《法蔵寺》 愛知県岡崎市
上、左とも法蔵寺の山門です。
階段下から見るとまるで大河のオープニングのよう。
私以外人っ子一人いません。
でも真似して駆け上がったりなんかしてませんからね(笑)
静かで古いお寺です。
ちょっと見ずらいですが、近藤勇遺族植樹と書いてあります。
平成6年のようです。
6年という字がちょっと滲んでるのでもしかしたら違うかも。
そんなにまだ大きくない木です。
後ろに翻ってるのは「誠」の旗。
本堂から左手の山の中に入っていく道に立っている看板。
しかし何故隊長なのでしょう?
近藤勇の胸像です。見覚えのあるお顔です。
鬱蒼とした山の中にひっそりと立っています。
ひとの気配はまるでしません。
ものすごく長く手を合わせてしまいました。他にひとがいなくてよかった(笑)。
光が入っていい感じに写真が撮れましたv
これが首塚です。
石碑には何も書いてありません。
卒塔婆が二つ並んでいます。
戒名は「貴天院殿純義誠忠大居士」と書いてあります。
こんな感じに並んでいます。
誠の旗についている折り目のくっきりさ加減が、普段の年はこんな風になっていない証明みたいですね(苦笑)
隊旗(もどき)もこんなに!
ちょっと珍しいアングルの局長。
髷を結わえてるのは本当の紐のように見えました。
首塚の台座に土方さんの名前を発見しました。
一番右側に書いてあります。
とっても静かで人の来ない場所に塚はあります。
そばにあった由来を書いてある看板にはこう書いてありました。
読めなかった文字は○としてあります。
《近藤勇首塚の由来》
新選組隊長近藤勇は慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五歳で東京都板橋の刑場の露と消えました。
刑後、遠親者が埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
また、勇の首は処刑後塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。
これを同志が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた行京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼することにしました。
しかし和尚はその半年前から三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので、法蔵寺に運ぶことにしました。
この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏のように沓○していました。
そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
昭和三十三年に総本山の○○に基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。
今回石碑を蓋っていた土砂を取り除き、勇の胸像を建てて供養することにいたしたのであります。
とのことです。全く近藤自身には縁も縁もない土地にこの首塚があること自体が、
ここが本当に埋葬された地の証明に思われてなりません。
石碑は一体いつ誰が作らせたのでしょう。
首を取り返しにいった同志は一体誰で、誰の命令によってでしょうか?
台座に土方さんの銘があります。
他の方の名前も何人か並んでおりましたが、右端、というのは発起人の場所に思われます。
ちょっと涙が出ました。
また局長のお顔を見に行こうと思っています。
2004/12/15 日高朔