「誠の旗」を持った
新選組の幽霊が出て、元の場所に戻して
くれと訴えます。堪りかねた工事関係者は供養をして慰霊碑を元の場所に戻しました。その後幽霊は現れなくなったそうです。
愛宕茶屋跡に立っていた「戊辰の役の碑」です。今は「納所会館」の前に置かれています。
又、鳥羽方面でも激戦になり、多くの戦死者を出しました。
35名の戦死者が眠る慰霊碑が桂川の堤防下にあります。
幕府軍は鳥羽街道を徐々に後退し、「豊臣の淀城」跡に建つ「妙教寺」周辺で敵を迎え撃ちました。その激しい戦闘跡が今も残っています。
本堂の壁を破った銃弾が内部の柱を貫通し、反対側の壁まで破って庫裏の
玄関でようやく止まりました。今もその柱は残されています。
妙教寺さんの本堂の側には、榎本武揚の筆による追悼碑が立っています。
妙教寺本堂横に立つ「榎本武揚」筆の碑です
妙教寺境内の鐘突堂横に立つ碑です
幕府軍は、淀城に戻って体勢を立て直そうとしました。
しかし、当時淀城を守っていた稲葉家の家臣達は戦況を見て、主家の安泰のためには朝廷側に付くべきだと判断し、城門を開いてくれませんでした。

朝廷軍は淀の民家を焼き払い迫って来ます。
(余談ですが、私共の店を改築しました時地面を掘り起こしましたが、下の方に火災で焼けた跡が出て来ました。)
幕府軍は木津川に掛かる淀大橋を渡った後橋を焼き落とし、対岸の八幡に陣を構えました。
しかし、翌朝6日淀川の対岸にいた朝廷軍から砲撃があり、ついに幕府軍は総崩れとなりました。

生き残った新選組の隊士達や兵達はなんとか大阪まで逃げましたが、将軍はとうの昔に江戸に帰っていました。
とり残された幕府軍は、自分達で江戸まで落ちて行くしかなかったのです。

幕府軍の兵士達の遺骸は賊軍として冷たく扱われ野ざらしになっていましたが、地元のお寺や村人達が哀れに思い、荼毘に付して手厚く葬りました。
幕府軍の埋骨地は、桂川堤防沿いにある「愛宕茶屋跡」や「八番楳木」の他に、競馬場の南にあった「光明寺」、少し南に下がった「大専寺」「文相寺」、
また少し南に下がった「東運寺」「長円寺」に、又木津川の対岸の八幡には
「八幡番賀」と呼ばれる埋骨地が今は畑の中にあります。
光明寺跡に立つ碑です。埋骨地の碑は長円寺に移されました。
大専寺に立つ埋骨地の碑です
東運寺に立つ埋骨地の碑です
「淀」と「新選組」の関わりを簡単にまとめて、写真も入れました。
興味をお持ちの方に、お読み頂けると幸いです。
(別ページに現在と過去の地図を作りました)
京都淀競馬場の駐車場の隅に立つ「八番棋木戦場跡」の碑です
愛宕茶屋跡に残る碑です