「すっげー人だな、おい。」
呆れたように周りを窺う悟浄は、隣を歩く三蔵にそう話しかけた。
結局、あれから八戒と悟空の捜索は何の進展も見せておらず、三蔵と悟浄は当初の予定通り、送りつけられた招待状を持って宵待ち座の天幕にやってきたのであった。
悟浄は朝ふらりと宿屋を出て行ってから夕方まで一度も戻ってこなかった。
少しは休んだのかさえ疑問ではあったのだが、三蔵に向かって怒りを向けることはもうしなかった。
まつりは最高潮に達していた。街の大通りだけでなく辻々にも店が立ち並び、ちょっとした広場になっている所では歌だの手品だの芸人が人だかりを作っている。どこからこれだけの人が集まってくるのか不思議なほどだった。
既に日はとっぷり暮れていた。これだけ街の明かりが強いのならば月明かりなど霞んでしまうはずなのに、その夜の月は別格らしく皓々と街を包み込んでいた。
宵待ち座の天幕の周りには、既に黒山の人だかりが何重にもできていた。集まってきた人々をすべて天幕に入れるのは無理じゃないかと、そこかしこで噂が囁かれている。
「 ─── この人込みに混じって、並べっての?」
悟浄はげんなりと肩を落として大きく溜め息を付いた。三蔵は周りを窺っていたが悟浄にそうでもないらしいと声を掛けた。
「見てみろ。招待状がある奴は向こうへまわれってよ。」
そう三蔵が顎をしゃくった先には、悟浄がもっているものと同じカードを持った人々が人込みから分かれて天幕をくぐっていく。不思議なのはそれを持っているのが金持ちだけではなく様々な格好をしたあらゆる階層の者であったことだ。
「なんにしても、これムッチャ怪しいな。」
「それこそ今更だ。行くぞ。」
天幕の中は昨日悟浄と八戒が見たときと様子がガラリと変わっていた。段々になった円形の観客席は既に見渡すかぎり人で埋め尽くされ、興行の始まるのを今か今かと心待ちにしていた。
一段高くなった舞台の上には、何に使うのか分からない色とりどりの箱や台が積み上げられている。人々の期待と熱気で天幕の中は一種異様な雰囲気が立ち込めていた。
しかし、その熱気の影にはこういった一座につきものの独特なものがなしさも、確かに混じってはいた。
突然照明が落とされ、既に耳に馴染みはじめていた旋律がかき鳴らされた。
びくりと腰を浮かしかけた悟浄を、三蔵は片手で制す。ポウと舞台の上に一筋の明かりが現れ、人の影が浮かび上がる。どよどよとしていた観衆も静まり返ってその光景を見つめていた。
「さあさ、おまちかね。年に一度の宵待ち座のからくりでございます。皆様、はじめての方も、御贔屓の方も今夜はあやかしの一夜に我らがいざないましょう。さあ、最初にご覧にかけるのは狂い咲きの桜のイリュージョン!」
今日は真っ白な風変わりな衣装に身を包んだ一永が叫ぶ。と、場内に無数の光の球が現れゆらゆらとステップを踏むように集まり始めた。
固唾を飲んで人々が目で追うと、いきなり光が弾けて世界は白一色になる。いやそれは白ではなく、銀白のひらひらとした花びらであった。
「これは、花びらが死んだ後の姿でございます。薄赤の色は人の心に留まりますゆえ、こうして銀白になるのです。」
遠くか近くかそれすら判断しかねる場所で、一永は説明を続ける。観衆に混じって悟浄もほぅと感嘆の意を漏らした。
「悟浄、ぼんやり見てんなよ。こういう怪しいのを夢中で見るのは止めたほうがいい。捕まっても知らんぞ。」
三蔵は冷静に悟浄を諭す。たぶん会場で唯一人だけ平静の顔を保つ三蔵を、舞台の上からは見えるはずがないのに一永はこちらを向いてにやりと笑う。
「こっち向いて笑ってるぜ。薄気味悪いだろ?」
一永からは、殺気も敵意すら感じられない。いや、その目的すら曖昧だ。
「あいつ、何しようとしてんだろーな。」
三蔵と悟浄がブツブツ話しこんでいる間にも、次ぎ次ぎと出し物は移って行った。
「さて、目眩ましはこの辺でおいておきまして、そろそろお待ちかねのからくりへと参りましょう。
気がつかない間に、舞台の真ん中にはやけに仰々しい仕掛けが置かれていた。
「今宵は人が首を切られても生きて行くことのできる証明をいたしましょう。御婦人方、御心配は要りません。すぐに首は元通りにくっつきますから。」
楽しそうに一永は口上を述べる。
「今日は趣向を凝らして、このためにお客様を事前に招待しております。さあ、どうぞ!」
一永が右手を上げると、仕掛けに掛けられていた布がふっと取り去られ真ん中に一人の男が座らされているのが見えた。
その瞬間、悟浄は三蔵の静止を振り切って叫んでいた。
「八戒!」
その声は目をつぶって舞台の上で座っている八戒にはまるで届かない。
「お静かに、お静かに。これはからくりです。お客様方、お間違えになりませんよう。」
婉然と笑う一永の手には、いつのまにか月の光を集めたような銀白のすらりとした刃が握られていた。
「さあ、世紀の一瞬です。」
「やめろ!」
一永の声に悟浄の叫びが重なる。客席から舞台へ向かって悟浄が駆け下りようとした途端、パっと場内のすべての明かりが消えた。
ハっと身構える悟浄と三蔵の耳に、闇の彼方からもうすでに耳に馴染んだあの不思議な旋律が入ってきた。そしてそれに混じってたくさんの人々の笑いさざめく声が、高く低く聞こえてくる。
「ち、何だよこれ。気味わりー。」
たたらを踏んだ悟浄は注意深く辺りを見回した。
笑い声が急に弾けたように高くなる。耳を押さえた悟浄と三蔵の目の前で、真白い光が衝撃となって二人の瞳に焼きついた。
瞼の裏の残像がようやく消えたとき、そこは闇のなかではなく無数の鬼火がざわざわと今まで街の人々で埋まっていたはずの観客席に揺れていた。
「 ─── 全部、まやかしだったってことか。」
三蔵はこれっぽっちもそれに気づかなかった自分を嘲るように低く呟いた。
「こんだけ怪しい気配がぷんぷんしてりゃ、何が怪しくて、何が怪しくないかなんて区別できるわけねぇよ。」
悟浄はいつでも飛び出せる態勢でじっと身構えた。
「ふふふ。お気に召していただけましたか?」
この状況を心から楽しんでいるのが滲み出ている声が舞台のあった辺りから響いてくる。
それに合わせて、一永の白い姿が闇の中にぼんやり浮かび上がった。
「さあ、ここからが本番です。あなた達だけを特別に御招待しますよ。」
白い手が招くように掲げられる。その手には銀色の光を集めた刀が再び握られていた。いつのまにか、一永の隣には八戒の姿も浮かび上がっていた。
刃が振り下ろされる一瞬、悟浄と三蔵の叫びが重なり合う。
「八戒!」
「悟浄、待て!挑発に乗るな!」
三蔵の制止が耳に届くより早く、悟浄は八戒に向かって飛び出した。音を立てて、階段を駆け降りていく。
スローモーションの画像のように、三蔵の目に映ったのは少しずつ身体が闇に呑まれていく悟浄の姿だった。伸ばした手が悟浄の腕を掴む前に、その身体は闇の中へ消えた。
「出てこい、化け物。」
三蔵は傲然と言い放つ。
「化け物とは、これまた心外な言われようですねぇ。」
さらりとした声がして、一永の姿が一瞬にして三蔵の目の前に現れた。怒りを押さえた低い声で三蔵が問いかける。
「お前、妖怪でもないだろう。何者だ?何が目的だ?」
「何者って、私たちはただの、闇の世界の住人ですよ?たいしたものじゃありません。ただ陽のあたる処には出て行かないだけの。」
「それが、何でこんなちょっかいを出してくる?返答如何では、殺すぞ。」
「物騒だなあ。」
この期に及んでも含み笑いを漏らす一永からは敵意のかけらも感じられず、三蔵は眉根をしかめた。
「敵意があろうとなかろうと関係ない。俺に立ちふさがるヤツは、皆、敵だ。」
そう宣告して三蔵は一永の額に狙いを定めた。
三蔵の紫暗の瞳が、一永の光のない瞳を貫く。
「あなたに手を出すつもりはありません。ただ、昏い瞳を持つあのひとはいただきます。いいですね?」
その言葉が終わる前に、三蔵はぎりっと歯を喰い締め、銃の引金を引いた。
しかし、銃弾が届く前に、闇の世界の生きものの姿は消え失せた。
三蔵はひとり、闇の中に取り残されていた。
悟浄はねっとりとした闇を感じていた。ねっとりというのは比喩でもなんでもなく、実際に身体におびただしいほどの視線がまとわりついてくるのを、悟浄は振り払おうとして身をよじった。
「おい!出てきやがれ!三蔵と八戒をどこにやった。」
誰に向かうともなく、虚空に叫叫ばれた悟浄の声が響きわたる。
「そんなに大声を出さなくても、聞こえていますよ。」
その声とともに、一永の姿がふいに悟浄の目の前に現れた。
「テメェ、いいかげんにしやがれ!」
瞬間、激昂した悟浄が胸倉を掴もうとするのを一永は無造作にかわした。そのまま捕まらないよう空中に浮かんで距離を作ったまま、さらりと一永は告げる。
「大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても。あなたが欲しがっている、真夏の太陽のように強烈な光を放つあのひとには、早々にお帰りいただくつもりですから。
ただ、八戒さんには私たちと一緒に来てもらういます。ああ、安心してくださって結構ですよ。危害なんて加えませんから。」
それだけ一方的に言うと、一永は再び闇の中へ消えた。
悟浄は拳を握りしめて、立ちつくす。
誰もいなくなった虚空をしばらく睨つけてた悟浄は、ふたりを求めて歩き出した。
八戒は闇の中を手探りで歩いていた。どのくらいこの中を歩いてきたのだろう、既に時間の感覚すら八戒から奪われていた。
一歩一歩踏みしめるごとに、足が闇の中に埋もれていく感じを、どうやっても拭い去ることができない。一永と呼ばれたあの魔物も、一度も姿を表さない。
時間が緊張感を磨耗させて、知らず知らずのうちに張り詰めていた気が薄れていく。
八戒はおのれの心の中に思考がどっぷりと沈んで行くのを、防ぐことができなかった。
雨の音が聞こえる。胸の奥に隠してある記憶が浮かび上がってくる。
あの夜見てしまったことを、忘れることができるのなら。
八戒は記憶から目を逸らすかように、闇のなかで瞳を閉じる。
組み敷かれた金の髪と、それに振り落ちる赤い髪。絡みつくまなざし。
もう悟浄は三蔵を選んでしまった後なのだ。今更、僕が何を言えるというのか。
──── もう、遅いのだ。
口に出すことすら出来ない想いが、僕の心を喰い尽くしていく。
側にいればいるほど、心はせつなさに引き裂かれるように痛むけど、それに気づかれることは絶対に嫌だった。ひとつ気づかれてしまえば、あとは全部自分の中の昏くこごった感情が明かるみに出てしまう。自分の醜さを悟浄に知られることは、どうしても避けたかっ
た。
三蔵の魂が持つ気高さと比べられることは、どうしても避けたかった。
八戒はすでにここがどこで、今、自分が何をしているかということさえ失念して、おのれの想いの中に深く沈み込んでいた。
初めて会ったときから三蔵にひかれていた。その生き方に誰よりも憧れたのは、他ならぬ自分だ。
おのれの中の弱さをねじふせてまで強くあらんとするその誇り高い生き方に、どれだけ自分は魅せられたか、いや、救われたか分からない。罪に溺れる自分を引き上げた。その強さをきっと死ぬまで忘れることはできないだろう。
だからこそ。今、三蔵への憧れは羨望と嫉妬に変わる。プラスのベクトルが強かった分それは同じ強さでマイナスへと向いた。
自分には弱さをねじふせて、なかったことにすることはできない。できるのは心の底に押し込めて、それを永遠に抱えていくことだけ。
あのふたりの側にいればいるだけ、僕の心は血を流す。どれだけ痛みを受ければ、心は麻痺してくれるだろうか。
───── いつか、この痛みから解放される日は来るのだろうか。
三蔵は行く手にぼんやりと人影が浮かんでいるのを見つけて身構えた。そのまま気配を殺して近づいていく。
「八戒!無事だったのか?」
三蔵はその人影が八戒であることに気がついて声を掛けた。自分の想いに深く沈んでいた八戒はその声にびくりと反応する。
「 ──── 三蔵。」
近づいてくる三蔵の姿と自分の中の三蔵の姿がダブって二重写しのようになる。
八戒の心は、少しずつ闇に取りこまれようとしていた。
一歩後退り自分を強張った顔で見る八戒に気づいて、三蔵は足を止めた。
「八戒。」
低く呼びかけてみるが、それにも八戒は答えようとしない。そればかりか、八戒は苦しげに顔を歪めて胸を押さえた。
三蔵と八戒の間に沈黙が落ちる。
三蔵の脳裏に、自らの拳で赤い傷跡をつける八戒の姿が浮かぶ。八戒の様子がなんとなくおかしかったのには、ずいぶん前から気がついてはいたけども。
突然、三蔵の中にぞくりと悪寒が走る。
──── まさか。これはいつか見た、悪夢と同じ光景だ。
三蔵は内心の動揺を表に出さずに、目を細めて八戒の心を探るかのように見つめ続ける。
──── 八戒は知っているのだろうか。悟浄。やはり、俺達はとりかえしのつかない未来に足を踏み入れてしまったのだろうか。
三蔵の心は外からは窺いしれない。先刻までの己の闇にひそむ昏い感情を押さえ切ることができずに溢れそうになるのを、八戒はなんとかしてこらえようと必死になった。
押し殺した声で三蔵は告げる。
「 ──── 言いたいことがあるなら、言え。」
三蔵のまなざしが八戒の心を貫く。
それを聞いて、八戒は目を見開いた。どくりと胸が締めつけられる音がする。
知っている。三蔵は知っているのだ。自分の中にある昏い感情の正体を。愛も憧れも、既に歪んで醜く変貌を遂げた自分の心を。
そう気がついた八戒はカっと頭が真っ白になるほど激昂して、無意識のうちに三蔵の胸倉を掴み乱暴に引き倒した。
「 ─── っ八戒!なにしやがる!」
「 ─── 知っているのでしょう?三蔵。」
低く八戒は囁く。その瞳の色は影になっていて、三蔵から窺うことはできない。
「 ──── ああ。」
三蔵は覚悟を決めて返事をした。その返事の中に迷いは感じられなかった。
こんなときでも、三蔵は自分を肯定することができる。
自分とはあまりに違うその心根に、八戒は心臓を掴まれるような痛みを感じた。
同時に三蔵もまた、八戒のまなざしに心を冷たい刃で刺し抜かれる痛みを感じた。
─── 八戒をここまで追い詰めたのは、まぎれもない、俺自身の存在だ。
心が悲鳴を上げる。その声のあまりの大きさに、八戒は三蔵の心にも同じ痛みがあることに気がつくことはできなかった。
中空を漂いながら、一永はその光景を楽しそうに見ていた。
別に、危害を加えたりなんかしてませんよ。ただ、あのひとの心を解放する舞台を提供しただけに過ぎないのだから。そう考えて、またくっくっと含み笑いを漏らす。
もうすぐ仲間がひとり増える。
それもなかなかお目にかかれないほどの輝きを持った、魂が。
八戒は三蔵の胸倉を掴む手に更に強く力を込めた。気道を塞がれて三蔵は苦しそうに喘ぐ。額がぶつかるほど顔を近くに寄せ、八戒は昏く笑った。
「苦しいですか?それなら助けを呼んだらいかがですか?
──── きっと、すぐに助けにきてくれますよ。」
耳元に囁かれる声に、三蔵は瞳を上げた。苦しげな瞳の中にも強い光は、消えていなかっ
た。
「俺を殺して気がすむなら、殺せばいいだろう。やれよ。」
その言葉に挑発的な響きはなかった。ただ三蔵らしくもないあまりにも真摯な声色が、それが本気であることを示していた。
八戒はハっとして身を起こし肩を震わせた。三蔵の首に廻していた手が無意識に弛む。
「 ──── そんなこと、僕にできる訳ないと知っていて、そう言うんですね。」
震える声で八戒はそう言うと、三蔵の肩にその顔を埋めた。
自分が憧れた強さがここにある。痛みよりも、まぶしさに目がくらむ。
そのまぶしさゆえ、自分の中の闇は一層深くなるのだ。
「 ─── いっそ、あなたを抱いてしまえれば、いいのに。」
三蔵は何も言わず、八戒の痛みを心に受け止めながら見えない未来を見つめていた。
「もう、おしまいですか?」
柔らかな声が宙から降ってくる。一永だった。
八戒は三蔵の肩口に顔を押しつけたまま、振り返ろうとはしなかった。
「そろそろ、こちらに来る決心はつきましたか?」
一永の声に強制の響きは見当たらなかった。長い長い年月をこうやって闇の中を旅しているのだろう、時間はたっぷりあるのだという態度を崩す様子もない。
ふらりと八戒が立ち上がる。それに従って三蔵も何とか身を起こした。
八戒は先刻の激情が嘘であったかのように、静かな顔をしていた。ただその瞳だけが、睫の影によってか、昏く、底知れない色を湛えていた。
少しずつ、八戒は闇の中に引きずり込まれていく。
一永は滑るように宙を渡って来ると、身じろぎひとつしない八戒の頬にそっと手を触れた。
「あなたの魂は闇色の輝きに満ちている。こんな綾麗なひとに見向きもしないなんて、あなたの想いびとの目も大概ふしあなですね。」
そう言ってくすくす笑いながらこちらを睨つける三蔵に視線を移した。
「たしかに、こんな真夏の金色のようなひとが相手じゃ分が悪いですけどね。この目も眩むような光に魅せられないひとはなかなかいないでしょうし。まあ、私たちには強烈すぎて早々お帰りいただかないといけないですけどね。」
「 ──── 戯れごとは止めろ。死にたくなければその手を離せ。」
三蔵はいつの間にか息を整え、立ち上がって銃を構えていた。
「別に撃っても構いませんよ。そんなものじゃあ死にませんから。
──── でも、いいんですか?あなただって八戒さんがいなくなったほうが、都合がい
いんじゃないですか?」
一永が言い終わるより早く、三蔵は物も言わず何度も銃を撃ち込んだ。
一永は悠然と笑う。
「そんなもの、無駄だと言ったでしょう?我らは生と死の境の闇に生きるもの。ひとの心に、住まうもの。血や肉なんて、備えてないんですよ。」
三蔵は無表情を保ったまま、次の手を懸命に捜していた。と、その時、闇の中にひそむ無数の気配がどよどよと動き始めた。気配は鬼火の正体を見せ、逃げ惑う叫びに変わる。
「どうしたんです?」
一永はふいっと八戒から離れ、虚空に問いかけた。その瞬間その視線の先から銀色の光がヒュッと飛びこんでくる。悟浄の放った刃が結界を切り裂いたのだ。
「三蔵!八戒!無事か?」
虚空に開いた隙間から悟浄が鬼火を蹴散らしながら駆け寄ってくる。
それまで身じろぎもしなかった八戒は、悟浄の姿を見て愕然として後ずさった。
「 ──── さすがと言うべきか。無茶苦茶と言うべきか。しかしあなたの出番はここに
はないんですよ。どうしてもというのなら、そこで黙って見ていてください。」
冷たく一永が言い放つのと同時に、悟浄の目の前には行く手を阻むものが出現していた。
それは大気がこごって固まった壁みたいなもので、先刻結界を切り裂いた刃でも傷つけることさえできなかった。
悟浄は透明な壁に拳を強く打ちつけて何かを叫んでいた。が、その声すら、八戒と三蔵の耳には届かなかった。
「あのひとには聞かせたくない話なんでしょう?こちらの声も向こうには届きませんから安心してくださって結構ですよ。」
動揺する顔を悟浄から離すことのできない八戒に一永は優しく告げた。
銃を構えたままの三蔵を無視して、一永はまだ身体を強張らせている八戒の首にそっと白い腕を廻した。
「いい加減に認めたらいかがですか?どうせあなたも我らと同じ、こちら側の住人なんですよ。さあ、一緒に行きましょう。
──── あなたの心をそんなにも縛っているのは、あなた自身じゃありませんか。
気がついてるんでしょう?あなたの抱えている強すぎる執着を捨て去れば、あなたは解放されるんですよ。」
叫び続けている悟浄をずっと見つめ続けていた八戒は、一永の言葉を聞き、自分の顔を覗き込んでいる白い美貌の中の闇色の瞳に目を移した。周りをとりまく闇よりももっと深い闇の世界がその瞳の中にはあった。
思考を放棄していた八戒に少しずつ意識が戻り始める。
───── 執着。確かにそうかも知れない。
八戒はそう考えると、自分の執着の源である悟浄の姿を見遣った。
──── 自分のこの想いが、何と呼ばれるものかすら、
僕にはもう分からなくなってしまった ─── 。
「 ─── この執着を手放せば、僕は楽になれるんでしょうか。」
悟浄の姿をひたすら見つめたまま、ほとんど聞き取れないくらいの微かな声で、八戒は一永に問うた。
「ええ。幸せになれますよ。」
一永は八戒をすでにその手に入れたかのように、微笑んだ。
「八戒!八戒!何バケモンと馴れ合ってるんだよ!くそぅ、こっちの声なんかまったく向こうに聞こえてないのかよ。三蔵も突っ立ってないでナンとかしろ!」
透明な壁に向かって、あらんかぎりの声で悟浄は怒鳴りつけながら、拳をそれに叩きつけた。拳に血が滲み始めるのにも気づかず、何度も、叩きつける。
八戒の唇が小さく動いて、何か言ったようだ。言葉は聞こえなくても、悟浄はそれが、彼らの絆を断ち切るサインのような予感がした。
背中を冷たい汗が流れる。
その予感を証明するように、一永は悟浄の方を向きにやりと笑う。それは、勝者の笑みに違いなかった。
その笑いとともに、ふっと目の前の障壁が消滅した。悟浄はたたらを踏みながら、三蔵と八戒の元へ駆け寄ろうとした。
駆け寄る悟浄から逃げるように、八戒は数歩後ずさる。その隙間に先ほどのものより強固な障壁がそそりたって、八戒を悟浄と三蔵から隔てた。
「八戒!」
悟浄は叫ぶ。その声が届いたかのように八戒はちらりと悟浄を振り返ったが、そのまま足を止めることなく、一永の待つ闇の向こうへと一歩一歩歩き始めた。
「三蔵!一体どういうことなんだ。なんで八戒があっちに行っちまうんだ。」
悟浄の漏らした悲痛な問いに三蔵は答えず、壁の向こうの八戒をじっと見つめた。
──── 八戒。
びくりと肩を震わせて八戒は後ろを振り返った。音すら届かない壁を通り抜けて、三蔵の声なき声が八戒の脳裏に響く。自分を真っ直ぐ見つめてくる紫暗の瞳が、心を射抜く。
──── 自分だけ、逃げるつもりか?そんなこと、俺は許さない。
お前が抱えてきたものは、逃げればすむ、そんなつまらないものだったのか?
目を見開いたまま立ちつくす八戒の様子を見て一永は小さく舌打ちした。我らの結界にありながら、これほどの自我を保ち続ける者達など始めてのことだった。一永の動揺に呼応するかのように障壁はピキピキと音を立て、崩れはじめていく。
顔を歪めて、悟浄は叫んでいた。八戒と呼んでいるのが分かる。
行くなと呼んでいる声が心に届く。
八戒は俯いた。拳を握りしめて、自分の中の相反する心と闘っていた。
長い長い沈黙の後で、八戒は瞳を上げて静かに一永、と闇の生きものに声を掛けた。
「 ──── 僕は、そちらには行けそうにない。
たしかに、僕の心はあなたたちに近いのかも知れない。
けれど、僕が願ったものは、あちら側にしかないんです。
僕は、僕の心からは逃げるわけにはいかない。あの人達を置いて、自分だけ逃げることはできない。……それに。
───── 僕はそんなに簡単に、この執着を捨てることはできない。」
いつしか悟浄も叫ぶのを止めていた。彼らの間を隔てていたものはいつのまにか消え去っ
ていたが、悟浄はそれにも気がつかずに、じっと目の前の光景を食い入るように見つめていた。
「いいんですか?」
と、八戒に尋ねる一永の声がその耳に入って始めて、悟浄は障壁がなくなっているのに気づく。
「いいんですか?」
重ねて一永は問うた。
「それは、とてもつらい選択になるかも知れませんよ?」
八戒は真っ直ぐ瞳を上げ、薄く微笑んだ。
「しかたないです。それが僕の進む道ですから。いえ、それは僕自身が望んだことだから。────
しかし、いつかすべてが壊れる日がもし来たら、そのときはあなたがたを呼ぶかも知れません。まだ、どうなるか、誰にもわかりませんが。」
一永は諦めたように、ふっと溜め息をついた。額に掛かる髪の隙間から、一永は展開についていってない悟浄の途方に暮れた顔を盗み見る。そして、悪戯っぽく瞳を煌らめかせると、八戒の唇に自分のそれを重ねた。
ともに歩める存在が手にはいると思ったのに。残念そうな思念が八戒の頭の中に響く。 唇が離れた瞬間、一永の姿も気配もその空間からすっかり消えていた。
「 ── っだあ!何しやがんだ、あの化け物。おい八戒、大丈夫だったか?」
悟浄が怒鳴りながら、それでも安堵の響きを隠せず走り寄ってくる。
肩に廻された悟浄の腕の力強さを感じて、八戒は傍らの想いびとに気がつかれないように、そっと寂し気な笑いを漏らした。
シュルシュルと音を立てて、闇が溶け始める。一永たちが去って、結界が解けていくのだ。闇の向こうにチカチカと星が瞬くのが見える。
天幕が消えたそこは、ただのだだっ広い草原が広がっていた。
「なんだ、これ。街はどこに行っちまったんだ?」
「あの街からして全部からくりだったらしいな。」
そっけない口調で三蔵はそう答えた。
「結局、教文のことは分からずじまいか。」
苦々しげに三蔵は呟く。
「そーいやぁ、悟空は?」
今頃になってようやく思い出したらしく、悟浄は辺りをきょろきょろと見回した。そして遥か向こうに月明かりに照らされて気持ちよく眠っている悟空を見つけた。
「あのバカザル。」
そう言いながら、うれしそうに悟浄は悟空の元へ歩み寄った。
後に残された三蔵と八戒は、お互い何も言い出さなかった。
二人のまなざしが交差する。
悟浄はまだ、何も気がついていないだろう。少し延びただけなのかも知れない、いつかくる日を想って、三蔵は目を伏せた。
今夜暴かれてしまったことは、その日が来るまで三蔵と八戒の胸の内だけに納められていくのだろう。
夜風に混じって、微かな笑い声が八戒の耳に届いた。ハっと八戒は後ろを振り向いたがそこには夜の闇が広がるばかりだった。
旅は、まだ続く。夜はまだ、明ける気配すら見せていなかった。
付記。すっご前に書いた話です。載せるの辞めようかと思うくらい古い。何が居たたまれないかって三蔵が出張っていることですよ!
いいですか、皆さん!断じて言いますがワタクシは三蔵ファンじゃありません。生粋の八戒至上主義者です。悟浄と八戒は定められた運命の相手ですからね!
蒼穹の彼方から続くシリーズは三蔵が割りとたくさん出てるのですけど、結局は58な訳ですから!
なんで、こんなとこで言い訳してるんだ。私。あああ。