ゴォーン、ゴォーンと鐘の鳴り響く音が聞こえる。
夜明けを告げる鐘の音だった。また、朝が来るのだ。
悟能は四角に切り取られた、まだ明けきらない空を寝床から見るとも無しに眺めた。

寺院に拘束されて三日目の朝だった。
三仏神の裁可が下 りるまで、ということでこの部屋に閉じ込められているの だが、その時が一体いつになるのか悟能にはまるで見当もつかなかった。
それがいつでも僕には関係のないことだ。そう悟能が苦笑して、寝返りを打ったときだった。どんどんと乱暴にドアをノックする音が耳にはいる。
「そんな大きい音を立てなくても、起きてますよ。
何か御用ですか?」
「 ──── 三仏神様がお召しだ。さっさと支度をしろ」
ドアの向こうに立っていたのは、今まで見たことのない僧だった。食事の世話をしてくれていた者達とは明らかに階級の違う僧が、悟能をぞんざいに急き立てる。
入口で手枷を付けられた悟能は、ふと後ろを振り返って窓から覗く薄青の空を見上げた。
ふっと口許だけで微笑う悟能を見咎めて、
「何をしている!」
と、僧は声を荒げた。
「 ──── すみません。」
そう言って、悟能はその表情を隠すかのように俯いた。
窓の外に何を見ようとしたのか、それは彼自身にも解っていなかったのだが。
その薄い背を、夜明けの光が一筋照らし出した。


寺院の奥へ、奥へと回廊は続いていく。僧は一言も発しなかったが、朝のお勤めの読経が遠くから殷々と響きわたる為、静けさは感じなかった。
一際、荘厳な扉の前で、案内の僧はぴたりと立ち止まった。
「ここからは、お前一人でという指示を受けている。」
その場から動こうとしない僧を尻目に、悟能はギィーっと重い音を立て、扉を開けた。
そこは薄暗い空間がどこまでも広がっているようだった。余人の立ち入りを許さない、清浄な空気が満ちる。
深く息をつくと、悟能は顔を真っ直ぐ上げ、その中へ足を踏み入れた。
無限に思われた空間の中に、青い幻炎が踊る。無意識に足を止め、息を詰めてそれを見つめていた悟能は、しばらくしてその中に何かが浮かんでいるのに気がついた。
と、思う間もなく、それは次第にしっかりとした像を結び巨大な人の形を取り始め、朧々とした声を響かせた。
「 ─── 猪悟能、だな。」
「はい。」
これが噂に名高い三仏神か、そう思いながら悟能は膝を付き頭を下げる。
「ここに呼ばれた意味は、解っているな?」
「はい。」
感情を見せない淡々とした声で、悟能は再び短く返事をした。
「おぬしは人間から妖怪に変化した。千の血と憎しみをその身に受けて。 ──── おぬしで三人目だ。この千年のうちでな。」
悟能は顔を上げずに、じっと三仏神の言葉に聞き入っていた。
「一人はその運命を嘆いて自ら死を選び、もう一人は妖怪の身になりながらも高僧となってこの地にその名を響き渡らせた。
── さて、おぬしならどうする?」
「どうすると言われましても、その処分を伺うために私はここに参りましたのですが。」
静かに悟能は答えた。
「処分は既に決まっている。妖怪として生きてみよ。その生き様が、おぬしの背負うものだ。 ──── 猪八戒と名を改めて市井に下りよ。」
青い幻炎が一段高く舞い踊る。
悟能、 ─── いや八戒はギュッと拳を握りしめた。


三仏神との面会は時間的にはほんの短いもので、八戒が寺院の門から表に出されたのは、まだひんやりとした朝の空気の漂う頃合だった。
早朝にも関わらず、寺院の前は参詣の人々で既に賑わいはじめていた。三仏神と会っていたことが嘘のような気がするほど、ありふれた日常が目の前で繰り広げられていく
しばらくぼんやりと門の前で立ちつくしていた八戒はふいに後ろを振り返った。

結局、三蔵さんに挨拶せずに出てきてしまった。そうふと思い出した八戒の胸の奥で三仏神の言葉が鳴り響く。
─── その生き様が、背負うべきもの。
そんな突然言われても、どうすべきかなんてことすぐに答えが見つかるはずないのに。
挨拶に行ったところで何か言える訳でもない。
自嘲的な笑みを浮かべると八戒は歩き出した。
刻一刻と朝の喧噪が増していく中を、八戒はすり抜けていく。その姿に目を止めるものは誰もいなかった。


時間がゆっくりと過ぎていく。長安の町並みを抜け八戒は行くあてもなく歩き続けた。無数の人影がその横を通りすぎ、幾つかの風景が後ろに去って行く。
日が高くなり、また傾きかけても八戒はひとりふらりふらりと彷徨い続けていた。

ぶつりと音を立てて靴紐が切れたのに気づいて、八戒は夢から覚めたような顔をしてしゃがみこんだ。切れた紐を 結び直していた器用な指がふと止まる。八戒は大きく息を 付くと、そのまま傍らの木にもたれて座り込んだ。
目をつぶってじっとしていると、先刻まで考え続けていた答えのでない想いが再び心を支配してくる。
──── いきなり新しい人生を歩めと言われても、どうしたらいいのかよく分からない。正直言って、終身監禁か極刑だと覚悟していたのだし。
花喃を亡くした喪失感はこの身を喰い荒らして、虚ろな空洞を生み出した。
名を変えて生きようとも、この想いだけはいつまでも僕はさいなむだろう。
このまま知らない街に行き、誰一人知る人のない処で一人で生きていくのか? ─── この想いを抱えて?
ぞくりと背筋が凍る。八戒は無意識に自分を抱きしめるように腕を握りしめた。
一人きりの部屋。
荒らされた室内。
荒んだ空気。
─── 血の、匂い。
夢の空間を壊されたあの日の情景が思い浮かぶ。

己の中の虚無に押しつぶされていく自分の姿が、フラシュバックのように頭の中を駆け巡っていく。
それが過去の記憶なのか未来の姿なのか、それすら混じりあって闇の中に溶けていく。
花喃のくれたものは全部温かな愛に包まれたものだったのに、血の色に断ち切られたあの一瞬にすべてが塗り替えられてしまった。
あの声も、あの手の温もりも、生きてきた年月すべてが痛みとなって容赦なく降りかかってくる。
これが僕に科せられた罰なのか ─── 。

千年のうちに、三人。僕と同じものを抱えた彼ら二人はどんな人間で、何を想って罪を背負ったのだろう。
一人は死を選び、一人は僧になった、か ─── 。
八戒は先人の生き様に思いを巡らせた。
死を選ぶことができるなら、それはどんなに楽なことだろう。すべてをなかったことにして自分自身を無に返す。
だけど、それは僕にはできない。
この手をどれだけの血で染めたのか、今となってはもう解らない、けれど。
僕が花喃を奪われたように、僕が誰かから大切なひとを奪い取ったのは確かなのだ。僕と同じ痛みを抱えて、それでも生きている者がこの空の下にいる以上、加害者の自分がその痛みを放棄する訳にはいかない。

神が赦しても、僕自身が赦すことができない。
けれど。
僕は限り無くエゴイストで、花喃を愛していたのか、自分自身を愛していたのか、花喃の未来が閉ざされたのが哀しいのか、彼女を失った自分が哀しいのか、どれだけ考え続けても答えは一向に見つからない。
しかし、それが僕の背負うべきものなら。

自分の中の空洞に八戒の意識は浸り続けた。
              

                         
真っ赤に染まった八戒の視界にふと人影がよぎる。
血の色と同じ赤を身に纏う男の姿が脳裏に浮かぶ。

──── 悟浄、さん。
乾いた口唇がその男の名を微かに呟く。

雨の中彼に拾われたあの日から、視界がこうやって真っ赤に染まってしまって、自分を手放してしまいそうな時はいつも彼の名を無意識に呼んでいた。
彼の名が自分と現実を繋ぐ唯一の糸であるかのように、いつの間にか思っていたのかもしれない。
赤い髪が流した血を思い出させるから、なんてことは最初のきっかけにすぎなかった。
戒めなんかよりしなやかに彼の心は僕を包んでいたというのに。
彼のくれたさりげない優しさ。

問いつめる訳でもなく、ありのままの自分を受け入れてくれたこと。
何気ない笑顔。
悟能でも八戒でもなかった、自分でも持て余すほどの自分を包んでくれた悟浄。
何度も狂気の中に堕ちていきかかった自分を食い止めたのは、すべて悟浄の存在にあった。
現実より狂気のほうが僕にはふさわしかったのだけれど。

―――堕ちていってしまいたかったのだけれど。

八戒は自分がぽろぽろと涙を流しているのに気がついてはっと目を開けた。
いつのまにか日はとうに暮れ落ちて、周囲は真の闇に閉ざされていた。      
闇に中に白く浮かび上がる自分の手掌に、吃驚するほど温かな涙がとめどなく滴り落ちてくる。
──── ずっと泣いたことなんか、なかったのに。
八戒は、信じられないと呟いた。
花喃が死んだときでさえ、麻痺した心は涙を流すのを自分に赦さなかった。
なのに。

一人では過去に押し潰されて、闇に中に呑まれてしまう。
それを許すことができない以上、一人では生きていけない。
新しい人生を生きなくてはならないのなら。

───── あのひとの、隣がいい。
この気持ちが何と呼ばれるものかは知らないけれど。
側に、いたい。


八戒はもたれかかっていた木に掴まりながら、よろよろと立ち上がった。
あのひとに会っても、何と言えばいいのか解らないのだ
けれど。
八戒は歩き出した。悟浄と過ごしたあの家に向かって。



一晩中ふらふらしたせいで、大して進まぬうちに八戒は自分が今、どこにいるかさえ見当が付かないことに気がついた。
夜の中を手探りで歩き回るうちに、時は刻一刻といたずらに過ぎていく。

八戒がやっとの思いで悟浄の家までたどり着いたのは、既に朝靄が漂い空がうっすらと明け染める頃だった。
唯一、小鳥のさえずりだけが聞こえてくる。人気のない道を辿って、八戒は悟浄の家のドアの前で立ち止まった。
しばらく息を詰めていた八戒は、ドアをノックしようとして上げた手を止めた。
夜明けとはいえ静かすぎる室内の様子に、八戒の鋭敏な神経がこの向こうに人のいないことに気がついたのだ。
張り詰めていた気がふと緩み、八戒はふぅーっと溜め息をついた。中途半端に上げられていた手をゆっくり下ろす。

ここまで来てしまったけれど、本当にこれでよかったのだろうか。
悟浄にとって自分はただの拾い物にすぎなくて、成り行き上面倒を見てくれてただけなんだろうし。僕がいなくてもこうして彼の生活は変わらないのだろう。
あのひとは優しいひとだから。僕だけが特別だった訳じゃない。

ドアの前で八戒は立ちつくした。夜の中を駆けてきた気持ちが次第に萎えていく。
いつしか靄は晴れていき、朝の爽やかな光がうつむく八戒の横顔を照らし出す。
八戒はずいぶん長い間ドアの前で考えこんでいたが、ふと踵を返して来た道を戻り始めた。
立ち去ろうとして二、三歩歩き出してはまた止まる。
そこに悟浄がいないのは分かっているのに、八戒は振り返る。
朝の眩しさに目を細めると、八戒は今度こそ足早にその場を離れていった。





結構、本気だったってことか ─── 。
鏡の中の髪の短い見慣れない自分に悟浄は問いかけた。
あいつがいなくなって数日で急激に荒んだ生活を思い起こ して、悟浄は鏡を睨つける。
あいつが死んだ。と三蔵に聞かされたのは昨日のことだた。それから夜更けまで酒を浴びるほど飲んで、場末の宿に転がり込んだ。女を引っかける気力もなく、家に戻る気分にもなれなかった。
たった一月であいつの匂いの染みついたあの部屋に戻ると、際限なく気分が滅入ってしまいそうだった。
いつも他人とは上辺だけの関係を続けて、後腐れのないようにしてきた。
あんなに他人を自分の生活の中に入りこませたのは始めてだった。客を家に呼ぶことも今までしたことなかったのに。

こんなに滅入るなら、拾うんじゃなかった。
悟浄は昨日からもう何度目かも解らない、大きな溜め息をまたついた。





あてもなく再び歩き出した八戒は、ぼんやりと悟浄と過ごしたこの一ヶ月を思い出していた。
血の匂いは常に自分の身体につきまとってはいたけれど そこには不思議なほど穏やかな日常があった。今思い返せば、それは短い時間だった、と思う。

男の一人暮らしの割に、悟浄の部屋はあまり雑然とした印象を受けなかった。物が少ないせいだ、と八戒が気がついたのは意識が戻って数日がたった頃だった。
その部屋にはコップも箸も椀も一人分しかなかった。不便を感じる度、悟浄はふらりと街まで行って足りないものを買いたしてくる。
一つずつ増えていく自分のものを眺めながら、八戒は不思議そうに悟浄に尋ねた。
「こんなこと聞くの、なんですけど、悟浄さんずっとお一人だったんですか?」
悟浄が自分のことを聞いてこないのに立ち入ったことを聞くのはルール違反のような気もしたが、人付き合いの上手そうな悟浄の家に来客用のカップ一つないのは不自然な気がして思わず疑問が口をついたのだ。
「まあな。」
不審そうな、しかし自分への遠慮が見え隠れする悟能の視線に気づき、悟浄は窓のほうへ顔を背けた。
「別に困ることねーしな。」
淡々と続けられる言葉に悟能は返事をしなかった。それ以上何か聞くことは躊躇われたのだ。
窓から入ってくる風が悟浄の髪を揺らす。赤い髪が揺れる度、彼の頬の傷があらわになる。
このひとは今までどんな人生を歩んできたのだろう。
悟能はふとそう想った。
花喃を亡くして初めて、他人に関心を抱いた自分自身に驚きながらも、悟能は悟浄を見つめ続けた。
それは彼のことを知りたいと思った最初だったのかもしれない。

「さ、メシにしようぜ?」
声のトーンを変えて、悟浄は振り返る。
「じゃあ、僕作りますよ。」
真剣な顔をして見つめていたことを微塵も感じさせない笑顔で悟能は答えた。
身体が動くようになってから、いつの間にか食事は悟能が作ることになっていた。悟浄が出す料理はほぼいつも出 来合いのものが多かったことを見かねて悟能が自分から申し出たことだったが、それは昔から続いていたことのように彼らの生活にしっくりと馴染んだ。
笑顔を浮かべてベッドを下りようとした悟能の視界が僅かにブレる。ぐらりとバランスを崩しかけた悟能に慌てて悟浄は手を伸ばした。腕を掴んでそのままその薄い肩を引き寄せる。
「調子悪いんなら今日は休んでろよ。俺がやるから。」
「平気です。」
悟浄の腕のなかで、自分に向けられる心配そうな瞳を、悟能は見上げた。

──── 人の肌は、こんなに温かかっただろうか?




日は既に高くなっていた。
物思いに耽っていた八戒の足下の影が、少しずつ濃さを増していく。それを八戒は身動きもせずじっと見つめていた。
このままここを離れて、一人で生きていくのか?
それとも ──── ?

くるりと八戒は身を翻した。顔を上げ足を踏み出す。

──── これ以上失うものなんて、ないのだから。

八戒はそのまま早足で街の中へ戻っていく。
悟浄がいるはずの場所に向かって。それがどこかなんて解らない。しかし引き寄せる何かがあるのを八戒は感じていた。
盛り場へ向かう市場を八戒は抜けていく。

「誰かがこうやって帰りを待っててくれるなんて新鮮だ」
「おまえ、飯作ンの、上手いのな。」
「もう、動いても大丈夫なのか?」
「 ─── ムリすんの、よせ。」
「器用貧乏ってか?」

頭のなかで悟浄がくれた言葉がぐるぐる回り始める。
ずきりと胸が締めつけられる。
僕の顔を見たら、あのひとはなんと言うのだろうか?


市場の屋台で林檎を買う悟浄の姿を見つけた八戒は、少し離れた場所で立ち止まった。
髪が短くなっていることに八戒は戸惑ったが、意を決して歩み寄る。
「 ─── 悟浄。」
自分を呼ぶ耳慣れた声に気づき、悟浄は己の見ているものが信じられないといった顔をした。呆然とした顔にゆっくりと笑顔が浮かんでくる。
悟浄の嬉しそうな顔につられるように、知らず知らずのうちに八戒の顔もほころんでいく。
「 ──── 髪、切ったんですね。」
「まぁな。フラれた時は髪切るっつーのが定番かなーって思ってさ。」
幸せそうにくっくっと喉の奥を震わせて笑う悟浄に八戒は首をかしげた。
「振られた?そんなことがあったんですか?」
「ばか。 ──── ま、結局フラれずにすんだってことだよな?こうやって戻ってきてくれたってことは。」
悪戯っぽく眼を光らせる悟浄に、八戒は目を細めて苦笑をもらした。

ほんの少し前までの距離が嘘のようだった。
肩を並べて歩いていく悟浄と八戒の間には、先刻までお互いがひそやかに抱えていた焦躁感など微塵も感じさせない、穏やかで満ち足りた空気が存在していた。
さわさわと風が頬をかすめて、髪を揺らしていく。

街の喧噪も遠い処でさざめいて二人を包んでいく。
八戒はふと顔を上げ、周りを見渡した。
その視線の先には木々の緑が揺れ、空がどこまでも青く続く。
世界がこんなに美しかったことなど、もうずっと忘れていた。
八戒はそう考えてふっと微笑った。そのまま傍らの悟浄を振り仰ぐ。
八戒の眼差しが悟浄のそれと混じりあった。
悟浄は自分を見つめていたらしい。そう気がついて八戒はわずかに動揺した面持ちを見せた。
八戒の歩みが止まる。動揺したはずみに自分が悟浄に言おうと思っていたことがあったことを思い出したのだ。
言わなくてはいけないことがあるはずなのに、いざとなると言葉はなかなか出てこなかった。
二人の間に、沈黙が落ちる。

笑顔の消えた、ひどく真剣な顔をして見つめてくる八戒に、悟浄は笑いを漏らした。
「 ──── おまえさぁ、これからどーすんの?行くあてあンのかよ?」
胸の内を見透かされたような気がして、八戒は目を見開いて言葉に詰まった。
目を細めて、悟浄は肩をすくめる。
「じゃあさ、俺ンとこ来ないか?」
しん、と風の音が止んだ。


──── 悟浄には適わない。言い出せなかった言葉を、悟浄はこうやってさらりと口にする。
決して長いとはいえない付き合いの中でもいつも、悟浄は本当に大事なところはこうやって先回りしてしまう。
先手を取られるなんて、八戒には新鮮な感覚だった。
しかしそれが無性に心地好かった。

八戒の口許に自然に笑みがこぼれてくる。
「 ───── しかたないですね。悟浄一人で今までよく生活がなりたっていたのかが不思議なくらいですし。」
ふっと肩の荷が下りたような顔をする八戒に、悟浄は再び肩をすくめた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。 ──── お世話になるのかしてあげるのか、その辺ちょっと謎ですけど。」
八戒はくすくす笑う。
「言ってろよ。」
悟浄は肘で八戒の肩を小突くと、取り出した煙草に火をつけた。

「クソ坊主ンとこ、文句言いに行こうぜ?あの野郎、おまえが死んだなんてデマ言いやがってさー。」
傍らを歩く八戒の名を呼ぼうとして、悟浄は一息つくと立ち止まった。
「悟能っていうんだって?」
「いえ。新しい人生を歩むようにと、新しい名を貰いました。 ──── 八戒、と呼んでください。」

悟浄の後ろに世界が広がっているようだと八戒は思った。
それはどこまで続いているのだろう。
八戒と名乗ったその瞬間から始まった世界は。

「 ─── 八戒、ね。オッケー。じゃ、行こうか?」
「はい。」
八戒は笑いながら悟浄に答えた。

──── お前が生きて、変わるものもある。

三蔵の言葉が八戒の胸に響く。

自分の手は血の匂いが染みついたままで、雨の夜はこれから何度でも悪夢にうなされるだろう。

だけど。
こうやって悟浄の隣で歩いていける日々が、いつまでも続くのなら。
そんな夢を見ることが許されるのなら。

八戒は空を振り仰いで、風の行方に想いを馳せた。





付記:  2000年の夏に出した合同誌に載せたお話です。流れ的には蒼穹の彼方シリーズNO.0というところです。
     八戒が見た夢というのが「見果てぬ夢」にかかってくるわけです。
     なので一見ハッピーエンドですが、このお話は出来上がるまでにすっごく長い続きがあるというわけです。
      このお話はあんまり出回ってないんじゃないかと思います。再録やコピー本などにもしていないので。
      しかし原作で同居時代をとりあげている時に出すのってどうかと思わないでもないですけどね(^_^;)