新しい名を貰い、違う人生を歩むことを赦された僕は、僕のことを誰も知らない街で、ひっそりと生きることを選ぶこともできた。しかし、あの時、僕の足は知らず知らずのうちに、悟浄の元へと向いていた。
どうして、なんて聞かれても、たぶん答えることはできなかっただろうけれど、ただ、罪を背負っても生きていくしかないのなら、あのひとの隣で、と僕は確かに思ったのだ。 抱えたものは重かったけれど、それでも、悟浄とずっと共に未来を歩んでいくような予感がしていた。
そんな夢を見たこと自体が僕には過ぎた望みだったのかも知れない。
望んだのは、こんな未来ではなかった。曖昧だった想いが形になった時、既に悟浄は三蔵を選んだ後だった。閉じ込められたそれが愛と呼べるものなのか、それとももっと違うものなのか、それすら僕は見失ったのだ 。
僕達が辿り着く先には、何が待っているのだろう。
瓦礫の上をびょうびょうと風が吹き渡っていく。見渡すかぎり動くものの気配のない、死に絶えた街が彼らの目の前に広がっていた。空が青く、高く澄み渡っているのが、その光景の凄惨さに更に拍車を掛けているようだった。
「ひっでー。」
言葉を失った四人のなかで悟浄はようやくその一言を絞り出した。ふだん生き死にには見慣れているはずの彼らにも、それは息を呑む光景であった。
戦いの中に身を置く者が、おのれの命と相手の命を賭けてやり合う戦場よりも、人々がただ穏やかに暮らしていたであろう日常が壊滅させられたその光景は遣り切れなさだけが心に残る。
「無茶苦茶なやり方ですね。」
低く八戒が答える。
「やられてから、しばらく経つようだな。」
三蔵は風に消されぬよう、肩を丸めて煙草に火をつけた。
「そのようですね。二、三日というところですか。生存者がいる可能性はまだありますね」
「―――あんまり、期待できないけどな。」
目の前の光景を痛ましげに見つめる八戒に、三蔵はそう投げかけた。
煙草の煙が青い空へと昇っていく。
「じゃ、三蔵、俺、向こうから捜してくる!」
三蔵の言葉を了承と受け取った悟空は、だっと駆け出した。悟空はこの街に入ってから一度も口を開いてはいなかった。そこで眠る者達が、戦いとはまるで縁のない人々だということは解ったらしい。
「さて、俺らも手分けして捜そうぜ。一人ぐらいは運よく生き残っているヤツもいるだろーし?何でこんな事になったのかも聞きてぇしな。」
軽い口調の悟浄の瞳に強い憤りの色が浮かんでいるのを見つけた八戒は、この状況を少しだけ忘れて、その瞳に見惚れた。
真っ直な瞳と、真っ直な心。軽さの中に潜む悟浄のそんな姿を見つける度、八戒は無意識に瞳が引き寄せられるのを感じていた。
息を詰めていた八戒は三蔵の溜め息にふと我に返る。
「じゃあ、お前らはあっちを捜せ。俺はバカザルを追う。」
三蔵は苦虫を噛み潰した顔で、そう振り分けた。
「まだ敵がいるかもしれないのに、悟空、あんなに向こうまで行ってしまって。」
「いつまでたっても、手の掛かるサルだねぇ。」
八戒と悟浄の声を背中に聞き流しながら、三蔵はふんと鼻を鳴らした。
悟浄と八戒は瓦礫の山を一歩一歩踏み分けて、いるかいないかそれすらも定かでない生存者を捜していく。
「誰かいませんか―――?聞こえたら返事をしてください!」
「誰もいねぇのかよ、ったく。」
悟浄は額の汗を腕で拭うと、ひときわ大きな瓦礫を乗り越えた。
「おい、八戒。どうだ、そっちは?」
「だめです、全然。やっぱり全滅だったんでしょうか。」
少し声を落とした八戒の背中を、悟浄はとんっと叩いた。
「まだそう決まったワケじゃねぇよ。もう少し捜してみようぜ?」
にやっと悟浄は笑ってみせる。そのまま先にたって歩いていくその背中を、八戒は目を細めて見つめると、足早に追いかけていった。
あちこち捜し歩いた二人は、元は裏通りだったらしい路地に足を踏み入れた。物音一つしないその路地に立った八戒は、ふと足を止めて周りを見渡した。
「―――悟浄。」
「ああ。何か、いるな。」
押し殺した声で呼びかける八戒に、悟浄はさりげなく答えた。
彼ら以外何も動くもののないその路地に立ちこめる、何ものかの気配。いや、それは気配というより、剥き出しの敵意と呼ぶのにふさわしい強烈な視線であった。
「敵、でしょうか ?」
「解らねぇ。―――あ、あそこだな。」
声を潜めてその敵意の出処を注意深く窺っていた彼らは、路地の奥の崩れ落ちた石造りの小さな家の前に視線を向けた。
「どうします?行きますか?」
「行かなきゃ話にならねぇじゃねぇか。」
今にも崩れてきそうな瓦礫の奥を悟浄は覗く。暗く影になったそこにギラリと光るモノを見つけて、悟浄は半歩のけぞった。
「どうしました、悟浄?」
八戒もつられて覗いた瞬間、光る瞳と銀色に光るものが目の端に映る。それを無造作にかわして八戒はそれが小さな鉄色のナイフと目だけギラギラとした薄汚れた少年だということに気がついた。
「―――生存者だ。」
「おい、ボーズ。俺達は敵じゃない。そのナイフをしまいな。」
悟浄は右手をその少年に差し出して、近づいていく。しかし、ヒュッと音がして再びナイフが悟浄に向けて振り下ろされた。
「だぁ、敵じゃねぇって言ってんのに。」
そうぶつぶつ言いながら、悟浄は少年の後ろに回り込み腕を乱暴に掴むと、手の中の刃物を取り上げようとした。
「やめてください、悟浄。脅えてるじゃありませんか。―――もう大丈夫ですよ。ずいぶんと酷い目にあったようですね。でも、悪いことする奴等はこの街にはもういませんから。僕の言ってること、わかりますか?」
片膝を付いて、視線を少年の目線に合わせて八戒はゆっくりと告げた。獣のような少年の瞳にたじろぐこともなく、八戒は落ち着いたまなざしを向ける。にっこり笑って八戒は続けた。
「ナイフを下ろして、さあ。」
八戒の手が伸びてくるのを見て、少年はナイフを盲滅法に振り回した。刃が八戒の手の甲を掠める。
「八戒?」
「いいから、手を出さないでください。―――もう、大丈夫。解りますか?」
笑みを浮かべたまま、手を差し伸べ続ける八戒に少年はたじろいて後退った。その隙を見過ごさず、八戒は少年の手を引き寄せて痩せた身体を抱きかかえる。
「何があったか、教えてもらえますね?」
優しい顔で八戒がそう問うと、少年は八戒の手を握りかえして、自分の隠れていた隙間のほうへ凄い力で引っ張って行った。
「え?何があるんです?」
「―――助けて。中に弟が。」
瓦礫の山が悟浄と八戒の手で次々片付けられていくのを、驚嘆した顔で少年は無言で見つめていた。しかしそれも、隙間からぐったりとした一回り小さな少年が引き出されるのを見るまでだった。弟に駆け寄ると、少年はぽろぽろと大粒の涙を流した。まだか弱い子どもの手では弟を瓦礫の下から救い出すこともできず、少しづつ弱っていくその姿を見続けなくてはならなかった少年の心をおもんばかって、八戒は声も出さずに泣き続ける少年の頭をそっと撫ぜた。
三蔵達と合流して、少年の弟を介抱し、うなされていた呼吸が規則正しい寝息に変わる頃には、日はとっぷりと暮れかかっていた。さすがにこの街のなかで野宿をすることには誰の胸にも抵抗があったようで、野営の準備をしたのは、街はずれのもう森との境に程近い場所であった。
悟空なみの食事を平らげた兄の少年は、少しづつぽつりぽつりとこれまでのことを語り始めた。
自分の名は藍俊、弟の名は晃瑛ということ。物心ついた頃には父親は既になく、母親が二人を女手一つで育ててくれたこと。貧しいながらも三人で肩を寄せ合って暮らしてきたこと。
街がこうなってしまったことになると少年の口は途端に重くなった。一遍にたくさんの死を見てしまったためうまく話すことができないのであろうと推し量って、八戒はこの辺で話を一旦切り上げて少年を休めさせようと他の面々に提案した。
「かなり疲れているようです。今夜はこのくらいにしておいたほうがよくありませんか?」「そうだな。もう結構遅い時刻だしな。また明日ということで、今日はもう寝ろ。」
最後だけ少年に向かって三蔵は投げかけたが、藍俊はじっと弟の傍らから離れようとはしなかった。
「随分落ち着いてきているし、しばらくすれば元通りになりますよ。さあ、もう寝ないと君のほうが参ってしまいますよ?」
「そーだ、お前がついてったって、容体が変わるわけじゃあるまいし。」
軽くからかった悟浄を藍俊はぎろりと睨んだ。最初に見つけたときから悟浄と少年の折り合いは良くなかった。悟空にはかなり懐いたし、八戒の言うことなら聞く少年も悟浄の言葉にだけは反発するようだった。
「晃瑛のそばにいる。」
挑み掛かるような瞳で少年は悟浄に言い返した。十二、三の少年の持つ瞳とはとても思えない、意志の強い瞳。それに気押されたように、悟浄はぐっと言葉に詰まった。
「好きにさせとけ。俺は寝る。」
三蔵はその様子をちらりと見ると、興味を失ったかのように焚き火に背を向け横になった。
ちょっと用足しに、と言って悟浄が焚き火を離れたのは、それからしばらくして三蔵も悟空もぐっすり眠りについた頃だった。八戒は少し熱が出てきたらしい晃瑛の枕許にそっと寄り添って看病していた。悟浄に目許だけでうなづいて返事をすると、八戒はまた少年の顔を覗き込んだ。
ふらりと悟浄は森の中に歩き出す。そして焚き火の明かりが微かに見える場所までやってくると、木にもたれかかって煙草に火を付けた。
まいっちまうよな。あんなガキ相手に何怯んでるんだか。
少年の挑みかかってくる瞳が目に焼きついて離れない。
子供とかっつーのは、関係ないか。―――あの子供は、今ぎりぎりな処に立っている。守ってやらなくてはとか、そんな綺麗事なんかじゃなく、全てを失った少年に残されたのは弟だけなのだ。これ以上、喪うわけにはいかない。その想いだけがあの少年の生きる力になっている。
悟浄は自分の足元を見下ろしながら、ふと自嘲気味に苦笑った。
―――なくせないものは、あるのか?
三蔵の声が脳裏に響く。あんな子供でも解っていることが、俺にはよく解らない。自分の身一つを頼りにして生きてきた。それに今は仲間達もいる。不安になる要素はないはずなのに。
それとも、俺は何か忘れているのだろうか。
短くなった煙草の火が、指先を焦がす。悟浄は煙草を揉み消すと、向こうに見える明か
りのほうへ歩き出した。
やはり疲れ切っていたのであろう、必死に弟の枕許についていた藍俊はいつの間にか弟に寄り添うように健康的な寝息を立てていた。八戒は目許をほころばせるとそっと兄弟達の肩の上掛けを直してやる。
こうやって眠っていると、年相応の子供にしか見えないのに。八戒もふぅっと息をつくと先刻少年の見せたまなざしを思い浮かべた。
凄い瞳だった。強い意志の存在を証明するような。只の少年にすぎないのに、あの子供にはなくせないものがなにか、ちゃんと解っているのだ。そしてそれを周りに知らしめようとしている。
僕には、出来ないのに。何が一番大事かなんて、それすらもう見失いつつあるのに。こんな子供を羨ましいと思うのは、馬鹿げているだろうか。
僕はこの先、どこへ向かおうとしているのか。
八戒はきっと瞳を上げ、揺れ動く炎に目をやった。炎の中に幻が見えた。
炎の向こうで、三蔵が瞳を開ける。真っ直ぐな紫の瞳が、八戒のまなざしとぶつかりあう。八戒はその瞳に昏い色が浮かび上がるのを隠そうともせずに、三蔵をじっと見つめた。 炎を挟んで、凍てつくような沈黙が落ちる。
八戒は何も言わなかった。しかしその瞳は言葉よりも雄弁に物語る。
三蔵は心が冷えていくのを感じていた。気がつくと八戒はああやって無言で見つめてくる。 八戒は俺を責めているのか。
随分と前から、俺の背中にこの視線が注がれているのには気がついていた。そのまなざしが昏さを増していく。夜ごと深まってくるそれは、いつかくる崩壊の時を予感させた。 早く何とかしなければ。今ならまだ間に合う。今ならば。
ゆらゆらと二人の間を炎が踊る。口に出せないものを飲みこんで、三蔵は再び瞳を閉じた。
悟浄は皆の眠りを妨げないように、気配を殺して焚き火に近寄った。八戒一人が起きているのを見て、その横顔に声をかけようとした悟浄は息を呑んだ。
炎を見つめる八戒の瞳。あの少年のとはまた違う、闇が潜むそのまなざし。見たことのない八戒が、そこにいる。無意識に一歩進んだ悟浄の足の下でポキッと小枝を踏んだ音がした。はっと振り返った八戒は悟浄の姿を認めて、その顔に普段通りの穏やかな笑顔を浮かべた。
「びっくりしました。敵かと思いましたよ。」
「あ、あぁ、驚かせて悪かったな。……ガキは結局ガキだな、さっさと寝てんじゃねーか」
「張り詰めていた気が緩んだんでしょう。まだ、子供なんですよ。」
八戒が振り返った瞬間、あらわになりかかったものは形になる前に宙に消えた。
「おまえもそろそろ寝ろよ。」
「ええ、そうですね。じゃ、おやすみなさい、悟浄。」
にっこり笑うと、八戒はそのまま焚き火の向こうに横になった。
夜が更けていく。世界中が寝静まっているかのようだ。悟浄も三蔵も、子供達と同レベルにしか見えない悟空も起きる気配は全くない。それを認めて、そろりと八戒は身を起こした。悟浄が戻ってきた後も、八戒は目をつむって横になっていただけで眠ってはいなかったのだ。
最近、安眠とは縁遠くなっているな、と八戒は口許を歪ませた。気配を殺して、ゆっくりと八戒は仲間達の側を離れていく。物音も届かないほど遠くまで離れて八戒はほっと息をついた。そのまま木の根元にもたれかかって座り込む。目をつむって木に身体を預けて深く呼吸すると、張り詰めていた身体の中にようやく空気がたどりついた。
仲間達から離れて、一人になって始めて息が付ける。目を固く閉じたまま八戒は自分の鼓動の音に耳を澄ました。
いつからか、八戒はこうやって一人になることが多くなっていた。誰か周りにいると落ち着いて眠ることもできないのだ。誰かがいるときは持てるだけの力をもって自分の心を隠し通す。何か隠していることさえ気取られないように細心の注意を払われたそれは、八戒自身が考えている以上に彼の精神に負担を掛けていた。
八戒は赤い髪の男を思い浮かべた。
できるだけ、あのひとから離れていたい。側にいれば、自分の想いにいつ気づかれてしまうかと思うと一刻も心の休まるときはなかった。自分ではコントロールすることさえできなくなった想いが暴走しないように、必死に押し留めなくてはならない。
隠して、隠して、どこまでいけるだろうか。
そのためにできるだけ離れている必要があるなんて、自分の馬鹿さ加減に涙が出てくる。八戒は目をつむったまま、昏く薄く嗤った。
悟浄と共に、ずっと生きていたいと、そう願っただけなのに。隣にいるだけでこんなに辛い。
あの日見た夢は、見果てぬ夢だったのだろうか。
空がうっすらと白みかかってくる。濃紺だった空の色が少しづつ淡くなり、一瞬ごとに色を変えていく。一日の始まりの気配を孕んだまま、森の中はまだしんと静まり返っていた。野営の火ももう小さくなっていたとは言え、まだおき火がくすぶっており、夜明けの寒さをその周りだけ微かに和らげていた。
同行者も昨日拾った子供達もまだぐっすり寝入っているのを気配で感じながら、悟浄は物音を立てないよう目を開けた。そのまま視線だけで周りをぐるりと窺う。
―――四人。一人欠けているのを確認して、悟浄は溜め息が出そうになるのをぐっと押し留めた。隣で寝るのを確かめてから寝たはずなのに、何故朝起きると八戒はいつもいないのだろう。
もともと八戒は他人より早く起きる質だったから、夜いないことに気づいたのは、実はつい最近だった。そんな素振りをかけらも見せない八戒に理由を問いつめることはどうも躊躇われて、悟浄はここ数日、八戒の不在を確かめるためだけに早起きを続けていたのだ。
朝の気配の中、悟浄は目を閉じて昨夜の八戒の姿を思い出していた。皆が寝静まった中、焚き火をじっと見つめていた八戒の顔に浮かんでいた、表情―――。
一体何を思ってあんな顔で火を眺めていたのだろうか。悟浄は眠る前にも考えたその疑問をまた繰り返した 炎の中に何の幻を見ていたのだろうか。悟浄はごろりと寝返りを打つと焚き火に背を向けた。
八戒。おまえが解らない。悟浄はしばらく前から自分を浸蝕してくるその想いに耽った。
前はこんなことなかった。お互い何も言わなくても、あいつの考えてることは解っていた。いや、顔さえ見なくても、何考えてるかぐらいいつでも解ったのに。
さわさわと朝の風が森の中を通り過ぎていく。死に絶えた街が隣にあることすら忘れてしまいそうになるほど爽やかな朝が、やってこようとしていた。
少しづつ明るくなっていく森を眺めながら、悟浄はぼんやりと考えていた。
今は、解らなくなってしまった。八戒が何を考えてるか、今はもうよく解らない。背を向けられているときはもちろん、顔を合わせて話をしているときでさえ。
いつからだったろう?それすら思い出せないほど、密やかに、それでも確かに。
八戒との距離が、離れていく。
突然悟浄はがばりと跳ね起きた。
気の所為だ。離れてくとか、そんなことあるわけない。
自分をじわじわと蝕んでいく予感を振り払うように、悟浄は何度か頭を振った。
俺の、思い過ごしに決まっている。
そのときだった。草を踏む足音と共に呆れたような声が背後から掛けられる。
「悟浄?なにやってんです?そんなに頭を振り乱して。」
「あぁ?」
振り返って八戒がにっこり笑って立っているのを見つけて、悟浄もにやりと笑った。
「おう。」
「おはようございます。」
「寒いな。」
「えぇ。少し薪を集めてきたんですよ。何か暖かいものでも入れましょうか?」
「おう。頼むわ。」
やっぱり、俺の気の所為じゃねぇか。何も変わっていない。いつもと同じだ。
悟浄は薄く口の端だけで笑った。目敏くそれを見つけて小首をかしげた八戒に、悟浄は何でもねぇよ、と言い返した。
昨日拾った子供達は、朝食ができる頃になっても目を覚まさなかった。二人ともかなり体力を消耗していたようで、近くで悟空が空腹を訴えて不満の声を上げるのにも、気づいた様子はなかった。
「大丈夫でしょうか。」
八戒は気遣わしげに子供達を覗いた。
「こいつら、どーすんの?連れてくの?」
悟空が三蔵に尋ねる。
「連れてくワケねーだろ、バカ。とりあえずこの街をこんなふうにした奴等の情報を聞いたら、近くの街まで送って行くことにする。」
「でも、起きないよ?」
悟空が心配そうな声を出したそのとき、やっと藍俊が身じろぎをした。
「起きたじゃねぇか。」
藍俊は差し出された粥を、昨夜と同じようにがつがつと食べた。飢えた感覚がまだ残っているのであろう、四人の視線が食事の間中、ずっと自分に向けられているのにも頓着せず朝食を平らげていく。
「少しは落ち着きました?」
優しく聞いてくる八戒に、藍俊はこくりと頷いた。
「まだ気持ちの整理はつかないでしょうけど、この街がこんなふうになった訳を教えてもらえませんか?」
一晩ぐっすり眠って、少年の身に纏う雰囲気は幾分穏和になっていた。言葉を探すように、ひとつづつゆっくりと少年は語り始める。
「何から言ったらいいか解んないけど。ちょっと前までは街は特に変わったこともなかったんだ。それが一週間くらい前から、なんでかはよく解んなかったんだけど、いきなり全身から血が噴き出して死ぬ人が出だしたんだ。で、噂話が広まる頃には、同じように血を出して死んでく人があちこちで出始めて。僕の周りでも、いっぱい死んで。―――母さんも。」
泣くのを堪えようとして、藍俊はそこで急に口を閉ざした。膝を抱えた腕にギュっと力が込められるのが、傍目からも見て取れる。
八戒は続きを聞くのが躊躇われて、思案気な顔を三蔵に向けた。八戒の視線に気づいた三蔵は、不機嫌そうな顔のまま無造作に少年に続きを促した。
「で?街があんなふうになったのは、その出血死だけが原因じゃないだろう。何故街が瓦礫の山になってるんだ?」
母親の最期から話を逸らせて、少年は少しだけ安堵したように体から力を抜いた。
「あちこちで人が死んでいって、これはおかしいって話になったんだ。で、街のお偉いさんとかが集まっていろいろ調べてくうちに、死んだ人の身体に変な痣があることに気がついてさ。呪いだって言ってた。呪いをかけた奴を見つけだすって、街に残ってたまだ動ける大人達みんなで山狩りをしたんだ。」
山狩りと言って、少年は街の向こうにある山を指さした。
気がつかないうちに既に陽は高くなっていて、森の中は暖かな日差しが木々の間から溢れていた。鳥の鳴く声もどこからか聞こえてくる。少年の話とはかけ離れた穏やかな空気が、リアリティを喪失させ、現実からの乖離した不安定な空間をそこに作り出していた。
心配気な顔をして藍俊の肩に手を掛けようとした八戒を、悟浄は少し離れた処からじっと見つめた。八戒は自分に向けられるまなざしに気がついて、少年へと伸ばした手を少し
止める。しかしそのまま、八戒は悟浄を振り返ろうとはしなかった。
俺の視線に気づいたのに、気がつかないフリをした。どきりと胸の奥が痛んだ気がするのを、悟浄は他人事のように感じていた。
―――何か、気づきたくないことが起きている予感がする。
少年の話も森の陽気も、どこか遠くの出来事のようだった。
「どーしたんだよ、悟浄。」
どかっと背中を悟空にはたかれて、悟浄ははっとした。顔を覗き込んでいる悟空だけでなく、三蔵も少年も、八戒も自分を訝しげに見つめていた。
「何寝てんのさ。ちゃんと話聞けよ。」
「あ、あぁ、ワリィ。」
「山狩りに行った人達はみんな戻ってこなかった。なんか悪い予感がして、街中がピリピリしてて。僕は晃瑛と二人で家でじっとしてた。そしたら夜中にバサバサって大きな鳥の羽ばたきみたいな音が聞こえてきて。僕が外に様子を見に行った瞬間、うちも周りの建物もどどどっていきなり崩れてきたんだ。暗くて何が何だか分からなくて。何時間も建物の壊されていく音とか、轟々いう音とかが響いてた。僕は、道端の影になってる処で蹲って隠れてた。―――夜が明けるまで。」
藍俊が口を閉じると、一瞬その場に何とも言い様のない沈黙が降りた。
「で、結局、街を壊滅させたヤツの姿は見てないわけだな?」
三蔵の問いかけに藍俊がこくりとうなづいたとき、「僕、見たよ。」と、今まで誰もがその存在のことを忘れていた、少年の弟がしっかりした声で答えた。
「晃瑛!」
座り込んでいた藍俊が飛び上がって弟に駆け寄る。
「おい、大丈夫か。痛いとこないか?」
「うん、お兄ちゃん。もう、平気。」
晃瑛の頭を抱えて声を押し殺して泣く藍俊の背中を、ぽんぽんと弟はなだめるようにそっと叩いた。
「お兄ちゃんてば。 ねぇ、ここどこ?お腹空いたよ。」
「お粥なら、食べれそうですか?」
八戒が晃瑛に笑いかける。きょとんとした顔の晃瑛に八戒は名乗ると、簡単に状況を説明してやった。
「ぼーず。先刻お前見たって言ったよな。街、壊した奴。」
なしくずしに食事になだれこんでいきそうな状況に、悟浄は慌てて尋ねた。
「?うん、見た。羽の生えたおばちゃんだった。何か顔だけ真っ白に見えて、すごく奇麗だけどとっても怖い感じだったよ。」
「他に覚えてることないのかよ?」
「うん、それだけだけど?」
「そっか。」
悟浄は肩をすくめた。思ったより情報は得られなかった。八戒と三蔵も目配せして、違和感なく溶けこんでいる悟空と子供達を眺めた。
「どーする?」
悟浄は煙草をくわえた。
「あいつらの知ってるのはこれくらいだろーな。その妖怪が何を狙ってたとかは、もう解らねぇと思ったほうがいいかも。」
「そうですね。僕達を狙ったとは考えにくいし。手慰みでやったのならタチ悪過ぎですけど」
八戒も珍しく憮然とした表情を見せた。
「で、どーする?今からガキ共、無事なところまで送り届けるか?」
「そうだな。チビの方の具合がよけりゃ、メシ終わったら送って行ってくれ。」
三蔵は食事の支度をしていた八戒に言った。
「解りました。三蔵は残るんですか?」
「しかたねぇだろ。あれだけの仏さん、そのままにしとくわけにはいかねぇし。面倒臭い」
嫌々といった三蔵の様子に八戒はくすりと含み笑いを漏らした。
「じゃ、僕一人で行ってきますね。ま、明日の朝には戻ってこれると思いますけど。」
「バカ。一人で行く奴があるか。俺も行く。」
悟浄は呆れたように煙草の煙を吐き出した。
「でも。一人でも大丈夫だと思いますよ?」
「この街を無茶苦茶にした奴が、まだ近くにいるかも知れないのに?足手まとい二人も抱えて、一人で戦うつもりか?」
髪をかきあげながら、悟浄は八戒から目を逸らした。
「珍しくまともなこと言うじゃねぇか。」
「三蔵。」
「いいから、悟浄もついていけ。こっちは悟空に働かせることにする。」
「三蔵!呼んだー?」
大きな声で向こうから問いかける悟空に、三蔵はげんなりとした顔をした。
珍しい乗り物が嬉しいのか、藍俊と晃瑛は助手席に二人で座りこんで周りの景色に目を奪われていた。
「あんまり身を乗り出すと危ないですよ。」
「そーだ。転がり落ちても知らねぇぞ。」
笑いながらたしなめる八戒と、不機嫌な声で注意した悟浄に少年達はあからさまな態度を取った。晃瑛は八戒に笑い返して頷いたのに対し、藍俊は後ろを振り返るとフンと悟浄に大きく鼻を鳴らしたのだ。
「こンのくそガキ。」
後部座席のシートにずるずると身を預けて、悟浄は口の中で毒づいた。そのまま、悟浄は寝た振りをして黙りこむ。
ジープは森の中の街道とも呼べないような悪路を、一路東へ向かっていた。つい先日通った道ということもあって八戒の運転にもよどみがない。ハンドルを握りつつ子供達といろいろ話をしたり、鳥や木の名前を教えてやったりと表面的にはいたって呑気にジープは最寄りの街に向かう。
しばらくして子供達だけで遊び始めたのを八戒は横目で見てとると、ふと真面目な顔に戻って先刻から一言も発しない後ろに座る悟浄の気配を窺った。
あまりにも静かだけれど、寝ているのだろうか。八戒は訝しんで声を掛けようとした。しかし、口を開く途中で思い止める。
寝ているのなら、いっそそのほうが好都合だ。悟空も三蔵もいない今、後ろから見られてるなんて考えただけで落ち着かない気分がしてくるのだし。
八戒は平生の顔のまま内心で溜め息を付いた。前に座って景色を見たい、何て少年達が言い出さなかったらこんな神経のすり減ることするわけないのに。
しかし、悟浄はもちろん寝てなどいなかった。薄目を開けて前の三人の様子を窺うとまた瞳を閉じる。ガキ共を降ろした後は、しばらく八戒と二人きりだ。そしたら、誰にも邪魔されずに、ゆっくり話ができる。今なんか言った処でガキ共がうるさいだけだしな。
自分が八戒に一体何を問いつめたいのか、それすらよく解っていないことにも目をつぶって、悟浄はとりあえず後部座席いっぱいに身体を伸ばした。
「―――八戒。」
悟浄はハンドルを握る八戒に声をかけた。車に何時間も揺られた所為か、助手席の子供達は静かになったと思う間もなく二人して寝入ってしまっていた。
「何ですか?」
来た、と八戒は内心でどきりとしながら、それでも傍目には普段と何一つ変わらない様子で返事をした。気づかれてはいないはずだけど、勘のいい悟浄のことだ。少しでもボロを出せば、隠してきたことが全部ばれてしまうかも知れない。だから一人で来たかったのに。八戒はそう考えた。
八戒のあまりにさり気ない返事に、逆に悟浄は言葉に詰まっていた。静まり返った時間に我慢できなくなって、つい呼びかけてしまっただけなのだ。それに特に知りたいことがあるわけでもない。知りたいのは言葉では説明することができない、何かもっと不確かで曖昧な、いうならば互いの温度や距離といったものなのだ。しかし、距離と言う言葉さえ悟浄の頭にちゃんと思い浮かんでいる訳ではなく、考えをまとめる前に口を開いてしまった自分の浅はかさを、悟浄は多少後悔していた。
「あのさ。」
「はい?」
ジープのスピードを緩めようともせず前を向いたままの八戒に、悟浄は背後から少し身を乗り出した。再び呼びかけようとして、ふと助手席で寝入っている少年が目にはいる。晃瑛の胸元に赤いものが見えた気がして悟浄は振り返った。
今朝まではなかったはずの赤い、奇妙な紋様になった痣がはだけた襟から覗いている。
「八戒。」
いきなり声色の変わった悟浄をいぶかしんで、八戒は横目で見遣った。
「どうかしましたか?」
「見てみろ、こいつの喉。」
キーッとブレーキの音が静かな森の中に響き渡る。ジープを止めると八戒は振り返った。「何かあったんですか?」
そう言い終わる前に、八戒も晃瑛の胸元の痣に目を止めた。
「これは……。」
悟浄の目を見つめて、そこに同じ予感が浮かんでいるのに八戒は気がついた。
「これ、藍俊の話に出てきた呪いなんかじゃ、ないですよね……。」
悟浄は咄嗟に返事をしそびれた。何と答えたらいいのものか、言いあぐねたその時だった。
「呪い?」
恐ろしい言葉を聞いたように、震えた声で藍俊が目を見張って二人を見つめている。
「何?なんの話を、してるの?」
八戒にしがみつくように問いつめた藍俊の声に気がついたのか、隣で寝ていた晃瑛が目を覚ました。
「お兄ちゃん?」
まだ目を擦っている弟の胸元に覗く赤いものを見つけて、藍俊は声にならない叫びを上げる。
「ちょっと待って!悟浄は晃瑛を!」
そう叫んで八戒は藍俊の痩せた身体を引き寄せて、胸にかきいだいた。
「藍俊!そんな声を出しては駄目です!何か策はあるはずだから、ね?」
歯を食いしばって自分の腕のなかで震える少年を、八戒は痛ましそうに見つめた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
無邪気に晃瑛が尋ねてくる。
「何でもないよ。」
くぐもった声で、それでもしっかりと藍俊は弟を安心させるように微笑ってみせた。
「ちょっと早いけど、そろそろ夕食の支度に取りかかりましょうか。」
八戒は悟浄に素早く目配せすると、野宿の準備に取りかかり始めた。
「まいったな、どうする?」
少し早めの夕食が終わる頃には、空はもうとっぷりと暮れ、濃紺に変わっていた。兄弟二人を焚き火の前に残して、悟浄と八戒は少し離れた木立ちの中から声を潜めて、少年達の様子を窺っていた。
「困りましたね。あの痣が出てから早いものは一日で、と言ってましたよね。」
「元々の体力差によるんだろうな。あのチビは昨日まで閉じ込められてたこともあるし。やべぇよな。」
「あの痣の紋様ですけど。昔、本で見たことがあります。街の人が言ってた呪いというのは、あながち間違いじゃあないようですよ。あれは、呪術です。」
「呪術か……。なら、相手を倒せば元通りにならないか?」
「なると思いますけど、相手がどこにいるか解らないのに、いえ、誰かすら解らないのに、それはかなり難しいですよね……。」
「だからといって、ほっとくわけにはいかねぇだろ?」
そう言って、悟浄はぷっつり黙ると、煙草に火をつけた。薄闇の中、煙草の煙がゆらゆらと空へ昇っていく。悟浄は考えあぐねて、その昇っていく先をぼんやり眺めていた。
「僕達に、何が、できるんでしょうね。」
ぽつりと八戒はつぶやく。その声に自嘲の響きを感じて悟浄は振り向いた。
「なくしてしまうだけなら、最初からないほうがいいのに。」
あの喪失感を味わった所為で、僕は他人を心から受け入れることを恐れるようになってしまった。
うなだれた八戒の腕を、悟浄は強く掴む。
「そういう言い方はよせ。まだ、あのチビが死ぬと決まった訳じゃない。とりあえず、あいつらを拾った街へ戻ろう。手掛かりが見つかるかもしんねぇし。」
悟浄と八戒はさっそくジープを出そうとして、焚き火のほうへ戻った。しかし、そこには、晃瑛ひとりがはしゃぎ疲れて眠っているだけで、藍俊の姿はどこにもなかった。
「先刻まではいたのに。」
「いいか、俺が捜しに行く。おまえはチビの側にいろ。いいな?」
「いいなって、悟浄!」
八戒が文句を言う前に、悟浄は夜の中に駆け出していった。
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