翌日、八戒は事件が起こった現場を一人で訪れた。冬の早い陽が落ち掛かるこの時刻は淡い金色の光が街を染め上げ、柔らかな空間を一瞬の幻のように作り上げる。
それを背景にして鬱蒼とした庭園に八戒は無造作に入って行く。その中は微妙に空気の色さえ違うようだった。立ち込め始めた薄闇がふとその濃さをいきなり増したようにも思われた。
傍からはそう見えない落ち着いた物腰ながら、八戒は僅かに息をひそめて周囲を探る。
そこには妖しい気配が立ち込めていた。大きな術を行った後の微かな空気のぶれが、人影ひとつないその庭園が事件の舞台であったことを物語る。
しばらくじっと何もない周囲を窺っていた八戒はふっと息を吐いて身体から力を抜いた。 特に今何かが動き出そうとしている気配はない。ここにあるのはただ、終わってしまった事件の抜け殻にすぎないようだった。
せっかく出向いて来たけれど、収穫はなしか……。
八戒はそう呟いて家路につこうと空を仰いだ。その視線の先がゆらりと歪む。
身体を強ばらせた八戒の全身を、その瞬間歪みが包んだ。背中に感じる気配に八戒ははっと振り返って目を見張った。
そこにあったのは、漆黒の髪、黒曜石の瞳と抜けるような肌、男か女か判断つきかねる
程の麗人、一永の姿であった。
楽しそうに微笑む一永の姿に八戒の中に昔彼に出会ったときの記憶が溢れ出して来る。
まだ悟浄との関係が不確かで、自分を見失いかけていた八戒を我が物にしようと策を弄しながら、結局悟浄の側を離れられなかった彼の意志を尊重してくれた、闇の世界の住人の姿をじっと見つめる。
「お久しぶりですね。こんな処で会えるとは思ってもいませんでしたよ。」
鈴を転がすような声で軽やかに一永は笑った。
「やはり、あなたでしたか。」
小さく息をつきながら八戒は気づかれないようにそっと身構えた。
「この事件のあらましを聞いたとき、あなたの顔が浮かびましたよ。」
「本当に?それはそれは光栄ですね。」
ふざけているかのような一永の態度に八戒は苦笑を禁じ得なかった。
「あなたがたらしくない、とも思いはしましたけど。」
何故?と言わんばかりに小首を傾げて一永は瞳をきらめかせた。
「あなたは人の心に潜む方が好きなんでしょう?それなのに何故こんなことを始めたんですか?理由を教えて貰えませんか?」
「理由?いやですね、私達にそんなのあるわけないでしょう?ただ最近退屈だったからちょっと派手なことしてみようかなと思っただけですよ。」
「そんな理由で事件を起こしたんですか?被害者だって出ているというのに。」
「被害者?ああ、彼らのことですか。誤解しないでくださいよ。彼らは自ら進んで我らの仲間になったのですよ。ひとの生きる道はそれぞれ。闇に生きるのもまた一興。私は無理強いはしないと知っているでしょう?」
くっくっと笑う一永の背後に淡い光がぽうぽうと現れては揺れる。とっぷりと暮れた夕闇の中でそこだけが異界の入り口のように光るのを八戒は目眩を堪えて見つめていた。
「では」と一言告げる声が聞こえたような気がした。次の瞬間一永の姿は光に包まれ、思わず目を瞑った八戒が気が付いたときにはその姿は現れたときと同様にかき消すように消えていた。
残された八戒は暮れなずむ黄昏の中、一人佇んだ。
やはり、彼か。ーーーしかしその目的は何だというのだ。
八戒はゆらゆら揺れる草木のシルエットを見るともなしに見つめていた。
「こんばんわ。」
「何、寛ろいでいるんだ。―――どうかしたのか?」
八戒は一永が去った後、その足で寺院を訪れた。しかし三蔵はまだ帰って来ておらず、八戒は勝手に彼の自室に入り込み待たせてもらっていた。
「お茶、貰いましたよ。あ、あなたの分もありますけど、いります?」
「―――貰う。」
のほほんとした八戒の態度に三蔵はいくぶん脱力して、湯飲みを受け取った。
「で、どうした?」
気を取り直した三蔵が再度短く問いかける。
「今、事件の現場を見に行って来ました。そこでこの件の首謀者に会いましたよ。
三蔵も覚えてるでしょう?以前、旅をしているときに会った闇の住人、一永でしたよ。」
一永の名を聞いて三蔵は渋面を作った。
「ちっ、奴らか。ったく、何でこんな処まで来るんだ。」
苦々しく言う三蔵を見て、彼はこういう手合いはあまり好きではないのだと八戒は今更のように思い出した。
「さあ。僕も理由を聞いたんですけど、はぐらかされちゃいました。退屈だからとか言ってましたよ。」
憮然とした顔をして三蔵は茶を啜った。少し首を傾げて八戒は考え深そうに話し出す。
「僕の考えですから聞き流してくれても構いませんけど、彼らは悪質なことはしないと思うんです。被害者は皆、一癖ある人達だったと悟浄から聞きました。彼らは進んで仲間になったのだと一永は言っていましたよ。
ただ、力だけは持っていそうですし、下手に完全に退治するつもりでかかると、事を荒立てるだけだと思いませんか?長安から出て行って貰うぐらいに考えておいた方のがいいような気がしますけど。」
「お前、結構奴らのこと気に入ってるみたいだな。」
驚いた顔をして問いかけてきた三蔵の言葉に八戒は少しばかり目を見開いた。
確かに彼らに悪感情は抱いていない。言われるまで気が付いていなかった八戒はくすりと微笑った。
「そうですね、悪いひとじゃないですし。」
三蔵は以前の事件のとき、一永の所為で酷い目に遭った事を思い出して更に憮然とした顔になる。
どこが悪いひとじゃないんだ。奴らは他人の心の闇を引きずり出す。そういうやり方が気に入らないのに。
三蔵の心情を読んだように八戒は続けた。
「実害があるわけではないですし。被害者も好きで付いて行ったのなら、それは引き戻せないでしょうし。」
「解った。上には俺から打診しておく。」
しばらく考え込んでいたが、三蔵は根負けしたようにそう答えた。
「あ、それから印の意味も大体解りました。」
目を見張る三蔵に八戒は穏やかに笑う。
「鴻の姿は見えず。と言う意味だと思います。古い異国の言葉でした。自分のことを鴻に譬えているんでしょうか。」
にっこり笑って腰を上げかけた八戒を引き留めようと、三蔵は「それから。」と言葉を続けた。
「なあ、八戒。お前……。」
深い色の瞳を向けられて三蔵はらしくもなく言葉を濁した。ふっと微笑んで八戒は帰り支度を始める。
「―――考えておきますよ。」
それだけ言うと八戒はさりげなくドアから出て行った。
数日が過ぎた。あれ以来事件は何の進展も見せておらず、一永の動きも一切表面に出てこなかった。のんびりした日々が続いて長安を脅かす事件が起こっているなど人々は忘れてしまったようだった。
悟浄も二日に一度は見回りに家を空けていたが、今夜は早く帰ってくる事になっていたので、八戒は久しぶりに夕食を一緒に食べようと悟浄の喜びそうな物を作って待っていた。 夕暮れが過ぎて、夜が訪れる。しかし夕飯にするにはかなり遅い時刻になっても、悟浄はまだ帰ってこなかった。
今朝、今日は早く帰って来るって言っていたのに……。
八戒は何度も時計に目を遣った。悟浄は遅くなると言って出掛ける日以外、帰りが遅くなることはまずなかった。別に帰りが遅かった位で悟浄に何かあるわけないはずだし、まして女遊びをしているとは考えられなかったのだが、何故か今夜ばかりは八戒の心は妙に落ち着かなかった。
じっとしていると更に気分がざわめいてくる為、八戒は少し頭を振るともう一杯コーヒーをいれようと立ち上がった。そのときふと窓の外に目を遣った八戒はこんな夜更けだというのに僅かに空が明るいことに気が付いた。
どうしたのだろうと、窓を開け身を乗り出して夜空を仰ぐ。彼の目に入ったのは長安の中心地の辺りの空にそびえ立つ白い光の柱だった。
何だ、あれは。轟音も何も聞こえなかったのに、いつの間に?
八戒は慌ててドアから外へ飛び出した。この異変にようやく気づき始めた道行く人々も皆一様にぎょっとして空を見上げた。
街がざわめき始める。その音が自分の中から発していることにも気づかずに八戒は駆け出した。
向こうは悟浄達がいる方向だ。一永達が何か仕掛けて来たのに間違いなかった。
その頃には街中の人々がこの異変を指さし、口々に叫ぶ様子があちこちで見受けられた。逃げようとする者、様子を窺う者、反対に物見高く異変の中心に行こうとする者が入り乱れて道はごった返し始めた。
器用にそれを避けながら光の柱を目指して進んで行く八戒は、突如空間が振動するのを感じた。ふと足を止めて気配を探る。一瞬後、漆黒の空に長安のあちこちから同じような光の柱が立ち上がった。八戒のいた場所の近くにもそれは現れたようで、衝撃に巻き起こった突風に八戒は腕で頭を庇うと身を縮めた。
恐怖が集団心理となって群衆を覆い始めていく。対岸の火事と呑気に構えていた人々の形相が変わり始めた。
だがしかし、逃げようと蒼白になった大人たちを尻目に、子供達は眼を輝かせて空にそびえ立つ幾筋もの光の柱に心を奪われていた。
「何をしてるの!逃げるのよっ!」
ヒステリックに叫んだ母親を、不思議そうに八戒のすぐ近くにいた少年はきょとんと見上げた。
「どうして?あんなに綺麗なのになんで逃げるの?」
「何言ってるの、早くしなさい!」
八戒はふと興味を引かれたようにその一幕に耳を傾ける。
確かにそれは異変ではあったけれど、人々が恐怖に駆られる程邪悪なものには感じられなかった。というより何か物寂しいうら悲しさを感じたのだ。
とりあえず悟浄達の処まで行こう。具体的なことは彼らと合流してから決めればいい。
そう独りごちると八戒は人々の流れに逆走し始めた。
「ありゃあ、何だ。」
呆然と悟浄は呟いた。自分の声に隠し切れない驚愕の響きが滲むのにも気づかず、目の前に広がる巨大な光の柱を見上げた。
「俺に聞かれても解るわけないだろ。」
押し殺した声で三蔵は憮然と答えた。
闇にそびえ立つその白金の光で事務所の界隈は昼間よりも明るく光り輝いていた。
ごった返す通りの人々の動きも一瞬止まる。そこにいた全ての人々がそれに目を奪われていた。
「きれー。」
悟空が魅せられたようにそう呟くのも無理はなかった。そのきらめく光から妙に心浮き立つようなしかし物悲しい異国の音楽が聞こえてくる。その光の中にゆらゆらと動くものは炎のようにも見えたがそればかりではなかった。いつの時代何処の国かもよく解らない異国の風景がその光の中現れては消えていく。
石造りの街並。白金の砂の海。透き通る緑の木陰。
それらは非常に確かな存在感を持つようにも見え、また一瞬後には儚い夢のように姿を変え、ゆらゆらと見る者の目を幻惑させた。
「彼奴らが仕掛けてきたんだ。いいか、あれに目を奪われるんじゃないぞ。」
低く叱咤する三蔵の声が妙に遠くに感じた気がした。
視界が白く包まれる。隣にいた悟空もよろめいてるのが目の端に映る。それを最後に悟浄はその白い闇に意識を手放した。
りりりと鈴のような不思議な旋律が胸をざわめかす。悟浄は意識を失っていたのがどれだけの時間だったのか、いや、そもそも気を失っていたのかいなかったのかさえ曖昧に周囲を見渡した。
「どうです。美しい景色でしょう?私の故郷ですよ。」
軽やかな声を突然後ろからかけられて、悟浄は驚いて跳び退った。
「てめー、何のつもりだ。」
ぎりっと歯を堅く噛み締めて悟浄は油断なく身構えた。
「世界は美しく、またあまりにも醜い。」
ゆらゆらと景色が揺れて、入り口ひとつない塔の姿が現れてくる。
「私はこの中にずっと閉じ込められてきました。そう、気が遠くなるほど長い長い間。」
目を閉じ歌うように呟く一永を注意深く窺いながら、悟浄は鋭い光を瞳に浮かべた。
「お前、何者だ?」
「あなたに言う必要はありません。そう、言い忘れていましたが、私、あなたのことあまり好きじゃないんです。」
寒気のするような笑みを向けられて悟浄は小さく舌打ちを洩らした。
「気が合うな、俺もだ。」
すーっと一永の目が細められた。ちりちりとその身体から電気が帯び、両手に銀色の光が満ちる。
「あなたみたいにがさつなひとにあの綺麗なひとが抱かれているのかと思うと居たたまれない気持ちに駆られます。」
「余計なお世話だ。」
ぎらりと険しい瞳で悟浄は身構えた。その場の温度がふっと下がるような緊張感がそこにみなぎった。
にやりと一永が笑ったような気がした。次の瞬間悟浄は自分の懐に目の覚めるようなスピードで飛び込んで来た一永をギリギリのところで後ろに避けた。
不自然なほど素早い動きだった。ここはやつらの空間か。
悟浄がそうゆっくり考える間もなく、次々と一永は雷光のような速さで攻撃を繰り出してくる。それを避け続けながら悟浄は反撃の機会を窺っていた。鋭い突きを入れてくる手刀を躱して一永の細い手首をぎゅっと握り上げた。
ひんやりした腕だ、と悟浄はふと考えた。苦しげな顔をした一永の瞳が悟浄の瞳とぶつかり合う。突然、悟浄の脳裏に見たこともない記憶がフラッシュバックのようにいくつも浮かび上がった。
まだ幼さの残る一永が淋しさと限りない憧憬を湛えて塔に閉じ込められて空を仰ぐ姿や
残虐な様相の人々に襲われる闇の中の更に幼い姿がいくつもいくつも現れる。
「お前!」
驚いた悟浄が掴んだ腕の力を僅かに緩めたときだった。それを見過ごさず一永は跳び退りざま、悟浄の腹に手刀を突き刺した。そのまま横に腹を切り裂く。
真っ白な闇の中に悟浄の赤い血が飛び散った。
「てっ、めえー!」
「私はあなたが嫌いだと申し上げたはずですよ。」
飛びかかろうとした悟浄の足元が不意に揺らいだ。行きなり足場が抜けたようにそこはただの空間になっていた。落ちていく感覚が悟浄を包む。
真っ白な世界がそこに残った。
八戒が事務所の界隈までたどり着いたとき、そこは先日訪れた時とはまるで様子が変わっていた。建物が押し崩され、人々があちこちに倒れ臥している。はっとして八戒は駆け寄ったが、その人々は皆が怪我をしている訳ではなく瞳の焦点が抜け落ちた何か違うものを見ているような顔をしていた。
その場全体を怪しい空気が包む。耳の奥にかすかに音楽がずっと鳴っているような気がして八戒は立ち上がった。近くから瓦礫の崩れる音がする。振り仰いだ先にゆらゆらと妖たちが漂っているのが見えた。ふわりふわりとまるでからかうように跳びはねる妖に軍が
銃で立ち向かっていた。無駄に周囲に損害を与えているその攻撃が、倒れている人々の上に降り注いでいく。
唖然とする八戒の上にも瓦礫が降りかかる。
やめさせなければ。こんなやり方では駄目だ。
八戒は事務所まで最後の通りを駆け抜けた。
「だからこんな無駄なことやめろって言ってるのが解らねぇのか!」
口汚く三蔵が将校らしい男に罵っているのが聞こえてくる。
「いくら尊い三蔵様のお言葉と雖も聞く訳には参りませんな。あやつらがああやって我らを挑発して来る以上、それを迎え撃たねばなりませぬ。」
「無駄だと何度言ったら解るんだ!まずお前らから皆殺しにしてやるぞ。」
「三蔵!」
発砲しかけた三蔵をすんでのところで止めると八戒は彼の腕を取って兵から離れさせた。
「何が起こったんです?」
「どうもこうも解らねぇよ。あの一永っていう化け物が怪しい幻を見せている。それから逃れられた者もいることにはいるが転がってる奴らはまだそれに囚われているようだ。」
白い光の柱の周りを妖たちが飛び回る。それに再度兵たちが攻撃を仕掛けようとしているのを見て、三蔵はちっと舌打ちするとそれを留めるべく向き直った。
「――悟浄は?」
八戒は内心の動揺を堪えながら、感情を押し殺した声色で三蔵にそう短く尋ねた。
ぴたりと三蔵の足が止まる。僅かな沈黙が八戒の心をぎゅっと掴み上げた。
「奴なら中にいる。あいつだけ直接的な攻撃を受けたみたいだ。宙からいきなり投げ出されて」
三蔵の言葉を八戒は全部聞き終える前に、乱暴に事務所のドアを開け中に飛び込んだ。
「悟浄!悟浄!」
声に悲痛な響きが混じる。奥の部屋のドアを開けた八戒が見たものは、全身を朱に染め、ぐったりと床に横たえられている悟浄の姿であった。
「――悟浄。」
ぺたりとその横に八戒は座り込んだ。土気色になった悟浄の頬に震える指を伸ばしそっと触れる。
温かい。八戒はふーっと大きな息をついた。
死んだように横たわっていた悟浄の瞼がぴくりと動き、八戒の気配に気づいたのか薄く目が開けられた。
「―――よう。」
「ようじゃありませんよ!さ、今治しますから。」
八戒は自分の身体ががちがちになっていたことにそのときようやく気が付いた。
悟浄の瞳に暖かな光が宿る。
胸が熱くなる。泣きたいような気持ちを堪えて、八戒は悟浄の傷に手をかざした。彼の手掌から温かいものが悟浄へと流れ込んでいき、土気色だった悟浄の頬に少しづつ赤味が戻って来る。
八戒は自分の手の甲に生温かいものが何か落ちた気がして我に返った。知らず知らずの内に涙が溢れ出して悟浄の傷口を濡らしていた。
しばらくその様子をじっと見つめていた悟浄はふと八戒の手を取ると徐に口許に掲げた。そのまま八戒をぐいっと引っ張り寄せる。よろめいた八戒は悟浄のうえに転がらないようにバランスを取ると、キッと悟浄を睨み上げた。
「何するんですか!危ないでしょう!」
悟浄は八戒の抗議の声にも耳を貸さずもう片方の手を八戒の背に回すと、八戒の瞼にそっとキスをした。
驚いて体を引き掛けた八戒を悟浄は力を込めて抱き寄せる。
ふっと外の喧噪もずっと心の中でさざめいていた音も遠くなって、悟浄の体温だけが確かなもののように八戒は感じ始めていた。
力の抜けた八戒の体を抱き締め、悟浄はゆっくりと唇を重ねた。
八戒の心を癒すように悟浄の舌が何度も絡み付く。
こんなときだというのに、悟浄は思う存分八戒の唇を味わった。長いキスを終え、唇を離しても悟浄はまだ顔が触れあわんばかりの距離で囁いた。
「ごめんな。心配かけて。」
「ごめんで済みませんよ。」
「解った、じゃ、今度ちゃんとお詫びするから。」
「お詫びって…。」
また瞼に接吻けされて、八戒は途中で言葉を途切れさせた。
「―――お前ら。そーゆーことは帰ってからやれ、帰ってから!」
三蔵の怒りに満ち溢れた声が部屋の中に響く。
わっと声を上げ悟浄から離れた八戒は羞恥に頬を赤く染めた。戸口の前で心底げんなりした顔で頭を抱える三蔵から、八戒はいたたまれずに視線を外す。と、部屋の中にはこの展開に口を挟むことすら出来ずに硬直して成り行きを見守っていたらしい数人の事務所のメンバーがいたことに彼はようやく気が付いた。
―――全然、気が付かなかった。
八戒は更に顔を赤くさせた。キスしてたのも見られた……。
ゆっくりと身体を起こしながら悟浄は平気な顔をして、耳まで真っ赤になった八戒に声をかけた。
「八戒、あの柱の中、おまえ見たか?」
八戒は顔を真っ赤にさせたまま悟浄をじろりと睨みつけた。心臓がまだ踊っている。
土気色だった悟浄の顔とまだいくぶんやつれた顔をしながらも平然とした顔をする悟浄を交互に思い浮かべて、八戒は内心で溜め息を零した。
人の気も知らないで……。
いくぶん冷ややかな笑顔を浮かべて八戒は口を開いた。
「話しは聞きましたが、まだ見てないです。何があったんですか?」
「一永に会ったぜ。幻の中の風景はあいつの故郷だと言っていた。」
「故郷?」
興味を引かれたように真顔になった八戒は身を乗り出した。
「俺も見た。奴は何をしようとしてるんだ。」
三蔵も横から口を挟んでくる。
八戒は窓の外の白く染まった景色を見やった。耳鳴りのように微かな旋律がいつまでも耳につきまとう。
八戒は意を決して立ち上がった。
「おい、何処に行くんだ。」
「一永に会って来ます。」
「駄目だ。」
八戒の腕をぎゅっと握り締めて悟浄は止めた。黙り込んだ八戒に更に悟浄は言い募った。
「おまえがどうしてもって言うんなら、俺もついて行く。」
「何言ってるんですか。重傷のくせに。
そんな身体でついて来られても足手まといです。」
びしっと言い切る八戒を気にした様子もなく悟浄は身支度を整え始めた。
「大丈夫だって。」
「でも。」
「いいから。」
押し問答を始めた彼らの姿をやってられないという顔をして三蔵は外の様子を窺った。 悟空の声が響いてくる。
「三蔵!あいつら、大筒持ち出してきやがった!」
三蔵は険しい顔をして部屋から出て行きながら、声をかけた。
「八戒、そっちは任せた。」
「解りました。――さて。」
すっかり支度を整えた悟浄を見遣って八戒は考え込んだ。じっと悟浄の顔を見上げてふぅっと一息をつく。
「解りました。行きましょう。」
諦めた響きを含ませた声で八戒はそう言うと、先に立って表の騒ぎを避けて薄暗い裏通りに入って行った。
「おい、どうやって行くつもりだ?」
「向こうから来てくれますよ。―――一永。聞こえてるんでしょう。話があるんです。」
八戒は声の調子を強めて、虚空に向けて妖の名を呼んだ。
りりりりと空気の震える音が何処からともなく聞こえてきて、彼らの周囲を包む闇が僅かに質量を増して絡み付いて来始めた。
じわりと八戒の目の前の闇が融け落ちていくような気配がした。躊躇いもせずに八戒はその中へ足を踏み出した。歩きだす足の先が闇に融けていく。
「八戒っ、危ねえ!」
慌てた悟浄が八戒の腕を取って引き戻そうとする。
「大丈夫です。」
振り返って八戒が笑った気がした。
次の瞬間には八戒の姿はその路地から消え失せていた。悟浄も同じようにその闇の中へ足を踏み入れる。が、しかし急速にその妖しい闇は晴れていくようで、悟浄は八戒の立っていた場所をするりと擦り抜けてしまった。
「やられたっ。」
最初から八戒は一人で行くつもりだったのだと気づいて悟浄は歯がみした。
何としてでも連れ戻さなくては。
悟浄は真剣な顔付きになって頭上を飛び交う妖どもを睨みつけた。
八戒は自分の存在を低く見過ぎている処がある。あの一永というヤツが八戒をひどく欲しがっていたのさえ解っているんだか、いないんだか。
悟浄はぎゅっと拳を握り締めた。
八戒は闇の中に一人立っていた。しんとした空間に八戒は身構える。じっと周囲を窺っているとそこは無音でも何でもなく、不思議な聞き覚えのある旋律が低く高く流れていた。 ふと八戒の目の前に1メートル程の白い炎がぽうっと燃え上がる。その炎の前に漆黒に紛れた一永の姿が浮かび上がった。
「あなたから私を呼んでくださるとはね。嬉しいですよ。」
含み笑いを洩らすその姿に八戒は無言で肩を竦めた。すらりとした八戒の姿が白い炎に照らされて闇の中に浮かび上がる。
一永は不意に引きつけられるように八戒に歩み寄った。
「以前会ったときも、あなたは私が久しく見たことがないほど綺麗でしたけど。今はそれ以上に綺麗ですね。周囲の目を引き付けざるを得ない、引力みたいなものを感じますよ。」
「褒めていただいて恐縮ですけど、僕はそんなんじゃないですよ。いたって地味ですし。」
気が無さそうに答える八戒に一永はくっと腹を抱えて笑い声を零した。
「いやですね。何も解ってないんですから。あの赤い男も気の毒に、心配の種が尽きることがないでしょうねぇ。
あなたの姿は闇に浮かぶ白い花のようだ。儚げなようで凛々しい強さを備えた。」
うっとりと囁きながら一永は八戒の頬を白い手で触れた。
「強制はしないというのが私の信条ですが、あなたに関してはそれを曲げても構わない。」 心を動かされた様子もなく八戒は触れてくる一永の手を振り払った。
「そんなことどうでもいいです。―――悟浄に怪我を負わせたのはあなたですね。僕に仕掛けてくるんならまだしも、あのひとに手を出したことは許せない。」
「いいじゃありませんか。どうせあれぐらいじゃ死にはしないのでしょう?」
「そういう問題じゃないです。同じ目に合いたいですか?」
八戒の瞳の中に苛烈な光が浮かぶ。心が猛り始める。自分のために愛する者が傷つけられたのだと思い知らされて、八戒は顔を歪めた。
無言で八戒は気孔を一永に打ち込んだ。白い光が炸裂する。その光の向こうで一永の身体が揺らめいてかき消すように透き通る。と、次の瞬間八戒の後ろにその姿がふわりと浮かび上がった。
「こんなことをする目的は何ですか。いい加減答えたらどうです?」
「たまには派手なことをしなければ、我らの存在を忘れられてしまうでしょう?それは困るのですよ。我らは人の心の闇に住まうものですから。
それともあなたが聞きたいのは、何故ここまで自分がつきまとわれるのかということですか?」
険しい顔の八戒に、一永は淋しげな色を浮かべた瞳を俯かせて微笑した。それは怒りに我を忘れ掛けていた八戒の心を掴むほど、切なげな色だった。
このひとたちが歩いてきた年月は一体どれほどのものなのだろう。一永の背中に浮かぶ孤独の影に八戒は自分が以前抱えていた闇を見たような気がしていた。
「同情している暇があるんですか?力づくでもあなたに来て頂くことにしますよ。」
一永の言葉が終わると同時に、彼の背後にちろちろと揺らいでいた白い炎がぱあっと視界一面に広がった。腰ほどの高さに燃え上がる炎に囲まれて八戒は一永と真正面から向き合った。
「では僕も遠慮せずにやらせて貰います。」
そう言うなり八戒は跳び退り様、胸の前に集めた気を一永に向かって投げ付けた。ふわりとそれを躱してゆらゆらと宙に漂った一永に向かい、続けざまに八戒は虚空へと気を打ち込んだ。
何もない空間に衝撃だけが巻き起こる。
一永が緩々と右手を差し上げる気配を感じて八戒は立っていた場所から跳び退った。
次の瞬間、一永の手から生じた銀色の刃が幾筋も闇を切り裂いた。
漆黒の闇と立ち上る白い炎の中、彼らの放つ攻撃に空間は揺れ闇はざわめいていた。
双方共に決定的な一撃を繰り出すことが出来ず、八戒は息を整えようと一永の様子を窺いながらじっと見つめた。
一永の周りに白い炎が踊る。その中にちらちらと揺れる風景を見つけて、八戒は低く呟いた。
「それがあなたの故郷ですか?一体、何時の時代の何処の国です、これは。」
「さあ、あんまり昔のことなのでもう忘れてしまいましたよ。そんなことどうでもいいじゃありませんか。ねぇ、私と来るのはそんなに嫌ですか?」
「嫌とかそういう問題ではないことは解ってるんでしょう。そこは僕の居る場所じゃないんです。確かに昔はあなたについていこうかと、迷ったりしましたよ。でもあなたは僕自身を必要としている訳ではないのだし。違いますか?」
くすりと一永が微笑ったような気がした。
「何故そんなことが解るんです?」
「あなたが見せている幻の中に、僕によく似たひとが先刻からちらちらしていますよ。あなたが本当に欲しかったのはそのひとじゃないんですか?」
「さあ。」
うっすらと一永は笑みを浮かべた。曖昧な答えを口にしつつ、その瞳は八戒を映しながらも違う誰かの面影を辿っているようにみえた。
「あのひとがいたのは、いつかだったかも忘れてしまう位昔でほんの僅かな月日でしかなかった。だからあの日々が本当に有ったことなのか、それとも私の願望の見せた幻だったのかさえ今となっては曖昧になってしまった。あなたが来てくれれば途切れた夢が繋がるかもしれないと願うのは……。あまりにも虫が良すぎますか。」
八戒の深い瞳を一永は目を細めて見つめた。
「私はね、あなたのその瞳が好きなんですよ。全て受け入れて、けれども己を見失わないその瞳が。―――あなたは強い。弱い自分と不確かな他人を信じられるその強さを美しく思う。」
すーっと一永は宙から滑るように、八戒の目の前に降り立った。漆黒の瞳が何とも形容し難い色を帯びて光る。
「あの赤いひとがいつか離れたり、死んでいくことを考えたりしないんですか?」
ふっと八戒の瞳が和らいだ。口許に微かな笑みさえ浮かべて穏やかに答える。
「そりゃあ、考えたりしますよ。」
「なくなるかもしれない不確かなものを抱えて生きられる程、あなたは無知ではいられないでしょう?私なら変わらないものをあなたに差し上げることが出来ますよ。」
「ありがたい申し出ですけどね。僕、そういうの、もう持ち切れないほど一杯貰ってるので、お断りいたします。」
ふわりと八戒は笑う。その幸せそうな瞳の奥に悟浄の姿が浮かぶ。
「一緒に一日を積み重ねていくことが、確かなものだと解ったんです。今日の先に明日は続いていくのだと信じられるぐらいにはなったんですよ。」
一永は苦い笑いを洩らした。
「あの赤い男が羨ましいですよ。もっと早くにあなたを見つけていたらよかった。それともあのとき、壊れかけていたあなたを無理やりにも連れ去ってしまえばよかったのか……」「そうなっていたら僕は今、生きていませんよ。この命はあのひとに貰ったものだから。」「そんなふうに言われてしまったら、もう何も言えないじゃありませんか。」
困った顔をして首を傾げた一永の背後の炎が不意に消えた。自然に消えたものではない、踏みにじられたのだ。
一永の真後ろにいつの間にか悟浄が短剣を構えて立っていた。
「ようやく、入れたぜ。ったく、手間かけさせやがって。」
ぶつぶつと悟浄はひとしきり愚痴をこぼすと、すっと真剣な光を瞳に湛えながら、口調は軽いままで一永に話しかけた。
「ひとのものにちょっかい掛けるの、いーかげんヤメてくんない?」
一永は悟浄の真剣な様子を何かに重ねるようにじっと見つめた。
遥かな昔、私は死へと堕ちて逝くあのひとを引き戻す事が出来なかったのに……。
寂しげな笑いを一永は洩らすと、肩を竦めて降参とでもいうように両手を上げた。
「なんだか、虚しくなって来ました。」
「おう。他人の恋路の邪魔する奴は馬に蹴られちまうぜ?」
鷹揚に答える悟浄が構える刃からするりと擦り抜けると一永は数歩歩いて立ち止まった。
「手に入らなくても綺麗なものは綺麗ですし、たまには会いに来てもいいですか?」
ふふふと含み笑いを洩らしながら一永は八戒に片目を瞑ってみせた。
「来んでいい。」
悟浄は苦り切った顔をして吐き捨てる。
八戒も質の悪いのに目をつけられたもんだ。そう内心で毒づきながら、とりあえずこれ以上ことを荒立てないように無言で一永を睨みつけた。
一永は彼らに背を向けて闇の中に歩き始めた。炎に照らされるあちこちの闇の中に彼が引き連れて来た妖たちの姿が戻り始める。閉じ始めていく異界の主の後ろ姿を八戒は思わず呼び止めた。
「一永。」
振り返る一永の顔に、種族や生きる世界やそういうものを全て越えたものが浮かぶのを八戒は確かに見たと思った。くすりと笑って八戒は首を振る。
「いつか、再び巡り逢える時が来ますよ。」
一永の姿が闇に消えていく。炎も妖もいつのまにかなくなっており、八戒と悟浄は自分達が人気のない路地に二人残されたのに気が付いた。
夜空にそびえ立つ光の柱が一際輝いて、空に向かって昇っていく。
ふわりと一瞬奇妙な静けさが街全体を包んだ。何かの余韻がぼんやりと空を眺めていた人々に降りかかる。
母親に手を引かれた少年は残念そうに溜め息をついた。
「おまつりが終わったんだ。」
「さて、この後始末が大変ですね。」
「まったくだ。」
顔を見合わせて笑いながら悟浄と八戒は歩きだした。
「なあ、おまえ、あの化け物と何話してたんだ?」
「別に、何も。」
含みのあるその言い方に悟浄はちっと舌打ちした。数メートル先で路地は切れて、大通りの明るい喧噪が近づいて来る。
そっと悟浄は右手を伸ばして八戒の腰を抱いた。
「あんま、心配させんなよ。」
「そっちこそ。」
くっくっと肩を震わせながら、八戒は嬉しそうに笑った。
「だから、この落とし前はどうやってつけるのさ。」
「ちゃんと追い払ったんだからいいではないか!」
「あんたらが追い払ったんじゃないじゃん。馬鹿みたいに騒いでいただけのくせに!」
人々が戻り始めた大通りで髭面の将校と悟空は同レベルで怒鳴り合いをしていた。そんな馬鹿げたことに付き合っていられないと不機嫌な顔で事務所に戻りかける三蔵に八戒は苦笑を堪えて声を掛けた。
「お帰り頂いて来ました。」
「おう、ご苦労さん。」
煙草に火を点けようとしてライターを探す三蔵に、悟浄はすっと火を貸してやる。
八戒は微笑ましそうにそれを見つめて改めて三蔵に向き直った。
「三蔵。この間の話ですけど、僕、事務所を本格的に手伝ってもよいですよ。ほら、三蔵一人で大変そうだし。」
笑いながらそう言う八戒の言葉に悟浄はむくれた。
「どーゆー意味よ、それ。」
「別に他意はありませんよ。あ、塾は今まで通り続けさせて貰いますけど。」
東の空から一筋の光が差し込み始めた。―――まつりの夜が明けたのだ。