陽の色が変わり始めた午後、子供たちにそろそろ家に帰るように促していた八戒は、子供よりも手の掛かるなりの大きいだけの子供が駆けてくるのを迎えた。
「やあ。いらっしゃい悟空。そんなに急いでどうかしたんですか。」
一体どこから走り続けてきたのか、らしくもなく悟空は肩で息を整えながら、それには答えず上目使いに見上げた。
「 ── あー。あのさあ、なにか喰うもんある?」
「はいはい。飲むものじゃなくて食べるものですね。」
八戒は笑顔で応じて家の中へ悟空を手招きした。
── 変わらない。八戒はそう口のなかで嘆息する。何年たっても、悟空はこんなふうに訪ねてくる。
多いときは三日と空けず、少なくとも一旬の間姿を見せないことはない。
この家のふたりの主が食べないようなおやつの類いが、自分のために用意されていることを悟空は知っており、足しげく通ってくるのだ。
いつものように他愛のない話で盛り上がっていたお茶の時間に、爆弾を落とすきっかけを作ってしまったのは八戒の方であった。
「そういえば今日はいやに急いでいましたね。僕に何か用があったんじゃあないですか?」
八戒に優しげな笑顔でそう水を向けられた悟空は、口いっぱいに入れていた饅頭を無理矢理飲み下そうとして激しくむせた。
背中をさすってもらいつつ渡された水を飲み干した悟空は少し恨めしげな顔で、
「っさあ、八戒ってさあ、なんで人のことお見通しなんかなあ。」
と、ぶつぶつこぼした。
「さあ、なんででしょうかねえ。」
と八戒は首をかしげながらとぼけると、まだ卓に突っ伏したままでいる悟空を見やり、さりげなく、で?と続きを促した。
悟空は卓をじっと見つめ、何か言葉を捜しているようだった。
初夏と呼ぶにはまだ早い、春のなごりを風がさらっていく。淡い空の色にそれを更に淡くしたような花びらが、どこからともなく舞っていた。
そろそろもう一回催促してみようかと八戒が思い始めた頃、悟空は急にぱっと顔を上げた。
「俺さあ、やっぱあんまし頭よくないし、考えてもうまいこと思いつかないからっ」
と、せわしげに言いつのる。そこでふいに口を閉ざして、ぐいっと八戒の方へ身を乗り出した。
「八戒ってどうやって、プロポーズされたの?」
それが耳から入って、ちゃんと言葉として理解されるまでに、八戒にしても数瞬かかり、危うくお茶をふきだすところであった。
滅多に見られぬ八戒の慌てふためいた様子を見て反対に腹をくくったらしい悟空が更に爆弾を落とす。
「俺にはみんな教えてくれないけど、八戒と悟浄って結婚してるだろ?俺知ってるよ。」
先刻は何とかこらえたものの、今回は完全にむせて激しく咳き込んでいる八戒を悟空は不思議そうに見た。
「俺なんか変なこと言った?」
と、心配げな顔の悟空に、不自然なほど動揺した自分がおかしくて、八戒はくすくす笑いだした。
(そうだ、悟空は昔から変に聡いところがあったっけ。でも結婚っていうのがらしいというか、なんというか。)
まだ笑い止まぬ八戒に困惑した顔で悟空は重ねて尋ねた。
「で、プロポーズの言葉ってのを教えて欲しいんだけど……」
その真剣な表情につられて八戒もようやく真顔になる。
「うーん。別にそんなに大層なものはないんですけどねぇ。」
「いいっ、それでもいいから教えて!」
と、なおも食い下がる悟空に、うまいことごまかすのは無理だと、八戒は覚悟を決めた。
「別に、ただ一緒に暮らしてくれって言われただけなんですけど。」
「それだけ?本当に?そーゆーのって、もっとこうなんかあるんじゃないの?」
「それだけですよ。 ─── ところで悟空。]
言葉の後半で微妙にその場の雰囲気が変わったのに気づき、悟空は何やらそわそわし始めた。
「えっと、そろそろ帰らなくちゃ。じゃ。」
「いいから座んなさい」と、腕を掴まれ無理やりまた椅子に座らされた悟空に、八戒はにっ
こりと有無を言わせない口調で尋ねた。
「で?そんなもの参考にしようなんて、一体どうするつもりなんです?
─── 三蔵ですか?」
その一言を聞いてかちこちに悟空は固まってしまい、何も言わずにそれが真実なのだと、八戒に知らしめた。
その様子にまた心の中で嘆息し、少し肩をすくめて八戒はお茶のおかわりに奥へ向かった。
新しいお茶を持ってきた八戒を悟空は真っ直ぐ見上げた。思うことがあったらしい、何かふっきれたような顔をしていた。
八戒もそれに気づき目で促すと、悟空はゆっくりと話しだした。
「俺さ、結局また寺に置いてもらってるだろ。三蔵が別棟もらってからはそっちに移ってずっと一緒にいるんだけどさ、俺はずっと三蔵と一緒にいたいんだけど、三蔵はどうなのかなあって思うことがたまにあるんだ。三蔵も俺のこと側にいて欲しいって思うことあるんだろうか。考えてると、だんだんわかんなくなってきて、頭がぐるぐるする。」
ふぅーっと特大の溜め息を吐き出し、悟空は八戒を見つめた。身体だけは大きくなって三蔵を越し、八戒すら越してたくましくなったのに、その表情は少年の頃と何も変わらなかった。
八戒はふっと、昔、同じ表情で同じような事をこうやって聞かれたことがあった、とそんなことを思い出し、口元で笑う。
それを見て悟空は自分の本気が分かってもらえなかったのかと喰ってかかり始めた。
「八戒、俺の言ったことちゃんと分かってる?フザケてなんかないよ、俺。」
ぶつぶつとまだ文句を続けるのを八戒は柔らかく制した。
「ちゃんと聞いてますよ。笑ったのはすみません。ただ、あなたと三蔵があんまりゆっくりしてるんで、つい。」
「ゆっくりって何が?」
と、今度は本当に怪訝そうに悟空は聞く。
「ゆっくりって全部がですよ。
─── まあ僕の意見としては、焦る必要もないとは思いますけどね。ただ三蔵もああいう人ですから、待っているだけじゃ、向こうからは何も言ってくる訳ないですよねぇ。
まあでも、いきなりプロポーズなんてしても、ハタかれるのが関の山ですよ。いいですか、世の中には順番ってもんがあるんです。」
── 第一、結婚とか言って意味分かって言ってるんですかねぇ ──
と、最後の部分は心の中でつぶやく。
まだ何か反論がありげな悟空に更に続けた。
「自分の思っていることを、自分の言葉で伝えるのが一番じゃないかと、僕は思います
よ。」
にっこりと満面の笑顔の八戒に言い切られて、まだ反論できる者なんてこの世にいるはずもなく、悟空はただ頷くことしかできなかった。
三度目のお茶のお代りを注いでもらいながら、悟空はふと不思議そうな顔をした。
「でもさあ。八戒と悟浄って旅に出る前も一緒に暮らしてたじゃん。そんときはまだ結婚してなかったよね。旅から戻ってきてからだよね?だからまた一緒に暮らすっていうのあたりまえのような気がするけど、なんでそれがプロポーズになっちゃうわけ?」
一瞬、八戒の動きが止まる。
── ああ、それでは悟空は何も知らなかったのだ ──
八戒はそう心のなかでつぶやくと、先刻とはまた微妙にニュアンスの違う反論できない笑顔で、
「そういうもんですよ。」
と、その話題を切り上げた。
そろそろ黄昏時の街に、悟空の背中を見送り、八戒は笑みを消しそっと目を伏せた。
その伏せられた瞳には悟空には見せたこともない、昏い色が浮かんでいた。
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