それからしばらくが過ぎて季節が移り変わる頃、彼らはようやく長安に辿り着いた。

斜陽殿の三仏神の元へ報告に向かう三蔵と、それについて行った悟空と寺院の前で別れた悟浄と八戒は、「さて」と道端で息をついた。
「これでやっと御役御免かぁ。長かったなぁ。」
手を頭の後ろで組みながらぶつぶつ言う悟浄を、八戒は見上げた。
「 ──── 本当ですね。でも僕にとっていい経験でしたよ、この旅は。」
うっすらと笑って答える八戒の瞳に影はない。
「さて、これからどうします?」
「だな、まず今日中に住むとこ決めてーよな。」
八戒はこくりと頷くと思案気な顔をして答えた。
「僕、離れのある家がいいんですけど。」
「は?別々に住むのか?」
唖然とする悟浄に、思わず八戒はぷっと吹き出した。
「悟浄がそうしたいのなら、僕は構いませんけどね。僕の言ってるのは教場のことですよ」
「あ、なるほどね。 ──── ったく、ヘンな言い方するんじゃねーよ。」
「勝手に勘違いしといて変も何もないでしょう?」
笑う八戒の肩を悟浄は肘で小突いた。
「さ、とりあえず当たってみようぜ。」


三件目の不動産屋で条件に合う物件を見つけた彼らは、店の主人の案内でそこから程近いところにあるその借家まで歩いて行った。
そこは長安の下街で、繁華街から少し離れている為、けたたましい喧噪が響くわけでもない住み易そうな感じの通りにあった。
腰までの低い木戸を開けると植え込みのある小さな前庭が広がり、左手には条件通りのこじんまりとした離れが見えた。
「中、入ってよく見てくださいな。結構いい物件だと思いますよ。前の借り主が少し家具も残していったんで、それも使って貰って構いませんし。」
「ふーん。前の借り主ってどんな奴だったんだ?これだけの大きさの家でこんだけの家賃っちゃあ結構安いと思うけど、なんか事件があったりしたとかそーゆー訳?」
「違いますって!」
主人は慌てたように声をあげた。
「偏屈なじいさんが一人で住んでたんですけど、ある日ふっと姿を消しましてね。この界隈中知らない人はいないってくらい有名な変わり者で、怪しい実験をしてるとか何とか噂がたったりしてなかなか借り手がつかなくなっちゃって。唯の偏屈者なんですけどねぇ。」
ほう、と溜め息をついた主人の言葉に偽りはないようだった。
まぁ実験やらなんやらが本当だったとしても、別に気にならねーし。
悟浄はそうひとりごちると、丁寧に室内を見て回っていた八戒にのんびりと声をかけた。
「ふーん。だって。 ───── どうする?」
「いいと思います。僕は気に入りましたけど、悟浄はどうですか?」
「ん。おまえが気に入ったんなら、俺はかまわねーよ。 ──── じゃ、決まりだな。」



「結構あっさり決まりましたね。」
「だな。本当はまた、しばらく宿屋暮しかと思ってたんだけどな。」
手短に契約を済ました八戒は、店の主人から預かった鍵をぶらぶらともてあそんでいた悟浄に声をかけた。
「まだ日が暮れるまでには間があるし、当座必要なものだけでも見に行きませんか?」
「そうだな。晩メシはどーする?」
「簡単なものでも作りますよ。」
二人は他愛のない話をしながら、日の傾き始めた街角を歩いていく。乾いた土を巻き上げながら走り去っていく子供達の後ろ姿を目で追う八戒を、悟浄はふっと笑った。
「で、何がいるんだっけ?」
「え?あ、そうですね。食器と布団と、あと……。」
考えこむ八戒に悟浄はさり気なく尋ねた。
「ベッドは一つでよかったよな。」

八戒は言葉に詰まった。僅かな沈黙の後、吐息と共にその口許に微笑がこぼれる。
「 ──── ええ。」
その返事は柔らかかった。




涼やかな風が、開け放した窓から吹き抜けていく。
八戒は夕暮れに染まるがらんとした室内に、一人佇んでいた。
買い出しから一度は二人で帰ってきたものの、箸を買い忘れたことに気がついて悟浄は再び市場に戻って行ったのだ。
窓の外から遊び足りない子供達の声が聞こえてくる。
うつむく八戒の頬にオレンジの陽光が溶けて、睫毛の影を深く落とす。まだ明かりを灯していない部屋のそこかしこに影が落ちる。

奇妙に静かな時間だった。

八戒はぼんやりと、昔、花喃と暮し始めた頃のことを思い出していた。
溶ける陽光の中に、振り返って笑う花喃の姿が見える。

あの頃、僕はこの先ずっと、君と二人で過ごす時間が続くと思っていた。それはもう言っても仕方のないことだけれど。
今度こそ、この生活がずっと続くと信じたいんだ。
悟浄の心がいつか離れていくことがあったら。僕を残して彼が先に死んでしまったら。
そう考えると、彼の手を迂闊に取ることはできなかった。手に入れた後で彼をなくしてしまうことを、僕は恐れていた。
けれど、いつかなくすのも、今彼の手を振り払うのも、もう同じ痛みしかもたらさないことに気がついたんだ。
もう引き返せない処まで僕達は来てしまった。
僕の愚かさのために、未来を閉ざすことは、もうやめようと思う。なくせないものなら手放さなければいい。
自分の力を信じるところから始めてみたいと思ったんだ。

───── 許してくれるかい、花喃?

八戒の頬に一筋の涙が零れる。
午後の最後の陽光の残滓がそれをきらりと煌めかせて、雫を散らした。



悟浄は市場からの帰り、ふと思い立って寺院まで足を延ばした。門番の僧に案内を請うと、その年若い僧はびくびくと及び腰ながら、案外すんなりと三蔵の元へとりなしてくれた。
こんな下っ端にまでもう面が割れてんのかねぇ。
悟浄はにやにやしながら、煙草に火を点けようとした。しかしさすがにそれは御法度だったようで、案内の僧にぎろりと睨まれて悟浄は慌てて火を消した。

「よっ、三蔵。元気か?珍しー、バカザルいねぇじゃん。」
明るい声をかけて入ってくる悟浄の姿を見て、三蔵は露骨に嫌そうな顔をして片手で顔を覆った。
「元気か?じゃねぇよ。朝、ここに着いたばかりだろーが。」
「いや、今までの自由気儘な暮らしから、またこんなトコに戻ってきちゃって息詰まってるだろーって思ってさ。はい、差し入れ。」
悟浄は深緑色の酒瓶を三蔵に向かって投げた。
「で、何の用だ?」
「ああ、新しい家が決まったんで、一応知らせとこうと思って。はい、これ住所。」
「別にお前らがどこに住もうと知ったこっちゃない。」
煩そうに髪を掻きあげて、三蔵は夕日に目を細めながら煙草に火を着けた。
「 ─── で?話はそれだけか?」
「冷たい言い草だねぇ。はいはい帰りますよ。」
手をひらひらさせて出て行こうとした悟浄の足がふと止まる。
そしてさりげない口調で、ここを訪れた本当の理由を話しはじめた。
「なんかさー、八戒ってなんやかんや言ってちゃんと考えててさあ。これからどうするかとかいろいろ決めてあったりして。 ──── なーんか八戒にエラそうなこと言う割に、俺のほうがいいかげんだなーとか思ったりして。」
愚痴る悟浄の声に一抹の寂しさが混じる。
もちろん、八戒への気持ちにいいかげんなつもりはまったくない。けれども生きることに対して、これまでいいかげんというか刹那的だったのは自分でも否めなかった。
八戒は俺にふさわしくなりたいと言ってくれた。俺もあいつに恥じないような生き方がしたい。
黙りこんだ悟浄に、三蔵は「だから何だ」と言いたげな視線を向けた。それに気づいて悟浄はいつもの飄々とした態度を取り戻した。
「やっぱ、賭事で生活すんのはいい加減やめたいしなーって思ってさ。八戒が塾開いて、教師になるって言ってんのに、それじゃ俺ヒモみてーじゃん」
くっくっと笑って本心を誤魔化す悟浄に、三蔵は付き合いきれないといった顔をした。
「わかった、よーするに暇なんだな。じゃ、俺の仕事に付き合え。」
「は?旅なんてもう嫌だぜ?ここに腰、落ち着けるんだからよ。」
「そんなんじゃねぇよ。ったく、今日戻ってきたばっかで三仏神の奴ら、もう次の仕事言いつけやがったんだよ。人使いが荒いのにも程がある。」
「だから一体何をしろってゆーの、俺に。」
ぶつぶつ言う三蔵に、悟浄は胡乱げな顔をして尋ねた。
「一度バランスの崩れた桃源郷は、牛魔王を倒しても完全には元に戻らなかった。妖怪がらみの事件や、ほら、前に会った一座みたいな闇の生きもの達が引き起こす事件は、水面下で多発している。それを片付けろだと。」
「ふーん、御苦労なことで。ってそれを俺にやらせようっていうのか?」
慌てて尋ねる悟浄に三蔵はフンと鼻を鳴らした。
「お前、今ヒモは嫌だとかぬかしてたじゃねぇか。どーせろくな仕事は勤まらないんだ。紹介してもらえるだけありがたいと思えよ。まあ、長安に事務所構えることになってるし、桃源郷全土に行けとは言われないとは思うがな。」
「あっそ。はいはい、解っりましたー。ふらふらしてるよりマシだしな。やりゃあいいんだろ、ったく。」
まんまと引っかかった自分が悔しくて、悟浄はそう言い捨てると乱暴に煙草の火を点けた。




「ただいまー。」
そう言って悟浄が戻ってきたのは、もうすっかり日も暮れ落ちた後だった。
「あ、おかえりなさい。御飯できてますよ。」
買ってきたばかりの皿を並べていた八戒は、顔をあげるとにっこり笑って悟浄に答えた。
「箸、買いに行くだけに、どれだけ時間かかってるんですか。心配しましたよ。道に迷ってるんじゃないかって。」
「子どもじゃねぇっての。」
口では毒づきながら、そこには温かい空気が満ちていた。食事の支度をする八戒の背中を、悟浄は目を細めて見つめる。


以前、二人で暮していた頃と、同じであって、全く違う暮らしが今日から始まる。
自分の背に注がれる暖かい視線を感じて、八戒の口がほころんだ。
「もう、ぼんやりしてないで。手伝ってくださいってば。」
「へいへい。」
怖い顔を作ってたしなめる八戒に、悟浄は嬉しそうに答えた。
八戒の作った夕食は、取り合えずのものとは思えないほど美味かった。がつがつと悟空のように無心に食べる悟浄を、八戒は呆れたように見つめていた。
「 ──── そうだ。俺、仕事見つけてきた。」
食べながらいきなり無造作に告げた悟浄に、八戒は首をかしげて不思議そうな顔をした。
「それで帰りが遅かったんですか?」
「まーね。」
食事の手を止めずに、悟浄は続ける。
「近くまで行ったんでさ、三蔵とこ寄ってここの住所知らせてきたんだわ。そしたらなんでか、あいつの仕事手伝わさせられることになっちまって。化け物退治の請け負いみたいな仕事だけど。」
八戒は箸を止めた。
何故、三蔵が悟浄を誘うのだろう。このひと達の関係はもう終わったことだと思っていたのに。それは僕の思い違いだったのだろうか。三蔵はまだ、ふっきれてなかったとしたら?
長安に戻る道程の中、知りたくて知りたくて、それでも聞けなかった疑問が再び頭をもたげてくる。
真剣な顔になった八戒を見咎めて、悟浄は「何?」という顔をした。
悟浄の表情になんら、やましい処はない。
「 ─── そうですか。」
そう答える八戒の声に微妙な硬さを感じて、悟浄も箸を置いた。
「どうした?変な顔して。」
「 ─── いえ、別に何でもありませんよ。」
最近は影を潜めるようになってきていたよそよそしい物言いに、悟浄はむっとするのを隠せなかった。
「 ─── 俺、その言い方、嫌い。すげー腹たつ。」
「そんなこと言われても、これが僕の地なんですし。大体、そんなこと悟浄には関係ないじゃないですか。」
髪をかきあげて、上目遣いでねめつけてくる悟浄の視線から逃れようとして、八戒は顔を背けた。吐き出されたその声色に、ひそやかな苛立ちが混じる。
悟浄は一瞬ひるんだが、息を吸いこむと、更に顔を紅潮させ声を荒げた。
「何突っ掛かってんだ。 ─── 関係ねぇって、マジで言ってんのかよ。」
「そうです、って言わせたいんですか?」
ガタンッと音を立てて椅子が倒れるのにも気づかずに八戒は立ち上がった。
つられて立ち上がった悟浄の赤い瞳を見据えて、八戒は顔を歪めた。
言いたいことは、こんなことじゃないのに。

痛みを堪えるような表情の八戒を見て、悟浄は口ごもった。
「 ──── なんて顔、してんだよ。」
八戒は握りしめていた拳を何度かわななかせると、すがるように自分の胸元をぐっと掴んだ。
至近距離で視線がぶつかりあう。
息詰まるような時間の後だった。八戒の手が悟浄へと差し伸べられ、微かに揺れる白い指が傷の残る頬に触れた次の瞬間、八戒は唇を悟浄に押しつけた。


言葉にできないものが溢れ出してくるようなキスに悟浄は息を呑んだ。
しかし、呆気に取られたのはほんの僅かな時間だった。接吻けを交わしたまま笑みを浮かべた悟浄は、八戒の背中に腕を回して、その細い腰を抱き寄せる。
悟浄の腕を感じて、八戒は力任せに押しつけていた唇をゆっくりと離した。
どちらが漏らしたのか定かではない吐息が絡みあう。
それは、八戒から求めてきた初めてのキスだった。

無我夢中になって悟浄は八戒の濡れた唇を貪った。熱い舌が互いの熱を更に煽っていく。

「ひとがせっかくなけなしの自制心、総動員してんのに、そんなことしたら押さえが効かなくなるじゃねぇか。」
ひとしきり互いを確かめあった後、悟浄は八戒の頬を両手に挟んで唇をついばみながら囁いた。
「 ──── 自制しなくても、いいですよ。」
悟浄のキスを受けながら、八戒はようやく身体から力を抜いた。恥じらうように俯いた八戒が淡い花びらのように微笑う。
「後で取り消しは無効だからな。」
悟浄は八戒を抱く腕に更に力を込めて、嬉しそうにくっくっと笑った。


悟浄の髪がさらりと音をたてて、八戒の顔に溢れる。それを払いのけてやりながら、悟浄は八戒を白いシーツにそっと横たえた。
ぎしりとベッドの軋む音が、物音のしない部屋に響く。
瞳を閉じて顔を背けた八戒の首筋が、誘うように白く浮かび上がる。目を閉じていても執拗な悟浄の視線を感じて、八戒は落ちつかなげに身じろぎした。
ゆっくりと耳の後ろから首筋へと辿っていく悟浄の舌先がうごめく度に、八戒の息づかいは徐々に荒くなっていく。
鎖骨の窪みを、悟浄は柔らかく甘噛みした。その途端、八戒の身体がびくんっと跳ねる。
「 ──── 手慣れてますね。」
動揺を気取られないように八戒は片腕で顔を隠して一息ついた後、努めてしっかりした口調でそう問いかけた。
「気になるのか?」
「 ──── いえ。」
静かに答えた八戒の本音の表情を見ようとして、悟浄は顔を隠したその腕を無理やり引き剥がそうとした。
「悟浄っ、やめっ」
「見せろよ。」
抗おうとした八戒の耳元で、悟浄は吐息交じりに囁いた。びくっと肩が震え、八戒は身体の奥に火がともるのを感じて、固く目をつむった。
密やかに閉じられた瞳が、赤く色づく白皙の肌にストイックな輝きを添える。
悟浄は伏せられたまぶたにそっと接吻けながら、低く語りかけた。
「気にする必要なんかねぇよ。 ──── おまえが始めてなんだから、本気で欲しいと思ったのは。」
八戒は目を閉じて、なすがままで悟浄の声に耳を傾けていた。その間にも、悟浄の手は休む事なく八戒の身体のしなやかなラインをなぞり、全てを記憶させるように執拗に肌を辿る。
「おまえが欲しかった。おまえの心も、身体も。おまえの過去も、未来も。 ─── 全部」

低く熱く囁かれる言葉とともに、悟浄は八戒に接吻けの雨を降らす。悟浄の吐息が触れる度、八戒の肌に赤い火が灯る。じわじわと熱が脳髄に迫ってきて、頭の中をも白く熔かしていく。
触れ合う肌がその境をなくしていくようだ。悟浄の重さを全身に感じながら、八戒はぼんやりと失われつつある理性の片隅でそう考えた。
その時だった。ふいに胸の奥でちりちりと音がし始めたのに八戒は気がついた。心の奥の深い処から湧き上がってくるその感触をよく知っている気がして、八戒は甘く溶けていこうとしていた思考を呼び戻した。
はっと目を見開いた八戒の視界に三蔵の面影が浮かぶ。ちりちり言っていたのは長い間八戒を苦しめていた負の感情が引き起こしたものだった。
気づいた次の瞬間には、それは悟浄の重さを忘れるほどの質感をともなって八戒の脳裏を支配した。忘れかけていた痛みに、心が悲鳴を上げそうになる。
もう、何も考えたくないのに。三蔵は僕を責めたりしていない。あの瞳を真っ直ぐ見れなくなったのは、ただ、僕の所為。
悟浄。悟浄。闇に落ちていってしまいそうになる心を繋ぎ止める術はそれしかないように、八戒はその名を何度も呟いた。

あらわになった八戒の胸をなぞっていた悟浄は、掌の下の身体が微妙に硬くなったのに気がついてその手を止めた。顔を背けて何かに耐えるような表情を見せた八戒の髪に悟浄はそっと顔を埋めた。

「どうした。 ──── 嫌なのかよ?」
八戒は返事をしなかった。その代わりにと、何度も首を横に振る。
「嫌じゃねぇんなら、そんな顔すんなよ。」
再び八戒の肌に手を触れようとした悟浄は、小さく溜め息をつくとまた話し始めた。
「 ──── 何が気になる?俺とおまえしかいねぇんだぜ、そんなにガチガチになって何から身を守ろうとしてんだよ。 ──── 俺が、怖いのか?」
「違いますっ。」
八戒は再び、激しくかぶりを振った。
「悟浄が怖いんじゃない。あなたの言うずっと、の意味が怖いんです。
─── ずっとっていつまでですか?いつかそのずっと、と想う気持ちは消えてしまうんじゃないかって。 ──── 信じようと思ったんです、でもあなたが僕以外の者を愛した時間を思うと、いつか僕の存在だって過去になってしまうんじゃないかって。」
八戒の押し殺した叫びのような声が、途切れ途切れに響く。

悟浄の瞳に切ない影がよぎる。
「 ──── 遊びやかけひきの相手なら、いたさ。だけど愛なんて知らなかった俺にそれを嫌というほど解らせたのは、おまえだぜ、八戒。
─── 信じろよ。おまえじゃなきゃ駄目だっていうのは、この先、変わることなんてないんだからよ。」
八戒はそれを聞いても目をつぶったまま頑なに顔を逸らし続けた。

カッとした悟浄は八戒の手を乱暴に掴むと、自分の胸に力任せに押しつけた。
「いいか、八戒。俺の心ン中、引きずり出してよく見てみろ!」
押しつけられた掌から、悟浄の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
悟浄の熱量が八戒を包んでいく。
生きている、生命の音。境界で彷徨っていた僕を引き戻した悟浄の魂の音。正と負の感情の挟間で揺れ動く僕を攫っていく、生命の音。

八戒はどくどくという音の向こうにあるものに耳を澄ました。
──── 自分がどうしたいかが、大事なんじゃないの?
悟空の瞳が語っていた想いがふと八戒の脳裏に浮かぶ。
悟浄と三蔵の間にあったものが何だったのかなんて、今、僕が考える必要はないのかも知れない。
大事なことは、もう解っているのだから。

───── これからは、二人で生きて行くのだから。


「目ェ、開けろよ。」
悟浄は激昂した自分を恥じるかのように、今度は低い、落ち着いた声で囁いた。その声に、八戒も素直に従う。
「よく見ろ。 ──── 俺が今、何考えてるのか解るか?」
真っ直ぐな、まなざし。目の前にあるその視線を受けて、八戒は胸の奥から熱いものが後から後から湧き上がってくるのを全身で感じていた。
このまなざしに真っ向から向き合うまで、僕はどれだけの日々を費やしたのか。
───── 八戒の中で、何かが解けていく音がしていた。

「で、俺の言いたいこと解ったか?」
再度尋ねた悟浄に、八戒は口許にふわりと笑みを見せて答えた。
「 ───── こんな意地っ張りで、疑い深い僕を、愛してるって言うんですね?」
「いや?正しくは、情が深くて一途な、誰より真っ直ぐで綺麗だけど自分のことにだけは不器用なおまえを愛してる、だ。」
悟浄の言い方が可笑しくて、八戒はふふっと忍び笑いを漏らした。そのままがばっと起き上がると、八戒は悟浄の首にギュッと両腕を廻して抱きついた。くっくっと喉を震わせて笑いながら悟浄にしがみつく。
「おいっ八戒!理解したか?したんだな。」

悟浄も嬉しそうに八戒の背中を抱きしめた。
「悟浄っ僕も、」
言いかけて、八戒は耐え切れずにまた笑い出した。
「なんだよ。」
そう問いかけながらも、悟浄は八戒の頬に先刻よりももっと熱い接吻けをする。
「 ──── 僕もずっとあなたが欲しかったんです。それこそ気が狂うほど、ずっと、ずっと。」
悟浄は答えなかった。ただ更に接吻けを深くしていく。
「悟浄、ねぇ。」
「ん ─── 。」
八戒はこれまでとは違う、甘い声で悟浄を呼んだ。
「やっぱり気が変わった、なんて言うのは僕許しませんから。」
「言うか、バカ。」
「本当に?」
「当たり前だ。俺はおまえを手放すつもりは全くねぇの。」
「 ──── 僕もです。」
声をたてて笑う八戒につられて、悟浄もくっくっと笑い出す。そのまま笑いながら、彼らはどちらからともなく唇を寄せあって、互いの中に倒れ込んでいった。



眩しい朝の光が、窓から差し込んでくる。きらりと反射したガラスが頬に光を映したのに気づいて、悟浄は薄目を開けた。
腕の中に、温もりがある。
世界で一番大事な存在が、全てを自分に委ねて、安心しきった顔で眠っているのを見て悟浄は胸が熱くなるのを感じた。
ギュッと抱きしめられて、八戒は小さく呻き声を上げて目を覚ます。自分を見つめる赤い瞳が目の前にあるのに気がついた八戒は、その広い胸板にトンッと額をつけた。
「どうかしたのか?」
「 ──── いえ、幸せだなあって思って。」
「ん、俺も。」

長い長い回り道を経て、ようやくここまで辿りついた。声にならない想いが二人の胸の中を去就する。
これからだって、行く道は必ずしも平坦ではないだろう。しかし、互いの温もりが傍らにある、それだけは確かだから。

「 ──── いい天気になりそうですね。今日は忙しくなりますよ。」
「そうだな。でももうちょっとだけこうしてようぜ。」
「はいはい、もうちょっとだけね。」
再び瞳を閉じた八戒は、すぐにまた寝息を立て始めた。悟浄はそんな八戒の寝顔をいつまでもずっと見つめていた。







付記: 蒼穹の彼方から続いたシリーズもここでひと段落です。
     「幸せだなあって思って」という台詞を八戒さんが言ってくれるまで書きたかったんです。
     書いたのは随分前なので、今見ると居たたまれない箇所も多いんですけどね。
     だから、三蔵が出張っているのはなぜか私にもよくわかりませんってば(^_^;)

     ひと段落といってもこの後も色々続いていますけど。