悟浄の言葉が胸の中で浮かんでは消えていく。八戒の想像からあまりにも掛け離れていたその言葉は、ちゃんとした形をとることなくゆらゆらと八戒の中で渦巻いていた。
八戒は悟浄の真意をゆっくり辿る。
彼らの関係を昔のことだと思っている自分の心に嘘はない。お互いを苦しめた記憶は確かになくなることはないけれど、それで今の自分達の関係が壊れてしまうことはあり得ないと、二人で培って来た毎日のささやかな暮らしが何よりも強固だと思えるようになっていた。
そんな僕を悟浄はいつも、何も言わずに見守っていてくれた。
悟浄が抱えている辛い気持ちを僕は見過ごしていたというのに。
僕が彼の気持ちを理解出来ていないことに気づきながら、それを正そうとしなかったのは、全て僕のことだけを考えていてくれてた為なのだろう。
こうやって悟浄の気持ちを聞いてしまうのは辛くなかったと言えば嘘になる。確かに思い出したくないことも、実際思い出してしまった。―――けれど。
八戒は片手で顔を覆ってくっくっと嗤った。
いつだって僕は自分のことしか考えていなかった。
僕の中で片がついたから、それはもうすんだことにしたい。そんな酷い仕打ちを悟浄にしてしまった。
そんなふうに言ってしまったら、もう悟浄は何も口に出せなくなってしまうことくらい解りそうなものなのに。
自らを責める気持ちすら、僕は悟浄から奪ってしまった。
それでも悟浄は僕がいいならと、許してくれていたのに。
それなのに、彼は自分のためではなく結局何も解っていなかった僕の為に全てを話してくれた。
僕が辛い思いをしないように自分の痛みを隠し、そして誤解し続ける僕がこれ以上傷つかないように今更言いたくなかったことまで告げてくれる。
これ程まで愛されていて、僕は一体これ以上何を望むというのか。
震える肩が、嗚咽に変わる。
朝になれば悟浄は帰ってくるだろう。けれどそれを待つより、自分自身で彼を見つけだしたかった。
溢れてくる気持ちを押さえ切れずに八戒は立ち上がる。
壁の時計は夜明けに程近い時刻を指していた。
最後の一本を取り出して、悟浄は空になった煙草の箱をくしゃりと握り潰す。手掌の中のひしゃげた箱を見つめて悟浄は一つ溜め息を落とした。
―――八戒を置いてきてしまった。またろくでもないことを考えてるんじゃないかと、それだけが気になって仕方がなかった。
抱いて言い聞かせたら、たぶん八戒は納得しただろう。けど、それだけではきっと駄目なのだ。そのときは解り合えたと思っても、あいつはこっそりとわだかまりをいつまでも隠し持ってしまいそうだから。
ちゃんと言葉にしなければ伝わらないものも確かにあって、それを伝えたくて俺は八戒にあんなことを言い出したのに、結局途中でやめてしまった。
あれ以上言葉を重ねたら、伝わらない苛立ちを抱えて俺は力づくで言うことを聞かせようとしてしまったかも知れない。
あいつの納得するスピードで心を通わせたいのに、俺はいつもあいつを手に入れることを焦る余り急いでしまう。
だけど、今回だけは急ぎたくなかった。だから八戒を一人残してまで家を出てきたのに、今すぐこの手にあいつの体温を感じたくなる気持ちを押さえることができない。
焦る気持ちを落ち着かせようとして、悟浄は取り出したままになっていた煙草に火を点けた。
紫煙が黎明の空の下に漂う。夜明け前の真の闇が薄れてきたようだ。ぼんやりと東の空が白み始め、長い夜が明けようとしていた。
ふいに木々が途切れて視界が開けた。まだぼんやりとした薄闇の中、八戒は駆けてきた足をふと止めた。長安の下街を眼下に望む小高い丘の上に確かに人の気配を感じたのだ。何かに引かれるように一歩踏み出した八戒はその視線の先に求める人影を見つけた。
悟浄がこちらに背を向けて佇んでいた。
その背中があまりに寂しそうで、八戒は一瞬かける言葉を失った。吹き抜ける風が髪を浚うのにも気づかずに、八戒は悟浄の後ろ姿をじっと見つめていた。
―――悟浄。
声にならない声で、八戒はその名を呼ぶ。
自分に向けられるまなざしに気づいたかのように、ゆっくりと悟浄は振り返った。そこに八戒の姿を見つけて悟浄は僅かに驚いた顔をしたが、柔らかく目を細めて八戒に手を差し伸べた。
「どうしたんだ?よくここが解ったな。」
「――― ええ。なんとなく。」
止めていた息をほっと吐くと八戒はさりげない口調で答えて悟浄の元へ歩み寄った。
さわさわと朝の風が二人を掠めていく。風の音しかしない静寂のなかで、互いの温もりを感じられるほど肩を寄せて八戒は薄く笑った。
謝らなくては、という気持ちより、純粋に悟浄を好きだという想いで心の中が満たされていくのを感じながら、八戒は悟浄の顔をそっと見上げた。
「―――俺さ。」
八戒の視線に気がついて、悟浄は前を向いたままぽつりと語り出した。
「おまえのことをずっと前から一番大事だと思っていた。たぶんそう、血塗れのおまえを道で拾ったときから。いつの間にかおまえは空虚だった俺の心の中に住み着いて、はじめて俺がなくしたくないと思ったものになっていた。
おまえも俺を大事だと思ってくれているのは解っていた。―――けど。俺は馬鹿だったから。おまえだけは言葉なんかなくても、絶対だと思っていた。いなくなるわけないと思い込んでいたんだ。抱くとか抱かないとかそーゆーの全部越えたところでおまえは一番だった。だからおまえが誤解して俺から離れていこうとしていた時も、何故おまえが離れていってしまうのか俺にはさっぱり解らなかった。
俺にとっておまえは一番大事な存在であることにずっと変わりがなかったから。」
八戒は身じろぎもせずに悟浄の告白を聞いていた。
悟浄は自分の想いをはっきり言葉にするよりも本能でそれを知らしめようとするほうだったから、こうやってちゃんと口に出して言ってもらったのはたぶん初めてのことだった。
「おまえにとって俺は一番の存在じゃなかったのかと、離れていくお前をなじりたくなったこともあった。でも口に出すとそれが本当のことになってしまいそうで、俺は気づかない振りをしてしまったんだ。―――それがおまえの心をどれだけ傷つけるか考えもせずに」
苦渋の滲み出る悟浄のことばに八戒はかぶりを振って微笑んだ。
「あなたが僕のことを大事にしてくれていたことは解っていました。僕にとってもそうだったから。だけど僕はあなたの気持ちを疑ってしまった。特別だと思っていたのは僕だけで、あなたにとって僕は取るに足りない存在じゃないのかと疑って、僕は歪み始めていった。 僕があの時、僕自身の闇に捕らわれる前に、あなたから逃げ出さないでちゃんと前を向いて、自分の想いを口に出せていたら……。」
悟浄が振り返り、二人のまなざしが絡み合う。揺れながらも真っ直ぐな光を湛えた緑の瞳が愛しくて、悟浄は息をするのさえ忘れていた。
ふわりと、八戒が笑う。
「―――あの時、あんな回り道をしなくてもすんだのに。」
八戒の微笑みが胸を貫く。全部手に入れたと思っていても、まだ足りないと八戒を欲しがる自分がいるのを悟浄は感じていた。どれだけ身体を重ねて、穏やかな時間に包まれてさえいても、日毎身を焦がすような想いを抱えてこれからも俺は八戒を求め続けるだろう。 悟浄は不意に八戒を力一杯抱きよせた。
「八戒。八戒。」
名前を呼ぶことでしか溢れ出す気持ちを伝えられなくて、もどかしさの余り悟浄は八戒を抱く手に更に力を込める。八戒は口許に笑みを浮かべ、悟浄の想いに身を委ねるようにそっと腕をその背中に廻した。
「僕達はずっとこんなに近いところにいたのに。いつだって僕達はこうやって寄り添っていたのに。―――あの頃はそれに気がつくことが出来ませんでした。自分だけの苦しみに色々なものを見失っていたんですね……。」
幸せだ、と八戒は熱いものが溢れ出す胸の内でそう呟いた。全てが見えなくなってしまうほど大事なひとと時間と想いを共有して生きていける。この先もずっと。
自分の抱えた傷よりも、相手が味わう痛みのほうが痛い。痛みまで共有することは、それすらひどく幸せだった。
空の向こうが明るくなっていく。暁の光のなかで彼らは互いの顔を見合わせた。
「僕は甘やかされ過ぎですね。」
「解りゃあいいんだよ、ったく。」
二人の口からくすりと笑いが洩れる。
愛されているのだと、そして自分が愛していることを相手も充分理解してくれてるのだと、軽い口調の中に真実が潜む。―――だから。目を閉じて彼らはゆっくりとキスをした。 熱いものが身体中を満たしていく。それがなんと呼ばれるものなのか、二人にはもう解っていた。
抱きしめた肩ごしにまだ目覚めていない街が広がっていた。その向こうを太陽が昇っていく。
薄青の空が夏の終わりを物語る。こうやっていくつも季節は移っていくけれど、過ぎる季節の中変わらないものはこの手の中に確かに存在していて。
「夜が、明ける。」
背中を照らし出す太陽に気がついて空を振り仰いで囁いた悟浄に、八戒は小さく頷いた。
「―――ええ。帰りましょうか。」
八戒の声が心に響く。暁の丘の上に、一日の最初の光が降り注いでいた。
「とりあえずシャワー浴びたいなぁ。」
ぐっと伸びをしながら一人ごちた悟浄は、家のドアに手を掛けようとして隙間に挟まれた白いものに目を留めた。
「何だこれ。」
「手紙みたいですよ。」
一瞬早く、八戒が白い封筒に入った手紙を拾う。裏返したそれに「独角」とだけ記されているのを見て、彼らは思わず顔を見合わせた。
「―――忘れてた。ちっ、思い出したらまた腹がたってきたぜ。あの野郎、八戒に悪さしやがって。」
突然苦虫を噛み潰したような顔になって、悟浄はぶつぶつ呟いた。
「まあまあ。」
穏やかな苦笑を浮かべてたしなめると、八戒は器用に封筒を開けた。
「で、何て書いてあるんだ?」
まだ憮然とした顔を崩さず、それでも興味をかきたてられたようにひょいと悟浄は覗き込んだ。
それは短い手紙だった。
―――西に戻る。諦めるのはやめだ。
くすりと八戒は忍び笑いを洩らした。
「何かおかしいか?」
「いえ、さすがにあなたのお兄さんだと思って。まったくかっこいいったら。」
「何言ってやがる。俺のがカッコイイに決まってんだろ。」
くすくす笑う八戒を軽く小突いて、悟浄は胸をそびやかした。
「あー、はいはい。もちろん悟浄が一番格好いいですよ。」
「何だよ、その言い方。今から俺がどれだけカッコイイかちゃんと教えてやる。」
「別にいいですってば。ちゃんと解ってますから。」
拗ねた口ぶりで誘ってくる悟浄を、さらりとかわして八戒は家へ入っていく。
頭をぼりぼり掻きながらそれに付き従う悟浄はどかっと椅子に腰を掛けると、声のトーンを落として呟いた。
「―――兄貴と、ちゃんと話できなかったな。」
昨夜あんなに派手に喧嘩をしていたというのに、それをすっかり棚に上げたような悟浄の背中が妙にいじらしくて八戒は微笑った。
「きっと今度は出来ますよ。探し人を見つけたら独角はまた来てくれるでしょうから。」
「そうだな。―――俺、兄貴とゆっくり酒を飲んだことないんだわ。」
そう言って悟浄は肩を竦めた。
小さな吐息をつくと八戒は悟浄の側に歩み寄った。何?と言う顔をした悟浄を覗き込んで八戒は思う。
本当にあなたたち兄弟はよく似ている。なんやかんや言ってもまっすぐな強い心をいつだって失わずに、全てを受け入れる広い度量と前向きに生きる力を備えていて。
でも。隣にいるのが、悟浄でよかった。
くすりと再び笑うと、八戒は傍らの悟浄にそっと軽いキスをした。