ちちちと、開け放した窓から朝を告げる鳥達のさえずりが聞こえてくる。
 白い、半覚醒の意識のまま、悟浄は傍らに眠る八戒に手を伸ばした。しかしそこに眠っているはずの恋人の姿はなく、柔らかなシーツの感触だけが返ってくる。
 悟浄はようやく眩しそうに薄目を開け、部屋の中を無意識に目で追った。
「八戒」
と、呼びかけて再びごろりと横になる。そのままじっと耳を澄ましていると、そう広くもない家のどこからかぱたぱたと動き回る足音が聞こえてくる。
 幸せそうに悟浄はふっと忍び笑いを洩らした。
 もう少しこうしていよう。しばらくすれば八戒が起こしにきてくれるから。
 瞳を閉じた悟浄は一日の始まりの至福の時を想い、再び眠りの中へとそっと意識を手放した。


「もうっ。いつまで寝てるんですか!毎朝毎朝、僕が起こすまで眠りこけて。悟浄、起きてくださいってば。」
 毎日こうやって起こしてもらいがたい為に悟浄はベッドから離れないのだと知っているのかいないのか、八戒は幾分呆れた声色で悟浄を揺さぶった。
 肩に触れる手が心地よい。悟浄は目も開けずにその手を取るとそのままぎゅっと引き寄せた。
「わ!やめなさいって。悟浄っ。」
 バランスを崩してどさりとベッドに倒れ込んだ八戒を組み敷いて、悟浄は満足そうにくっくっと笑うとその白い首筋に顔を埋めた。
「おはよ、八戒。」
「おはようございます。悟浄っ、わ、何、だからっやめてくださいってばっ。」
 抗う八戒をものともせず、悟浄はその唇に思うまま接吻けし熱い舌をそっと滑り込ませた。捩る身を引き寄せる手に力を込めると、八戒は僅かに力を弛めた。
「んんっ。」
 微かに甘い響きが混じる吐息を洩らし始めた八戒に、悟浄は身体の奥に熱い衝動が込み上げてくるのを感じて八戒のシャツの中に手を忍び込ませた。
「悟浄っ!やめっ。」
「やだ。おまえだって感じてるじゃん。」
 くすくす笑う悟浄の顔面の真ん中をグイっと押し退けると、八戒は憮然とした顔を作って起き上がった。
「時間見て下さい。せっかくコーヒー入れて朝食作ったのに食べる時間無くなりますよ?」「ってー。コーヒーと俺とどっちが大事なのよ?」
「決まってるじゃありませんか。コーヒーは冷めちゃいますからね。」
「飯以下かよ。ま、俺は冷めないし?」
 頭を抱えてぼやいてみせながら舌を出した悟浄に八戒は楽しそうに笑いかける。しかしふっとその顔から笑みが消え、ぼんやりと遠い瞳をして視線を窓の外へ流した。
「−――どうした?」
「え?」
 つられるように悟浄も真剣な顔をしてむくりと起き上がると、八戒の両頬を手掌で挟みこんで顔を近づけた。
「おまえ、今ヘンなとこ見てたぜ?」
 自分の表情の一瞬の変化も見逃さない悟浄に、八戒はらしくもなく顔を赤らめて、口籠りながら弁明した。
「あ、先刻朝市で知っている人を見かけたような気がして。ちょっと考え事してしまいました。多分人違いなんでしょうけど。」
「そっか。−−−なあ、もう少しこの格好でいていい?」
 八戒の腰を自分の膝に乗り上げさせて抱きよせた格好で悟浄はにやりと笑った。
「もう。しょうがないですね、じゃあ、あと三分だけ。」
 まだうっすらと頬を染めたままの恋人に悟浄はそっと接吻けると、毎朝の幸せを胸の内で噛みしめた。

「今日は何時ぐらいに帰ってきます?」
「うーん、そうだな。晩飯の時間には間に合うといいけど、無理かも。今日は市外まで出掛けるから。」
 八戒の作ったまだかろうじて温かな食事を口に詰めこみながら悟浄は返事をすると、訝しげな視線だけでその理由を八戒に問いかけた。
 苦笑しながら、八戒は悟浄をはぐらかす。
「先刻朝市に行ったんですけど、あんまりいいものが売ってなかったんです。塾終わってから、もう一回ゆっくりと買物に行ってこようかなって思いまして。」
 ふーん、と気のないような返事に紛れて悟浄の瞳がきらりと光る。八戒はその眼差しの意味に気づいたが、何も聞いてこない悟浄にそれ以上答えようとはしなかった。
「あ、もう時間!毎日遅刻じゃいいかげん三蔵に怒られますよ。」
 八戒は時計を見ると慌てて悟浄を急かし始めた。何故毎朝悟浄が遅れるのか、三蔵には全部解っていそうで恥ずかしかったのだ。
「じゃ、行ってくるわ。」
「はい、いってらっしゃい。」
 玄関で手を振って送り出してくれる八戒に背を向けると、悟浄はがしがし頭をかきながら歩き出した。一瞬前までの顔とはまるで別人のような鋭い表情がその顔に浮かぶ。
 八戒のヤツ、また何か隠してんな。ったく、そーゆーのもうやめにした筈なのに。
 ふぅーっと大きな溜め息をついた悟浄は、今日はやっぱり出来るだけ早く帰ってこようと心に誓ったのだった。


 急ぐ気配もなく歩き出した悟浄を見送って、八戒もはぁっと悟浄と同じ様な溜め息をついた。
 なんだか、誤解させてしまったかもしれない。
 悟浄は元々他人が心の中にひそませているものを、無理に暴き立てるタイプではない。なのに僕は彼が問い詰めてこないことをいいことに、自分の中にある昏い記憶を三年もの間秘密にし続けた。その僕の秘めた感情に気づいて以来、悟浄は僕の心を見透かすように瞳を覗き込んでくることが多くなった。それは決して気のせいなどではないと思う。別に僕のことを疑っているとかではないのは、いやというほど解るのだけど。
 ああやってらしくもない顔をさせてしまう程、僕があのひとを傷つけてしまった。その事実が辛かった。
 八戒は夏の青空を見上げた。盛夏の頃とは違う、僅かに高く澄んだその空の色が季節が微妙に移ろっていくのを感じさせる。
 春から夏へと変わろうとしていた数ヶ月前、八戒は悟浄とひどい喧嘩をして今まで秘密にしていたものを全部吐き出してしまった。たかが喧嘩でそれが口に出せたのは、もう隠しておく必要がない程、過ぎてしまったことになったという証でもあったと今は思えるようになった。それで悟浄との仲がぎくしゃくした訳ではなく、いや、それまで以上に愛されているという自覚もある。けれど、やはり悟浄を傷つけてしまったという事実はまぎれもなくていつまでも心にのしかかる。
 八戒は再び空を仰いだ。
 今のことだって、どうやって切り出そうかほんの少し躊躇しただけのことだったのに。
 八戒は今朝がた、人込みの向こうにちらりと見かけた長身の姿を思い起こした。
 あれは、独角だったと思う。けれど、気になるのは彼はあんなにも荒んでしまうようなひとだったろうかということだ。
 記憶にあるより、ずっと疲れ果て剣呑な雰囲気を漂わせていたその男は、朝の市場にはひどく不釣合で周囲から一人浮いていた。
 ふと我にかえって声をかけようとした時には、もうその男は視界から消え失せてしまっており、八戒は自分の見た姿が真実独角だったのか見極めることは出来なかった。


 あの牛魔王との戦いの中で独角達と別れてから、彼らの消息は一度も聞かなかった。
 一度、悟浄は「兄貴には兄貴の生き方があるから」と、ぽつりと洩らしたことがある。普段口には出さなくても、唯一人の兄のことを悟浄は常に気にかけているようだった。
「幸せに暮らしてればいーんだけど」そう呟いた悟浄の横顔を思い出して、様相も変わってしまった独角を見かけたとは確証が取れるまで伝えることは憚られたのだ。
 裏目に出たかなぁ。
 八戒は再び溜め息をついて、見つけだしたら今度こそ声を掛けようと心に決めた。

 確かこの辺だった筈だ。
 八戒は心の内でそう呟きながら、夏の午後の太陽が次第に金色を増してくる中を額の汗を拭って今朝見た人影を捜し歩いていた。その辺りは一つ裏通りに入ると場末のうらぶれた宿が並んでいてあまり質のよくない場所だったのだが、八戒は気にもとめずに一軒ずつ声をかけていく。
 悟浄のため、というのが一番ではあったのだが、実は八戒自身にも独角に会いたいという気持は強かった。
 あの日は、もっと熱かった―――。
 八戒は目をすがめて空を仰いだ。悟浄にも言ってない秘密が、僕にはまだある。こればかりは言わずにすめばそれに越したことはないのだけれど……。

 八戒はずっと昔、砂嵐に襲われた日のことを久しぶりに思い出していた。

 まだ西に向かって旅をしていた頃のことだ。その日は砂漠を渡っている時に妖怪達の襲撃を受け、それらに立ち向かっている途中に砂嵐に襲われたのだ。戦いに気を取られていてはっと気がついた時には既に空は暗く翳り、砂混じりの風で顔も上げられない状態だった。
「悟浄!三蔵!悟空!」
 仲間達を呼ぶ声は荒れ狂う風にのまれて、一瞬後には消し飛んでいた。手探りでそれでも歩こうとする八戒を突如突風が押し上げる。
 息を詰まらせて、八戒は意識を手放した。

「おい、気がついたか?」
 意識が急激に戻ってくるのと同時に八戒はざらざらした砂と硬い床の感触に居心地の悪さを覚え、何度も咳き込みながら声の主を見遣って起き上がった。
 薄暗さに目が慣れない中、八戒は気配だけをじっと窺い、身動きもせず神経を張り詰め不測の事態に備えた。
「おいおい、そんなに警戒しなくてもいいぜ。別に寝首をかこうと思ってるんならいつでもやれたんだし。」
 うすぼんやりと声の主のシルエットが浮かび上がる。それが独角だと気がついて八戒は止めていた息を吐き出した。
「―――助けてくれたんですか?」
 抑揚のない声で呟くと、八戒は傍らに置かれていた眼鏡をぱちりと嵌めた。
 不確かだった世界が少しずつ明瞭になっていく。
 彼らがいたのはごつごつとした岩が剥き出しの洞窟の奥まった場所のようだった。外はまだ砂嵐が吹き荒れていて、白い砂が夜を斜めに切り裂いていた。
「僕だけのようですね。他の三人は?」
「さあね。俺が見かけたのはあんただけだよ。かなり飛ばされたんじゃないのか?」
「そうですか。」
 暗い声で八戒は呟く。耳鳴りのような砂の吹き荒れる音と、ぼんやりとした白い闇がひどく現実感の失われた世界を作り出していて、八戒は知らず知らずのうちに素のままの声を独角に向けていた。
 ざぁざぁという音だけが通り過ぎる。その音すら沈黙に変わってしまう程、時間は静かに流れていた。
 ぼんやりと八戒は焦点の合わない瞳を吹き荒れる砂に投げかけていた。何も映していない、その透明な瞳に独角は興味を引かれたように八戒の顔を覗き込む。
 何?と八戒が訝しげな視線を向けたのに気づいて、独角は笑いを含んだ低い声で問いかけた。
「おまえさんがそんな顔するとは思いもしなかったな。―――何、考えてた?」
「―――何も。ただ、砂嵐がこんなに心を落ち着かせるなんて知らなかったなぁ、と。」 小さくかぶりを振った八戒のすがたはひどく頼りなく見えた。
 立てた膝に頬を埋めながら八戒はふっと口許に薄い微笑を浮かべる。魅入られたように目を離せなくなっていた独角はふと我にかえって声の調子を変えた。
「何か飲むか?少しは腹に入れとかねぇとな。」
 ぱんぱんと砂を払って独角は荷物から何やらごそごそ取り出し始めた。その様子をじっと見つめていた八戒はぽつりと呟いた。
「―――さすが兄弟だけあって、悟浄によく似てますね。」
「そうか?」
 食事の支度をする手を止めずに、独角は気のなさそうな返事をした。
「ほらよ。」
 しばらくごそごそしていた後、独角はそう声をかけて八戒に歩み寄った。
 アルミのカップを手渡しながら八戒の横に腰を下ろすと、独角は非常食を半分に分け、八戒の前に置いた。
 ふわりと、風が動いた。
 はっと何かに驚いたように八戒は独角を見上げ、そしてふっと小さく息を吐く。
「どうした?」
「―――あのひとと、同じ匂いがする。」
 それは独角への返事というより、自分への独白のような小さな声だった。
 ふっと目の前から消えてなくなりそうなそのはかなげな様子に、独角は普段戦いのなかで見かける凛と気を張り詰めた姿にはないものを見つけ、驚きを隠せないように八戒をしげしげと眺めた。
 彼の中で、いつか見た倒れ臥す悟浄の背中を狂おしく見つめていた八戒の眼差しが甦る。 敵味方だという以前に、立ち入ってはいけない線が存在することぐらい独角にだって解っていた。ただ、こんな砂嵐の夜はこの洞窟だけが世界から隔離されているような気が拭えず、独角は自然に八戒に問いかけていた。
「あんたさ、兄貴の俺が言うのも何だけどよ。なんであんなのがいいわけ?」
 その言葉を耳にした途端、びくりと不自然なほど八戒の肩が揺らいで、手にしていたカップから零れた液体が岩肌に一筋流れ出した。
「―――何を言い出すんです。言ってる意味がよく解りませんが。」
 何度か唇をわななかせた後、八戒は努めて平気そうな声を出そうとした。しかし普段張り詰め続けている気を弛ませていた八戒は、不意にもたらされたその衝撃を上手くやり過ごすことなど出来なかった。
 不自然なほど声が震えた。口に出せない想いを押し殺し過ぎて、擦り切れ掛かっていた精神が引き裂かれる音がする。今にも壊れてしまいそうな顔をしながら、それでも八戒は何げない振りを装おうとした。
 思ってもみなかったその反応に独角は驚きを禁じえず、まじまじと八戒の姿を眺める。三蔵達と共にいるときには、一度も見たことのない姿だった。
 こんな不安定な精神を隠して、この男は旅を続けていたのか?
「お前。」
 独角はそれだけ呟いた。

 八戒は俯いて黙り込んだままだ。その場に立ち込める沈黙が問いかけへの肯定になっていくのを、八戒は半ば自暴自棄に感じていた。
 手を離したら何処かに消え失せてしまいそうなほど危ういその姿に、独角は息を飲んで思わず腕を伸ばして引き寄せた。
「何するんですか!」
「今、俺は何も見なかった。全部秘密にしてやる。」
 広い胸に抱きしめられて、八戒は身体を強ばらせた。が、同時に自分に向けられる純粋な優しさを感じ、そしてまたその腕は何故か無性に懐かしく、心地よいのを感じていた。
「あんたの姿見てると胸が痛くなる。俺の心は紅に捧げちまったから、あんたにやるわけにはいかねぇけど。お前の好きな名前で呼べよ。聞かなかったことにするから」
 痛みで千切れそうになる心を押えつけながら、八戒は独角の腕をきつく握りしめた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。―――偽物の夢をください。」
 背中に腕を廻して力一杯抱きしめる。男の胸に顔を埋めながら、八戒は小さく誰にも聞こえない程の微かな声で、悟浄、と愛しいひとの名を呼んだ。

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