その店は酒場が連なる通りを一本奥に入った路地にひっそりとあった。柔らかな明かりに照らされた木の看板に店の名が見て取れる。

『Abendlied』と横文字で記されたそれはドイツ語らしく、アーベントリートと読ませるらしかった。
繁華街の猥雑さが嘘のように静まり返った、人影もまばらな路地にあるその店は、焦げ茶を基調とした落ち着いた佇まいが訪れる者の心を落ち着かせる雰囲気を醸し出していた。
 その店のカウンターの向こうで、この店を取り仕切っている悟浄はカシャカシャとシェーカーを振りながら客からの注文ではない新しい種類のカクテルを作り出そうと思案げな顔を傾けていた。
「じゃ、ごちそうさま」
 そう言い置いて、店にいた唯一の客が帰り支度を始める。
 まだ、そんなに遅い時刻でもあるまいに、そう広くも無い店内に客が一組もいないとはどういうことだ、と内心で肩を竦めながら悟浄は客を見送った。
 からんとドアベルの音がする。出て行った客に背を向けた悟浄は、人の気配が残っている気がしてふっと顔を上げた。

 入れ違いに入って来たのだろうか、ドアの前に一人の青年が立っていた。黒い髪に緑の瞳が印象的な整った顔立ちの青年が物慣れない様子できょろきょろと店内を見回している。
その様子が彼の容貌とはミスマッチな気がして悟浄は口元を綻ばせた。
「いらっしゃい。」
 口元に愛想笑いではない笑みを浮かべて、夜の街が似合わなさそうなその青年に悟浄は興味深げに挨拶をした。
「あ、あのっ。」
 カウンターの奥に人がいるとは思ってもいなかったらしい青年が、声を掛けられてようやく悟浄の姿に気づく。
「あの、すみません。ここ、ピアノバーだって聞いて来たんですけど。」
「あー。まァ、一応そういう名目なんだけど今、ピアノはちょっとやってないんですよ。御期待に添えなくて申し訳ないんですけどね。」

 店の隅に置かれている、しばらく誰の手も触れていないことがありありと窺えるピアノに悟浄の視線がちらりと向けられる。それにつられたように視線を動かす青年の横顔に悟浄は声を掛けた。
「あれは置物に過ぎないんで、今のところはただのバーなんですが。」
 悪戯っぽく片目を閉じて、悟浄は今まで苦心していた新しいオリジナルのカクテルをグラスに注いだ。綺麗な緑色の液体は奇しくも青年の瞳によく似ていて、悟浄は一人満足げな顔をしてそれを眺めた。
「よかったら、飲んでいきませんか?これ、サービスで付けちゃうけど。試しで作ってた奴なんだけどお客さんによく似合うと思うんで。」
「あの?」

 それだけ言って、青年は戸惑ったような視線を向けた。悟浄の言葉にどう切り返したらよいのか解らなくて言葉に詰まった彼の前に、悟浄はすっとグラスを差し出した。
「僕に似合うかどうかはよく解らないんですけど。綺麗ですね、それ。」
 笑みを浮かべたまま無言で勧めてくる悟浄に青年は柔らかく答えた。その声に気をよくした悟浄は再度促した。
「じゃ、飲んでみて下さいよ。」
「あっ、あの。  すみません、今、持ち合わせが少ないので……。」
 そのカクテルに見入っていた青年は我に返ったように悟浄の顔を見上げると、困った表情をその顔に浮かべ僅かにしどろもどろになって断った。
 途方に暮れたその様子に悟浄は怪訝そうな顔をして頭を掻いた。

 とっぽい顔をしてるけど、酒も飲む気がなくてこんなとこに何しに来たんだろうか?
 悟浄の心の声が聞こえたかのように青年は慌てて本来の目的を話し始めた。
「えっと。すみません、店長さんにお会いしたいんですが。どちらにいらっしゃるんでしょうか?」
「店長さん?」
 この店には似合わない、そのあまりな言い草に悟浄は堪え切れなくなって、ぶぶっと変な声で吹き出した。不思議そうに首を傾げてこちらを見る青年を悟浄はごほごほと咳払いで誤魔化し、少し緩んだ口元を隠すように返事をする。
「店長っていうか、オーナーは今、いないんだわ。ああ、『今』じゃねぇか、しばらくいない。で、俺が代わりに店見てるんだけど。何か用があるなら、俺が聞いとくよ。」
 それを聞いた青年は僅かに居ずまいを整えて、では、と言った。
「あの、僕をこちらで雇って貰えないでしょうか?」
「は?雇う?」
 いきなりの展開に面食らった悟浄は素っ頓狂な声を上げた。うーんと唸りながら腕を組み、目の前の青年と人影の無い店内を交互に見比べる。
 店は一人で切り盛り出来ないほど、流行っているわけではない。というより、人を雇う余裕ははっきり言ってあまりない。
ただ、この綺麗なちょっと天然の入った青年をこのまま鼻であしらって返してしまうのは、少しばかり惜しい気がした。

 さて、どうしたものだろうか、と思案する悟浄に青年は「あの」と、再び声を掛けてきた。
「僕、ピアノを弾かせて貰えないだろうかと思ってこちらに伺わさせて頂いたんです。専属の方がいらっしゃるとは思ったんですけど、たまにでもいいので弾かせていただけないでしょうか?」
 そう言い募る青年の顔が必死そうで悟浄は心を動かされた。
「ピアノ弾いてたの、オーナーなんだわ。あのじいさん今入院中でさ、しばらく戻ってこれないから放りっぱなしになってんの。期限付になると思うけど、それでもいい?」
 ぱっと青年の顔が明るくなる。
「勿論それで結構です。」
「じゃ、まずピアノ弾いてみてくれる?それ聴いたうえで決めさせてもらうわ。」
 本当はピアノの腕前を確かめる前にその心は決まってしまっているというのに、悟浄はそう言うとにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
 演奏も聴かないで決めちまったら、ピアノより青年自身に興味があるのがばれちまうからな、そう心の中でうそぶく。
 そんな悟浄の心情に気づいた様子もなく青年は「じゃあ」と言って、ピアノに掛けられていた布を取り蓋を上げた。
「つかぬ事を伺いますけど、こちらではどんな種類の音楽を普段は弾いてらしたんですか?」
「あー、ごめん。俺、詳しくなくてさ。はは、よく解んねーや。いいよ、何でも。あんたの好きなので。」
「そうですか?じゃあ。」

 そう言って青年はピアノの前に腰を下ろした。鍵盤に瞳を落として口元にふっと微笑を浮かべる。しばらく何かを考えている様子だったが、悟浄が促す前に彼はおもむろにピアノを弾き始めた。

 透明な音色が薄暗い店内に流れる。低く高く響く旋律が、その場の空気の色まで変え始めていく。

 無心に鍵盤に指を走らせる青年の姿に、悟浄は息をするのも忘れて見とれていた。青年のその細い指や薄い肩や額にかかる髪のすべてが印象的で、心の隙間に入り込んでいくような気がした。
ピアノの音に包まれた青年の周りだけが違う世界のようだった。
 いつしか、音は途切れており、どうだろうかとこちらの反応を窺っている青年がじっと悟浄を見つめていた。
「それ、有名な曲だよな。じいさんが弾いてるの聴いたことがある。えっと、何て曲だっけ?」
「パッヘルベルのカノンですよ。」
 じっと見入ってしまっていた自分に対する照れ隠しのように早口でまくし立てる悟浄に、青年は目元を綻ばせて曲名を告げた。


「あっ、それそれ。すげーな、あんた。無茶無茶上手いじゃん!」