月の明るい夜だった。宿の部屋の窓の外から覗く世界が、淡く光るのがガラス越しにも窺える。
牛魔王の城が崩壊した日から、はや一ヶ月が過ぎようとしていた。
そのとき受けた八戒の傷もそろそろ癒え始めており、緩やかに、しかし確実に時は刻まれていく。
その立居振る舞いから怪我人特有の不自然さが消えつつある八戒が、ごそごそと荷物を片付け始めたのを、ビール片手に悟浄はベッドに腰を掛けて目を細めて見つめた。
「もう怪我人って感じには見えねぇな。」
「ええ、もう重いもの持っても平気ですし。長時間運転しても大丈夫ですよ。」
八戒は悟浄を振り返ると、胸を貫いた危うく生命の危機をもたらしかけた風穴の跡をぽんぽんと手で叩いて見せた。
「僕の所為で、随分ゆっくりな旅になってしまいましたからね、明日からは僕がジープを運転させてもらいますよ。」
「バカ言うんじゃねーよ。もうしばらく俺と三蔵が交替で運転するから、おまえは黙って座ってりゃいいの。」
「だってあなた達の運転って、言っちゃ何ですけどかなり乱暴で、落ち着いて座ってなんかいられませんよ。どきどきしっぱなしで。」
八戒は昼間、ジープから転げ落ちそうになった悟空の姿を思い出し、くすくす笑い出す。
最近、以前と比べると八戒はよく笑うようになってきていた。
八戒がひどい怪我を負って以来、悟浄は必ず宿屋で八戒と同室になるよう取り計っていた。怪我の所為か疲れるとすぐ熱を出した八戒についていてやりたいから、と悟浄は周りに説明というか弁解をしたが、もちろん理由はそればかりではなかった。
悟浄はビールを枕許のテーブルに置くと、まだ肩を震わせて先刻の光景を思い出している八戒の隣に近づいた。
座れ、と言うように腰掛け代わりにベッドを顎で指し示した悟浄に従いながら、真面目な顔に戻った八戒は訝しそうに首をかしげた。
傍らに座った悟浄の赤い瞳がいやに真剣なのに気づいて、八戒はそっと身を離す。しかし一瞬早く、悟浄は浮かしかけた八戒の腰に手を廻して自分に引き寄せた。
バランスを崩して八戒はそのまま悟浄の胸に倒れ込む。
どくりと、どちらのものか定かではない鼓動が部屋の中に響いた。
「あ、あの」
八戒は珍しく慌てた声を出した。その声色に気づかない振りをして、悟浄は八戒を抱きよせる。
「 ──── 八戒。」
悟浄は八戒の耳元に唇を寄せて、低く名前を呼んだ。びくりとする八戒の身体に廻した手に更に力を込めると、悟浄は八戒の耳に軽くキスをした。
「ちょっ、悟浄、ま、待ってくだ」
悟浄の舌が耳介をなぞり柔らかく噛んでくる感触に、息を詰まらせた八戒の擦れた言葉は途中で宙に消えた。
「 ──── 抱いていい?」
直接脳の中に送りこまれてくるような熱い囁きに、八戒は過剰に反応した。悟浄の広い胸板を手で押し戻すと、背中を逸らして逃れようと身を捩る。
「やめてくださいっ、冗談にもほどがありますっ。」
「冗談か、そうじゃないか、解ってんだろ?」
更に奥まで侵入してこようとする熱い響きを、八戒は渾身の力をもって押し退けた。
はぁはぁと肩で息をつく。
「 ──── やめてくださいって、言ってるでしょう!」
怒りをその瞳に浮かべて、八戒は低く叫んだ。
「なんで?」
悟浄は立ち上がった八戒の手首を、それでも離そうとはせずに見上げた。
「 ─── なんでって言われても。隣の部屋には三蔵も悟空もいるんですよ?」
八戒の瞳の中に拒絶の光が踊るのを、悟浄は何も言わずにじっと見ていた。
しんとした室内では、繋がれた右手から鼓動の音さえも洩れていってしまいそうだ。
動揺した八戒が手を振り払おうとしたときだった。八戒の気持ちに気づいたのか、先に悟浄の方がぱっと手を離し、両手を上げて降参のポーズを取った。
「解った。とりあえず今日はやめとくわ。 ──── じゃ、おやすみ。」
悟浄は先刻までの真剣な様子の欠片も見せず、普段通りの飄々とした態度に瞬間的に戻って笑いかけた。
さっさと自分のベッドに潜り込んでしまった悟浄を、八戒は途方に暮れた顔をしてしばらく立ちつくして見つめていた。
どきどきした。悟浄の姿を追い続けてきたのは自分のほうなのに。いきなり立場が逆転して、追われるようになっただなんて、俄かには信じることができない。
信じるとか信じないとかの問題だけでもないけれど ─── 。
八戒はシーツを頭までかぶって、どくどく言う音が外に洩れないように息を潜めた。
──── 八戒の全身から拒絶の意志が感じられた。
何でもない顔をしてベッドに潜り込んだ悟浄の心にも、葛藤が身を食い荒らすような痛みをもたらしていた。
俺が手を触れる度、八戒はその身をびくりと硬くする。それがどれだけ俺を打ちのめすか、おまえは解っているのだろうか。
おまえの心を見失っていた時間を取り戻すには、一体どれだけの日々が必要だろう。
──── 八戒。
夜が深さを増していく。しんとした夜更けの中、突然がさりと物音がした。その音が何なのか、ぼんやりと物思いに耽っていた悟浄にはすぐにはピンとこなかった。
隣のベッドに眠っている八戒が遠慮がちに身を起こした音だとしばらくしてから気がついた悟浄は驚いて跳ね起きた。
「わっ、悟浄、どうしたんです?」
八戒のほうも悟浄は眠っていると思っていたらしい。びっくりした顔を悟浄に向けるとベッドから降りようとしていた足を止めた。
「どうしたって、おまえこそ。」
「あ、すみません。なんか寝つけなくて。」
自分のたてた物音で悟浄を起こしてしまったと八戒は思い、すまなそうに謝った。俯きがちなその口許に浮かぶ微笑みにふと切なげな気配が漂うのを感じて、悟浄の胸はズキリと痛んだ。
熱い衝動が湧き上がるのを押さえ切れず、悟浄は八戒の腰に腕を伸ばして、先刻よりも幾分乱暴に引き寄せる。
後ろから抱きすくめられた八戒は、言葉も失って立ちすくんだ。
静かな時間が流れていく。暗いままの部屋のなかで、ただ窓の外の皓々と明るい世界と互いの鼓動だけが、いやにはっきりと確かなものとして存在していた。
「しばらく、このままでいさせてくれ。」
低く掠れた声が八戒の耳元に届く。
八戒は返事をしなかった。息詰まるような沈黙がどこまでも続く。
背中から廻された腕に、八戒は手を伸ばそうとした。しかし微かに震えるその指は、熱を放つ悟浄の手に辿りつく前に躊躇うように宙を彷徨い、拳を握りしめてしばらくした後そっと降ろされた。
季節がゆっくりと移っていく。互いの心を互いの存在で埋めていくような日々を彼等は一つ一つ重ねていた。
「悟浄ー。もう何回言ったら解るんですか。やめなさいってば。」
「いーじゃん、別に。コミュニケーションだろ、これも。」
宿屋の一室で、最近日課になったような会話が交わされていた。悟浄は椅子に座る八戒をその背もたれごと抱きしめて、風呂上がりの髪の匂いを嗅いだ。
「まったく。口が減らないですね。」
憮然とした口調で、それでも俯き加減の八戒の口許にはふわりとした笑みが浮かんでいた。それは苦笑ともとれる類いのものではあったが、ツラそうな感じは受けなかった。
ここまでくるのにどれだけの夜を費やしたことか、そう悟浄は八戒の髪に顔をうずめながら心のなかで嘆息した。
「 ─── 八戒。」
「なんですか? ─── もうっ、ベタベタするのはやめてください。悟浄はモテるんだから下の酒場に行けば、選り取りみどりですよ?」
「バーカ。そんなんじゃねぇよ。そんなんじゃねぇったら。」
「はいはい。」
悟浄に抱きしめられたまま、八戒は大仰に肩をすくめた。
遠ざかっていた八戒の心に近づくために、悟浄は少しづつ距離を詰めていく。拒絶されるギリギリの処で引く。そんなことを毎晩続けるうちに、肩に手を廻されても、以前のような過剰な反応を八戒がすることはいつしか減ってきていた。
ただその代わり、悟浄の気持ちを本気に受け止めず、軽くあしらうようになってはいたのだが。
本気にしない、というのも一種の拒絶なんだろうけど。
悟浄は腕の中の体温を心地よく感じながら、胸の内で呟いた。
こいつが納得して、自分で答えを出すまで待つつもりだけど。
「僕、もう寝ますね。おやすみなさい。」
廻された腕をさらりと解いて立ち上がった八戒に、悟浄は慌てて言い募った。
「え?まだそんな時間じゃねーだろ。って、どっか具合悪いのかよ?」
「まさか。そんなことないですよ。ただ明日も早いですしね。山越えもあるし。じゃ。」
そう言って自分のベッドに潜り込もうとする八戒を、悟浄は今度は逃げられないように強く抱きとめた。
「いいかげん、しつこいですよ。」
「もうちょっとだけ。」
「 ──── もう。」
苦笑まじりの溜め息を再び八戒はつく。呆れた口調とはうらはらに、八戒は悟浄からは見えないように口許に笑みを浮かべると、そっと悟浄の胸に寄りかかった。
身を委ねてくるその重みが、夜を重ねる毎に増してくる。それが悟浄にはただ嬉しかった。
いや、頑なな姿も、ふとした隙に心の内を垣間見せるその表情もすべてが愛しかった。
──── 胸が痛むほど。
数刻後、隣のベッドから悟浄の規則正しい呼吸の音が続いているのを、八戒は真っ暗な部屋のなかで目を開けたままじっと聞いていた。
悟浄は僕を愛してると告げてくれた。何も返事のできない僕を問いつめる訳でもなく、無理強いすることもなく、悟浄はただ笑ってくれる。
コミュニケーションだスキンシップだと言って触れてくるわりに、僕が自分から心を開くときを、いつまでも何も言わずに悟浄は待っていてくれる。けれど。
僕はまだ、その一歩を踏み出すことができない。
悟浄は僕を想ってくれている。あの視線が常に背中に注がれているのも解っているけど。
これまで自分が抱いてきた悟浄への想いは深すぎて、そんなに簡単に彼の心を受け入れられないほど、僕の心は歪んでしまった。
今、悟浄が本気なのは、解る。けど、明日や明後日はどうなのだろう。
いつか無くなってしまうものかも知れないと、僕の心の奥で密やかに囁く声がする。
想っているだけならその心は消えていくこともないだろう。けれど相手から与えられる心はその存在を確かめる術もなく、あまりにも不確かなものだから。
怖いのだ。 ──── 手に入れたあと、再び悟浄の心を喪うことがあったら、今度こそ僕は壊れてしまうだろう。
──── こんなに愛しているのに。なくしてしまっては生きていけないのに。
自分からその手を振り払う僕は、愚かだろうか。
もう少しだけ、僕に、強さをください。どうか。
夜は更けていく。新しい夜明けをその闇に内包しながら。
長安へ向かって、ジープは東へ東へと駆け抜けていく。高く澄み渡る青空の下、ジープのたてる粉塵がもうもうと湧き上がる。
八戒は軽快なリズムでジープを楽しそうに走らせていた。
「八戒!もう少し優しく運転してよ。げほっ、こんな砂埃立てちゃあ、ムセるって。」
激しく咳き込みながら、悟空は八戒に訴えた。
「最近、乾燥してますからねぇ。少しスピード落としましょうか。」
「え、そんなことしたら街に着くの、遅くなっちゃうじゃん。それは困るって!」
ムクれた悟空の鼻先を悟浄はピンと指先で弾いた。
「お前、言ってることムチャクチャすぎ。我儘言うのも大概にしとけよ?」
「痛っ!あにすんだよ!」
走り続けるジープの後部座席で、悟空は器用にバランスを取りながら立ち上がった。
「おまえら、静かにしろ!うるせーんだよ。」
「ごっ、ごめん!」
悟空は不機嫌そうな三蔵の怒鳴り声を浴びて、身を縮めてシュンとした。
「だって、三蔵、さっき昼飯んとき、ちょっと熱っぽかったじゃん。だから。」
は?と驚いた顔で悟浄は八戒に「知ってたか」と目線で問うた。
キキーッとブレーキの音を立て、八戒はジープを止める。振り払おうとする三蔵をかわして、八戒はその額に手を当てた。
「本当に熱、出てますね。」
そっぽを向く三蔵に八戒は肩をすくめた。
「どうします?今から少し休んでもいいですけど、それより早く宿屋でゆっくりしたほうがいいですか?」
「別に構うことねぇよ。」
顔を背けたまま憮然とした声を出す三蔵に八戒ら三人は顔を見合わせた。
「 ─── じゃ、急いで街に向かうってことで。」
八戒はそう言って、再びアクセルを踏みこんだ。
ジープが街にたどり着いたのは、夕暮れが訪れるにはまだ随分間がある頃合だった。
手を貸そうとする悟空をピシャリと撥ね除けて、三蔵は幾分ふらふらしながらも自分で部屋まで歩いていく。その背中を、悟空は心配そうに見守った。
彼らに声を掛けようとした八戒の肩を叩いて悟浄は何も言わずににやりと笑うと、「ほっとけ」と言わんばかりに首を振った。
「今のうちに買い出しに出かけようぜ。どうせ悟空がついてるだろ。」
「そうですね、薬も補充しといた方がいいでしょうし。」
まだ心配気な顔を浮かべながら、八戒は悟浄に促されるまま市場の方へ歩き出した。 三蔵は口では平気な振りをしていてもやはり無理をしていたのだろう、彼は結局、部屋へ着くなりベッドへ倒れ込んだ。
「起こすんじゃねぇぞ。いいか、騒いだらブッ殺すからな。」
と、言い置いた三蔵の言葉に従って、悟空は枕許でじっとしていた。
日がとっぷり暮れ落ちて、階下の食堂からいい匂いが漂ってくるのにも反応せず、悟空は三蔵の顔を眺めていた。
こんこんと眠る三蔵の頬に睫毛の影が落ちる。
「悟空、入りますよ。」
控え目なノックと共に、八戒がドアの外から声を掛けてくる。
「どうですか?」
「ん、別に眠ってるだけ。」
素っ気なく答える悟空に、八戒はふと笑みをこぼした。
「悟空の分、夕食を持ってきたんですけど、食べますか?」
盆を片手に尋ねる八戒を振り返って、悟空は目を輝かせた。
「サンキュー!腹、減ってたんだ。けど、ここから離れるのもヤダったし。」
卓の上に広げられた食事を口一杯にほおばる悟空に、八戒はお茶を煎れてやりながら、自分も椅子に腰かけた。
「八戒は?食べないの?」
「僕と悟浄は食堂で済ませますから、それ全部悟空が食べていいですよ。」
「本当?」
ばくばくと無心に食べる悟空に柔らかく笑った八戒は、ふとベッドに横たわる三蔵の姿に視線を向けた。
三蔵は苦しげな様子も無く、他人の気配に気づきもせずひたすら眠っていた。
横を向いた八戒につられるように、悟空も食べるのを中断して三蔵を振り返る。
「そんなに具合悪そうでもないですね。ま、とりあえず目を覚ましたらこの薬を飲ませてください。
──── 明日は普通に出発できそうですね。どうします?悟空、今晩ずっとついてますか?」
「うん、そうする。」
言葉少なに答える悟空の横顔を、八戒は真摯な顔つきでじっと見つめた。
「 ──── 悟空は本当に三蔵が絶対なんですね。」
「絶対?」
「存在理由ってことですよ。」
怪訝そうな顔をする悟空に八戒は言葉を選んで答えたが、それは更に悟空の理解を超えていたようだった。
「じゃ、悟空は三蔵のことどう思ってるんですか?」
悟空は三蔵を見つめたまま答えた。
「大事っていうのかなぁ、こーいうの。」
ぼそっと呟く悟空の言葉を八戒は聞きとがめた。
「悟空が三蔵のこと大事にしてるのは、僕にも解りますよ。」
「 ──── 三蔵の側にずっといたいと思うよ。っていうか隣にいるのが普通って感じ。確かに三蔵は俺のこと邪険にするけど。でも。」
「でも?」
「三蔵がなんかしてくれるから側にいたい訳じゃなくて、そーゆーのって俺がそうしたいからしてるだけじゃん。よく解んねーけど、そーゆーこと。」
悟空の瞳には強い光が宿っていた。不器用で、しかしまっすぐなその心が瞳から覗く。
愛してくれるから側にいるとかじゃなく、自分がどうしたいかが大事何じゃないの?
悟空の瞳がそう言っているように八戒には思われた。悟空は自分の気持ちを言葉にすることが苦手だから、本当はそこまでは自分でも解っていなかったかもしれない。
ただ、八戒には悟空自身ですらまだ気づいてない想いが、見えたような気がしていた。
三蔵の起きる気配はない。黙ったまましばらくじっと三蔵を見つめていた悟空は、おもむろに夕食を再開し始めた。
「これ、ウメーな。ねぇ、後でシューマイおかわり持ってきて。」
自分が作り出した雰囲気をぶち壊すような声を上げた悟空に、八戒は苦笑して頷いた。
立ち上がってドアへ向かった八戒は眠り続ける三蔵を振り返る。
その瞳にふと浮かんだ拭い切れない痛みを見た者は誰もいなかった。
旅は続く。行きと違って妨害の少ない帰路は旅程を大幅に短縮させていたが、それでもそんなに簡単には長安にたどり着くことはなかった。
八戒は相変わらず悟浄の気持ちをかわし続け、悟浄はそんな八戒に無理強いしようとは決してしなかった。
緊張感の減った運転は、その分要らぬ思考に意識を傾かせていく。
八戒は考え続けていた。悟浄のこと。三蔵のこと。悟空のこと。これまでの自分のこと。
─── そして、これからの自分のこと。
答えの糸口が浮かんでは消えていく。掴んだと思っても、それはいつも形になる前に意識の隅に紛れていってしまう。
しかしそれは苦痛ではなかった。思考の淵に沈んでいても、以前とは何か違う。自分自身を傷つけ続けた日々にはなかったものが、八戒の中に芽生え始めていた。
そんな八戒の姿を悟浄はひっそりと見守り続けていた。眠りこけている悟空の隣で、ドアに肘を掛け自分も眠っている振りをして、悟浄は口の端に笑みを浮かべた。
八戒の中には整理しきれてない、けどそれをなんとかしなきゃこれ以上前に進めない複雑なものがあることぐらい俺にだって解る。
──── いや、八戒が俺に抱いている気持ちだって解ってるつもりだ。
八戒は変わってきてる。変わろうとしている。あいつは自分で出した答えじゃなけりゃ納得しないから、変わろうとしているあいつを信じて俺は待っているしかない。
俺に身を預けるあいつの重さが、夜ごとに増してくる。その意味に答えを出す日はもう遠くないはずだから。
悟浄は離れていった八戒の心を、再び取り戻す日が近いことを確信していた。
ある晩のことだった。夕食後、八戒はふらりと宿屋から姿を消した。悟浄が気がついたときには既に八戒の気配は欠片もなく、悟浄は内心焦りながら宿屋の中を捜し始めた。
三蔵と悟空の部屋も、食堂も風呂場も宿屋の主人の処までも調べて、やはり宿の外に出かけて行ったらしいと結論を出すにはそんなに長い時間は掛からなかった。
八戒が牛魔王の城の闘いで怪我を負って以来、悟浄は八戒を一刻足りとも手元から離したがらず、いつも目の届く範囲に置いておきたがっていることを八戒も気がついていた。その悟浄の無言の要求に従っていた八戒が、何も言わずに姿を消すことは久しくなかった。
悟浄の胸の内に、八戒を失ったと思った時の衝動が甦ってくる。八戒の不在がもたらす焦躁感に耐え切れず、悟浄は八戒を捜しに外へ飛び出していった。
宿の外に広がるのは人影の絶えた夜更けの通りだった。街の中心からは少し離れた処にあるその宿の周りは竹林に覆われていて、ざわざわと煩い程の葉ずれの音が気配を辿ることさえ不可能なものにしていた。
走り出そうとした悟浄は、ふと我に返って立ち止まる。
信じて待つって決めたのは俺自身なのに。俺があいつを疑ったら、誰があいつのこと信じてやるんだ。
悟浄は拳を握りしめた。湧き上がる不安を押し殺して歯を食いしばると、悟浄は自分の弱さを振り払うように部屋に戻っていった。
夜が更けていく。風はますます強くなるばかりで、ざわざわという音が耳について、否応なく悟浄の心を掻き乱した。
隣室の三蔵と悟空は既に眠りについているようで、しんとしたまま物音一つ聞こえてこない。
窓枠にもたれかかって、ぬるくなったビールを飲み干した悟浄が密かな足音を聞いたのは、もう月がかなり傾く頃だった。ガチャリとノブが回され、足音を消して人影が入ってくる。
「 ──── 悟浄、起きてたんですか?」
その人影は八戒だった。八戒は驚いたように、それでも声を潜めて問いかけた。
「たりめーだろ。どこ行ってたんだ、こんな時間まで。」
その声に微かに滲む怒りが心配からもたらされたものだと気がついて、八戒は申し訳なさそうに身をすくめた。
「すみません。ちょっと散歩のつもりがぼんやりしてしまって。」
「いいけど、散歩なら散歩ってひとこと言ってから出かけろよ。いいな。」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに悟浄はそう言うと、自分のベッドにもぐりこもうとした。
「待って、悟浄。話があるんです。」
慌てて止めた八戒は、怪訝そうな悟浄の顔を見て言葉に詰まった。
「 ──── あ、もう今日は遅いですよね。また今度にします。」
「いや、今、聞きたい。言ってみな。」
悟浄は内心の動揺を隠しながら、平静な顔を崩さないよう努めてベッドに腰かけた。
「 ─── 長安に戻ってからのことなんですが。」
八戒は低く言い始めた。しかし、何か躊躇する顔を見せて、一旦口をつぐむ。
悟浄は八戒を真っ直ぐ見つめたまま、相づちも打たずにじっとしていた。その瞳に自分をすべて受け入れてくれる覚悟が見え隠れするのに気がついて、八戒は沈黙を破った。
「僕、塾を開きたいんです。子どもを教える塾を。」
真剣な声色に、悟浄はこのことが昨日今日思いついたものではないことに気がついた。一方で、バカな、と思う気持ちも悟浄の胸に湧き上がってくる。
塾っつーのは、八戒にとって忌むべきキーワードの一つだったはずだ。姉貴の無残な思い出に繋がるもののはず。それなのに、何故だ。
「いーんじゃねーの。 ───でも、なんで?」
さりげない口調で悟浄は尋ねた。
「何から言ったらいいのか、よく解らないんですが。 ──── いろいろと僕、この旅の間中考え続けてきました。
出会ったひとのこと、起こった出来事について。本当にいろいろと。 ─── 今まで生きてきた僕と、これからのこととか。」
八戒は再び口を閉ざした。
「で、思ったんです。この先に進もうと思うなら、これまでの自分を否定するんじゃなくそれを認めていくことから始めなきゃいけないんじゃないかって。」
悟浄は胸が熱くなるのを感じた。八戒がいろいろ考えこんでいたことは知っている。
ずっと待っていた、自分から変わろうとしている八戒が目の前にいる。
悟浄の口許にふっと笑みがこぼれる。
「で?」
「 ──── 花喃のことはやはり思い出せばつらいし、そのために犯した罪は消えやしないですけど、僕が八戒としてあなたに会う為に必要な代償だったのならしかたないと、今は思えます。」
八戒のまなざしは透き通ったままだ。低くしっかりとした声が部屋の中に響く。
「代償とか、そういう言い方やめろよ。」
「 ──── すみません。じゃあ。」
しんとした一瞬が二人の間をすりぬける。
「じゃあ、もっとちゃんと言います。 ──── 罪とか苦しみとかより、今は。
────── あなたと会えたことのほうが重要です。」
悟浄は胸が踊るのを痛いほど感じていた。
「 ─── 八戒。」
悟浄の声がかすれる。
「あなたが甘やかしてくれることにずっと逃げていました。でも逃げてばかりじゃいられないから。これがあなたへの返事です。
あなたとずっと一緒に生きていきたいと、そう思っています。そのためになら僕はどんな犠牲も厭わない。」
「 ─── 八戒。」
ふらりと悟浄は八戒へ歩み寄った。深い湖底のような瞳の中に自分の姿が映る。
次の瞬間、悟浄は八戒の背中を折れんばかりに強く抱きしめた。それに答えようと八戒もその背中にしっかりと腕を廻す。
「八戒。八戒。」
何度も悟浄は愛しい名を呼び続けた。肩口に顔を埋めたまま、八戒はうっとりと微笑う。
「 ─── 悟浄、すみません。まだ話には続きがあるんですが。」
抱き合ったまま、八戒は呟いた。
「解った。言えよ、おまえが考えてたこと、全部。」
「全部って、それはまだ無理です。ゆっくりでも、ひとつづつ伝えてきますから。」
「そっか、解った ── で?」
続きを促された八戒は、一息置くと再び話し出した。
「僕は教師という仕事を、一度は投げ出しました。始めて僕が得たちゃんとした仕事でしたが、別に元々それがやりたかったわけじゃなくて。元来僕は子供に愛情を注いで導いてくなんてガラじゃない。というより、他人なんかこれっぽっちも大切に想ったことのないエゴイストだった。
───── 花喃のことだって、一個の人間として本当に彼女を愛していたのか、今となってはもう解りません。僕は、醜い人間だった。」
「醜くなんかねぇよ。」
「それは、あなたがその頃の僕を知らないから。」
怒った口調の悟浄に八戒は薄く嗤った。しかしその皮肉気な笑みはすぐに消え、再び八戒は真剣な顔つきに戻った。
「 ──── 僕はいろいろなものを失って、代わりにそれ以上のものを得た。得たものは大きかったけれど、やはり僕は僕と同じ轍を踏む人間を見たくない。
欠陥だらけの僕だからこそ、伝えられるものがあるはずだと思うんです。
ガラじゃないのは解ってます。僕は大した存在じゃない。でもそうやって生きることが今まで僕が犯した過ちを、無駄にしないですむ生き方なんじゃないかって思ったんです。 ──── 過去を越えるというのは、忘れることなんかじゃないんですね。」
「おまえ、スゲーわ。」
悟浄は息を呑むと、八戒の髪に顔を埋めて愛しそうに呟いた。
「すごくなんかないです。今まで放りっぱなしにしてきたことの、ツケを払ってるだけなんですから。」
「ばーか。俺がスゲーって言ったらスゲーの。」
ふふふと八戒はくすぐったそうに笑った。
「あなたに愛されるだけじゃなくて、あなたの隣で歩いていくのにふさわしい存在に、どうしたらなれるかってずっと考えてきたんです。
──── もっと、強くなりますから。もう少しだけ待っててください。」
「ん、解った。俺もおまえにゃ負けられねぇよ。 ──── 他になんか言うことある?」
「いえ、今日はこれだけです。これが僕の今の精一杯です。」
「そうか、じゃあ ─── 。」
ふぅっと息をついて目をつむった八戒の顎を悟浄はぐっと持ち上げると、これまで押さえてきた想いをぶつけるような激しいキスをした。
脳天が白く痺れるようなキスだった。がくりと膝の崩れかかった八戒の腰を抱きよせ、悟浄は八戒をベッドにそっと横たえた。
「んっ、待って。それはちょっと待ってください。」
艶かしく目許を赤く染めた八戒が、制止の叫びをあげる。
「何を待つってんだ、おまえ。」
八戒の首筋に舌を這わせたまま、悟浄は待つ気配もなく返事をした。
「隣に三蔵と悟空がいるんですよ?僕そんなの嫌ですってば。」
「何言ってるんだ。それ前にも聞いた。そんな建て前聞く気ねぇよ。」
「建て前なんかじゃないですよ。絶っ対に嫌ですからっ」
八戒の口調に断固とした拒否が混じる。強気の八戒にはまったく逆らえないことを、今更のように悟浄は思い出した。
「おいっ、ちょっとマジかよ?」
悟浄の声に焦りがみえる。
「本気ですよ。 ──── 長安はもうすぐですよ。それまで僕に猶予をくれたっていいでしょう?」
「って、おいっ。まだ長安なんてずっと先じゃねぇか!八戒っ、おい、気を変えろよ。」
「同じベッドで寝るくらいならいいですよ。何もしないならですけど。」
楽しそうに八戒はくっくと肩を震わせて笑う。悟浄の勝ち目はまるきりなさそうだった