あれから、三年が過ぎた。
それは互いの存在を日常に変えるのに、充分な時間で、俺はこの生活をかけがえのないものだと、そう思っていた。だから、おまえがそんな重いわだかまりを持っていたなんて気がつきもしなかった。そう悟浄は苦々しく思いながら、煙草に火を付ける。
もう夜が明けてもいい頃なのに、外はまだぼんやりと暗い。しばらく前から雨音は消えていたが、その代わりに白く深い霧がたちこめていて、朝の陽光を遮っていた。
煙草の煙を感じて、八戒はそっと目を開けて身体を起こそうとした。
「目ぇ覚めたのか。起きれるか?」
悟浄が問うと、八戒は少し微笑って大丈夫と答えた。
深い眠りが効いたのだろうか、実際その顔からは昨日までの憔悴した様子が消え、普段通りのしっかりとした表情が戻ってきていた。
透明な光をその瞳に浮かべ、八戒は真摯な顔つきで目の前の男を見る。
「夢を見ていました。 ── ええ、昔の夢です。」
「そうか。俺も昔のことを思い出していた。」
吸い差しのまま放っておかれた煙草から、紫煙がぼんやりと漂ってくる。
何か言葉では表すことができない想いが胸のうちを支配して、二人は結局それを伝える術をなくして黙りこんだ。
どのくらいそうしていただろうか。煙草がすべて灰に変わってしまう頃、沈黙を破ったのは悟浄の方だった。
「俺に」
少し口ごもって、ゆっくり言い直す。
「俺に、言葉が足りなかったのなら、謝る。だけどおまえが一番大切なのは今も昔も変わらない。おまえを喪うくらいなら、俺はすべてを捨ててもいい。なんだってする。
── それは信じて欲しいんだ。」
じっと見つめてくる八戒の瞳の中に自分の姿が映る。
ひどく真剣な顔をしたおのれに悟浄は気づき、そして自分の瞳の中にも映っているはずの八戒を感じた。
「あなたの気持ちを疑っている訳ではないんです。僕のことを一番に想ってくれている、それだってちゃんと知ってます。」
ただ、と八戒は言葉をついだ。
「ただ、僕自身の気持ちが整理できないんです。あなたとの生活があんまり幸せだったから、見たくないことは心の奥底に眠らせて、ずっと気づかないフリをしてきた。これまで放って置いたその反動が、今来てるんだと思います。
─── だから少し、一人で考えさせてください。」
そう静かに告げる八戒の心を痛いほど感じて、悟浄はうまく言葉が捜せずに、沈黙で応えるしかなかった。
その様子を横目で見ながら、八戒は寝台から降り、身仕度を整えるとそのまま黙って部屋から出て行った。悟浄はその姿を追うこともせず、じっと中空を見つめていた。
少しずつ、外が明るくなっていく。霧は徐々に薄れていくようだった。
街が目覚め、動き始めていく中を八戒はゆっくり歩いていた。
ここ何日か、自分の心の中にずっと閉じこもっていたような気がする。そんなことを考えながら朝の澄んだ空気を吸いこんでいると、大気と同じように自分の頭の中もクリアーになっていくような感じがしてくるのだった。
自分がこだわり続けてきたものはなにか。見ないようにしてきたものはなにか。認めたくなかったものはなにか。そして、なにが譲れないものか。
もつれた糸を丁寧にほどくように考えこみながら、八戒は長安の街をさまよい歩くのだっ
た。
何時間歩き続けたのだろうか。八戒は最後に寺院の前で足を止めた。そして勝手知ったる様子で門番の僧に挨拶すると、案内も請わずにすたすたと境内へ入っていく。
朝のお勤めはとうに終わっていたようだ。目当ての人物がもう講堂にいないことを確かめると、少し途方にくれたように立ち止まった。
本人に自覚がなくても、一般人が寺院の奥庭を堂々と横切っている様と、最近迫力を増してきた匂い立つような綺麗な姿に目を止めない者はなく、僧とはいえ、溜め息をつきその後ろ姿を見送った者も少なくなかった。
口さがない者達の「えらい別嬪がうろついている。」という囁きが其処此処で交され始めると、こういった話に無関心な三蔵の耳にさえ否応にも入ってくる。
なんとなしの予感を覚えて三蔵が奥庭へ出てみると、そこにはやはり思った通りの人物がこちらを向いて笑いかけていた。
「三蔵。お久しぶりです。」
「お前、こんな所まで入りこんで、無茶苦茶目立ってるぞ。」
曰くありげな組合せに、ちらほらと人が集まり始めたのを見て取り、閉口したような三蔵に頓着せず、八戒は続けた。
「少し顔が見たくなって。いけませんか?」
と、さらりと言う。
「そんなことは言っていない。」
と、三蔵は憮然とした顔つきのまま、顎で寺院の裏手の人影のない方を指し示した。
昨日までの雨にまだしっとりとと濡れる草を踏み、木立ちの中のあずまやに三蔵は向かう。椅子に座るように八戒に無言で促すと、自分は反対側の柱に寄りかかり、懐から煙草を取り出し火を付けた。
「具合悪かったんだってな。」
旅をしていた頃と何ひとつ変わらないその声音に、八戒は安堵の息を漏らした。二人きりであらたまってこう顔を合わせるのは、たぶん長安に戻って始めてのことだろう。しかし、その間に流れた時間など、まるでなかったかのように三蔵は振舞う。それが、八戒はとても嬉しかった。
「もう大丈夫だと思うんですけど。病人扱いしてもらってこれ以上迷惑かけるのもなんですし。」
「ふん。そんなもん好きなだけさせときゃいいだろが。」
その三蔵のぞんざいな物言いに、八戒はとうとう、くすくすと笑いだした。不審気な顔を向ける三蔵に目尻の涙を拭いながら、
「すみません、三蔵。なんか相変わらずだなあとと思ったらおかしくて。」
そう謝りながらも、八戒は笑いを止めることはできなかった。
少しあきれた顔をした三蔵に、八戒はようやく笑いを収めて話し始めた。
「三蔵、実は」
「お前が気にすることはない。」
八戒の言葉を途中で取り上げて、憮然とした顔に戻ると、三蔵はそう言い放った。
全然知らない顔をして、この人はどこまで解っているのだろう。
八戒は疑問の色を瞳に浮かべたが、しばらくして自分で答えを見つけた。
たぶん、全部なのだろうと。
さわさわと、木立ちの中を爽やかな風が通りすぎていく。人々のざわめきも聞こえてこない静寂さが辺りをつつむ。
ただ、三蔵のくわえた煙草のゆらゆらとした煙だけが、時間が経つのを示していた。
「お前がどう思っているのかは知らないが、俺としては、すべてはあれでよかったと思っている。」
肩を柱にもたれかけさせたまま、三蔵はしっかりとした口調でそう告げた。先刻の笑いの影を微塵も見せずに、八戒も静かに向き合う。
それは三蔵だけにではなく、自分自身の心にもしっかり向き合った瞬間であった。
「僕はずっと、あなたにすまないと、そう思ってきました。
── 僕がすべてを壊してしまったと。あなたの犠牲の上に、僕の幸せは成り立っている
のだと。」
「何バカなこと言ってやがる。」
苦々しげに、三蔵は答える。
「 ── 第一、俺にはこうなることがずっと前から分かっていた。だからお前が気に病む
必要はこれっぽっちも、ない。」
─── いや、むしろ、お前が生きて戻ってきてくれて、やっとあるべきところに還った
と、そう思う。
「あるべきところ ── ですか。」
途中から独白に変わった三蔵の想いを読んだかのように、八戒は同じ言葉を大事そうに口にした。
「本当にそう思っていて、いいんでしょうか。」
そうつぶやく言葉に、三蔵は返事をしなかった。その答えは八戒が自分で決めること。三蔵は沈黙をもって、そう答えたのだ。
八戒にも、本当はわかっていたのだ。向き合うべきは、過去ではなく、自分の心だということが。
そう、すべての答えは、おのれの中にあることさえも。
「ねぇ、三蔵。」
八戒は付き合いの長い者にだけ分かる、あのたちの悪い笑顔で問いかけた。
「そういえば、悟空にはなんて答えました?」
憮然とした表情を更に険しくさせ、三蔵は苦々しく答えた。
「お前か。あいつに余計な入れ知恵をしたのは。」
「入れ知恵なんて、人聞きの悪い言いぐさですねぇ。あんまり悟空が一生懸命だったから僕もつい。」
「何がつい、だ。別にそんなことムキになるようなことか、バカバカしい。」
ムキになる必要なんてない。冷たい口調で言われた言葉の中に、その真実を見つけて八戒はまた笑った。
「ねぇ、三蔵。」
また爆弾がくるのかと内心身構えた三蔵に、八戒は不意打ちを食らわせた。
「僕、あなたのことが好きですよ。」
「 ──── 何、言ってやがる。」
三蔵はようやくそれだけ言い返したのであった。
すべては、あるように。
八戒は想う。自分は自分の、三蔵も悟空もそれぞれの、そして、悟浄の。
そして、その先の、未来を。
振り仰いで見上げた先には、昨日までの雨の気配のかけらもなく、目に痛いほどの真っ青な空が広がっていた。
目を細める八戒の周りを、久しぶりに外で遊ぶことができてうれしいらしい子供達が、歓声をあげて走りまわっている。
家の前で、八戒は表でずっと自分を待ち続けていたらしい悟浄に気づき、手を振って、「ただいま。」
と、おのれの還るべきところへ笑いかけた。
夏は、もうすぐそこまで、やってきていた。
付記: 「蒼穹の彼方」は私の初めての58小説であり、同人生活の幕開けとなったお話です。
読み返すとすごく荒っぽいですけど、なんだか感慨深いものがあります。
気に入ってくださると嬉しいです。