柔らかな日差しが硝子窓の向こうから差し込んでくる。きらきらと光る朝陽が少しだけ早い春の到来を告げているようだった。
 がらんとした宿の一室で、八戒はひとりドアに背を預けて佇んでいた。
二つ並んで置かれたベッドと小さな机が一つの粗末な造りの部屋の中を見回すと、八戒は両腕で己の細い肩を抱きしめ、そこには誰もいないというのに、誰かに見とがめられたりするのを恐れるかのようにそっとまつげを伏せた。
 この部屋で眠っていたもう一人の人物、悟浄はまだ階下の食堂で悟空とひとしきりじゃれあっているのを横目で確認してから部屋に戻ったというのに。
 八戒はぼんやりと立ち止まっていたのを振り払うように、何度か頭を振ると自分のベッドに腰を掛けて私物を片付け始めた。
 がさごそと動いたのはほんの僅かな時間で、いつのまにか彼は荷物を手に持ったまま向かいの、今は空の悟浄のベッドを見るともなしに眺めていた。
肌寒い空気の中に微かに漂う悟浄の煙草の残り香に気づいた八戒は、うっすらとはかなげな笑みを浮かべると再びそっと肩を抱きしめた。

―――昨夜、同じように、ここで悟浄に肩を抱かれた。
 ぼんやりと八戒はその情景を思い出す。

「―――八戒。」
 ただの呼びかけの中に、許しを請う響きを滲ませて悟浄はそう囁いた。なんと答えればよいのか解らずに黙っていた八戒は肩を後から抱き寄せられて、耳元にかかる悟浄の吐息の感触にびくりと身体を震わせた。
じっとそうしていると、触れ合っている箇所から悟浄の温もりが伝わって来るようで、八戒はそっと目を伏せた。
「―――愛してる。」
 小さく告げられた言葉に痛むほど胸は震えたけれど、何も応えることは出来なかった。 居たたまれない時間だけが流れて、悟浄は諦めたように腕をほどいた。
「そろそろ寝るか。明日は山越えだったっけ?」
 何も言わない八戒を気遣って、悟浄は親友の顔を作ると殊更明るい声を出した。
「そうですよ。しばらくは険しい路が続きますからね。気合を入れないと。」
 悟浄に合わせて軽く八戒は答えて、自分のベッドにすっと潜り込んだ。
「おやすみなさい。」
「おう、おやすみ。」
 布団を頭まで被って八戒は息を詰めた。自分に向けられる視線に気づかない振りをして目を閉じる。
しばらくそうしていると部屋の電気を消す音がして、悟浄もベッドに横になったのが伝わってきた。
 暗い部屋の中、眠ったふりを二人して続ける毎日。
 こんな夜を越すのは、一体これで何度目になるのだろう。
―――悟浄に焦がれ続けていたのは、本当は僕の方だというのに。

 八戒は朝の日差しの中、笑みを自嘲の色に微妙に変化させながら、肩を抱く腕に力を込めた。
 こうやって目を閉じて、悟浄の匂いを感じているだけで、胸が痛んだ。
 ―――悟浄を、愛している。
 その気持ちを伝えたことは、未だない。
 ただ、隠そうとしても隠しきれない僕の想いを悟浄は気づいているのか、いないのか。それを確かめるすべはなかった。
 触れてくるだけの彼の温もりを受け入れる。だけど、ただ、それだけ。
 何も応えることの出来ない僕を、責めるわけではなく、悟浄はただ、じっと見ていた。
真っすぐ、僕を見つめていた悟浄の瞳。
 そのまなざしを正面から受け止めることは出来なかった。僕と彼の間には、踏み出せない幾許かの距離が確かに存在していた。
手を伸ばせば届く位のそんな距離を越えられないのは。―――僕の中にひそむ、エゴのせいなのかもしれなかった。

 窓から覗く日差しはいやに明るいというのに、部屋の中は寒々としていて薄暗かった。

 出立の準備の為に、と部屋を片付けに行った八戒が朝食の席を立ってからもう随分経った。
飲みさしで放っておかれたコーヒーはとうに冷え、悟空を構うのも億劫になった悟浄は、先刻から何度もちらちらと階段の上をこっそりと窺っていた。
 何が、すぐ済む、だ。―――苛々する。
 周りの三蔵と悟空にも聞こえない程小さく舌打ちすると、悟浄は何気ない顔をして立ち上がった。
「ちょっと、トイレ。」
 そのあまりに白々しい言い草に三蔵は僅かに眉根を寄せ、悟空は笑いをかみ殺した。
それに気づいた様子もなくゆっくりと階段を上がっていった悟浄は、部屋のドアを開けようとして伸ばした手を躊躇うように力無く降ろした。
 自分の中にあった八戒に対する尽きることのない想いに気づいてしまってからというもの、悟浄は出来るだけ八戒と二人で過ごす時間を作ろうと努力していた。
既に呆れ果てているらしい三蔵と、己のなりふりかまわなさにさすがに状況を飲み込み始めた悟空の無言の視線を痛いほど浴びながら、それでもとうの八戒の心の中を悟浄は掴めずにいて、それがこの息苦しさの原因なのだと解っていながら、それでもどうすることも出来ずに無為に日々は流れていた。
 ドアの前で立ち尽くしていた悟浄はそっと息を吐くと、小さくノックをしてカチャリとノブを回した。
「どうした?」
 ぼんやりと物思いに耽っていた八戒は、思い浮かべていたとうの本人の声を耳にして、はっと体を震わせて振り返った。
「えーっと。どうしたって、何がです?」
 条件反射的に笑みをその顔に浮かべながら八戒は言い繕った。
「あー、その。戻って来るのが随分遅いからさ。―――出発遅らせた方がいいか?おまえ、昨夜熱っぽかっただろ?」
「大丈夫です。」
 しどろもどろの悟浄の言葉に、八戒は作った笑みを心からのものに微妙に変化させた。
 ただ、その薄い笑みは、あまりにはかなげで。―――悟浄の言葉を奪った。
 軽さの消えた悟浄のまなざしと八戒の透明なそれが交差する。
 言葉よりも雄弁にその心を伝える前にそれは一瞬で断ち切られ、視線を外して伏せられた緑の瞳に悟浄はそれ以上言葉を継ぐことが出来ずに黙り込んだ。
 しん、と部屋の中の密度が僅かに上がったような気がする。耳鳴りがするのも、圧力の所為だ。
 八戒は顔を上げようとしない。手を伸ばせば届く距離なのに、紗が掛かったように八戒の姿を遠く、おぼろげに悟浄は感じた。
 目を細めて八戒を凝視する。穴が明く程の強い視線が注がれるのを感じて、八戒は瞳を伏せたまま僅かに顔を歪めた。
胸が、痛い。そんな顔、させたいんじゃないのに。
 無力さが悟浄自身を苛む。
 俺の言葉は八戒に届いているのだろうか。
 己の手を擦り抜けていってしまいそうで、少しでも目を離したらその隙に見失ってしまいそうで、悟浄は八戒の腕をギュッと握り締めた。
 びくりとした八戒がようやく顔を上げる。そんな些細なことが嬉しくて、悟浄は痛む心を表には出さずに笑ってみせた。
「じゃあ、行こうか。」


 この街と、この街を外界から遮断している山々では、桜は花をつけないのだという。
 初老の宿屋の主人の話を興味深そうに聞いていた悟空は階段を下りて来る八戒の足音にパッと後ろを振り返った。
「遅ぇよ、八戒。今、変わった話聞いてんだけどさあ。この街って春になっても桜が咲かないんだって。」
 まくし立てる悟空の迫力に面食らいながら、八戒は悟空の隣で渋面を作っている三蔵に説明を求める視線を投げかけた。
「何の話ですか?」
「知るか。―――それよりさっさと出発するぞ。支度はすんだんだろうな。」
「ええ、まあ。」
 釈然としないながらも三蔵の言葉に従い立ち上がりかけた面々に宿の主人は声を掛けた。
「あんた達、山越えをするのかい?」
「はい。東へ抜けるルートはそれしか無いように地図には書いてあったので。」
「ああ、それしか無いよ。けど今は時期が悪いから。」
「何の時期だよ。」
 悟浄は胡乱げな声で聞き返した。
「だからもうすぐ花の咲く季節になるだろう。この時期、山は荒れるんじゃよ。」
「こんなに天気がいいんだ。大丈夫だろ。」
 肩を竦めて歩きだした悟浄の背に主人は疲れた声を出した。
「天候のことじゃない。妖が出るんじゃよ。」
「妖?」
 剣呑な声で聞き返した三蔵に動じることもなく主人は続けた。
「街の者は昔からそう言って、この季節にゃ山には近づかないんだよ。まあ、姿を見て正気で戻って来た者はいないから、本当はどうなのか解らないがね。最近も事件があったばかりでねえ。」
 ふうーっと肩を落として力無く話す主人の言葉に、彼らは顔を見合わせて椅子に座り直した。
すっかり腰を落ち着けてしまった面子を見て、外に出かかっていた悟浄もやれやれと言わんばかりに肩を竦めながら戻って来た。
「事件って何ですか?花の咲くこの時期と言われましたね。それは先程の桜の花が咲かないというのに何か関係があるんですか?」
「ああ、たぶん。何せ昔から伝えられていることだから確かな理由とかは解らないんだよ。けれどいつもこの位の時期になると戻って来ない奴が一人や二人は出るんだ。」
「失踪ですか?」
「うーん。ちょいと違うね。帰ってきても正気じゃ無くなっちまう奴もいる。―――今回はまたちょっと違うけど。」
 はあっ、と溜め息を大きくついた主人に三蔵は苛々した様子で続きを促した。
「だから、何だというんだ。」
「うちの隣の店屋の嬢ちゃんが日中の往来でいい仲だった若いのを刺し殺して逃げたんだよ。仲の良い恋人同士だったのに。なんでまた、ねえ。」
 その時、ぐらりと八戒の肩が不自然に揺らいだ。崩れ落ちかけたその身体を悟浄が慌てて手を差し伸べて支えてやる。
「―――八戒。」
 心配そうに覗き込む悟浄に笑ってみせると、八戒は何げない顔に戻って主人の話に再び耳を傾け始めた。けれども自らの二の腕に廻された八戒の右手は白く色が変わるほど、力を込められているのを悟浄は見逃さなかった。 
「八戒。」
 そっと、側にいる三蔵達にも聞こえないくらいの小さな声で、悟浄は八戒の耳元に顔を寄せて再び呼びかけた。
聞こえているのかいないのか、八戒の視線はあらぬ方を見据えたまま少しも反応しなかった。
「八戒!」
 急に大声を出した悟浄に三蔵と悟空は驚いて振り返り、八戒もはっと我に返ったように悟浄の顔を振り仰いだ。
「な、何ですか?急に。そんなに大きい声を出さなくても聞こえてますよ。」
「あ、ああ。すまない。」
 完璧な笑顔を向けられ、悟浄は所在無げに自分の椅子にそのままずるずると座り込んだ。 
主人の話は悟浄が八戒に目を奪われている間も続いていたらしい。その声が再び悟浄の耳にも入ってきた。
「そういった事情なんだけど本当に山を越えるのかい?」
「勿論。」
 三蔵は当然のことを聞くな、と態度に滲ませてそう言い放った。
「そうかい。まあ、あんた達はえらく強そうだし。この街以外の人間が行方不明になった話も聞かないし。―――大丈夫だろうけど。」
 これ以上言っても聞く耳を持たなさそうだ、と主人は肩を竦めて立ち上がった。
「これが嬢ちゃんの写真だ。まだ、山の中にいるかもしれん。もし山越えの途中で見かけたら……。」
 どうすればいい?と、事もなげに尋ねる悟空に主人は山を下りて来るよう伝えて欲しい、とそう結んだ。
 悟浄は立ち上がって八戒の肩越しにその写真を覗き込んだ。そこに写っていたのは血なまぐさい話とはまるで無縁そうなまだあどけなさを残した、女になりきる前の少女の姿だった。

 湿った風が悟浄の頬をかすめて、真紅の髪を攫っていく。ゴツゴツした険しい山道を登りながら彼は小さく息を吐くと、前を歩いて行く三人を見遣った。
 いつものように三蔵に纏わり付いて邪険にされる悟空に少し遅れて八戒が歩いていく。八戒の背はいたって普段どおりで、変わった処など一見では見受けられなかった。
ただ、やや口数が減っている事に悟浄は先刻から気が付いていた。
 宿屋で聞いた話に八戒が少なからず動揺していたのは確かなのに、何でもない顔をするその態度が不自然だと思う。
―――いつだって、八戒はそんなに簡単に、その心の奥を見せてくれない。
こうやっていつもその姿を追っていれば、言葉にも態度にも表されていない、秘めた何かが見えるような時も確かにあるけど。
 けれど本当に欲しいのは、八戒自身から開いてくれる心だというのに。
 悟浄はごそごそとポケットから煙草を取り出して火を点けた。ふぅーっと煙を吐き出して空を仰ぐ。
ほんの少し前よりも更に質量を増した空気と流れる雲に、一雨来そうだと口の中で独りごちる。
「なあ、どのくらいでこの山越えられるんだ?」
 悟浄の問いかけが自分に向けられたものだと八戒が気づくまでに数秒の間があった。振り返ってぎこちなく笑ってみせる八戒の顔から僅かに目を逸らして、悟浄は再び煙を吐き出した。
「さあ、どうでしょうね。地図を見る限りではこのペースで一日歩けば何とか次の街まで
辿り着けそうなんですけど。お天気悪そうですし。」
 そう言って悟浄に倣って空を仰ぐ八戒の横顔に憂いの影が微かに浮かぶ。
「どこか、雨が凌げる場所があるといいんですけど。」
 気掛かりは天気のことだけ、とでも言いたげな八戒の態度に悟浄は胸の底から苛立ちが湧いてくるのを感じていた。
―――八戒。」
 いきなり不機嫌そうになった悟浄の声に八戒は首を傾げて返事をした。
「はい?」
 
 だから、そういう顔するの、止めてくれって言いたいのに。―――言い出せなかった。
 悟浄は自分の不甲斐なさに胸の内で舌打ちすると、ガラリと声の調子を変えて問いかけた。
「なんか、霧、出てねぇか?」
「そういえば、先刻より視界が悪くなっている気が……。ああ、三蔵達、随分先に行っちゃいましたね。―――三蔵!悟空!ちょっと待っていて下さい!すぐ追いつきますから!」
 前を行く二人からかなり離れてしまったことに気づいて、八戒は遥か前方の彼らに声をかけた。しかし、声が届かないほど遠い訳ではないのに彼らは振り返らなかった。
「聞こえてないんでしょうか?」
「三蔵は聞こえてても聞こえないフリ位するだろうけど、サルも反応しないってのはどういうことだ?」
 顔を見合わせて歩みを速めた二人の頬を何かが掠め落ちていく気がした。
「ちっ、雨か?」
 そう言って空を仰いだ悟浄につられて八戒も振り仰いだ。けぶる視界の中、ちらちらとしたものが垣間見えたような気がして、八戒は何度か瞬いた。
「雪、でしょうか?」 
「それにしちゃあ、冷たくねぇよ。」
 肩を竦めて再び歩きだそうとした悟浄は、今しがたまで見えていた三蔵と悟空の姿が何処にも見当たらないことに気づいて大声を上げた。
「おい、八戒。あいつらいなくなっちまったぜ?」
「霧に紛れてしまったのかも知れません。急ぎましょう。」
 一瞬ごとに白さを増していく視界の中を悟浄と八戒は足早に進んで行く。
 なかなか追いつくことが出来ず、霧の濃い山道をこれ以上歩くのは危険かもしれないと、八戒が思案し始めたときだった。彼らの行く手にうっすらと人影が現れたのは。
「やーっと追いついたか。少しぐらい待つってこと知らねぇのか、あいつらは。」
 ぶつぶつ文句を言い始めた悟浄に、八戒は鋭い視線のまま前方を凝視して声を掛けた。
「人影はひとつしか見えませんよ?それに。―――何か、違うと思いませんか?」
 確かにそれは三蔵や悟空の物とは掛け離れたシルエットだった。近づいてくるその人影に身構えるように、悟浄はそれをじっと睨みつけた。
 三蔵ならわざわざ戻ってくるはずないし、悟空ならあんなに落ち着いてゆっくり歩くなんてことしない。
 徐々に輪郭がはっきりしてくるその姿は、やはり彼らなどではなく、女のもののようであった。
白く靄った霧の中、古めかしい着物の袖をふわりふわりと風もないのに靡かせてその女はやってくる。
 悟浄の脳裏に今朝がた見せられた、恋人をその手で屠ったという少女の顔が浮かんだが、すぐにそれを首を振って打ち消した。
―――違う。あの女の子とは別人だ。あれはもっと……。年経りた、もの。
 白く美しい着物がきらきらと淡く光っている所為か、何故か顔の造作ははっきりとはしなかった。夢の中の風景のようにひどく印象的なのにひどく曖昧な、現実離れした空間に彼らの周囲は塗り替えられていくようだった。手を伸ばせば届く程の距離までやって来た女に、悟浄は思わず一歩退いた。
 女は淡く微笑ったようだった。ぞっとするような、胸を締め付けられるようなその笑みに身動き出来なくなった悟浄と八戒の間を女はすーっと通り抜けていく。
 過ぎて行く女から、はらはらと白いものが幾つも舞い落ちていく。目を凝らして見たそれは、この山には咲かないという花の花弁であった。
―――花びら?
 ふっと目を奪われた悟浄が視線を戻したときには女の姿は音も無く消え失せていた。
 数瞬前とは比べものにならないほどの濃い霧が、隣にいたはずの八戒の姿さえその中に隠し始めていた。
「八戒!」
 叫んだ悟浄の声も霧の中に閉ざされていく。焦って八戒の腕を掴もうとするその手を花びらの嵐が押し返す。
「八戒!八戒!」
 がむしゃらに振り回した腕の先にようやく求めるものを感じた悟浄は、思いきり引き寄せて白い闇の中から八戒を引きずり出した。
らしくもなく動揺した悟浄は何度も肩で大きく息を吐き、どくどくと音を立てる鼓動を何とか収めようとした。
 八戒を掻き抱く腕に力を込め、その肩口に顔を埋める。
八戒の体温を感じてようやく落ち着いた悟浄はその八戒の様子がおかしいのに気が付いた。
 自分が悟浄の腕の中にいるのも気づいてないように、女の消えて行った先をぼんやりと焦点の合わない瞳で八戒は見つめていた。身じろぎもしない八戒の肩を悟浄はひどく揺さぶった。
「おいっ、しっかりしろ。八戒!目を覚ませ!」
 何度もがくがく揺さぶられて、ようやく八戒の瞳に力が戻り始めた。
「あ、悟浄。  今、僕は……。」
 混乱しかけてあちこち視線を彷徨わせた後、八戒は自分が今、どんな状況にあるのか気が付いたようだった。
「……すみません。ぼんやりしてしまって。今の、何だったんでしょうか?」
 そう言いながら自分の肩に回されていた悟浄の腕を何げなく外して周囲を見回した。
 悟浄もつられて周りを窺った。そこは先刻とはまるで趣を変えていた。霧の所為だけとは言い切れない妙に静かな白い空間だった。しっとりとした白い空気がゆらりゆらりと揺らぐ度に、淡い輪郭の木々の影が見えかくれする。
細く険しい山道を歩いていたはずなのに、肌に感じるのは広々とした森の中の気配だった。
 そして、もうひとつ。女が通り過ぎた後から、舞い続ける花びらの群れが視界一杯に揺れ落ちる。
ちらちらと舞い散る白銀のそれがそこを物悲しい程の幽玄な様相に変えていた。
「どうやら、完全にはぐれたみたいだな。」


白い異界の中を二人は黙りこくって歩いていた。
どうやったらここから出られるのか、それは皆目解らなかったが、ただ、先刻の女がこの異界の鍵だということだけは見当がついた。
ただ、歩き回って女が見つかるとは考えにくかったが、この息詰まるような沈黙の中、互いに向き合って何かを待っているだけの時間を過ごすのは、二人ともにどうにも居たたまれない気がしていた。
別に、普通に接すればいいだけのこと。それだけのことが、とても難しく思えた。
どちらからともなく歩きだしてからしばらくして、悟浄ははぐれないように八戒の手を繋ごうとした。
しかし、すーっと八戒は悟浄の手から逃れてそのまま何も気づいていない振りをしてあらぬ方を見遣った。
わざと手を放したのだ、と悟浄にも気が付くくらい八戒の態度は不自然だった。溜め息を内心に隠して悟浄は掛ける言葉を捜した。
「なあ、八戒。おまえ、朝の話、結構気にしてるだろ?」
 長い沈黙の後、悟浄はぽつりと切り出した。
「―――気にしていない、と言ったら嘘になりますけど。……悟浄には何故あの少女が恋人を殺さなきゃならなかったのか、理由が解りますか?」
 俯いたまま淡々と表情も変えずに八戒は答えた。その様子が痛々しくて、悟浄は気分を変えさせようとして殊更強い調子で言い募った。
「さあね。そんなの本人にしか解んねぇんじゃないの?他人があれこれ推測して、口出す問題じゃないと思うけど?」
 だから、おまえが気にやむ必要なんてないんだ。
 本当に必要な、最後の一言を悟浄は結局言えずに、口を閉ざした。
 八戒は悟浄に解らないようにぎりっと唇を噛み締めて押し黙る。

 いつもこうやって、気づかされてしまう。悟浄と自分では、立つ位置がまるで違うことに。
 悟浄には他者に引きずられないだけの、確固たる己があった。なのに、自分はいろいろなものにいつも捕らわれてしまう。
彼の存在が圧倒的すぎて―――惨めだった。
 ずっとずっと、気が狂う程、悟浄を欲していた。けれども彼も自分の心を求めてくれるようになった今、その魂に触れる度、萎縮していく自分がいるのも事実だった。
 彼との距離を感じてしまう。強くあり続けようとする悟浄を自分のことのように誇らしく想いながら、いや想うほどに自分の弱さを見せつけられる気がして、いたたまれなかった。
悟浄は自分を脅かそうなんてしていない。守ろうとしてくれているのが解っていたから余計にせつなかった。
 八戒には少女が恋人を屠った理由が解るような気がしていた。
どれだけ表面的には仲睦まじげに見える恋人同士であっても、愛した人を心から信じているのかなんて当事者にしか解らないのだ。
 彼らに何が起こったのかは解らない。ただ、少女はすべてを信じられなくなったのだと思う。己の心に捕らわれ過ぎたために。
 そういったどろどろした感情が自分の内にも巣喰っているのを、八戒は随分前から気が付いていた。
 どれだけ愛しても、二人はいつまでたっても二人でしかなくて、一つの存在になることは在り得ない。
愛したひとも一人のひとであり、自分とは違う存在なのだと。
一人のひととして在るべきなのだと、頭では理解していても感情に支配された心はそれを認めようとはしなかった。
 自分は昔からそうなのだ。血を分けた双子の片割れなら僕の心の隙間を埋めるものになってくれるかもしれないと望み、そのために、彼女が離れて行かないように花喃を愛という言葉で縛り付けた。
いつか離れて行かざるを得ない姉弟という関係では満足出来ずに、彼女の心も未来も全て奪った。―――それを愛とは、普通言わない。
 己を搾取され続けた花喃は最後の最後で僕の手を振り切って、自分という存在を取り戻したのかもしれない。
 花喃を愛していた、と思っていた。けれど、それは自分を愛しているだけのことなのだ。彼女が僕の手を振り払って三年以上が過ぎ、なくせない存在が出来て、ようやくそのことに気が付いた。
 他人を愛したことなどなかった。そのことに気づいてしまった今、どうやってひとを愛すればいいのか解らなくなってしまった。
愛するひとは、目の前にいるというのに。

 前を歩いて行く悟浄の背中が白く霞む。音もなく幻のような花びらが降りしきるこの世界では全てが曖昧に思えた。
ちらちらと降ってくる白銀のそれが身体中に纏わり付いてきて、うまく息が出来ない気がした。
悟浄の背にそっと手を伸ばしかけて、何度も足が竦む。 差し伸ばされる悟浄の手をいつだって僕は掴みたかった。
けれど、過ちだと解っていてもなお、彼の全てを手に入れたいと想ってしまう自分がいる。
自分の心の全てを相手に委ねてしまうような関係は間違っているのだ。
一方的に頼るだけの関係はいつか破綻してしまう。悟浄といつか離れてしまう日がくるのなんて、想像しただけで吐き気がした。
 けれど、目を逸らそうとしても、自分の奥に在る昏い衝動は常に心の隙間から這い出ようとしていた。
失ったら生きていけやしないのに、全てを手に入れられないのなら愛した相手も殺してしまいかねない自分は確かに存在していたのだ。

 己が厭わしかった。自分以上に醜い生きものなんていないと思った。
こんな自分を悟浄に知られるのは絶対に嫌だった。
 けれど、そう思ってしまう自分に更に嫌気がさした。
 己の存在意義を他人に背負わせずに、自分自身を確立して自分の足で立って生きること。それは僕にとってはひどく難しかった。   悟浄はそうやって生きているというのに。

 降りしきる花びらが世界を塗り込めていく。
「悟浄」と、彼の名を呼ぶことも出来なかった。
 彼は僕の醜さを知っているのだろうか   。


 黙り込んでしまった八戒を背中に痛いほど感じながら、悟浄は前へ前へと足を進めていた。
話の途中でふっと黙ってしまったり、触れようとした手をそっと離されたりという八戒の無言の拒絶はこれまでにも度々あった。
物慣れない少年のようにそれら全てに傷つくのは我ながららしくないとも思ったが、事実胸が痛むのは止めようがなかった。

 もっと俺が、八戒へのこの気持ちの正体に早く気が付けばよかったのだろうか。
そうすれば八戒にこんな辛そうな顔をさせずにすんだのだろうか。
 考えても仕方のない仮定の話がぐるぐると頭の中を渦巻く。
八戒が隣にいるのが自然すぎて自分の本当の気持ちに正面から向かい合うまでに、限りなく遠い回り道をした。
そのつけなのだから、今、自分が辛いのは仕方ないことなのだ。けれど八戒にまでその辛さを味合わせているのが辛かった。
 どうしたら、この気持ちが伝わるのだろう。「愛している」と何度告げても八戒から返事は一度も返って来なかった。
肯定も否定もせずにただ曖昧な顔で微笑ったり、困惑したように僅かに目を逸らしたり、一瞬痛みを堪えるような顔を八戒は見せたりした。
 八戒にとって自分がどうでもいい存在なんかじゃないことぐらい気が付いてはいる。
けれど、その先に中々辿りつくことができない。
 もう、これ以上自分を傷つけたりしなくていいと、どうしたら八戒に伝わるのだろうか。
 悟浄は背中に意識を集中して、八戒の気配を見失ったりしないよう、細心の注意を払って歩き続けた。
 時間の感覚さえ麻痺する、いや、実際きちんと時間が流れているのかも定かでないこの異界の中をあてもなく歩いていた二人の耳に何やら人を呼ぶ声が微かに聞こえた気がした。「八戒。」
 小さく自分を呼ぶ悟浄の声に、八戒ははっと己の心の淵から呼び戻されたように表情を引き締めた。
「今、誰かの声が聞こえましたよね?」
「じゃあ、空耳じゃなかったんだな。」
 立ち止まって耳をすます彼らは、今度ははっきりと人の名を呼ぶ女の声を聞いた。
「何て言ってるのか、解るか?」
「いえ、あっ……。」
 ざあーっと突如強く吹いた風に、一際激しく花びらが舞う。吹きつける花弁を避けるように八戒は身を捩った。
その間も、女の声は遠く近く響いていた。
 ふと、風がとまる。いきなりしんとした白い影の向こうから華奢な少女の姿が現れた。
「私、慧青を捜してるの。すらりとした男のひとなんだけど。ねぇ、あなたたち見かけなかった?」
 おっとりと淡い笑みを浮かべながら話す少女の出現はあまりにも不自然で、八戒は隙を見せる事なく気を張り詰めていた。
小首を傾げてじっと見つめるその姿に見覚えがある気がして悟浄は思い出そうとして目を細めた。
「八戒っ、こいつ、朝、宿屋の親父に見せられたあの写真の娘じゃないか?」
 声を潜めて囁く悟浄に八戒は無言で目を見瞠った。確かに、この少女だった。
 胡乱げな顔で見つめてくる二人をさして気にした様子もなく、少女は花がほころぶようににっこりと笑った。
「慧青って私の恋人なの。すごく私のこと大事にしてくれるのよ。」
 その恋人を殺してしまったことなどなかったように嬉しそうに話す少女に彼らは何と答えたら良いか解らずに、困惑して目を見交わした。
「私達、いつも街外れの山に差しかかる所で待ち合わせをしていたの。あのひとったらね」 
くすくす笑いながら少女は夢の中にいる人のようなまなざしで恋人のことを次々に話し始めた。
「あ、あのさ。そんな奴、俺達見かけてないんだけど。」
 そう言いさして何とか少女の話を中断させようと悟浄は切り出したのだが、まるきりその声は耳に入っていないようだった。
なおも言い募ろうとした悟浄の袖口を八戒は掴んでぐいっと引っ張った。
小さく首を振る八戒を見て悟浄も少女が精神に変調をきたしているらしいと理解して、重く息を吐き出した。
 その間も少女はとうとうとまくしたてていたが、その顔は微妙に変化しつつあった。
まだあどけなさの残る少女の顔から女の顔へと変わっていく。
「私はあのひとと一緒にいられるなら後は何もいらなかったの。ずっと隣にいて欲しかっただけなのに、あのひとは迎えに来るからと言い残して私を置いて去っていこうとしたの。私は辛くて、辛くて。」
 俯いて嗚咽を堪えるようにとぎれとぎれに掠れた声で少女は続けた。
「外に行ったら、きっと私のことなどどうでもよくなってしまうに決まってるのに。帰ってくるわけないんだわ!」
 そう言い放って肩を震わす少女に困った顔で悟浄は手を伸ばした。
「あの、な。ちょっと。」
 差し出された悟浄の手を振り払い、少女はやおら立ち上がった。そしてそのまま気が狂ったように高笑いを始めた。
苦しげでせつなげな狂気を孕んだその声が白い霧の中に響き渡る。その声から身を守ろうとしているのか、八戒は耳を両手で塞いでぎゅっと目を伏せた。指の関節が白くなるほど力が込められる。
「だから、どこにも行けないようにしてやったわ!これであのひとは私のものよ。」
 息も絶え絶えで笑い続ける少女の瞳からすーっと涙が溢れて零れ落ちる。
「でも、あのひとがどこにもいないの。どうして?」
 泣き叫びながら恋人を捜しにふらふらと歩きだした少女を放って置くことは出来なくて、悟浄は手を伸ばして追いかけようとした。
「ちょっと、あんた!」
 悟浄が少女のいやに冷たい腕を掴んだその時、八戒の口から小さい呻き声のような吐息が洩れる音がした。
ちらりと横目で振り返った八戒の顔は蒼白で、自分と少女を瞬きもせずに震えながら見つめているのが目に入った。
「八戒!」
 力を緩めた悟浄の腕からするりと少女は抜け出した。
「あ……。」
 小さくつぶやいた悟浄の前で、少女は現れたときと同様に不意に白い影に消えていく。
追おうか、とは思わなかった。八戒の様子が変でそんなことには構っていられなかった。
「おいっ、八戒。どうしたんだよ!」
 悟浄の呼ぶ声は八戒には届いていないようだった。両手で耳を塞ぎうずくまった八戒の薄い肩を掴んで強く揺さぶった。
過呼吸のように喘ぎ、肩を震わす八戒に悟浄は慌てて何度も何度も呼びかけた。
「八戒っ、八戒っ、返事しろっ!」
 耳を塞ぐ手を握り締めて悟浄は力づくで引き剥がす。あらわになった耳元に顔を寄せて悟浄は八戒の名をもう一度呼んだ。
「あ……。」
 ぽつりと吐息交じりの声を零して、八戒はゆっくりと顔を上げた。目の前のひどく心配そうな顔をした悟浄に気が付いて、八戒は戸惑うように視線を彷徨わせた。
そして、ようやく自分を取り戻した様子で、ぎゅっと肩を握り締めている悟浄の腕から抜け出そうと弱々しくもがいた。
「八戒。」
 あの少女の話が出る度不安定になる八戒をどうにかして落ち着かせようと、悟浄は八戒を抱きしめて優しくその背中を撫でた。
「なあ、おまえ。なんでそこまであの娘の事を気に掛けるんだ?何か気になることがあるなら、教えてくれないか?」
 悟浄の声色はひどく優しかった。なすがままに悟浄の胸に顔を埋めていた八戒は、しばらくしてやっと顔を上げた。つい先刻まで取り乱していた様子など微塵も感じさせずに、けれどひどく不自然な笑みをその顔に浮かべて八戒は淡く微笑んだ。
「すみません。何でもないですから。」
 悟浄は息を呑んだ。

 どうして八戒は俺にまで嘘をつく?どうして俺に本当の心を見せない?
「―――そんな顔、すんじゃねぇよ。」
 低く囁かれた言葉に八戒は怪訝そうな顔で悟浄を覗き込んだ。
「あ、あの。」
「それが、何でもないって顔かよ。いい加減にしろよ!」
 吐き捨てるように投げ付けられた言葉に、八戒はびくりと体を引いた。
「悟浄、手を放して下さい。肩が痛い。」
 怯えた顔で見上げてくる八戒を悟浄は険しい目付きでぎらりと見下ろした。
「俺になんか、何も言う必要ねぇって思っていやがるのか。―――そうなのか、そうなんだろう?ええ?」
 畳み掛けるように浴びせかけられる罵声に八戒は身を小さくして耐えた。
何も言い返して来ない八戒を、悟浄は砕けるばかりに掴んでいた手を放して茫然と見つめた。
「―――そんなに俺が疎ましいか。」
 痛々しげなその響きに八戒ははっと顔を上げた。顔を背けて何かにじっと耐えている悟浄の姿に八戒の胸は痛んだ。
がくりと肩を落とした悟浄の腕に八戒は慌てて取り縋って、何度もかぶりをふった。
「違います、悟浄っ。疎ましいなんて思ってないです!そんなんじゃ、ないんです!」
 ゆるゆると悟浄が八戒の瞳を覗き込む。
「じゃあ、言えよ。おまえが隠してるものを見せてみろよ。―――頼むから。」
 らしくもなく悟浄の語尾が震えた。八戒の瞳の中のひどく真剣な顔をした自分に気づく。
「なあ。」
 小さく促されて、八戒は言葉に詰まった。その様子を拒絶と受け取ったのか、悟浄の瞳に決定的に傷ついた色が浮かぶのを八戒はなすすべもなく見つめていた。
 しんと、沈黙が心に突き刺さる。お互いの瞳の中に己の姿は映っているのに、心は見えなかった。
 ただ、互いの存在自体が刃となって愛しい相手を切り裂いているのは、二人とも理解していた。
けれど、八戒は動けなかった。何か言わなくてはと思うのに言葉は出て来ない。何を言えば良いのだろう。
どうしたらいいのか八戒にはもう解らなくなっていた。

 こんなに、悟浄を愛しているのに。
 自分の心が自分を縛って何も言えなくさせる。
 僕は、悟浄の心が欲しくて、全部が欲しくて。
 いつか。―――いつか、僕はこの手で悟浄を殺してしまうかもしれない。

 己への恐怖に八戒は身体を震わせて、ただ佇んでいた。
 悟浄が顔を逸らして、八戒に背を向ける。

 一陣の風が彼らの間を通り過ぎる。白い花びらがまとわりつく。

 どこからか、少女の声が聞こえてくる。狂気を含んだ笑いが、彼らを嘲笑うかのように響き渡る。
 はっと振り返った悟浄の前に白い世界が何処までも続いていた。少女の姿は勿論なく、そしてまた、八戒の姿も目の前からかきけすように消え失せていた。
 そこに残るのは、ただ、降りしきる花びらだけだった。

 悟浄は凍りつくような恐怖に駆られて、無我夢中で白い花影の中を走りだした。花びらがまとわりついて、視界を遮る。
 目を離したのは一瞬だった。胸を切り裂く痛みに耐え兼ねて目を逸らした俺を、八戒はどう思っていたのだろう。
 消えたのは、八戒の意志だろうか、それとも……。
 こんな異界で周りの気配を窺うのも忘れていた俺が馬鹿だった。
 いつも、想っていた。目を離すと八戒は何処かに行ってしまうんじゃないかと。すぐにこの手を擦り抜けていってしまいそうになるから、何時だって抱き締めて、離さないでいたいのに。   八戒は、それを許してくれない。
 届きそうで届かないその距離がもどかしくて、もどかしくて、俺は力づくで八戒の心を開かせようとしてしまう。その心の内を全部見せろと、ぐらつきやすい八戒の心をずたずたにしてしまいそうな気持ちを押さえて、これまでギリギリのところで踏みとどまってきた。
 いつまで、堪えられるだろうか。八戒が自分からその手を差し出してくれなくては何の意味もないことくらい解っているのに。
 八戒に笑っていて欲しかった。作り物の笑顔でなく、俺にだけに許してくれる顔で。 八戒の心の全てが欲しくて。こんな気持ちは初めてで、どうしたらいいか解らなかった。
 解っていることはひとつだけあった。八戒が隣にいないのは。
 喪うことだけは、許せなかった。
 そんなことになってしまったら、俺は。

 悟浄は走る。
 行く末の見えない曖昧な世界の中を、ただひとつだけ譲れない想いを抱いて。



 随分長い間ぼんやりしていたように感じて、八戒はふっと顔を上げた。
頭の芯が白く痺れて、何故自分がここに一人でいるのかいまいちはっきりしなかった。
何か大事なことを忘れている気がして、八戒はゆっくり周囲を見回した。
 つい今し方までそこには何もなかった筈なのに、不意に目の前の空間に巨大な桜の老木が幻のように現れた。
満開の桜は果てしなく古いものだと、教えるものは何もなくても八戒に容易に知らしめた。
 ただの木などではなく何かが宿っているような、生々しい息吹が妄執となって八戒に押し寄せてくる。
圧倒されて見上げる八戒の横顔にざあーっと風が吹いて、白銀の花びらを散らした。
 此処に漂っている花びらは全てこの木のものだ、と八戒は直感的にそれを理解した。
この木がこの異界の中心であり、この木の妄執がこの異界を作り上げているのだとぼんやりと思う。それは間違いのないことのようだった。桜の前に、この空間に入り込んでしまったときに擦れ違った着物姿の艶やかな女が立っていたからだ。
 息が詰まるほどの花吹雪が八戒の思考力を少しづつ奪っていくようだった。
ざわめく風で何も聞こえないというのに、その女の赤い口許から零れるくすくすという忍び笑いだけが耳の側で纏わりつく。
それは、美しく、けれどぞっとするような光景であった。
 八戒は魅入られたようにその女から目を離すことが出来なくなっていた。
 あれはよくないものだと、身体の奥から危険を告げる声が聞こえてくる。
 あれは見てはいけない、自分の心の奥を引き擦り出してしまうもの。
 目を離さなければ。そう思うのだが既に身体は八戒の思うままに動かせなくなっていた。
 ふっと女の周囲の空気が揺れる。白い着物が淡くぶれて、静かに女が歩きだした。ゆらりゆらりと一歩づつ近づいてくる。
透けるような白い腕がすーっと上がり、八戒の頬に美しい指が触れた。
「……みんな、去っていってしまった。あたくし一人を残して。」
 舞い散る桜の下、去って行った者を想い続けた女のイメージが八戒の脳裏に浮かぶ。
残されてしまった者の哀しみとせつなさが非常なリアリティをもって八戒の心を抉った。
―――この気持ちを、僕は知っている。もう二度と感じたくない、この痛み……。
「ねぇ、だから、あなたはあたくしと一緒に来て?」
 舞い散る花と同じ白銀の瞳に狂気が宿っていた。そしてまた、その奥に深く癒されることのない孤独がひそんでいるのにも、八戒は気づいてしまった。
 濡れたように光る瞳は美しかった、けれども目を背けたくなる気持ちを押さえることが出来なかった。
逸らそうとしても一瞬の瞬きすら許されず、呪縛されたように身体はぴくりとも動かせなくなって、視界全体がその女の瞳に飲み込まれていく。
   この瞳も、僕はよく知っている。そう、これは、まぎれもなく僕自身だ……。
 くすくす洩れる女の笑いが次第に高くなっていく。胸を裂くような笑いの中、女は誰にともなく語り始める。
「あたくしを捨ててあのひとは行こうとした。あたくしはそれが許せなくて、この手であのひとを殺めたわ。それで全部があたくしのものになると思ったのに。―――あのひとはいなくなってしまった。待って待って待ち続けたけれど、もう、どこにもいないの。―――もう、あのひとでなくてもいい。誰でもいいの。あたくしと、来て?」
 頬を掠めて降りしきる花弁は、この女に取り込まれた人々のいのちなのだと八戒は白く霞始めた頭の中でそう思った。
 これまで、この女はどれだけの人々を喰ってきたのだろう。あの少女もこの女に喰われた犠牲者の一人なのだと八戒は気づいた。
 喰われて、この結界の中、どこにも行けずに花びらとなって漂うのは苦しいだろうと八戒はぼんやりと想った。
けれど、彼ら以上にこの女を哀れだとも想う。
 これ程の妄執を抱えて存在するのはどんなに辛いことだろう。自分の心の奥に同じ妄執が確かに在るから、八戒にはそれが痛いほど解った。
 激しすぎる想いが自分の心を喰らうのを、解っていながら止めることが出来ない。
 八戒の瞳はもう、目の前の桜妖に成り果てた女の姿など映してはいなかった。白銀よりも、もっと眩しい真紅が視界一面に広がる。
 それは、血ではなかった。血と見まごうほどに赤い、彼の髪。彼の瞳。
 自分でも持て余してしまう程の強い想いをぶつけたりしたら、相手の方が壊れてしまう。―――いや、受け入れて貰えなくて、己から逃げ出してしまうのではないかと心の底で怯えている自分がいるのを、八戒はずっと見ないようにしていた。
 悟浄の心に不信を抱いているわけではない。ただ、彼を信じ切れない自分の弱さが心の奥にひそんでいた。
 知られるわけにはいかない、と八戒は想う。
 身体は動かない。八戒は桜妖の妄執に取り込まれようとしていた。



 ざわざわと風が揺れる音がする。その中に微かな声が混じっていることに悟浄は気が付いた。鋭い眼光をその顔に浮かべながら、足を止めて油断なく周りを見渡して窺う。
「誰だ?」
 問いかけに応えはなかった。ただ、再び小さな声が先刻よりもはっきりと耳に届いた。
「こっち。」
 そう悟浄を呼ぶ声は、先刻いきなり姿を消した少女のもののようだった。それは先程とはうって変わった、静かだけれどもしっかりとした声だった。
 今はどこにも狂気の影は感じられないその声が呼ぶ方へ、悟浄は覚悟を決めて再び走りだした。


 どのくらい走り続けたのだろう。息が弾み、呼吸が荒くなるころ、不意に悟浄の視界が開けた。一面の白い世界の中、降りしきる花びらの向こうに桜の老木がけぶるように淡い光を放っていた。
 その桜の前に、八戒はいた。ぞっとするほど美しい、魔性の女の胸に抱かれてぼんやりと在らぬ方向を八戒は見つめていた。
「八戒!」
 悟浄の叫びはその耳に届いていないようだった。返事をしない八戒の顔は硬く無表情のままだ。
彼の全身は白く霞んで輪郭も淡くなっているように悟浄は感じた。八戒の存在する力が弱まっているのだ、と気がついて悟浄はぞくりと背筋に悪寒を走らせた。
 八戒をその胸に抱いたまま、女は顔を上げてにーっと笑った。淡く光る白い姿の中で、そこだけ色を持った赤い口唇が妙に禍々しかった。
   あの女は危険だ。悟浄は一瞬にしてそれを悟った。
 首筋がちりちりする感じがして、悟浄は手にした錫杖を女に向けて狙いを定める。
八戒を傷つけたりしないよう細心の注意を払って悟浄は女の頭に向かって力の限りそれを投げ付けた。
 赤い口唇が悟浄を嘲笑うかのごとく歪む。その瞬間錫杖は女を擦り抜け、がらんと乾いた音を立てて遥か向こうの地面に転がり落ちた。
 くすくすと女の零す笑い声が風に乗って悟浄の元へ届く。
―――どうして?
「もう一度そんな真似したら、次はあなたの愛しいひとが傷つくことになるわよ。」
 心底おかしそうに笑う女に向かって悟浄は走り寄った。
「八戒―――!八戒―――  !」
 無我夢中でその名を呼べども、八戒のまなざしは何も答えなかった。
ただ、女に顔の向きを変えられたのか、じっとその緑の瞳は底知れぬ光を湛えたまま悟浄の顔を見つめていた。八戒を取り返そうと足掻く悟浄が走るほど、その姿は遠くなっていく。
 焦りのあまり、もつれた足によろめいて悟浄はがくりと膝をついた。地面に降り積もった花びらを右手でぎゅっと握りしめる。
淡い色の花びらの上につーっと赤いものが滴り落ちた。爪が掌を喰い破ったことにも気づかずに、悟浄は八戒を強く強く見つめた。
 日頃見せる飄々とした顔は既に消え失せ、ただ一途に思い詰めた男の表情をして顔を歪ませる。
その視線の先にある八戒の姿は少しずつこの世界から消え逝くように、白くけぶり遠ざかっていく。
「頼む。頼むから、そいつを返してくれ。」
 ひどく掠れた声が悟浄の喉から絞り出される。血を吐くような声色で悟浄は続けた。
「そいつが、―――そいつが、いなくちゃ、……俺は。」
 固く握り締めたままの拳を何度も何度も悟浄は地面に叩きつけた。血の滲む拳が振り下ろされる度に、地上の花びらがふわりふわりと宙に舞い上がる。
 彫像のようにぴくりとも動かなくなっていた八戒のまなざしが、いつのまにか微かに震えていた。消えかかる姿の中でただ瞳だけが確かな色を持って悟浄を見つめていた。
「仕方のない坊やたちね。では、あなたたち自身で決めるといい。この先、どうするかを。ねぇ?」
 するりと八戒の首に腕を回して細い顎に女は指を掛け、優しげに囁いた。いや、優しげと思うほど柔らかな声なのに、それは聞く者の心をひどくぞっとさせるようなこの世の者では出し得ない響きを帯びていた。
「ねえ、どうするの。あたくしとともに行く?それともあの男の元に帰る?さあ、言いなさい。」
 くっくっと湿った笑いを含ませて、女は楽しそうに口唇を吊り上げた、
「八戒  !」
 悟浄の叫びが届いていないなんてことは、もはや在り得なかった。緑の瞳がその心を映すように戸惑い、揺れていたのだ。
「八戒!俺をっ、俺の名前を呼べっ!」
 縋るような叫びを自分が上げているのも、みっともないとは思わなかった。そんな取り繕っている余裕など、悟浄にはなかった。
 けれど、聞く者の心まで痛くさせるような声にも八戒は何も答えない。
ただ、ゆるゆると上がり始める腕から束縛を解くように花びらのかけらが剥がれ落ちて、ゆっくりと八戒はその顔を手で覆い隠した。
白い指の隙間からすーっと一筋の涙が零れ落ちるのを、悟浄は息を呑んで見つめた。
「どうしてだ!八戒っ。何故俺に答えないんだ!」

 どうして、と問われることが辛かった。―――八戒は想う。

 ざあーっと風が吹いて花びらが舞い上がる。霞む視界の向こうで悟浄が自分に手を差し伸べているのが、見える。けれどなりふり構わず自分を求めてくれる悟浄の姿を真っすぐ見ることは出来なかった。
 ずっと秘密にしてきた。僕の想い。―――僕の醜い心を。

 愛している。愛している。愛している。気が狂うほど、悟浄を。
 いや、狂うほどなんかじゃない、僕はもう、おかしくなってしまっているのかもしれない。どうしたらいいのか解らなくて。耳を塞いで自分の殻に閉じこもって、見たくない自分の心を隠して―――。
 悟浄は知らないのだ。どんなに僕が醜いのかを。
 彼に見せられない心を抱いている僕に、悟浄は気が付いていない。
悟浄が愛していると告げてくれた僕はどんな僕なのだ?―――こんなに醜い僕であるはずはないのに。
   彼が見ている僕の姿を確かめるすべはなかった。

 悟浄の名を呼びたかった。愛していると伝えたかった。

 口唇まで出かかった彼の名が、喉の奥に消えていく。

 僕の全てを認めて欲しくて。けれど、僕の全てを伝えることは出来なくて。
 その、あまりにもエゴの塊のような考え方をする自分が、堪らなく嫌だった。


 顔を覆う指の間から、幾筋も幾筋も涙が零れてくるのを悟浄は愕然とした面持ちで言葉もなくして見つめていた。
 八戒が、壊れてしまう。早く、何とかしなければ。
 どくどくとこめかみの血管が立てる音を聞きながら、悟浄は動揺のあまり巧く回らなくなってしまった頭を激しく振って、荒い息を吐いた。

「ねえ。決めれないのね?じゃあ、あたくしが決めて差し上げるわ。」
 二人の苦しむ姿を楽しげに眺めながら、女は妖艶に笑った。
「あの男を、その手で殺しなさい。そしてこの桜の見せる夢の世界で、永遠の眠りにつくがいい。さあ。」
 優しげに囁かれるその言葉を耳にして、八戒は指を己の頭にぎりっと音がするほど食い込ませた。

 自分の心の闇から抜け出そうと、八戒はただひとりのひとの名をその胸に思い浮かべた。 ここで、終わりになんかしたくない。
 剥き出しにされた心は叫ぶ。

 あのひとの隣で、―――生きていくんだ。
「さあ。早く。」
 女が再び促した。
「で、……きま、せん。」
 八戒は消え入りそうな声で、切れ切れに言葉を絞り出した。かっと女の瞳が見開かれて、八戒の首に廻された手の爪が喉を切り裂こうと鋭く伸びる。

   駄目だ。八戒を喪うわけには、いかない。
 
 走り出した悟浄は、何か固い物を踏み付けて転び掛けた。ちらりと下を向いた悟浄の目に、先刻女の身体を透かして遥か向こうに落ちたはずの己の錫杖が入る。
 訝しく思う暇などなかった。再び駆け出しざまにそれを拾い上げ、振りかぶって女に向かって行く。
「おおおおお   !」
 腹の底から込み上げてくる声を向けられても、女は悠然とした笑みを浮かべたままだった。
そして更にその笑みに嘲笑の色を加える。
 時がその流れを止めたかのごとく、ゆっくりとコマ送りのように悟浄が少しづつ女に近づいていく。
 そのとき、女の背後にそびえる桜の老木の根元に、最前出会った気の触れた少女が音もなく現れた。
「こっち。」
と、再び悟浄の頭の中に少女の声が響いた。少し哀しげに伏せられた瞳に淡い笑みを浮かべながら、少女は悪い夢から覚めたような顔をして桜を指さした。
「あのひとが、やっと迎えに来てくれたの。この桜がここで咲いている限り、私はあのひとの元へは行けない。―――だから、この花を全部散らして。」

 叫ぶ自分の声が、遠くの方で聞こえる。全速力で駆けているはずなのに、妙にゆっくりした時間の中で、悟浄もまたこの少女が被害者なのだと悟った。
少女の揺れる気持ちがこの桜妖に同調した所為で、狂気に取り込まれ己の手を愛した者の血で汚した。
 自分の弱さの所為で恋人を失い、共に歩むはずだったかもしれない未来をなくした少女を悟浄は哀れだと思い、また今まさに自分たちが陥りかけているその運命を肯んずるわけにはいかないと土を蹴る足に更に力を込める。
 ゆっくりと錫杖を振りかざす。にーっと桜妖が笑う。渾身の力で投げられたそれが妖の頭上を越えて、―――桜の中心を貫いた。
 瞬間、ざあっと地面から宙に向かって風が吹き上がった。すべての花びらが吹き荒らされ、白い世界の中を舞う。
 桜妖の口からしわがれた叫びが響き渡った。叫びと共に白銀の血がその口から溢れ出してくる。
 嵐のような花びらの中、悟浄は無我夢中で八戒の元へと駆け寄った。崩れ落ちていく桜の向こうに少女が笑いながら手を振って消えていくのが目の端に映る。
 本当に誰かが迎えに来たのかは、よく解らなかった。ただ、少女が苦しさから去っていこうとしているのはうすうす理解出来た。
 悟浄の脳裏に宿の主人の言った言葉がふと浮かぶ。
   山を、下りて来てほしい。
 少女にその言葉は伝わったのかもしれないと、悟浄は思った。

 桜妖の身体も端の方から花びらに変わり、宙を舞う花びらに混じりながら消え始めていた。
その口許にふわりと柔らかな笑みが浮かんだのを悟浄はもう見てはいなかった。
永遠の孤独の終わりがきたことを女も喜んでいたのかもしれない、ということを、だから誰も知るよしもなくその狂気と哀しみに彩られた世界は消えようとしていた。

 だがしかし、その世界の変容に気づくこともなく、すべてを拒絶するかのように耳を手で塞いだままの八戒の細い身体を悟浄は折れんばかりに抱きしめた。
「八戒!八戒!」
 腕の中で抗う八戒の耳元で悟浄は何度もその名を呼び続けた。
「頼むから、こっち見て。」
 首を振り続ける八戒をどうにかして宥めようと悟浄は声をひそめて囁いた。
 八戒の息に小さく嗚咽が混じる。
「ど、うしてっ、あの、妖を、殺してしまったん、ですか?」
 掠れて聞き取れないほど小さく八戒は、なじるように悟浄に問いかけた。
「それは、おまえが殺されると思ったから…。」
 おまえを喪うわけには、いかないから。
 そう悟浄が続けようとした時、八戒はようやく顔を上げた。緑の瞳から涙が零れ落ちる。
「あのひとは僕と一緒ですっ。あの桜妖は僕とそっくりだった!―――僕のことも殺しますか?あの女にしたように!」
「ばっ、するわけねぇだろ!何言ってんだ!」
「あの女を受け入れられないのなら、僕のことだって!」
「八戒、落ち着け!おまえ、何言ってるのか、さっぱり解んねぇよ!」
 悟浄は焦って八戒の肩をひどく揺さぶった。その襟元を掴んで八戒は悲痛な声を出し続けた。
「僕には解るんです!僕はいつか、あの妖と同じ生きものになってしまうって!―――愛したひとを自分のエゴで殺して、無限の苦しみに堕ちていく僕の未来を見せられていると思った!」
「おまえ、言ってることが無茶苦茶だ。おまえの姉貴を殺したのはおまえじゃない。混乱するんじゃねぇ!」
「混乱なんかしてません!花喃のことじゃない。いつか、いつか、僕は、あなたを」
 言葉に詰まって八戒は悟浄の胸に顔を埋めた。
 心の奥から這い出た闇を、もうとめることが出来なかった。
心が悲鳴を上げる。

「―――殺して、しまうんです。」

 ぴたりと時が止まったかのような静けさが舞い降りる。
「―――それは、俺を愛してるってことか?」
 おずおずと、悟浄は少年のように小さく問いかけた。
 八戒は肯定も否定もせずに、悟浄の胸に顔を埋めたまま動かなかった。
「―――僕は、怖いんです。」
 小さく呟いた八戒はそれ以上口にすることが出来ないように、不意に黙り込む。

 ひどく重い沈黙だった。
 肩口が微かに震えている。顔を上げようとしない八戒を悟浄はぎゅっと抱き寄せた。
「俺も、……怖いよ。」
 怖いなんて感情を見せることはみっともないと思っていた自分がすごく遠く思えるほど
それは自然に口をついて出た。
「おまえをなくすかもしれないと思うのは、俺だって怖い。―――だから、おまえがどっかに行っちまわないように、ずっと抱きしめていたいと思うよ。」
 真摯に、悟浄は八戒の耳元で囁く。低く紡がれるその言葉を理解しているのかいないのか、八戒は悟浄のシャツを握り締める手に力を込めた。その拳が、白く震える。
「僕は、あなたにそう想って貰えるほどの、存在じゃ、ないんです。」
 震える声で八戒はようやくそれだけを絞り出した。
「……悪いけど、おまえにだってそんなふうに言われたくない。俺がおまえを大事に想う心は俺自身のものだからだ。おまえが嫌だと言うなら、もう、口に出したりしないけど。」
 低く囁かれるその声色に悲痛な響きを感じて、八戒ははっと顔を上げた。目の前にひどく淋しそうな顔をして微笑う悟浄がいる。
「―――やっと顔を上げてくれたな。」
「……悟浄。」
 八戒はそれだけ呟くとゆるゆると首を振った。
「違うんです、悟浄。―――そんな顔しないで下さい。」
 そう言われて悟浄は反対にその淋しげな笑みを一層深くした。
「あなたは、知らないんです。―――僕が」
 言いかけて、八戒はそこで口籠もった。
 悟浄のまなざしが痛かった。髪を撫でてくれる悟浄の手が温かくて涙が出そうになる。
「僕が、どんなに―――醜いのかを。」
 聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの小さい声で八戒は囁いた。ともすれば風に攫われてしまいそうなその言葉を耳にして、悟浄はせつなさが胸に溢れてくるのがとめられなかった。
「知ってるよ。おまえの言う、醜いおまえが何なのかは、知ってる。」
 言い聞かせるようにしっかりした口調で告げられた言葉に、八戒は驚愕のあまり目を見開いた。
「悟浄。今、何て……。」
 愛しそうに微笑んで悟浄は続けた。
「けど、それを俺は醜いとは思ってない。おまえは綺麗だ。―――その激しすぎる心も全部。」
 だから、それを、俺にくれ―――。
 悟浄は真剣なまなざしで告げた。
 
 風が吹く。今はもう幻となった花びらがはらはらと舞いおちる。
「おまえが隠したがっている、どうしようもないおまえも、傷つくことに怯えるおまえも、エゴ丸出しのおまえも。全部、欲しい。
 俺を殺したいのなら、殺してもいい。けど俺が死んだ後に、ひとりで壊れていくことが怖いのなら、俺が、死ぬ前におまえも一緒に殺してやる。だから。おまえは、ひとりでありもしない未来に苦しまなくてもいいんだ。な?」 
言い含めるように説いきかせて、悟浄は八戒の深い瞳の奥を覗き込んだ。
 その緑の瞳からつーっと涙が滴り落ちた。幾筋も幾筋も後から後から溢れ出してくる涙。
 八戒は悟浄の腕を力の限りに握り締めた。悟浄の瞳の中に自分の姿が映っていた。

 僕は悟浄の何を見ていたのだろう。いつだって悟浄は僕を受け入れてくれていた。
 そう、出会った頃から。
 僕の過去や、醜い想いや、弱さも全部、受け入れてくれてたじゃないか   。
 そんなことで離れていこうとするひとじゃ、なかった。
 悟浄はそういうひとなのに。そういうひとだから、僕は。

 涙が止まらなかった。堪えていた嗚咽が洩れて、肩が震える。

 絶対なんか、世の中に存在しやしないのに。

 自分の言葉に返事もせず泣き続ける八戒を、悟浄は想いの丈を込めて抱きしめた。
そうすることでしか、この身に溢れてくる想いを伝えることは出来なかった。
 何も言わない悟浄の腕が、何よりも雄弁に物語る。

 絶対なんて、ありはしないのに。

八戒は独白する。

 それでも―――。それでも、この身を抱くこの腕を、離せないのは、何故?


 白い世界の中で、花びらの幻が散りゆく。
 舞い落ちるそれが、ふたりの肩に、背中に降る。
 ただ、―――音もなく。






 ふっと八戒は眠りの中から目を覚ました。柔らかな光が窓の外から入ってくる。
 朝のようだった。視線だけでそれを窺いながら半覚醒の頭で、ここは何処だろうかとぼんやり考える。
もう一度瞳を閉じておぼろげな記憶を辿り始めた。
 ああ、そうだ。ここは宿屋だ。

 霧はあれからしばらくして嘘のように晴れた。そのあと三蔵と悟空にはすぐに合流出来た。
彼らはあの霧に呑まれなかったようだった。もちろん異界も桜も花びらの舞い散るのも彼らは何も見ていなかった。
 あの異界の中で、僕と悟浄は随分長い時間を過ごしたように感じていたのだが、よくよく話を聞いてみれば時間はそんなに経っていないことが判明したのだ。不思議ではあったがそういうこともあるかもしれないと、格別驚くまでもなく納得してしまった。
 三蔵達からしてみれば、後から来るはずの僕達が中々姿を現さないな、と思っていた矢先に気配を感じて振り返ってみたら急に僕達が現れたということらしい。
 様子のおかしい僕達を見て、三蔵は訝しげな顔をした。
「何か、あったのか?」
 そう問われて悟浄は片頬だけを上げて、笑ってみせた。
「別に。」
 肩を竦めて再び歩きだした三蔵達の後に付き従いながら、僕は後をふっと振り返った。
 そこには花びらの舞い散る異界の面影は何処にもなかった。立ち止まった僕に気づいて悟浄がそっとその手を僕に伸ばした。
「行くぞ。」
 そう言って僕の手を引く彼の掌は、とても温かかった。

 ただの、幻。
 それだけでは片付けられないものを心に残したまま。
 僕らは何もなかったように山を下りたのだった。



 ぼんやりと昨日の出来事を、八戒はベッドに身を起こして窓の外を眺めながら思い浮かべていた。
ふと、隣のベッドに目を移す。寝乱れたシーツと彼がそこに眠っていたのだと何よりも確かに知らしめる彼の匂いを感じて八戒は幸せそうに目を細めた。
 ここに彼がいなくても、いつも側にいてくれるのを感じる。
 うっすらと笑みを零した八戒の耳にかちゃりと小さな音が届くのに続いて、悟浄がそっと気配を殺して部屋の中に入って来た。
「おう。なんだ、起きてたのか。よく、眠れたか?」
「はい。」
 笑いながらそう言うと、悟浄は窓辺に歩み寄って硝子越しに外を眺めた。
「もう、朝飯すませちまったよ。おまえ、よく寝てたから起こすの忍びなかったし。―――昨日は疲れただろ?」
 淡い笑みを浮かべたまま八戒は、いつもと変わらない悟浄に頷いた。 
「さすがに、山越えは思ったより堪えましたね。でも、よく眠れたので今日はもう大丈夫ですよ。」
 他愛のないことをいつもと同じように話すふたりに、冬の終わりの明るい日差しが差し込んでくる。
 きらきらと光るものが窓の外に舞った気がして、八戒はベッドから身を乗り出した。
「あ、花。」
 悟浄はそれを確かめようと、窓を開けて空を振り仰いだ。
「いや、雪だ。今年最後の雪だな。」
 澄み渡った青空と春を思わせる日差しの中、何処から運ばれてきたのか、きらきらと光る雪のかけらが幾つも舞い落ちる。
「―――綺麗ですね。」
 そう呟いた八戒の声に、悟浄は窓を閉めて振り返った。
「―――悟浄。」
 小さく呼びかけて、八戒はふわりと微笑った。作りものではない柔らかな笑みにつられて悟浄も笑い返した。
 同じような部屋。同じような会話。それなのに昨日とはまるで違う時間が流れていく。
 暖かな気持ちがふたりの心に溢れてくる。

 ゆっくりと悟浄は八戒に歩み寄った。真剣な顔をして悟浄は八戒の少し痩せた頬に手を触れる。
その手がとても温かくて、八戒は口元に笑みを浮かべたままそっと瞼を閉じた。
 こうやって八戒が身を委ねてくれたのが嬉しくて、悟浄は目を細めて八戒を見つめた。

 ゆっくりと、少しづつ、心が近づいていく。

 八戒の薄く開いた口唇に、悟浄はそっと接吻けた。その感触に身を任せていた八戒の指が無意識に悟浄の手を握りしめる。

 ただ、愛しいと、それだけをふたりは同じように感じていた。

 愛していると、悟浄にちゃんと伝えられる日は、いつ来るのだろうか。
 そのときの悟浄の顔が早く見てみたいと、八戒はそう想った。







追記:蒼穹の彼方のシリーズの中のお話です。見果てぬ夢とグローリディズの途中のお話。
しっかしまあ今と書いている物がまったく変わりませんね!