その日は風が気持ちよい日だった。ざわざわと木立に生い茂った葉が風にさざめく音以外、何一つ聞こえない静かな朝だった。
ばさばさと白いシーツをはためかせる風が、窓辺に佇む八戒の顔を撫ぜる。ふと目を上げた先に青い空が広がっていて、八戒は僅かに頬を緩めた。
今日は本当に、洗濯日和という言葉がよく似合う天気ですね------。
毎朝空模様を眺めてはそんなことを思う日々が始まってから、もう随分長い時間が経ったような気がする。
実際のところは季節はまだ一つしか変わっていないことを、失念してしまうほどの穏やかな朝だった。
まだ自室のベッドで深く眠り込んでいるであろう赤い髪の同居人に拾われて、紆余曲折の後ここで住まわせてもらうことになったのはまだたった三ヶ月前のことだ。
たった、三ヶ月。八戒はふと表情を消して自分の足元を見下ろした。
ゆらゆらとコントラストの強い影が揺れる。僅かに落とした視線の先を推し量る者はここにはおらず、その白い顔から表情を窺い知る者もいない。
耳元でばさりと音がしたのに気づいて、しばらく立ち尽くしていた八戒の肩がびくりと揺れた。はっと振り仰いだ視界に木立から飛び立つ一羽の鳥が見えた。
ばさばさと飛び立つ鳥の姿を見上げ、八戒の顔にふっと表情が戻ってくる。
「そろそろ悟浄も起きてくる頃ですね。」
そう言ってぐっと伸びをした八戒の顔には、一瞬前までの無表情だった気配は何処にも見当たらなかった。
「悟浄。さすがにそろそろ起きた方がいいんじゃないですか?」
コンコンと小さなノックと共に、八戒は控えめにドアの外から声を掛けた。
動くものの気配のない悟浄の自室の前で、八戒は呆れたように小さく溜息をついた。
先刻、洗濯物を見上げてから更に一時間以上が過ぎている。陽は中天に昇り、八戒としては食事の用意をしたいところなのだが、悟浄にとっての朝食を一緒に用意すべきか否か判断がつきかねて、こうして直接悟浄に聞くという手段に出たわけである。
が、しばらく待っても答えが返ってくる気配はなく、八戒は再びはぁっと息を吐いた。
明け方近くまで帰ってこなかった日はさすがに遅くまで寝ていたいという気持ちは解らないでもない。だが、昨夜はそれほど遅い時間に帰ってきたわけではなかったのだ。
有態に言えば、日付が変わる幾分か前、八戒がそろそろ寝ようかと思っていた時間に悟浄は帰ってきて、彼が夜食をつまむのに少し付き合ったりもしたのだ。
それからしばらくして休んだのだとしたら、もうさすがに起きてもいい頃だ。
第一、僕が困る。―――困る?
そこまで考えて八戒はふと自分の考えに驚いたような顔をした。
何が困る?何に困ることがあるというのだ。悟浄が目が腐るほど寝ていようと、それは彼の自由であって、自分がとやかく言う問題じゃない。
確かに彼が自然に目覚めるのに任せ、もう一度悟浄の分の食事を作り直すことは多少手間ではあるけれど。
「―――まあ、いいか。」
僅かに首を傾げた八戒は小さくそう呟いて、その場から立ち去ろうとした。が、その時、がたっと不自然な物音が悟浄の部屋の中から聞こえた気がして立ち止まる。
「―――メシ、喰うから。」
ぼそぼそとドアの向こうから悟浄の声が届く。
空腹にはさすがに耐えかねて眼が覚めたのだろうか。八戒はくすりと笑うとドア越しに話しかけた。
「おはようございます。じゃ、食事用意しちゃいますよ。」
「んー、頼むわ。」
ごそごそした物音と共に変えされる悟浄の声に、八戒は笑顔のまま小さく頷いた。
「だりー。」
それからしばらくして、寝巻き代わりのイージーパンツとランニング一枚といういでたちの悟浄が、だらだらとしか形容しようがない態度でようやく台所に顔を出した。
「おはようございます。ちゃんと顔洗いました?」
「おう。」
「それでもまだ眼が覚めないんですか?じゃ、きっと寝すぎですね。」
「そうかあ?」
「だって昨夜、寝たの僕と大して変わらないでしょう?」
「そりゃそうだけどよ。ま、俺、育ち盛りだからよく寝る必要があるわけよ。」
「それ以上育つつもりですか?」
呆れたように返す八戒に、悟浄はバチッとウインクをしてみせた。
「まーね。見えないとことか。」
にやにやと悪戯っぽく笑う悟浄に八戒もぷっと吹き出した。
「もう、馬鹿言ってないでくださいよ。先に目覚ましのコーヒーいります?もうすぐご飯出来ますけど。」
「ああ、後でいいよ。おまえと一緒で。」
「じゃあそこで座って待っていてくださいね。」
「うぃー。」
悟浄はそう答え、食卓に向かうと顎をだらしなくついて八戒の後姿を見遣った。かちゃかちゃと食器の触れ合う音や鍋から立ち上るいい匂いが無性に心地よい。
三ヶ月前まではこの家に一度も存在しなかった他人の気配が、こんなに居心地がいいものだとはついぞ知らなかった。
こんなんだったらあんなに毛嫌いしないで、たまには誰か家に呼んでやってもよかったかなあ―――。
朝御飯を作ってあげるだの何だの上手い事並べ立てて、家に入りたがっていた女たちの姿を悟浄は思い出し、目の前の八戒の後姿と脳裏で見比べた。
「あー、やっぱピンとこねぇわ。」
「は?何がです?」
つい口から出た独り言を聞きとがめた八戒に、何でもないと悟浄は手を振った。
八戒がこうしていることはあまりにも自然なのに、他の人間がここにいるという想像はこれっぽっちもリアリティがなかった。
なんやかんや言ってあいつらが台所仕事している姿なんて、想像できねェしなァ。
「何かおもしろいことでも思い出したんですか?」
「え、なんで?」
「今、にやにや笑っていましたよ。」
「そうかあ?―――あ、飯出来た?」
「ええ。はい、どうぞ。―――いただきます。」
「いただきます。」
小さく頭を下げてそう言うと、悟浄は未だに慣れることの出来ない微妙なくすぐったさにまたにっと笑った。
「あんまりにやにやしてると、折角の男前が台無しですよ。」
くすくす笑いながら食事を口に運ぶ八戒に、悟浄は憤慨した顔をしてみせた。
「そんなことぐらいで、俺様のモテモテ具合はちっとも減ったりなんかしないからいーの。」
「あー、はいはい。そうですか。」
「全っ然、信じてねェ口ぶりだな。そうだ、たまにはおまえも一緒に夜、出かけるか?」
「えー、ご遠慮しておきますよ。賑やかな処ってあんまり得意じゃないですし。」
「ふーん、そーゆーもんか?ま、イヤならいいけど。」
ふっと食卓を囲む二人の間に沈黙が落ちた。かちゃかちゃと食事をする音だけが、静かな昼下がりの午後に響く。
窓の外から鳥の鳴く声が聞こえた。街外れの森の入り口にあるこの家は騒々しい喧騒とはあまり縁がなく、二人が話し止むと聞こえるものは風の音とか鳥の声だけになる。
穏やかな時間だと、二人は同時に思った。話が途切れたからといって気不味くなるわけでもなく、次の話の接ぎ穂を慌てて探すでもない。
こんな穏やかな日を自分たちが過ごすようになるとは、三ヶ月前には思ってもいなかったことさえ不思議に感じた。
付記: 同居時代のお話、『夜明けのうた』のプロローグです。現在も続きを執筆中。
二人の関係を深く掘り下げていきたいな、とか思ってます。