いつものように静かな夜だった。
八戒は居間の卓の上に子供達の答案を広げながら、一つずつ丁寧にチェックしていく。頬杖をついて真面目な顔でペンを走らせる八戒の横顔を、悟浄はビールを片手にちらちらと眺めていた。
自分に向けられる視線があることにはしばらく前から気がついてはいたが、八戒は顔を上げようとはせず悟浄から声を掛けてくるのをじっと待っていた。
窓の外からリリリリと虫の鳴く声が聞こえてくる。涼やかな風が秋を運んでくる。

「 ─── で?先刻からなんですか?」
根負けしたように溜め息混じりに言うと、八戒はようやく顔を上げた。困惑した瞳が自分を見つめてくるのを確かめて、悟浄は口の端だけで薄く笑う。
「別に。キレーだなあと思って。」
「は?」
「おまえが。」
八戒は大きく息をつくとまたペンを取り始めた。
「何バカなこと言ってんです。ヒマならさっさと寝たほうがいいですよ。僕、まだこれ終わりそうにないですし。」
「まだ宵の口だろ。ガキじゃあるまいし、こんな早く寝れる訳ねーだろ?ま、おまえも一緒につきあってくれんのなら話は別だけどよ。」
含み笑いを漏らしながら悟浄が顔を覗き込んでくる。
「 ──── しょうがないひとですねぇ。」
八戒はくすりと笑うと、肩をすくめて机の上のものを片付け始めた。その背中に悟浄は今日ずっと言う機会を窺っていた一言を投げかける。

「あのさぁ、俺しばらく留守にするから。明日からそうだな、十日間くらい。今度の事件ちょっと遠くてさ、張り込みもあるしウチから通うのちょっと無理そうなんだわ。」
できるだけさりげなさを装おうとしているその言い方に八戒は少し首をかしげた。
「明日からですか。急な話ですね。準備とかはいいんですか?」
「いや、特に支度をするほどのことじゃないから。」
そう言いながら、卓越しに悟浄は八戒の頬にそっと手を伸ばした。。
「ただ、しばらくこーやって触れないのが心残りで。」
冗談めかして言うその口調とは裏腹に、細められた瞳には真剣な色が浮かんでいた。
ギシリと机が軋む。背中にまわされた腕に強く抱きすくめられ、八戒は悟浄の肩口に顔を埋めた。
静かな夜の中に、互いの鼓動だけが聞こえてくる。

互いの熱が伝わってくる。
八戒、とかすれた声で悟浄に呼ばれて八戒はゆっくり顔を上げた。目の前に真紅の瞳が浮かんでいるのを見つけると、八戒はふわりと微笑ってかすめるようなキスをした。


夜の静寂の中、隣で規則正しい寝息を立てる八戒の髪を梳きながら悟浄は苦笑いをした。
言える訳ねーよな。行き先は女郎屋だなんてなぁ。仕事だって頭では理解したとしても、
こいつ独占欲強いし。目の届かないところで悶々とされること考えたら、全部秘密にしとくほうがやっぱ無難だよなぁ ─── 。
悟浄は眠っている八戒にそっと接吻けした。小さく呻くと、八戒は薄く目を開ける。
「悟浄?」
「ああ、起こしちまったか、ワリぃな。」
そう言いながら悟浄はもう一度、今度は深く唇を重ねていった。



悟浄が出掛けてから、そろそろ一週間が過ぎようとしていた。朝夕はかなり冷えこむ日もあったが日中はまだ汗ばむほどの陽気で、空が高いことを除けば、季節が移ろうとしているとはとても思えなかった。
一人分の食糧の買い出しなんて、そういえばしたことがなかった。そう八戒はぼんやりと考えながら下街の市場を順々に覗いていく。
悟浄のいない家は無性に広く、なぜだか居心地が悪かった。たいして用もないのに休日の午後をぶらぶらと買い物でつぶしているのは、そんな広い家に帰るのが少し億劫だったからかもしれない。
普段は近寄ることもない、装飾品を扱う店々が立ち並ぶ小路にまで足を踏み入れたのはただ暇をもてあました所為だった。
育ちの良いお嬢様も花街の女達もこういったものに賭ける熱意はあまり変わらないな、と八戒は考えながら黄色い声の中で自分だけが場違いな事に今更のように気がついた。
苦笑して小路を足早に抜けようとした八戒の背に、徒っぽい二人の女の声が届く。

「でね、やっぱりあのひととっても色気があると思うのよ。あの髪がまず素敵じゃない?なかなか無いわよね、あれだけの赤い髪って。」
「そうそう、おそろいのあの瞳で口説かれたら、あたし絶対OKしちゃうわぁ。」
「でも、結構遊んでるクチよね?」
「女のあしらい方すごく上手いしねぇ。」
「ずっといるといいのにねぇ、悟浄。」
きゃあきゃあ小娘のように騒ぎたてるその女達の言葉に、八戒は振り向きもせずじっと聞き耳を立てていた。
赤い髪?悟浄?あの女性達はどう見ても花街を住処にしている女達だ。何故そこに悟浄の名が出てくるんだ?
八戒はどくどく波打ち始めた心臓をどうにかなだめると、真相を確かめるべくその女達の後をつけて花街へと向かった。


まだ日のある内の花街は猥雑さが白日の元にさらされ、夜に見せるきらびやかさとはまた違う生々しい人間臭さに満ちている。
悟浄は窓の下の人の群れを見下ろすと、すっと階下へ降りて行った。
「悟浄、今日珍しい食べ物もらったんだ。後で持ってくね。」
「今夜はどっか御座敷で遊ぶのかい?太夫のとこばっかじゃなくてあたしのとこにもおいでよ。」
悟浄が通りがかる度、遊女たちが声を掛けてくる。それにひとつづつ手を上げて応えていく悟浄を後ろから女達はきゃあきゃあ騒ぎ立てた。それを気にする風も無く泰然として歩いていく姿に女達はまた歓声を上げた。
「えらい人気ですな、悟浄さん。」
奥座敷に向かった悟浄は、開口一番女将にそう言われて返答に詰まった。
「別に遊びにきてる訳じゃねーんだがよ。」
頭を掻きながら女将の前にどっかと腰を下ろすと、悟浄は苦々しく呟いた。
「どうです、具合は?」
にっこりと尋ねてくる女将に悟浄は肩をすくめてみせた。
「もうそろそろだと思うんだがよ、そっからが長くて。」
昨日も同じこと言ったよなぁ、と悟浄はげんなりしながら答える。

今回の仕事は、太夫の持っている鏡に封じられている妖が夜な夜な起こす騒ぎを鎮めて欲しいというものであった。しかしよくよくその鏡を調べてみると、その封じ自体が既に破れかかっており、本体が抜け出る日もそう遠くないことが判明したのだった。
一度鏡の外へおびきだすにも、寺院に移すより花街のなかで人々の情念を吸い取らせた方が得策ということで、その監視と作戦の実行者に悟浄が選ばれたのだ。

事務所の連中の羨ましそうな視線にも腹が立ったが、何より一番むかついたのは自分を一番適任だと言ってのけた三蔵と、馬鹿笑いをした悟空だった。
女遊びはもう引退したんだと言いたかったのだが、それを言うと更に馬鹿にされそうで言えなかったのだ。そろそろ家に帰りたいのに、と悟浄は心のなかでぼやいて続けた。
「あれは人間の情念を糧としてるんだよ。だから、客にそーゆー負の感情を抱えてる奴が何人か来ればすぐなんだけどな。」
「そうですか。まあウチは客層もいいし、下世話に入れ上げる旦那方もそうおりやせんからね。もうすこしかかりますかね。」
女将のとなりでその鏡の持ち主である太夫が長キセルを吸いながら、にっこりと艶やかに笑う。
「悟浄さんもそんなに早よ帰りたがらんでも、もう少し楽しんだらいいじゃないの。ウチの女の子達みんなあなたにいれあげてるんだからねぇ。」
ぐっと悟浄は言葉に詰まった。
太夫まで上り詰めた女なんて苦手だ。何も言ってないのに、俺が早く仕事を終わらせたいことも、家で待ってる奴がいることすら御見通しだし。
これ以上ここにいると何つっこまれるか分からない。そう悟浄は考えて、心のなかで溜め息をついた。




秋の早い夕暮れがやってきて、街は薄闇に包まれようとしていた。この時刻になると、猥雑なだけだった花街がきらびやかな世界に変わり始める。
八戒は先刻の女達を見失い、それでも噂の主を求めて路地を捜し歩いていた。
「お兄さーん、寄ってかなぁい?」
着飾った女達があちこちから声を掛けてくる。それに八戒は乾いた笑顔で応えて、かわしていく。同じような店が延々と続く街並に八戒はくらりと目眩がするのを感じた。

出直そうか、と八戒がふと立ち止まったとき、すぐ横の女郎屋の二階の窓が開く音がした。悟浄、と呼ぶ女の声が八戒に届く。はっと振り仰いだその先に、捜していた男のしどけない姿とそれにまとわりつこうとしている遊女の姿が見えた。
八戒は息を呑んで、拳を握りしめた。
「いらっしゃいまし。どの娘がよろしかったです?」
愛想よく応対する女将に、八戒はにっこりと有無を言わせない笑顔で尋ねた。
「こちらで悟浄という男がお世話になっているかと思いますが、そのひとに用があるんです。すみませんが、上がらせてもらいます。」
「そういわれても。ここは楽しく遊んでもらうところですから、無粋なことは御遠慮いただきたいのですよ。お引き取りを。」
「そうですか。それならしかたありませんね。力づくでも通してもらいますよ。」
女将の言葉を笑顔で無視して八戒は無理やり押し入った。

「なーんか下、騒がしかねーか?」
元々鏡の持ち主だった太夫の部屋から、悟浄は開け放した窓から覗く夜の街を見下ろした。階下の騒ぎはますますひどくなっていく。人々がもみあう気配によく知った声が混じっているような気がして、悟浄は片頬を歪ませた。
「バッカみてー、俺。」
小さく呟かれたそれを耳ざとく聞きとがめて、太夫は首をかしげて何が?と問いかけてきた。どう誤魔化そうかと悟浄が振り向いた瞬間、一際大きく制止する声が響き入口の襖が乱暴に開けられた。
驚きのあまり口をポカンと開けて呆然としている悟浄の姿を見つけて、八戒の肩は怒りに打ち震えた。
その背中から白い怒気が立ち上っているように見えるのは俺の気の所為だろうか、と悟浄は麻痺した思考のなかでそう思った。
「 ──── 悟浄っ!あなたってひとは……。僕に秘密で何やってんですかっ!」
普段聞くことの滅多に無い八戒の本気の怒声を浴びせられ、悟浄はへどもど言い訳した。
「いや、これはマジ仕事でだな。秘密とかそんなんじゃなくて……。」
「言い訳は結構です!」
言いながらずかずか悟浄の前までたどり着いた八戒は問答無用で殴りつけた。本気で殴ったようだ。悟浄の口から血が溢れ出してくる。
大勢のギャラリーが固唾を呑んでこの展開の成り行きを廊下から興味深々で窺っている。
しかし当事者たちにはそれはこれっぽっちも目に入ってないようだった。
「いや、ちょっと待てって。ひとの話も聞」
聞け、と最後まで言う前に八戒の手のひらから気孔が手加減無しで打ち込まれた。壁までふっとばされた悟浄に八戒は低く言い放つ。
「 ─── もう、あなたのことなんか知りません。顔も見たくない。」
そう言い捨てて走り去る八戒を追いかけようと、悟浄はよろよろ立ち上がった。その背に妖しい気配を感じて悟浄ははっと振り返る。忘れきっていた鏡の封印が解けかかっているのだ。

「なんでこんな時に出てきやがるんだよ!」
悟浄の叫びは、鏡から天に向かって伸びる光の柱にかき消されていった。




贅をこらした太夫の部屋は、足の踏み場もないほど瓦礫に埋まっていた。部屋の隅には鏡の残骸が転がっている。
「いやあ、すごいわ悟浄さん。えらく強いのねえ。」
と、呑気な声を掛けてくる太夫に目もくれず悟浄は踵を返した。階段を駆け上ってくる足音がする。部屋の入口で悟浄は事務所の連絡員とぶつかりかけた。
「あ、悟浄さん。あやかしは悟空さんが追って行きましたよ。こっちです、案内します。」
その声を無視して悟浄は無言で階段を下りて行く。
「ど、どこに行くんですか?」
「用ができた。俺は帰る。後はおまえらでなんとかしろ!」
悟浄は苦虫を噛み潰した顔で、そう言い残した。


足早に家までたどり着いた悟浄を迎えたのは、真っ暗のままがらんとした無人の部屋だった。
「おーい、八戒いるのか?」
できるだけさり気なさを装って悟浄は声を掛けたが、返事があるはずもない。明かりをつけて再び家の中を見渡すと、箪笥の引き出しが開け放しだったり戸棚の扉も半開きの状態のままで、どう考えても八戒は荷物をまとめて出て行ってしまったという結論に達するしかなかった。
「家出か ─── 。」
大きな溜め息と共にそう吐き出すと、悟浄は頭を抱えこんでその場にへたりこんだ。




その夜以来、悟浄は毎日長安の街中を八戒を求めて捜しまわった。よくよく確かめて見ると、八戒が持ち出したものは最小限の荷物や金銭だけであって、とても遠くに旅に出かけられるような支度ではなかったのだ。
仕事場である事務所にはあれから一度も顔を出していない。今頃のこのこ出て行ってもどうせ話のタネにされるのがオチなのだ。いい笑い者になるのが目に見えている以上、少なくとも八戒を見つけ出すまで仕事に行くワケにはいかない。それに八戒は本気で怒っていた。あれをまずなんとかしなければ。他のことはその後だ。悟浄はそう考え部屋の中を見渡した。

夜になると、機嫌を直した八戒がもう戻っているんじゃないかと、一縷の望みを賭けて家に戻る。しかしやはり求める人影はそこには無く、ただ散らかっていく部屋だけが目に入った。
「 ─── 家ン中、クチャクチャ……。これ見たら八戒、怒るだろーなぁ……。」
誰に言うとも無しに悟浄は呟いた。しかし部屋が散らかる前から八戒は既に怒っているのだ。この惨状を見せるためには、まず帰ってきてもらわないといけないことを思い出して悟浄はあの馬鹿、と苦々しくまた呟いたのだった。



八戒は悟浄を殴りつけて激情にまかせて家を飛び出した後、長安の郊外でふと足を止めた。
「 ─── 悟浄は追いかけてきてくれないのだろうか。」
忘れかけていた昏い想い出の中へ気持ちが沈んでいく。見るとも無しに八戒は長安の一晩中眠らない歓楽街のある辺りの明かりをぼんやりと見つめた。
街道とはいえこんな夜更けに通る人も無く、ただ静かな風の音だけが聞こえてくる。
「これから、どうしようか ──── 。」
八戒は小さく呟いた。怒りに我を忘れてここまでやって来てしまったが、元より何か考えがあっての行動ではない。少し落ち着いてしまうと、戻ることもどこかへ行ってしまうこともできないまま八戒は所在なげに夜の中にたたずんでいた。

「おい。あんた、こんな夜中に何やってんだ?」
ぼんやりとしていたとはいえ、その気配に声を掛けられるまで気づかなかった八戒は少しビクっとしてその声の主の方を振り返った。がっしりした体格のその男は陽気そうな声に違わず日に焼けた人なつこい笑顔を八戒に向ける。
「あ、あの。」
「ははあ、さては夜逃げか。」
八戒の小さくまとめた荷物を見て、その男はにやにやしてそう決めつけた。
「いえ、その、これは夜逃げじゃなくって。」
あわてて言いつくろう八戒を男は豪快に笑い飛ばした。
「夜逃げだろーが、なかろーが行くアテがないのはいっしょだろう。どーだ、俺ンとこ来ねーか?」
僕は拾われやすい顔をしているのだろうか、八戒はそう考えて逡巡した。しかしアテが無いのは事実なのだ。このまま道端に立っている訳にもいかない。
結局、八戒はその豪快な男にお願いします、と頭を下げたのだった。



男の家は街道沿いの小さな市場の中にあった。冀広と名乗った男の家は一人者の家のわりには整然と片付いていて、見た目ほどがさつな男ではないのかも、と八戒は第一印象を訂正した。
「俺ぁ誰に気がねする暮らしをしてるワケじゃないし、あんたの気が済むまでここにいたらいい。俺としちゃあずっとでも構わねぇけどな。」
あっけからんという冀広に八戒はくすりと笑った。
「でもまたどうして、そんなによくしてくれるんです?ただの通りすがりなのに。」
「そりゃあ、あんたが別嬪だからだよ。さっき見つけた時、月の精かと最初思ったくらいさ。」
「言いすぎですよ。」
打ち解けてきた八戒の様子を楽しそうに男は目を細めると、グイっと八戒の腕を引っ張って身体を引き寄せた。
「何するんです?」
「いや、なに、抱き心地よさそうだなあと思ってさ。」
悪意のかけらも無く答える冀広に八戒は困惑した顔を見せた。
「困ります、僕。そういうことするんなら出て行きます。ありがとうございました。」
硬い声で八戒がそう言うと、男は慌ててぱっと手を離した。
「いや、すまん。困らせるつもりじゃなかったんだ。夜も遅い。何もしないから泊まってけ。な?」
しおしおとしたその表情に八戒は少し笑うと、とりあえずこの人の良さそうな男を信用してみることにした。



八戒が冀広の処に居候を始めてから、幾日かが過ぎた。
この外見はいかつい男は、八戒が思った通り案外細やかな心の持ち主であった。それは数日共にいるだけで充分窺うことができた。
ふと気づくとぼんやりとばかりしている八戒を何やかやと理由を付けて外へ連れ出してみたり、おもしろいことを言っては笑わせてみたり、八戒が昏く沈んでいかずにすんだのは、ひとえに冀広の存在にあった。
しかし、そうやって優しくされるたびに八戒の心に赤い瞳の面影が浮かんできて、胸の奥がギュっと疼くのだった。

「コーヒー飲むか?」
ひんやりとした夜の中、いつまでたっても眠ろうとはしない八戒に冀広は穏やかに声をかけた。
「あ、すみません。わざわざ。」
差し出されたカップを受け取った八戒は立ちのぼる香気に目を落とした。
冷えた八戒の指がコーヒーの熱で次第に暖められていく。
俯いてカップに映る自分の顔を覗き込む八戒に、冀広は少し改まった口調で声をかけた。
「何か言いたいことがあるなら、いつでも聞くけど。」
淡く笑みを浮かべて、八戒は首を横に振った。
「聞いてもらうほどのことはありませんよ。」
「そうか。 ─── なあ、八戒。あんた帰りたいとこあんじゃねぇか?」
考え深げに冀広は尋ねた。耳の奥がキーンとするほどの沈黙が落ちる。

「帰りたくない訳ではないんですが。 ──── 帰れなくて。」
顔を上げようともせず、八戒は淡々と呟いた。
「ま、気の済むようにしたらええ。」
そう答えると、冀広は肩をすくめて部屋から出て行った。




悟浄はよれよれの格好のまま何日も長安の街をさまよい歩いていた。あの晩の八戒の行動は大変迅速だったようで、足取りをつかむことすら出来なかった。
むやみに歩きまわったところでしょうがないことは悟浄にも分かってはいたが、だからといって長安の外にまで捜しに行くにはあまりに漠然としていてためらわれた。
毎日毎日、朝早くから暗くなるまで当てもなく捜し回る。一歩踏み出すごとに、済まないと思う気持ちより、理由も聞かずに飛び出した八戒への怒りと、何よりその存在の不在に対しての苛立ちが募ってくるのを、悟浄は感じずにはいれなかった。
悟浄はその苛立ちの中に潜む己の心に目を背けて、ただひたすら前を向いて歩き続ける。

その日も悟浄は八戒を探し歩いて、ずいぶん長安の郊外までやってきていた。小さな市場の屋台の陰で冷たいビールを一杯引っかけて再び歩き出そうとしたときだった。悟浄の耳に八戒という単語が飛びこんできたのは。
慌てて周りを見渡した悟浄が見つけたものは、呼び掛けに応えていかつい男に笑顔を向ける八戒の姿だった。自分の目が信じられずに呆然としている悟浄の前を、仲良さそうに肩を並べて八戒と見知らぬ男が歩き去って行く。その二人を見送って、はっと悟浄は我に返った。
「八戒!おまえ何やってんだよ!」
八戒は振り返ると、怒鳴りつける悟浄を見つけてびっくりした顔をした。
「悟浄?」
間の抜けた返事にいきりたって、悟浄は八戒の肩を掴むとひどく揺さぶった。

「どれだけ探したとおもってんだよ!ひとの話も聞かねぇで、いいかげんにしろ!」
「な、なに言ってるんですか!怒ってるのはこっちです。悟浄こそいいかげんにしてください!」
「何だと!ひとの気も知らねぇで、何やってんだよ!」
「それは僕の台詞です!」
郊外とはいえ市場の往来で交わされる痴話喧嘩は否応なく人目を引いた。店を出している者も通りすがりの者も唖然としてこの成り行きを見守っている。
完全にその存在を忘れ去られている冀広が、見かねて二人の肩を掴んでやんわり引き離した。
「あー、お前さん達、どうでもいいけど往来のど真ん中で喧嘩をするっつうのはやっぱり他人様の迷惑だと思うけどよ。」
呑気な声を掛けてくる冀広に悟浄は思い出したように喰ってかかった。
「大体お前何モンだよ!」
「俺?俺ぁ冀広ってモンだ。そうだ、その路地曲がったところが俺ンちだから、続きはそこでやったらいい。」
泰然とした様子の男に悟浄はぐっと言葉に詰まった。それを了承の合図と取ったらしい、
男は往来に集まっていた人々に向かってペコリと頭を下げると二人の腕を掴んで自分の家へ連れて行った。

家へ入るなり八戒はだっと走り出し奥の部屋へ駆け込んだ。
「だあ、八戒、出てこいよ!早く!」
扉をどんどん叩く悟浄の背中をなだめるように男はぽんぽんと叩いた。
「うるせえ!だからてめぇ何モンだ、なんで八戒がここにいるんだ?」
「俺が八戒を拾ったのさ。行くあてもないって言うし、ならってことでここで一緒に暮らすことにしたんだ。」
「何だと!八戒は俺のだ。横取りすんじゃねぇ!」
「八戒は帰りたくないって言ってたぜ。あんた愛想尽かされたんだよ。残念だったな。」
いきりたつ悟浄に冀広はにやにや笑いながら言った。昨夜八戒から聞き出した言葉は、「帰れない」というものだったが、それはそれ都合良くほんの少し脚色したのだ。
「っだ、おまえと話しても埒があかねぇ。八戒、聞こえてんだろ、開けろよ!」
また扉を叩き始めた悟浄の耳にどこかで乱暴に扉が閉められた音が入ってくる。
「あ、裏口から逃げたな。」
男が気がついてそう呟いた。悟浄が窓から表を覗くと、遥か遠方に走り去って行く八戒の後ろ姿が見えた。チっと舌打ちすると悟浄は男を無視して、八戒の後を猛烈な勢いで追い始めた。
遠ざかる八戒の背中をめざして、街中を悟浄は駆け抜けていく。悟浄がやっと八戒に追いついたのは街はずれの街道沿いの木立ちの中だった。
午後の残滓の陽光がこもれびとなって二人の上に降りそそぐ。これ以上逃げられたりしないように悟浄は八戒の腕を掴んで肩で息を整えた。
「八戒っ」
悟浄は息を弾ませながらも声を荒げた。
「なんで逃げるんだよ!それにあの男は一体何モンだよ?ええ?」
「あ、あなたには関係ないことです。」
息を詰まらせながらも自分に鋭い視線を向けて刃向かってくる八戒に、悟浄はとうとうキレた。
「関係ねーワケねーだろ!おまえ、いい加減にしろよ!」
「いい加減にしなきゃいけないのは悟浄の方でしょう!今度という今度は許しませんから」
「だから、ひとの話も聞けって。」
「聞きたくありません。」
肩を掴んで揺さぶる悟浄を振り払おうとして、八戒は悟浄の頬に思いきり平手打ちを食らわせた。それから逃れようと悟浄が身を捩った瞬間、カっとした八戒は本気で悟浄に殴りかかっていった。

「わ!八戒。やめ、やめろって!だっ、いーかげんにしろ!」
悟浄が大きく腕を振り上げ、自分に向けて殴りつけようとするのが八戒の目に入る。 ギュっと目をつぶり衝撃に備えて身体を硬くした八戒は、いつまでたっても悟浄の手が振り下ろされないのに気がついてそっと目を開けた。
目の前にはじっとこちらを見つめてくる赤い瞳があった。
「殴り返したらどうなんです。」
硬い声で挑みかかってくる八戒に悟浄は呆れたように肩をすくめた。
「おまえを殴るワケねーだろ。自分のヨメさんに手ぇ上げるような男は最低だ。」
「 ──── 誰がヨメさんです。」
「おまえに決まってるだろーが。」
そう言うと悟浄は問答無用で八戒に強く接吻けた。
人気のない木立ちの中に風の渡る音だけが通り過ぎていく。強張っていた八戒の身体からいつしか力が抜けていく。悟浄は抱きしめた腕に更に力を込めて深く八戒を求めていった。
どちらからともなく唇を離した後、悟浄はぽつりと言い出した。
「花街にいたの、ホントに仕事だったんだぜ?おまえがやきもきするかと思って、言わずに済めばそれにこしたことねぇかなって考えてさ。あの建物の裏には悟空も張ってたんだぜ。」
「言わなかったのはやましいことがあるからなんじゃないですか?本当に僕、怒ってるんですよ、そんなつまらない嘘で僕をゴマかせるなんてあなたが思ってること。」
「ゴマかすとかじゃなくてさ。そろそろ分かれよ。」
「分かりませんよ。」
「 ─── そうか、じゃ分かった。」
「分かったって何がです?」
いきなり低くなった悟浄の声に八戒は虚を突かれたような顔をして見せた。

その顔に悟浄は再び接吻けた。いや、それは先刻のものとは比べ物にならないほど、八戒を熱く追い上げていく。
「くっ……。悟、浄っ。やめっ。」
懸命に逃れようとする八戒を悟浄は執拗に責め立てた。
熱い舌を絡ませ、そっと手を八戒の服の中へ滑り込ませていく。きつく閉じられた八戒の目許が赤く染まる。悟浄が腰を擦り寄せると、八戒はびくんっとして目を見開いた。
「……な、何考えてるんです。こんなところで、んんっ。」
八戒の息も絶え絶えの訴えなど聞こえない振りをして、悟浄はほとんどあらわになった八戒のはだけた胸に舌を這わせた。
喘ぎ声が漏れないように八戒はギっと唇を噛み締めた。その分、快楽の波は身体の中を駆けまわっていく。びくっ、びくっと震える身体がそれを如実に物語っていた。
悟浄の舌が更に下に向かおうとするのに気ついて、八戒は身を捩った。
「やめてくださいっ、悟浄。ひとが来たら……。」
「来やしねーよ。」
くぐもった声で悟浄は答える。
「でも、こんな処じゃ、あっ、ん。」
悟浄は滑らかな脇腹に舌を這わせたまま、にやりと笑った。
「そうか、ここじゃなきゃいいんだな。分かった。じゃ、家に帰ろう。」
「それとこれとは別問題ですっ!」
八戒が叫ぶ。
「そうか。じゃ、ここで抱く。」
「いやですってばっ!こんな道端でまだ明るいのに!」
「別に俺は構わねーよ。市場の往来だって、抱くと言ったら俺は抱くぜ?」
「僕が構うんです!」
じたばたしていた八戒は悟浄の声に本気の響きを感じてとうとう観念して叫んだ。
「 ──── 分かりましたっ。家に帰ります。帰ればいいんでしょう!」
「でも俺、このままやりたいんだけど?」
「だめに決まってるでしょう!」
滅多に見れない、顔を真っ赤にして怒る八戒もやっぱりかわいいなぁと悟浄は額を八戒の頭に押しつけた。
「何です?」
まだ声に怒りをにじませた八戒がつっけんどんに聞く。
「いや。じゃウチに帰ろうか。」
悟浄はそのまま八戒の腰を抱いたまま歩き出した。

もっと厳しい態度に出た方が良かったのだろうか、と考えて心の内で八戒は溜め息を漏らした。でも、これで許すとは一言も言ってない訳だし。
久しぶりに見るくすりと笑った八戒を覗きこむと、悟浄はこの後自分を待ち受けているあまり心暖まらない未来に気づくはずもなく、呑気に笑い返した。



「そうか、家に戻るのか。俺としては寂しいけどよ、八戒がいいならしゃーねーなぁ。」
冀広の家まで戻った二人に家の主はそう答えて破顔した。
「本当にすみません。いろいろ御迷惑をおかけしました。」
「全然迷惑なんかじゃないぜ。ずっといてくれたらよかったのに、残念だな。」
少し離れたところで待つ悟浄を見て、何を思ったのか冀広は今度はにやにや笑った。
「また改めて御礼に伺いますね。」
「いや、礼なんていいけどたまには遊びにこい。な?」
「ええ、喜んで。」
八戒はにっこりと笑った。その笑顔に冀広は不意に接吻けをする。
うっすらと微笑ったままその接吻けを受ける八戒に、悟浄は飛ぶように駆け寄って無理やり冀広から引き離した。
「なにしやがんだ!ったく、油断も隙もありゃしねぇ。おい、帰るぞ。」
悟浄は鼻息荒く、有無も言わせず八戒を急き立てた。
「おう、じゃあまたな。」
悟浄を気にしたふうもなく、声を掛けてくる男に八戒は笑いながら小さく手を振った。



女郎屋に奥さんが乗りこんできて殴られた挙句家出されてしまったらしい。その所為で悟浄は無断欠勤を続けているという本当だけどもあまり嬉しくない噂がまことしとやかに流されてるのを、悟浄はまだ知る由もなかった。
これからしばらくの間、八戒からどれだけ嫌味を言われるかも、この時の悟浄の頭にはまるきり浮かんでこないようだった。

隣に八戒がいること、それだけが今、悟浄の頭の中に存在していることのすべてだった



付記:始めてコミケ参加に浮かれて書いたお話です。暗いシリアスばっかりじゃなんだわよね〜vとうきうきして書きました。
    初のオフセット本でもあります。すご〜く地味に始めた同人活動だったのに、今やサイトまで。(^_^;)。
    人生何があるか解りませんなあv
    昼には持っていった本が全部なくなってしまったのも懐かしい思い出です。ものすごくちょっとしか持ってかなくって。
    あの頃58サークルは8サークルだった・・・。
    ちょうど5巻が出たとこだったかな?出るちょっと前だったかな?そんな時代のお話です。