真っ暗な部屋の中、八戒はベッドの上で片膝を抱えて座り込んでいた。力の籠もった指先が震えるのも、背中にひんやりとしたものを感じるのも、それは夜の所為ではなかった。 柱に掛かった時計が時間を刻む音だけが解けない呪縛のように果てしなく続く。
 白くなった指先で自分の薄い肩を八戒はそっと抱き締めた。悟浄がどれほど自分をいつも包んで居てくれてたのか、こうして一人でいると、そんな簡単なことさえ忘れかかっていた自分に気づく。

 眠った振りをしていた八戒を残し、悟浄がそっと部屋から立ち去ったのはもうどのくらい前になるのだろう。
 彼が出て行く直前、自分をじっと見つめていた眼差しは目をつむっていてさえも痛いほど解った。そっと足を忍ばせてドアを閉めた悟浄を引き留められなかった自分が悔やまれる。闇の中秒針の音だけは響いてくるが、今が何時なのかさえぼんやりとしていてよく見えない。いつになったら朝になるのか、いや、朝になれば悟浄は戻ってくるのか、定かではないことを八戒は思い浮かべた。

 夕刻、独角が立ち去った後も、彼らは随分長い間身動きしないままその場に立ち竦んでいた。沈黙に居たたまれなくなった八戒が瞳を逸らしたその視線の先に、割れた食器の残骸があちこちに散らばっている。
 荒れ果てた室内に気づいた八戒はそれらを片付けようと、ようやく悟浄の手を放した。身体の大きな男二人が、それもかなり戦闘力の高い二人が室内で本気で暴れ回ったのだから仕方がないと思いながらも、八戒は溜め息が溢れてしまうのを止められなかった。取り合えず壁に穴は開いていない。が、いつも悟浄と二人で寛いでいたソファは変形して、お揃いで買ったマグカップも割れてしまった。
 表情を消した八戒は、床に散らばるものを一つづつ拾い始めた。割れた破片に手を伸ばそうとした八戒を、すっと悟浄が隣にしゃがみ込んでその白い指を押し留めた。何も言わずに首を振ると悟浄は怪我をしそうなものから順に片付け始めていく。
 悟浄の優しさが切なかった。
 八戒は淋しげなその背中を思いだし、唇を噛み締めた。


―――言わなければよかった。
 八戒は先刻から何度も繰り返した独白をまた脳裏に浮かべると、内心で溜め息をこぼした。
 もっと上手くやる方法はいくらでもあった。事を荒立てないことを一番に考えるのなら、かわすだけでいいのなら、こんなふうにはならなかったのに。
 言わなければよかったのだろうか。八戒はまた繰り返した。
 独角のことは本当に昔のことに過ぎない。いや、それを言うのなら三蔵のことだって過ぎたことなのに。
 確かに僕は長い間、三蔵と悟浄のことを心の底で引き摺ってきた。けれど、もうそれは過ぎたことだった。彼らの間に有ったものより、僕達二人が創りあげた絆の方が強いのだと今なら胸を張って言えるのに。
 だからここで秘密にして、悟浄に今の自分を疑われるのは嫌だった。
 悟浄は聡い。嘘で誤魔化せる相手ではないから、信じてもらうには本当のことを言うしかなかった。
 それに。真正面からぶつかってきた悟浄に嘘をついたり誤魔化したりするのは、僕自身が許せなかった。
 もう僕は偽りの自分をあのひとにだけは見せたくない。それを見破ってしまうあのひとを傷つけたくないから。
―――けれど。
 八戒はまた溜め息を付いた。
―――やはり言わなければよかったのだろうか。


 寝室から出て行った悟浄は八戒が眠っている振りをしていたとは微塵も思っていなかったようで、物音を立て気配に敏感な彼に気づかれないようにそっと居間の明かりを灯した。 ごそごそと棚の奥から秘蔵していた酒瓶を何本も取り出す。かなり強い酒の蓋を乱暴に開けると、グラスにも注がずそのまま口を付けぐいっとあおった。
 かぁっと臓腑が焼けつくような熱に悟浄は大きな息を吐く。続け様に何口か飲み干すと、悟浄はひどく顔を歪めて片手で瞳を覆った。
 痛ぇよ。酒なんかの熱さより、もっと胸が焼けるように痛い。
―――八戒。
 押し殺した叫びのような声で悟浄はその名を呟いた。
 八戒が何よりも大事なのに、彼を一番傷つける存在は自分自身なのだと気づかされてしまう。大事にしたいと思ってきたのに。ずっと、ずっと昔から。
 八戒が独角と関係を持ったことがあったなんて問題は、本当は派生的なものに過ぎない。確かにそれを何年も秘密にされてきたことにはいくばくかの憤りを感じずにはいられないけれど。
 問題は。ー―― 八戒をそこまで追い詰めたのは、まぎれもなく自分自身だということだ。
 悟浄は抱えていた頭にギリッと音がするほど爪を突き立てた。そこから滲み出る血も、焼けるほどの酒の熱さも千切れそうな胸の痛みの前には全て消し飛んでしまう。
 俺が八戒の心を見失っていた間、八戒はどれだけ苦しんでいたのか。再び心を通わせた後もヤツは辛い想いをどれほど抱えていたかなんて一度だって口に出したことはなかった。 自分自身を傷つけることに何の容赦もない八戒を、不器用なほど一途なあいつの生き方を受け止めてやりたいのに。
 もう過ぎたことだから、そう言って穏やかに笑う八戒に向き合う度、俺を傷つけないように気づかう心を感じて、反対にひどくせつなくなった。痛みが心を切り裂くけれど、八戒がそれを過去のこととしている以上、それを引き摺り出すことはできなくて……。
 強く抱きしめることしかできなかった。

 もうずっと前から、八戒は唯一人の俺の運命の相手だと解っていた。たぶん、そう、出会ったあの時から。あいつに魅かれていた。
 大事な存在だと解っていた。これから先、ずっと隣を歩いて行ってくれるであろう相手を手に入れた俺は有頂天になっていたんだ。―――その感情が何という名前のものかなんて考えもせずに。
 ただ、大事だった。身体も全部手に入れてしまおうなんて、その頃の俺には考えもつかなかった。身体なんか繋がなくても俺達は誰よりお互いを必要としていたし、第一、それまでひとを愛するなんて知らなかった俺にとって、身体を交わすということにどんな意味があるのかなんてまるで解っていなかったのだから。
 考えれば解ったはずなのに。八戒にとってそれは意味が違うのだと。姉弟というタブーを犯してまで姉を手に入れた八戒には、そう、文字通り全てを手に入れることとそれは同意義だったはず。―――そう、それは全てを繋ぎ止める、契約の証にほかならない。
 俺の生き方はあいつにとって不思議だったと思う。しかし女と遊んでいる分にはまだよかった。俺が三蔵に手を出した頃から、八戒は壊れはじめていったのだ。
 三蔵とのゲームはまるで意味が違ったというのに。

 八戒の心をようやく手に入れて、それまでの関係を全部ゼロからもう一度スタートさせて、一日一日を積み重ねてやっと今日まで辿りついた。
 心を閉ざしていた頃のことを何も語ろうとはしなかった八戒が、三年という時間を経てようやくそれを口に出すようになった。それは、すごく嬉しいと思う。
 しかしそれは、八戒を極限まで追い詰め、傷つけた張本人は俺だという事実を俺自身に突きつけた。もう、過ぎたことだから。と、微笑う八戒に偽りはないだろう。けれどそれが更に辛かった。せめてなじるなり責めるなりしてくれればと思ってしまう。そんな甘えたことを考える自分自身がいやで堪らなかった。

―――八戒を綺麗だと思う。その姿より何より、穏やかな物腰に秘めた激しさと一途さに焦がれてやまない。
 出会ったときから解っていたのに。もっと早くにその意味に気がつければ、あいつを傷つけなくてもすんだのに。
 後悔の波が押し寄せる。どれだけ酒を浴びるほど飲んでも、今夜は酔えそうになかった。

 八戒は強ばっていた指を延ばしてベッドサイドの眼鏡を手に取った。部屋は暗いままであったが、それでもぼんやりとしていた視界がほんの少しだけ明瞭になる。
 悟浄と話をしなければ。
 八戒は怯む気持ちを押さえ込んで立ち上がる。普段、必要以上に色々なものが見え過ぎてしまうのに、自分の気持ちだけはいつまで経っても持て余してしまう。何を話したらよいのかそれすらよく解らなかったが、うやむやな時間をこのまま抱えているのはもっと辛かった。
 今日の起こったこと全てをなかったことにして朝を迎えてしまったら、二度とこの話をする機会は失われてしまうかもしれない。その後の日常に抜けない棘のようにこの事が潜み続けるのは堪らなく嫌だった。

 かちゃ、と無造作に居間のドアを開けた八戒はそこに立ち込めるどんよりとした気配に気づいて足を止めた。卓の上に何本もの酒瓶が空になって転がっている。驚いて一歩踏み出した足に、床に転がっていた瓶が当たった。
「―――こんな強いお酒、一遍にこんなに飲んで……。身体壊しますよ。」
 それはいくら酒に強いとはいえ、悟浄の飲む許容量を遥かに越えていた。悟浄への心配が先に立った八戒は話を後回しにしようと、普段どおりの声色で語りかけた。
「横になった方がいいんじゃないですか?ベッドまで、僕手を貸しますから。」
 そう言って差し出された八戒の手を、悟浄はやんわりと押し戻す。
「大丈夫、酔ってないから。」
「酔ってないって、それだけ飲んで何言ってるんですか。」
 憮然とした声を出した八戒に悟浄はようやく顔をあげ、淋しそうに笑った。
「―――酔えないんだよ。」
 確かにその瞳の中に酔いの色は何処にもなかった。
 悟浄の瞳の中の光が揺れる。八戒はいたたまれずにふと目を逸らすと背を向けた。
「―――僕も、一緒に飲んでいいですか?」
 ぽつりと呟いて、戸棚からグラスを取り出す。振り返って返事を待つ八戒に、悟浄は顎を杓って目の前の椅子を指し示した。
「あぁ、座れよ。」
 綺麗に磨かれたグラスに悟浄は琥珀色の液体を注いでやる。手掌で揺らす度にきらりと金色に輝くそれを八戒は見るとも無しに目で追っていた。
 部屋の中に沈黙が訪れる。何から話し出したらよいか迷いながら、二人は黙り込んでグラスを傾けていた。それは強い酒で、八戒でさえ普段一気に煽るような代物ではなっかたというのに、今夜は喉を過ぎる熱さすら微塵も感じなかった。
 互いを思いやる気持ちが、余計に何も言えなくさせる。
 相手が大事だからこそ、不用意に口を開くことは出来ず、その強すぎる想いが彼ら自身を縛り付けていた。
 かちゃりとグラスのたてる音だけが響く。水面下に緊張した糸を孕んで、時間だけが通り過ぎて行った。


 どのくらいそうしていただろうか。この静けさを破るのを躊躇いながら、八戒はそっと口を開いた。
「悟浄、あの。―――すみませんでした。」
 口籠もりながらも真摯な声色で謝る八戒の姿に、悟浄はようやく顔を上げた。真っ直ぐな真紅の瞳が自分を見据えてくるのに気がついて、八戒はほんの少し視線を彷徨わせた。
 卓の上に置かれた八戒の指が僅かに震えている。それに目を止めた悟浄はグラスを持つ手にぎゅっと力を込めた。
 こういう時の八戒は大抵ろくでもないことを考えているはずだ。放っておけば自分の手から擦り抜けていってしまう気がして、悟浄は覚悟を決めた。
「誤解してるみてぇだから言っとくけど。別に俺はお前に対してこれっぽっちも腹立てちゃいねぇよ。つーか。―――俺の方こそ怒鳴ったりして、先刻はすまなかった。」
 静かに告げる悟浄の声色に八戒はほっと小さく息をついた。固く握りしめていた指を解き、肩の力を抜いた八戒に悟浄は更に言い募る。
「おまえが苦しんでいたとき、俺は何も出来なかった。いや。―――おまえが苦しんでいたのは俺の所為だと思うといたたまれなかった。自分が、許せねぇんだよ。」
「だから、それはもういいんです。」
 落ち着いた声で答える八戒に、悟浄はかぶりを振って続けた。
「俺はな、俺がどんなに自分自身を不甲斐なく思っても、おまえがすんだことにしたいと言うのなら、無理やり引っ張り出して来ないほうがいいと思ってた。けど、やっぱり一度ちゃんと話しといたほうがいいのかなぁと思ったりしてさ。
 本当は、おまえに辛い想いを思い出させる位なら、俺が堪えてたほうのがよっぽどかいいんだけどよ。」
 悟浄は何を言い出そうとしてるのだろう。微かに動揺して瞳を上げた八戒に構わず悟浄は先を続けた。
「俺、三蔵に惚れてたことなんかないぜ。」
 悟浄の言葉に八戒は肩を揺らして過剰に反応した。
「な、何言い出すんですか。―――気なんて使ってくれなくてもいいですよ。もう、三蔵のことはふっきれましたから。」
「だーかーらー。そういうんじゃなくてさ。」
 揶揄でも嫌味でもなく少し驚いて言い募る八戒に、悟浄はがしがしと頭を掻きむしった。「やっぱり解ってないんじゃねぇか。くそぅ。何遍、おまえだけだって言ったと思ってんだ。―――もしかしたらとは思ってたけどさぁ。」
「悟浄?」
 いきなり大声を上げた悟浄に唖然として八戒は呼びかける。しかしふっと黙った悟浄の瞳に険呑な色が浮かぶのを見て、八戒は再び口籠った。
 悟浄は目をすがめて八戒を見ると、ゆっくり低く話し始めた。
「―――最初から話すわ。
 あのさ、俺、昔から三蔵のことスゲー無理した生き方してるなぁと思ってた。あぁやって何かを強いるように生きるのって楽じゃねぇだろうなって。空元気も元気って言うし、虚勢張ってでもヤツには曲げられねぇものがあるんだろうとは思ってたけどさ。ある日、ふと思ったわけよ。虚勢の下には何があんのかなってね。」
 一息入れて、悟浄は八戒の顔色を窺いながら口を閉ざす。八戒は唇を噛み締めて黙ってそれを聞いていた。何かに耐える八戒の表情を見て悟浄も酷く顔を歪ませたが、拳を堅く握り締めて胸の痛みを堪えると彼は更に先を続けた。
「ヤツが抱えてる何かを剥ぎ取って、隠してるものが見たくなった。だから、抱いた。」 
八戒はぎゅっと目を瞑った。昔、見てしまった三蔵を抱く悟浄の姿が容赦なく胸を切り裂く。吐き気を伴うほどの痛みが八戒を襲う。
「もう気にしていない」と言いながら、思い出してしまえばこうやってやはり苦しくなるのに。悟浄の口から語られる生々しい言葉に耳を塞ぎたくなってしまう。
 三蔵のことを悟浄はどう思っていたかなんてことを聞いたのはこれが始めてだった。凄く知りたいと思ったこともあったし、絶対に知りたくないと思ったこともあった。しかし悟浄に直接聞きたいと言ったことはなく、ましてや彼から聞きたいかと問われることもあろうはずがなかった。
 八戒は初めて聞かされる悟浄の心情に戸惑いを隠せずに瞳を震わせた。
 悟浄の言葉一つ一つを噛み締めるように受け止める様子が窺えて、悟浄は一旦口を閉ざすと八戒の動揺が収まるのを待った。
 残り少なくなった酒瓶の中味をぐいっと一気にあおる。ふぅーっと息をついて口を拭うと悟浄はじっと八戒を見つめた。
「―――知りたいというのは、恋愛感情と一緒なんじゃないですか?」
 俯いたまま八戒が低く呟く。思いがけない反応に悟浄はぐっと声を詰まらせた。しかしそれまで以上にぎらりと激しいほどの力を瞳に浮かべて続けた。
「それを恋愛感情って言うのか、俺は知らない。けど、吐きそうなほど欲しくて手に入れたくて、世界が何も見えなくなるような想いなら、知ってる。」
 低く低く押し殺すように掠れた声で言いながら、悟浄はゆっくりと立ち上がり八戒の元へ歩み寄る。その様子に気押されて、無意識に身を引いた八戒の肩を両手で掴むと、悟浄は顔が触れそうな至近距離で囁いた。
「三蔵に対する気持ちが恋だったというのなら、俺がおまえに抱いてるものは一体なんだと言うつもりだ?この身体の奥を締め上げるような気持ちを何と言うつもりだ。」
 悟浄の唇がわななく。泣き出すのかと思われるような顔をして悟浄は続ける。
「確かに俺は三蔵を抱いたよ。けれどそれにはおまえが考えてるような意味はなかったんだ。」
 肩が砕けてしまいそうなほど、悟浄に強く掴まれる痛みにも八戒は気づかなかった。ただ、目を見開いて、悟浄の言葉を受け止めるだけで精一杯だった。
「三蔵も俺のことなんか見ちゃいなかったよ。ヤツは自分の中の感情から目を逸らす為に俺を受入れたんだ。あれはその場しのぎの関係だって俺もヤツも解っていた。
 抱くとか抱かないとかそんなものよりもっと大事なものを、互いに持ってるのを承知の上だったのだから。―――だから、あれは、恋でも、愛でもなかった。」
 聞こえるか聞こえないかぎりぎりの低い声で悟浄は囁く。何と反応したらよいのか解らなくなってしまった八戒は、茫然と悟浄を見上げたまま黙りこんだ。
「―――言い訳にしか、聞こえないか?」
 息が止まりそうな沈黙の後、寂しそうに悟浄は呟いた。
 言葉に詰まった八戒に悟浄は片頬だけ歪ませるように笑うと、跡が付くほど掴んでいた手を肩から離して八戒の柔らかな髪をそっと撫ぜた。
「―――ごめんな。」
 悟浄はそう呟くとそのまま外へ続くドアを開けた。
 その向こうには、まだ夜明けには程遠い真の闇が広がっている。それが再び閉じられるのを八戒はなすすべもなく見送っていた。

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