「今日、隣町で花火大会があるんですって。」
八戒が嬉しそうに、そう悟浄に言ったのは夏も終わりかけのある日のことだった。
暦の上ではもう秋とは言え毎日昼中は大層暑い。しかし夜半になると時折涼やかな風が吹く、そんな頃だった。
「花火大会?へえ。」
悟浄はのっそりと居間のソファから身を乗り出して八戒の方を向き直った。
嬉しそうな声に違わず満面の笑顔を浮かべたその顔に、悟浄は少し眩しそうに目を細めてみせる。
「珍しいな。もう夏も終わりなのに。」
「ええ。浴衣着て今日は出かけましょうね。いいですよね?」
悟浄の返事も聞かずに、浴衣、風に当てなくっちゃ、とか言いながら小走りに居間から立ち去っていく八戒に悟浄は小さな苦笑を洩らした。
花火なんて遠くから見るのがおつであって、打ち上げている場所の近くに行ったりしたら人ごみに巻き込まれるだけなのに、日頃冷静な八戒がそんなことにも気付いてない様子が微笑ましかった。
思いを伝えて心を繋げて、身も躰も寄り添いあうようになって八戒は変わった。
悟浄と過ごす毎日をいとおしむような彼の姿に、悟浄の心もどうしても甘くなる。
どんな願いでも叶えてやりたいと思う自分を面映く思うときもあるが、だからといって気持ちをとめられようもない。
「なあ、八戒。なんか用意手伝うことある?」
箪笥の引出しをあちこちさばくっている八戒の背中に声を掛けた。
今年は一度も腕を通していない、昨年二人で新調した浴衣が八戒の手にあるのが見える。
「大丈夫ですよ。まだ時間もありますし、悟浄は昼寝してていいですよ。昨日遅かったでしょう?」
「……遅かったけどさ。」
釈然としない声色で悟浄は言った。久しぶりに遅くまでお仕事に勤しんだ昨夜は確かに自分も遅かったけれども、帰宅した時八戒は付き合って起きてくれたのだ。その後ちょっとお互いの躰を弄ってから寝たから二人とも寝不足なのには違いない。
「お前も昼寝した方がいいって。」
「大丈夫ですよ。実は今日かなり朝寝坊しちゃったんですよね。それにあなたが帰ってくるまでは充分ゆっくりしてたんですから。―――第一、あなたに手伝って貰う方が間に合わなくなりそうです。」
「よく言うぜ。」
くすくす笑う八戒の気遣いに応え、悟浄はそれ以上何も言わすに居間のソファに舞い戻った。
ううんと言いながら伸びをすると一気に眠気が押し寄せる。盛夏とは僅かに違う風が頬を触る気配が気持ちよくて、悟浄は目を閉じた。
「悟浄。悟浄ってば、起きてください。そろそろ……。」
耳元で囁かれる言葉と優しく揺すられる感触に、悟浄は自分がいつの間にか寝入っていたことに気がついた。
「あ?ああ、ごめん。結局俺寝てたのか……。わり。」
「気持ちよさそうに寝てたのにすみません。そろそろ支度しないと始まっちゃいます。」
「もうそんな時間?」
慌てて起き上がって窓の外を悟浄は見上げた。いつの間にか日が短くなった夏の夕方に夜の気配が混じり始めていた。
「―――もう夏も終わりだな。」
「ええ。」
一緒に空を見上げた八戒は既に浴衣を身に着けていた。紺色の浴衣は清々しくて八戒の凛とした容貌に良く似合っている、と悟浄は思う。
今夜拝むことが出来るはずの浴衣の下の肌を思うと、悟浄の頬は我知らずに緩んだ。
「もう。何やらしい顔してへらへらしてるんですか。さあ、あなたもこれに着替えてくださいね。」
「自分じゃ着れないって。」
「分かってますから。はい、こっち、腕通して。」
図体ばかり大きな子供のようになすがままにされていた悟浄は八戒の首筋にそっと鼻先を寄せる。
先にシャワーでも浴びたのだろう石鹸の匂いがほんのりしていた。
「八戒いい匂いー。」
「甘えたって駄目です。さっさと支度して、ほら。」
手早く着付けさせた八戒はするりと悟浄の身体から離れた。僅かに薄紅に染まった頬を隠すように八戒は悟浄を部屋の外へ追いやった。
薄っすらと夕闇が落ちてくる。景気付けの空花火の音が隣町の方向から聞こえてきて、いやがうえにも気持ちはそわそわと沸き立ち始めた。
その所為だろうか、忘れ物はないかとあちこち見回しながら玄関に向かった八戒は、自分が下駄を履いていることをすっかり失念して足を踏み外した。
がたんっと大きい音をたて、椅子を倒した八戒は踏み止まろうとして更に足を捻る。
「痛っ」
一瞬熱いような感覚が足首を走り、その後すぐにそれは痛みへと変わった。ずきずきと痛むくるぶしに八戒は眉根を寄せる。
「おーい、八戒どうしたー?今なんか凄い音がしたけどー?」
既に外で待っている悟浄が物音に気付いて、大声で家の中に問いかけた。
「なんでもありません。今行きますー。」
大声で答えて八戒は痛みを堪えて外へと走り出した。
痛む足を悟浄に気付かせないように、八戒は何食わぬ顔で所在なげに待っている悟浄の元へと走り寄る。
「お待たせしました。―――どうしました?」
いきなり眉根を寄せて険しい顔を向けた悟浄を、八戒は驚いたように見上げた。
「足。」
「え?何の話ですか?」
「―――今日は出かけるのやめだ。花火は家で見る。」
硬い口調で言い放つと、悟浄はくるりときびすを返して八戒の腕を取り家の中へと戻ろうとする。
「何ですか、いきなり。」
「惚けるのやめろ。足、今捻挫しただろ。」
「してませんって。」
「つまんねえ嘘つくんじゃねえ。」
むっとした顔で振り向いた悟浄の声色に八戒は心の中で溜息をついた。察しのよすぎるこの男に、叶わないなあと嘆息する。
「―――大丈夫です。」
観念したように八戒は認め、しかしその上で何ともないと答えた。その言葉を聞いて悟浄の顔が更に険しくなる。
「お前の大丈夫ぐらい当てにならないものはないんだよ。」
「大丈夫って言ったら大丈夫なんです。さ、早く行かないと場所なくなりますよ。」
「なくなってもいいよ。ここで見るんだから。」
「いやです。僕はちゃんと隣町の河原まで行きたいんです。」
「いーじゃん。ここからでも見れるって。」
「嫌です。」
「―――何で。」
頑なに行きたがる八戒に悟浄の口調が不意に揺らぐ。押し問答をするうちに夜はすぐそこまで降りてきて辺りはすっかり薄暗くなっていた。
すぐ傍に立つ八戒の顔が薄闇に白く浮かび上がる。悟浄の問いかけに八戒は僅かに俯いた。
「―――悟浄、好きなひとと二人で花火を見に出かけたことあります?」
唐突に八戒が問いかけた。いきなり飛んだ話にいつもの事ながら悟浄は狼狽しつつ言葉を捜す。
何度か口を開いてはやめ、上手いことかわす答えはないか悟浄は目を彷徨わせた。
随分逡巡していた後、自分を見つめる八戒の瞳に負けたように、浄は髪を引っ張りながら溜息混じりに答えた。
「―――去年。おまえと。」
「去年はまだ友達だったじゃないですか。」
「そうだけど。―――俺は友達のつもりじゃなかったから。」
体裁悪げにそっぽを向いて答える悟浄に、八戒も表情を隠すように髪をかきあげた。
「―――僕もですけど。でも、―――今年は去年と違うでしょう?」
八戒の声色に微妙に艶が混じる。恋人と呼ばれることを互いに認め合ってから始めての夏を、言葉すくなに指し示し八戒はそっと表情を改めた。
「そういう花火、悟浄初めてなんでしょう?」
「そうだけど。」
「だから、―――行きたかったんです。」
照れ隠しのように二人であらぬほうを向いたまま、小さな声で言葉を交わす。
「河原じゃなくってどこから見ても、去年と違うのは確かなんだからいいんだって。―――それに来年もあるし。」
ドーン、と遠くで花火が打ちあがる音がした。ふっと夜空を見上げると漆黒の宙にきらきらと光の花が咲いていた。
「―――花火。」
「始まっちまったな。」
「ええ。」
二人はそれ以上何も言わずに空に咲く花火を見上げた。ぱあーっと光の珠が弾けて色とりどりの星が流れる。
きらきらと降る光の筋に闇が一瞬浮かび上がりそして消えていく。
しん、と暗くなった瞬間、二人は同時に顔を見合わせた。
「いいだろ?出かけなくても。」
「―――しょうがないですね。」
再び髪をかき上げた八戒は小さな声で答えた。その頬に指を伸ばそうとした悟浄は、ふ、と思い出して浴衣のたもとに手を入れた。
「そうだ。これ貰ってきたもんなんだけど、やらねぇ?」
「え?線香花火ですか?」
悟浄とあまりに似合わない、大きな手掌に載せられたものに八戒は目を見瞠った。
「どうせ似合わないよ。」
「そんなこと誰も言ってないじゃないですか。」
「いーや。おまえの心の声が聞こえた。」
口を尖らせた悟浄を宥めるように八戒はその線香花火を手に取った。
「もう。子供みたいに拗ねてないで。火、点けてくれないんですか?」
その場にしゃがみ込んで八戒は突っ立ったままの悟浄を見上げて笑った。
そのあまりに綺麗な笑顔に悟浄はうっと言葉に詰まる。
固まってしまった悟浄は着物の裾を八戒に引っ張られてようやく隣にしゃがみ込んだ。
懐からライターを取り出した悟浄は更に言いにくそうに口篭りながらぼそぼそ続けた。
「昨日さ、賭場で聞いてきた話なんだけどさ。」
「はい。」
「線香花火ってすぐ落ちちゃうじゃん。でも二つ一緒にしておくと中々落ちないんだって。」
「へえ、そうなんですか。」
「でさ、二人でやるときはそれを一つづつ持つんだって。」
「こうですか?」
二つ合わせて捻り合わせた花火の端を持った八戒はもう片方の端を持つように悟浄に促した。
「別に俺がやりたいっていったんじゃないぞ。こういう話を聞いてきたってだけで。」
「あー、はいはい。」
照れまくってぶっきらぼうな物言いになった悟浄に八戒は苦笑した。
「火、点けてください。」
悟浄はごほん、と咳払いをしてようやく小さく息をついた。シュボッと音をさせてライターに火がともる。そうっとその火に二人で花火を近づけた。
シュッと小さな音がして二人の手元に花が咲いた。手が震えないように息も潜めて、二人は身を寄せてその小さな花火を見つめた。
「綺麗ですね。」
「ああ。」
ドーン、ドーン、と打ち上げ花火の音が遠くから響く。頭上には大輪の火の花が降る。そして手元には二人だけの小さな灯。
ぱちぱちとはぜる音以外、そこには他にひとの気配はない。
じっと手元を見つめる二人は、かすかに触れる肩のぬくもりだけで互いの存在を感じあう。あっという間に消えるはずの花火もいつまで経っても消えていかないようだった。
時が止まったような静かな空気が不意に揺れたのを感じ八戒は顔を上げた。悟浄がそこで自分をじっと見つめている。
ふっと笑うと悟浄も笑った。
ぎこちなかった二人の距離が、こうして紡ぐ季節の中でしなやかに絡み合っていって。
悟浄の腕がそうっと伸びてきて、八戒の頬に触れた。
目を閉じると口唇が降りてくる。触れるキスに二人は酔いそうになった。
指から零れた花火が地面に落ちる。消えていく火が夜空に昇って一面の花になった。
漆黒に咲く光の花。その下に在る二人はその光景を見ることもなく。
夏が終わっていく。
付記:2004年夏のインテックス大阪で配った無料配布本です。夏って好きなんですよ。夏の午後も夜もみんな。
逝く夏を惜しみながら書いてみました。