「 ── と、いう訳で、偵察としての成果はあまりありませんでしたが、かなり大掛かりなからくりを使用できることは分かりました。あと、たぶん、ひとではないことも。」
「人じゃないって、妖怪ってことだろ?」
一永とのやりとりを説明していた八戒に、何を今更言うのか分からないという顔で、悟空はあっさり言い切った。
「 ── っつーか、敵って感じはしなかったんだよ、あんまリ。」
薄気味悪かった、とは悟空には口が裂けても絶対に言うつもりのない悟浄は、曖昧に反論した。
「敵じゃない妖怪だっているかも知れないじゃん。な?三蔵。」
「ただの刺客より、そっちのほうがタチが悪い。何が目的か解らないからな。」
「敵意はないけど、何か企んでいる感じはしましたよ。」
八戒は真面目な声色で言うと、暗に三蔵の意見に賛成の意を表した。
「とりあえず、明日行ってみなきゃ始まらんってことか ── 。」
悟浄はハァっと大きな溜め息とともに、そう結論を吐き出した。
「そうだ。お前らがここに戻ってくるちょっと前、宿屋の主人が頼まれ物だといって、こいつを持ってきた。」
淡々と三蔵は言うと、封筒を隠しから取り出して、卓の上に中身を取り出した。
それは、四枚の招待状だった。
「げ。これ明日のヤツ?なんで先回りして届けられるんだよ。 ── それも、四人分。」
「知るか。」
「一筋縄ではいかないようですね。」
さらりという八戒に、三蔵はフンと鼻を鳴らしてうなずいた。
食堂には誰もいなかった。コーヒーを貰おうと八戒は奥へ声をかけたが、宿の人間が出てくる気配はない。
みんな前夜祭を覗きに行ってるのだろう。そう考え八戒は少しだけ逡巡したが、肩をすくめると勝手に奥へ入ってお湯を沸かし始めた。
物音を聞きつけた悟浄が、八戒の姿を見つけてふらりと入ってくる。
「おう、八戒。俺にもいれてくれ。」
「ちょっと待っててくださいね。今、沸きますから。」
コポコポとコーヒーの沸く音とかぐわしい香りが、部屋の中にたちこめる。
まつりの喧噪は遠ざかり、静かな空気が、その場に満ちてくる。
コーヒーをカップに注ぐ八戒の背中を、悟浄はひどく真剣な顔をしてじっと見ていた。 その背中は黙して何も語らない。こうして背を向けられていると、八戒が何を考えているのか分からないことが最近多い気がする。
理由は分からない。ただ、距離を置かれているらしいとは、悟浄にも分かっていた。
背中に物言いたげな視線が向けられているのを八戒は感じていた。
今、振り向いてしまえば、これまで隠してきたものが全部あらわになる。誘惑は心をさざめかせたが、それは絶対出来ないことも、八戒にはいやというほど分かっていた。
数歩の距離が、こんなにも遠い。そこに言葉は存在し得なかった。
行儀悪く、足を投げ出して椅子に掛けていた悟浄はふと八戒の手元に目を移した。カップから熱湯が溢れ出し、八戒の手を赤く濡らしているのが目に入る。
「 ── だっ、八戒、なにやってんだよ!手、熱くないのか!」
「え?あっ、熱っ!」
「ばか、手ぇ貸せ。火傷してんじゃねぇか。」
赤く腫れ上がった手を見て、悟浄は飛び上がった。しかし八戒は言われるまでその熱さに気がつかなかったようで、びっくりした表情を隠せないでいた。
袖を引っ張って、隅の流しまで八戒を連れて行き、悟浄は水を流して手当を始める。
「あーあ。こんなになるまで、何ぼんやりしてるんだよ。」
自分の手を注意深く握ったまま、屈みこんでいる悟浄の背中に八戒は瞳を向けた。
冷たい水と、熱く火照る傷。そしてやさしい手の温もり。
─── 望んだものはそんなにたくさんではなかったはずなのに。
手に入らないものが、どんどん増殖していく。
悟浄に見つからないように、八戒は目を細めて、薄く微笑う。
─── 手を伸ばせば、届きそうなのに。
悟浄から八戒の表情は見えない。八戒からも、また見ることは出来ない。
「なあ。何か思ってることがあるなら、ちゃんと言えよ。いつでも聞いてやるからさ。」 悟浄は顔を上げずに、その手を握りしめたまま、瞳に真摯な色を浮かべてそう告げた。「 ─── ええ、悟浄。また、いつか話しますよ。」
─── いつか、すべてが壊れる日に。
もしくは、すべてが浄化される日に。
八戒は、いつかくるその日を想って、瞳を閉じた。
話し声に気がついて、三蔵は食堂の前でふと足を止めた。そのまま何気なく中を覗く。なにがしかの気配を感じ、八戒は顔を上げた。
二人のまなざしが、沈黙のなかで交差する。
部屋の空気が変わったのに気がついて、悟浄はふと振り返った。
その瞬間、何もなかったかのように、交差していたまなざしはすっと外された。
「どうした。何マジな顔してんだ?」
「 ─── 別に。」
にやりと笑いかける悟浄に、そう冷たく言い放って、ふいっときびすを返そうとする三蔵を、八戒は普段通りの声音で呼び止めた。
「コーヒー入ってますよ。捜してたんでしょう?
ありがとう、悟浄。もういいですよ。ずいぶん腫れも治まってきましたし。薬付けてきますね。」
そう言って、八戒は悟浄の手をすり抜けた。
そして、部屋の入口でたたずんでいる三蔵の横を通りすぎながら、悟浄には分からないように昏い瞳をちらりと向けて、そのまま去って行った。
「薬って、八戒どうかしたのか?」
「ああ、コーヒーいれてて火傷したんだよ。─── ぼんやりしてて、らしくないったら。」
心配気な響きを漂わせて、悟浄は呟いた。
つられて三蔵も、八戒の去った方を振り返る。
その、気が逸れた一瞬を見逃さずに、悟浄はするりと腕を伸ばして、三蔵の腰を引き寄せた。
「っだ、何しやがる!テメェ!」
「隙を見せる、お前が悪いんじゃねぇか。」
「何が隙だ、離しやがれ。」
もがく三蔵を、悟浄は更に強く抱き寄せる。
「いいのか?あんまり大きい声出すと、悟空にも聞こえちまうぜ?」
「 ─── 関係ない。」
三蔵は冷たく言い切った。しかし、それ以上抗おうとはせず、悟浄にされるがままになっ
ていた。
にやりと勝ち誇ったように、悟浄は笑う。そのまま、三蔵の顔に触れる。
唇が触れ合う一瞬、どちらが先に瞳を閉じたのか、それは彼ら自身にも分からなかった。
「三蔵ー。三蔵ってばっ、なあ!」
悟空は宿の一室で、顔も上げずに新聞を読む三蔵の頭を、どうにかして自分に向かせようと、懸命にまとわりついていた。
「三蔵ってばぁ。ちょっとだけでいいから、今からまつりを見に行こうよ。行こ?な?」
「ウルさい。黙れ。」
辟易して、三蔵はようやく新聞から顔を上げた。それを見て、悟空の表情がパっと輝いた。
「さっ、行こーぜ。早く!」
「行かない。」
次の言葉が入りこむスキもないよう、三蔵はきっぱり言い切った。
「先刻の話、聞いてただろうが。明日の晩はあの胡散臭い一座につき合うから、今夜はゆっ
くり休むってことになっただろう。もう、忘れたのか?
── それになんで俺が、わざわざあんな人込みの中に出かけなくちゃいけない?どーし
てもって言うんなら、テメェ一人で行け。」
反論する余地もないようたたみかけて、三蔵はまた新聞に目を落とした。
悟空は真っ赤になって、叫ぶ。
「俺は、三蔵と一緒に、行きたいの!」
「ヤダね。そんな義理はない。」
「 ──── 三蔵の、ケチっっ!」
悟空は思いっきり息を吸いこんで、三蔵の耳元に大声で叫ぶと、後ろも見ずに乱暴に部屋から走り去って行った。
三蔵の部屋に入ろうとしていた悟浄に悟空はぶつかりかけたが、、それに気づきもせずずんずん走り去っていく。。
「 ─── ナニあれ?」
部屋の入口にもたれかかりながら、悟浄は悟空の消えて行った方向を見て尋ねた。
「今からまつりに出かけよう。だ、そうだ。」
「 ─── いいの?追いかけて行かなくて?」
新聞を乱暴に折りたたんで、三蔵はゆらりと立ち上がった。
「なんで、俺が追いかけないといけないんだ?冗談も休み休み言え。」
悟浄は三蔵の鋭いまなざしが、自分にようやく向けられたのを見て、不敵に笑った。
「サル追いかけないんなら、今から時間あるよな?ちょっと俺につき合え。」
そう言いながら、三蔵に近づいて、その細い顎に手をかける。
「 ──── なんのつもりだ?」
三蔵は抑揚のない声で、低く尋ねた。
「なんのって、先刻の続きに決まってるじゃないか? ── 分かってるクセに。」
悟浄はにやりと笑ったまま、三蔵に接吻けをする。
今度は最初から抗う素振りを見せない三蔵の腰を引き寄せ、悟浄は更に深く唇を貪った。
しばらくそうしていただろうか。どちらからともなく唇を離して、そのまま黙りこむ。視線を合わせてこない三蔵の目許の赤らみが、その沈黙を肯定していた。
悟浄はもう一度手を伸ばし、三蔵を求めた。
「 ─── だめだ。」
三蔵は、悟浄の腕のなかでその身を硬くして、拒絶の言葉を吐いた。
「 ─── どうして?イヤじゃないんだろ?」
耳元で悟浄が熱く囁く。
「だめだ。」
三蔵は目を閉じて繰り返した。
悟浄はその硬質な横顔を見ていたが、三蔵の表情に変化がないのを確かめると、そっとその手を離した。
「サルがいつ謝りに戻ってくるのか、気になるか? ─── まあ、そういうことなら、また後から出直すわ。」
「来ないでいい。」
「嘘ばっかり。」
悟浄はくっくっと喉を振わせて笑うと、手を振って部屋から出て行った。
三蔵は窓の外から聞こえてくる、賑やかな気配に耳を傾けていた。夜も更ける時刻だというのに、街は一向に寝静まる気配もなく、このまま朝までこの喧噪が続きそうな気がして、三蔵は少し頭を押さえた。
悟空が出て行ってから、もう一刻が経つ。その辺りを少し冷やかして帰ってくるつもりなら、もう戻っていなくてはいけない頃合だった。今日は早くに休んで明日に備えようと決めたはずなのに、部屋の真下のテラスからは、宿の主人らと一緒に浮かれ騒いでいる悟浄の声も響いていた。
ふーっと大きく息をついて、三蔵は悟空が甘えさせてくれる場所にいる可能性を思い出し、八戒の部屋に向かった。
その頃、一人、部屋に取り残された八戒は、部屋の明かりを落として、鏡の前に立ちつくしていた。部屋の中は窓からまつりの明かりが差し込んでおり、ぼんやりと、自分の姿が鏡に映っているのは、見る事ができた。
八戒は夜毎おのれをさいなんでくる、いつかの雨の夜に見た光景が、自分の中にある闇を目覚めさせようとする、その予感に必死に抗っていた。
悟浄の赤い髪と、三蔵の金の髪。それらが夜の中に、混じり合っていく。
わきあがる気持ちを押えつけようとすればするほど、頭の中にチリチリと火花が弾ける音がする。
鏡に映るのは、昏い瞳をした顔と、はだけた胸から覗く、古く癒えることのない傷。
そして、その傷の周りに広がる、無数の赤い染み。
八戒は押さえ切れない感情に顔を歪めた。そして、ありったけの力で拳を、自らの胸に叩きつけた。
何度も、何度もその音が響くたび、鏡の中に赤い染みが増えていく。それは八戒の中にある闇の存在を暴き立てる傷を彩った、真っ赤な血の滲んだ痕だった。
口に出すことの出来ない想いが、大きくなればなるほど、その赤い染みは昏さを増していくようであった。
静かな部屋の前に三蔵は立ち、ノックしようとした手を止めて、少し躊躇した。人影のない宿の廊下に伸びる自分の影に目を遣り、三蔵は中途半端に上げた手を降ろして、静かに声を掛けた。
「八戒。俺だ、起きてるか?」
返事はなかった。そういえば早く休むと言い出したのは、八戒だった。ちゃんと守っていたのか、と三蔵は考えて踵を返しかけた。
「 ──── 三蔵ですか?」
低く押し殺した声が、部屋の中から聞こえてくる。
「起きてますよ。どうぞ、入ってください。」
「夜遅くにすまないな。実は悟空が戻って……」
言いながら、八戒の部屋に三蔵は一歩踏み入れて、何か違和感があるのに気がついた。 明かりは落とされていたが、窓の外から差し込んでくる偽物の光が、部屋の中を異界のように浮かび上がらせていた。
その、半分影になった部屋の隅に、昏い気配を漂わせて八戒は立っていた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。悟空がまつりに行くと言ったまま……。」
三蔵は急に黙りこんだ。八戒は訝しげに、身体ごと三蔵のほうへ向き直った。
「八戒?お前、その傷どうしたんだ!」
「傷?何、言ってるんですか。これは昔からある傷じゃあないですか。」
「違う。その、赤い傷だ。」
八戒は嗤う。その笑顔の荒んだ様子に、三蔵は声を荒げた。
薄暗い部屋の中、八戒と三蔵は向かい合ったまま、立ちつくす。
風に乗って、窓の外から賑やかな歓声が聞こえてくる。
八戒はふと三蔵から目を離し、横の鏡に映る自分の姿をもう一度見遣った。
そこに映るのは、昏い瞳をした自分と、胸の上に咲く、赤い花の群れ。
流れ出したりしない、身体の中に溜まり続ける、血の染み。
それはまるで、自分の心そのものを顕しているようで、八戒は自嘲気味にくすりと笑いを漏らした。
「別になんでもありませんよ。」
そう言ってシャツのボタンを無造作にはめていく八戒に、三蔵は背筋がぞくりとするのを止めることが出来なかった。
八戒の様子が微妙に変だったのは、以前から薄々感じていた。いつからだ?思い出せ。八戒が遠くに行ってしまう予感に、三蔵は唇を噛み締めた。
「で?何か用だったんじゃないですか?悟空がどうかしたんですか?」
平静な声色に急に戻った八戒に、三蔵はらしくもなく、少しまごついた。
「悟空、戻ってきたか? ─── 先刻、まつりに行くと言って、駄々こねてそのまま飛び
出して行った。お前の処にいるかと、思ったんだが。」
「いえ、夕食の後から、ずっと見ていませんよ。もう夜も遅いし、僕少しその辺りを見てきましょうか。
──── 帰りにくいのかも知れないですしね。あぁ、三蔵は待っていてください。入れ違いになったら、またあなたを捜しに外へ行きかねないから。」
じゃあ、と言って、八戒は三蔵と戸口ですれ違った。かける言葉を捜して三蔵は後ろを振り返ったが、既に八戒は廊下の暗がりの向こうに消えた後だった。
「 ─── 待たせたな。」
そう言って悟浄が三蔵の元を訪れたのは、それから更に何刻か過ぎた本当の真夜中の頃合だった。
三蔵は返事もせず、顔も上げず、壁の一点を見つめていた。その様子と卓の上の灰皿のに堆く積まれた吸殻を見比べて、悟浄は小さく溜め息を付いた。
「どーした?悟空、まだ戻ってこないのか?」
やはり返事をしない三蔵の傍らを通り過ぎて、悟浄は開け放したままの窓に歩み寄った。
「まだ、かなり明るいけどよ、いい加減店も閉まってきたし、そろそろ戻るんじゃねぇの?サルだって置いて行かれる前に帰ってくるだろ。心配しすぎだぜ、ったく。」
「心配なんてしていない。」
三蔵は悟浄が入ってきてから始めて口を開いた。
「 ─── お前こそ心配じゃないのか?」
冷たく揶揄するように、三蔵は嗤う。
「何を?なんで俺がサルの心配なんかしなきゃいけない訳?」
「悟空じゃない。八戒のことだ。」
「八戒がどうかしたのか?」
悟浄は驚いたように尋ねた。
「八戒が悟空を捜しに行った。それから何時間たったと思う?」
「八戒も、外出てんのか?俺はてっきりもう眠ってるもんだと……。」
「あの一座の天幕ぐらいまでなら、二往復だって出来るくらいだな。」
悟浄は乱暴に頭をかきむしると、三蔵の前の椅子に腰をどっかと降ろして、足を卓の上に投げ出した。三蔵は読んでいるのかいないのか、傍目には分からない様子で、また新聞を広げる。
部屋の中には二人分の紫煙が、空気を白く濁らせるほどに立ち込めていく。
重苦しい沈黙の中、夜は更けていった。
闇。何か得体の知れないものが蠢く気配に満ちた、闇の世界。
ふと目を覚ました八戒が、最初に感じたものは闇の中から無数の視線が興味深そうに、自分を穴の開くほどに見つめてくる、幻覚だった。
何が僕を見ているのだろう。夢現の間で八戒はぼんやりそう考え、はっと我にかえって身を起こした。
目を開けたものの、そこは完全な闇で夢の中とまったく変わりなかった。八戒は用心深く周りを窺い、何者かが見つめる視線というのが夢のなかでの出来事ではなく、現実のものであることに気がついた。
身体はどんな不測の事態にも対応できるよう、指の先にいたるまで緊張させたまま、なぜこんな処にいるのか、八戒は記憶を辿り始めた。
─── そうだ。悟空を捜しに街に出たんだった。大通りの向こうに悟空らしい人影を見
つけて走り寄ろうとした瞬間に……。
思い出した。結界に捕まったんだ。悟空の姿を追いかけようとした瞬間、意識がそれにすべて集中したときを狙ったのか。
ふわりと闇の中に淡い光が瞬いた。と、思う間もなくその光が二つ、三つと増えて行き、
その向こうから幽かに宵待ち座の一永が吹いていた笛の音と同じ旋律が響いてきた。
やはり、あの一座か。
八戒は覚悟を決めると闇の中に呼びかけた。
「誰かいるなら、見てないで出てきたらどうです?」
八戒の声が陰々と響く。
返事はなくても、自分を見つめる無数の視線がざわざわとしておもしろがっている様子は感じ取れた。それに呼応するかのように光の群れがポウポウと明滅し始めた。先へ先へ、と案内するかのように光の道が伸びていく。八戒は覚悟を決めて、その光の道の中を進み始めた。
闇と光の迷宮を彷う八戒を更に閉ざされた空間で、悟空は見ていた。
「 ─── だぁ!八戒!八戒!俺の声聞こえないのかよ。八戒ってばっ!」
ガラスで出来た硬質な壁のようなものに、八戒の姿が映る。
その壁が悟空を取り巻いていて、殴っても蹴ってもひび一つ与えることが出来ない。訳の分からない状況に一人放り出されて、悟空はかなりキレていた。
「もう少し、静かに出来ないんですか?」
呆れたような声がいきなり悟空の頭から降りそそぐ。ギリっと歯を噛み締めて悟空はその声の主を振り仰いだ。
「誰だよ、あんた?なんでこんなことするんだよ!」
悟空は精一杯瞳に力を込めて、床から数十センチの処に浮かんでいる美貌の案内人を問いつめた。
「一永といいます。お友達から話はもう聞いたでしょう?」
何がおかしいのか一永はくすくす笑う。その得体の知れなさに悟空は思わず後退りした。
「笑ってんじゃねぇよ。こっから早く出せ!八戒も!」
口調は内心を見せないように、強気だ。
「もちろん出して上げますよ。あなたはね。あなたはこちら側に呼ぶにはあまりにも純粋すぎる。ただし、解放するのは見世物が全部終わった後にさせてもらいますよ。あなたには見せる訳にはいかないけど、おとなしく待っていてくださいね。」
一永はそれだけ言うと、悟空に興味を失ったかのようにふいっと宙に消えた。
悟空ははっと我にかえって地団駄を踏んだ。
「なんだ、あいつ!俺は早く帰らなきゃいけないのに!」
悟空の声はその閉ざされた空間に、空しく響き渡った。
悟空が自分の名を呼び続けているのにも気づかず、八戒は光と闇の織り成す妖しい世界を進んでいた。
「いい加減、姿を現したらどうです?一永、といいましたね。」
いつも顔に浮かんでいる他人を煙に巻く表情はナリをひそめ、八戒は仕掛けを作った張本人に向け、虚空に強い調子で呼びかけた。
その名を呼んだ途端、目の前の闇がいきなり集まり始め、みるみる内にそれはひとの形を取り始めた。
「名前を呼ばれたからには、出てくるしかありませんね、八戒サン?あらためましてこんばんわ。」
邪気のない様子で、くしゃりと笑う一永に八戒は毒気が抜かれたような顔をした。
「 ─── そんなふうに挨拶されても、僕、困るんですが。何のためにこんな大掛かりな
空間を作ったんです?」
「もちろん、あなたとこうやってゆっくり話をするためですよ。」
ふふ、と含み笑いを漏らしながら言う一永に、八戒は更に途方に暮れた顔をした。
「あなたと出会うことができて本当に嬉しく思っているんですよ。あなたほど我らを引き付けるひとはなかなかいないんです。偶然に感謝しなくてはね。」
心底喜んでいるらしい一永に、八戒は表情を硬くした。
「別に、僕には用事はありません。ここから早く出してもらえませんか?返答如何によっては、力づくになりますけど?」
「そんなに急がなくても、少しくらい私の話につき合ってくれたっていいでしょう?
それともなんですか?ここにいると、自分が闇のほうへ引きずられてしまう、そう思って脅えているんですか?」
くすくすと笑う一永に合わせて、闇の中に蠢く気配も一斉に笑いさざめいた。
「あなたの本性は、限り無く我らに近い。ふふ、違いますか?」
相手に敵意はない。しかしそれが分かっていても、八戒は自分の心が波打ち、過剰に反応し始めるのを止めることはできなかった。
八戒を取り巻く空気の色が変わっていく。
「図星だからといって、怒ってはだめですよ。」
「いいから、ここから出しなさい。さもないと全部壊しますよ。」
「いいですよ、できるものならね。けど、ほら何と言いましたっけ、よくわめくあなたのお友達も御招待させていただいてまして。この中のどこかにはいると思うんですけど。」 ふふ、と一永はまた楽しそうに笑うと、八戒が手を伸ばすより先に不意に姿を消した。
八戒はしばらく一永の消えた虚空を見上げて拳を握りしめていたが、頭を何度か振ると険しい顔のまま、悟空を捜すため迷宮の中を進み始めた。
夜が白々と明けはじめる。真夏の朝焼けの中、涼やかな風が昨夜の喧噪の余韻の漂う街並を洗っていく。まつりの朝がやってきたのだ。
人々がまだ眠りの中にいる頃、外の爽やかな気配とは無縁の声で悟浄は呟いた。
「 ──── 夜が明けちまったな。」
ぐいっと力任せに吸い指しの煙草を乱暴に揉み消し、勢いよく立ち上がった。
「帰ってこねぇじゃねぇか!」
「そんなこと今更言ってどうする。」
「ンだよ。なんで二人とも出ていかせたんだよ!なんで止めなかったんだよ!」
「うるさい。」
これは、八つ当たりだ。悟浄にもそれは分かっていたが自制心は既に消えていた。
悟空の我儘に八戒が付き合わされて帰ってこれない、そんな考えは彼らの中からもうとっ
くに吹き飛んでいた。あいつらが帰ってこないはずがない。何かに巻き込まれたことは百パーセント確実だ。そう、悟浄は苦々しく考えた。
「で、どーする?」
「どうもこうもないだろう。相手がその怪しい一座なら、その招待に乗るしかないだろう。
─── じゃあ、俺は寝る。」
「って、三蔵!」
悟浄は立ち上がった三蔵の肩を掴んで自分に引き寄せた。
「離せ。」
「離さない。」
瞬間、カッと激昂した三蔵は悟浄の頬を思いきり殴った。
赤くなった頬を押さえて、悟浄は三蔵の真っ直ぐな視線から瞳を逸らす。
「すまない。少し頭を冷やしてくるわ。」
沈黙がしばらく続いた後、悟浄は低くそう呟いた。そのまま顔も上げずに、悟浄は静かに部屋を出ていった。
三蔵は明け染めていく空を見上げていた。しかし薄青の空を映しているその瞳には、昨夜の闇の中に見た光景が焼きついていた。
八戒の昏い瞳が頭から離れない。三蔵は目を細めて顔をしかめた。
あの傷はたぶん八戒自身がつけたものだろう。それも一度では、ありえない。何度も繰り返し、おのれを痛め続ける八戒の姿を思い、三蔵はやりきれなさで目を伏せた。
──── でも、何故あんなことを。
そう考えながら、三蔵は一つの推測が頭をもたげてくるのを止めることができなかった。
悪い夢の中にいるようだ。ひどく吐き気がした。
すべてが、壊れていく。そんな予感が身体を締めつけていく。
八戒は俺を許さないかもしれない。
朝陽を受け、三蔵の影が濃く床に落ちる。
その表情は影になり、何者にも窺うことはできなかった。
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