その頃、藍俊は暗い森の奥深くに分け入っていた。焚き火の前で、眠ってしまった晃瑛の枕許にじっとうずくまっていた藍俊に、語りかけてくる声が聞こえたのだ。
若い女の声だった。

――――弟を助ける方法が、ひとつだけあるよ。死なせたくないなら、お前一人で森においで。妾が教えてあげるから―――。

 月明かりもほとんど届かない森の中を、それでも構わず藍俊は一心に進んでいく。女の声はどこへ来いとは言わなかった。しかし、何者かに導かれるように、藍俊の足取りには不思議と迷いはなかった。
 しばらくして、藍俊の頭上からバサバサっと大きな鳥の羽ばたきが聞こえた。はっと首をすくめて目をつぶった藍俊は、目の前がふと明るくなったのに気づいて、顔を上げた。 一瞬前には、誰もいなかったはずの場所に、色の白い美しい女が立っていた。
 白い肌、煌々と輝く白金の髪と不思議な色合いの瞳。美しいことは確かだったが、それは人外の者に他ならなかった。
「誰、あんた?」
全身に警戒の色を見せて、藍俊は硬い声で尋ねた。
「ふふふ、坊や。そんな怖い顔しないで。」
「坊やじゃない。」
 硬い声のまま、しかし挑むように藍俊は立ち向かった。
「まあ、立派に男の顔をして。気に入ったわ。弟を助ける方法を、教えてあげる。」
 ふわふわと女は藍俊に近寄って、頬をその白い手で触れた。びくりと藍俊はあとずさる。女は藍俊の様子を気に止めたふうもなく、その耳に口許を寄せた。
「あなたの弟は、もう、長くはないわ。なんとかしたかったら、街で出会った僧侶とその連れをこのナイフで刺してごらん。」
「なんでそんなこと、しなくちゃいけない?」
「したくなかったら、別にいいのよ。あなたの弟が死ぬだけだから。妾はどうでもいいの」
 酷薄そうに、女の瞳がきらりと光る。
「どうするの?弟を見殺しにするの?」
「しない!」
 思わず藍俊は、そう女に叫んだ。
「―――誰か、一人でいいの?」
 しばらくした後、俯いて、藍俊は小さく尋ねた。
「えぇ、一人で充分よ。いくらなんでも、全部は無理にきまってるし。じゃ、また後で」
 にっこり笑うと、女の姿はかき消すようにいなくなった。

 とぼとぼと、藍俊はジープまで戻ろうとして歩いていた。
 ナイフで人を傷つけることなんか、実は大した事じゃない。片親だけの自分達兄弟に優しい人ばかりでは、決してなかったのだ。
 ただ、瓦礫の下で弱っていく晃瑛を、どうすることもできずに途方に暮れていた自分へ差し出された手を思い出すと、心は痛んだ。
 ふと立ち止まると、藍俊は顔を上げた。だけど、晃瑛に代わるものはないから。そう、思い定めると、少年は再び歩き出した。
 
 パチパチと焚き火の爆ぜる音が聞こえる。藍俊はその場に、守ろうとしている弟と、八戒の姿しかないのに気がついた。できることなら、自分に優しくしてくれた八戒を刺すことは避けたかった。
少し逡巡しているうちに、藍俊が隠れている茂みとは反対側から赤い髪の男が顔を出すのが見えた。迷っている時間はない。藍俊はナイフを握る手に力を込めると、背を向けている悟浄に走り出した。
 ガサガサっと音がしたのに気づいて、八戒は顔を上げた。その瞬間目に入ってきたのは思い詰めた瞳をした少年と、ぎらりと鈍く光る刃だった。それが狙っているものが自分ではないことと、ナイフの振り降ろされる先が悟浄の背中だということに気がつくのはほぼ同時だった。
「悟浄!」                     
 八戒は自分の上げた悲鳴を、どこか遠い処の出来事のように感じていた。いや、自分が悲鳴を上げたことにさえ気がついていなかった。
 悟浄は少年の殺気を感じて身を翻した。はっと振り返った先に見えたものは、少年の振り上げた刃と自分の間に身を投げ出して、藍俊に体当たりをする八戒の姿だった。
 倒れていく二人の陰から、赤い血が吹き出るのを見て、悟浄は息を呑んだ。
 血を流していたのは、八戒だった。
「お兄ちゃん?お兄ちゃん!」
 この騒ぎに目を覚ました晃瑛が驚きの声をあげる。藍俊がそれに気を取られた隙に、八戒は少年の手からナイフを取り上げた。
「何故こんな事をするんです?理由を教えてください。」
 血の流れ落ちる左腕を押さえながら、八戒は少年に詰め寄った。
 ―――   敵わない。
 藍俊は弟を助ける道が絶たれたことに気がついて、地面に向かって何度も拳を打ちつけた。


 何刻か後、真夜中をとうに過ぎた頃だった。ようやく落ち着いてきた少年達の側を離れた悟浄は八戒に目配せすると、数メートル先に停めてあるジープを顎で指し示した。焚き火の周りの様子から目を離さないようにして、悟浄は八戒が隣にやってくるのをしばらく待った。
「悟浄。」
 八戒の呼びかけにも、悟浄は険しい顔のまま何も答えない。腕を組んだままむっつりと黙り込む悟浄の姿をちらりと横目で窺って、八戒はギュッと胸が締めつけられるように痛むのを感じていた。
「―――何で、あんなことした?」
 八戒が痛みに耐えかねる頃、悟浄はようやく口を開いた。低く押し殺した声には、隠し切れないほどの怒りが滲み出ていた。
「悟浄。」
 なだめるように、八戒は再び隣の男の名を呼んだ。
「おまえ、何であんなことしたのか、聞いてんだよ。」
「すみません。咄嗟のことで、つい。」
「いい加減なこと言うなよ?いっくらぼんやりしてたいえ、あんな子供に刺されるようなヘマ、俺がすると思ってんのか?」
「いえ、そんなこと思ってないです。―――ただ、考えるより先に身体が動いてしまって。」
「第一、何でおまえ、わざわざ飛びこんで来たんだよ。気孔のほうが全然早いじゃねぇか」

 それは、と言いかけて、八戒は口ごもった。確かに悟浄の言うことはもっともなのだ。普段の自分なら、あんなこと絶対にするわけないのに。
 八戒は焚き火のほうを向いたまま顔をしかめた。
 悟浄が刺されると思った瞬間、相手は子供だとか、振り払うのより簡単に避けられるはずとか、そんなことは頭から消し飛んでしまった。
 反対に黙ってしまった八戒を見て、悟浄ははぁーっと息を吐き、調子を変えて問いかけた。
「おまえ、怪我、大丈夫なのか?」
「え?あ、刺されたとこですか?ええ、平気です。傷は浅かったので、これくらいなら、すぐに塞がりますよ。」
「毒とかやられてないか?」
「たぶん、大丈夫だと思いますけど。」
「―――あんま、ムリすんじゃねぇよ。」
 低い、悟浄のその声色に、八戒は少年達から初めて視線を外して、振り返った。と、同時に悟浄は先に戻ると言い置いて、焚き火のほうへ歩き出した。結局、互いがどんな顔をしていたのか、彼らは見ることはなかった。


 しんと静まり返った夜の中、八戒は頭まで毛布にくるまって、じっと目を閉じていた。
 すぐ横から少年達の規則正しい寝息が聞こえてくる。その向こうにいるはずの悟浄の気配も、どうやら眠っているようだ。
 八戒は身じろぎもせずに、呼吸にすら気を配って横たわっていた。
 目をつむっていると、いやでも先刻の悟浄の背中と、それに向けられた刃が暗闇から浮かんでくる。
 
しなくてもいいことを、してしまった。あんなことをしてたら、普段死ぬほど気を使って何気ないふりを装っているのが、全部、無駄になってしまう。

 悟浄―――。
 痛い。身体中の神経が、剥き出しになっているかのように、風が吹いてさえ心が痛む。胸の奥にある、ぱっくりと口を開けたままの傷口から、血が流れ続けているのを八戒はもう随分前から感じていた。
 隠しても、誤魔化しても、痛みだけが後から後からとめどもなく湧いてくる。流れでた僕の血は行き場をなくして澱んでしまった。

 もう、これ以上、隠し続けるのは無理なのだろうか。痛みぐらいなら、どれだけでも耐える覚悟はあるけれど。

 自分の気持ちを偽って、こうやって側にいることは、もう、無理だろうか。
 ―――限界が来ているのだろうか。
 八戒の荒んだ心などおかまいなしに、世界は静かに時を刻み続けていく。

 僕は、何が欲しいのだろうか。どんな未来を進もうとしているのだろうか。

 悟浄。もう解らないんです。自分の心すら、手に負えなくなってしまった。あなたが差し延べてくれる手を取ることも、出来ない。いや。―――恐ろしいのだ。
 少しづつ、だが確実に、悟浄から離れていく。想いが深くなればなるほど、心が相手の魂を求めれば求めるほど。
 側にいたかっただけなのに。一緒に生きていきたかっただけなのに。

 それを壊したのは、他でもない、この僕自身か。
 八戒の中に突然、嗤いの衝動が沸き起こる。
 反吐が出そうだ。悟浄や三蔵なんかじゃない。すべてを無茶苦茶にして、僕を壊そうとしているのも、僕自身じゃないか。
 
―――側に。
 その言葉が、八戒の胸にはっと冷たいものを運んでくる。
 側にいるだけでいいのなら。
 
僕が、この心を手放せば済むことではないのだろうか。
 この心を抱えたまま、共に在るのが限界ならば、もう自分でも理解できなくなった心など、捨ててしまえばいい。


 しんと、八戒の世界が凍りつく。
―――そんなに簡単に、この執着を捨て去ることは出来ない。
 心の片隅で、いつか自分が言った言葉が甦ってくる。ぞくりと、身体の奥の深い処から悪寒が滲み出てくる。

 決められるわけ、ないのに。

 八戒の心の闇は、だんだんと昏く、深さを増していく。
 悟浄から、遠ざかっていく。
 ただ、距離だけが拡がっていくのを、止めることもできずに、八戒の心は闇の中に堕ちようとしていた。





「あの坊や、思いがけず役に立ってくれたわねぇ。」
 夜の闇の中、白い女がしゃなりしゃなりと歩いていく。足を一歩踏み出すごとに、踏まれた場所がぽう、と明るくなり闇を照らしていく。
「三蔵たちが来るまでの暇つぶしにしては、もうけものだったわ。そろそろ、頃合かしら」 ふふふ、と含み笑いを漏らしながら、女は誰に言うともなく、森の中を渡っていく。
 長い夜は、まだ、終わりそうになかった。


 夜が明ける前の、空が一番暗くなる刻だった。さすがにうとうとしていた八戒は、自分の身体のなかでどくんっと何かが跳ね上がるのに気がついて、がばっと飛び起きた。
―――何だ、今の。何か、身体のなかで蠢いているような。
「どうした、八戒?」
 悟浄も八戒の尋常ではない気配につられて、片目を開けるとむくっと起き上がった。
「あ、すみません。起こしてしまって。」
「いいって。それより、何かあったのか?」
「いえ、そんなんじゃ……」
 そう言いかけて、八戒は言葉に詰まった。悟浄が怪訝そうな顔を向けてくるのにも八戒は答えずに、自分の胸を掴んだ。
 何だ、これは。心臓がだくだくいう。熱い……。
「おい、八戒。どうしたんだよ。顔色ヘンだぜ?」
 何でもない、と笑って答えようとしたその刹那、八戒は突然げふりと赤い血を草むらに吐き出した。
「八戒!」
 すぐさま駆け寄った悟浄は、ふらりとした八戒の肩を支えた。掴んだ肩の先、剥き出しのままの手の甲に、赤い紋様が浮かび上がっていることに、気づく。
「おまえ。いつからそんな痣あったんだよ!」
「分かりません。今、気づいたんです。眠ってしまう前にはなかったのに。」

「さすがね。もう失血死してるころかと思ったのに。まだ、全然平気そうじゃないの。」
 いきなり、降って湧いたように軽やかな声が二人の耳に届く。木立ちの前には、藍俊にナイフを渡したあの女が気配もなく立っていた。
「お前がこの術しかけた張本人か。」
 悟浄はまだ立ち上がれないでいる八戒を庇うように、白い女に向かい合った。
「さあ、どうかしら。―――どうでもいいけど、そのお兄さんと後ろの子供、もうすぐ出血が始まるわよ。」
「お前、晃瑛を助けてくれるって言った!騙したんだな!」
 藍俊は弟の身体をしっかり抱きしめながら、悲痛な声で弾劾する。
「藍俊。先刻のナイフはこの女性から貰ったものですね?―――じゃあ、話が早い。あなたを倒せば済むことだ。」
 八戒はふらりと立ち上がった。
「八戒?おまえ、後ろに下がっていろ。いいな、こいつは俺が片付けるから。」
「いやです。」
 八戒ははっきりとした口調で反論すると、手のひらに気を集め始めた。
「そんな簡単に妾を倒せると思ってもらっちゃあ、困るわね。」
 爬虫類を思わせる目付きで、女は真赤に彩られた爪をぺろりと舐めた。
 子供達をジープに避難させ、彼らは女に向き合う。
「八戒、しんどくなったら、ちゃんと言えよ。いいな?」
「―――解りました。」
 二人は小声で囁くと、合図もしないで女に向かって走り出した。

 悟浄の拳がするりと宙を滑る。確実に当たるはずだった攻撃をかわされて、悟浄はたたらを踏んだ。しかし女は、先程とまるで変わらない場所に立っているように見える。
「悟浄。」
 八戒はつと悟浄に近寄り、耳元で囁いた。
「力任せにぶつかっても、埒が飽きません。いいですか?」
 目配せした八戒に、悟浄は短くおう、と答えた。その瞬間、悟浄の姿が宙に跳ね上がる。女の視線がふとそちらに流れた隙に、八戒は女の死角に入りこんだ。青金の瞳が振り返るより早く、八戒の放った気孔が女の腹に炸裂する。
「着物が乱れるじゃないの。」
 怒りを滲ませた口調で、女は呟いた。どうやら敵を甘く見ていたのは、自分のほうだったことに気がついたようだ。悟浄は指を鳴らしながらにやりと笑った。

 二人を相手にして、女はかなり振り回されていた。美しく着飾った姿も、また、髪も振り乱れ見るも無残な格好に成り果てていた
 合図をしてる訳でも、もちろん打合せをしてあるようにも見えないのに、彼らの動きには綿密に計算された何かがあり、はっと気がついたときには既に力関係は逆転していた後だった。
 がくりと膝をついて息を整えようとしていた女の背後に、八戒が静かに歩み寄る。両手を上げ、気を放とうとした瞬間、女が思いも寄らない速さで飛びすさった。そして美しく彩られた爪をぴんっと、八戒に向けて跳ね上げた。
 両手を上げたその態勢のまま、八戒の身体はぴくりとも動かせなくなった。目を見はった八戒の様子を怪訝に思い、悟浄が女に向かったときだった。
 しん、と空気が静まり返るような一瞬の後、八戒の全身から血が噴き出し始めた。さああーっと雨のような音がして、霧のような血が滴り落ちてくる。
 崩れ落ちる八戒の姿が、悟浄の目に飛びこんでくる。
「身体の中に直接術をかけたのよ。平気でいられると思うほうが間違いだわ。」
 あはは、と可笑しそうに高笑いをする女のみぞおちに悟浄は一撃をくらわせた。そのまま物も言わずに、右腕をへし折る。ぎゃあーっという叫びも無視して、悟浄は険しい顔のまま女の心臓をその手で貫いた。
「よくも。」
 しわがれた声で女が呪詛の声をあげる。降りしきる血の雨の中、立ちつくす女に悟浄は止めを刺そうと、再度攻撃しようとした。
 血の雨が薄れてきた、と思う間もなく、目の前でどさりと女が転がる。女は既に事切れていた。
「八戒!八戒!大丈夫か?返事しろ!」
 悟浄は悲鳴のような声で呼びかけて、崩れ落ちたままの八戒を抱きかかえた。その身体からは血はもう噴き出してはいなかったが、自分のまき散らした血で八戒は真赤に染まっていた。荒い息が、八戒の肩を震わせる。
「八戒!八戒!」
 ギュッと抱きしめる腕に気づいて、八戒は薄く目を開けた。




「―――悟浄。そんなに触ると汚れますよ。」
 ふふ、とはかなげな笑みを浮かべると、八戒は小さく返事をした。
「大丈夫です。びっくりしただけで、そんなに大した出血じゃあないですから。」
 そう言いながらもぐったりとしている八戒の身体を、悟浄はギュッと力を込めて抱きしめ続けた。
「悟浄、離してください。大丈夫ですから。」
 八戒は低く呟いた。
 その声に潜む硬質な響きに、悟浄ははっとして八戒に回していた腕をほどいた。
「痛むか?」
「いえ、別に怪我がある訳じゃありませんから。」

 俯いたまま喋る八戒を、悟浄はひどく遠い存在に感じていた。


 八戒と子供達をもう一度横にさせ、やすませた頃には、もう夜も明けようとする刻限に程近かった。
 うっすらと、白く辺りが明け染めていく。白い霧の流れる中で、この長い夜に身も心も疲れ果てた様子で、三人はこんこんと眠っていた。血の気の失せた白い顔で、それでも久方振りに八戒は正体もなく眠りこむ。
 静かな朝まだきの中、悟浄は顔を歪ませると強く頭に爪を立てた。
 八戒の言う通り、出血は見た目ほどひどくないようだった。あと数時間も休めば、起き上がれるようになるのは分かっている。なのに。
 頭の中が真っ白になったあの瞬間の想いが、心を縛り上げてくる。指の先が冷たくなってくるのも、どこか他人事のようだった。
 カッと頭の中が白くなるほど激昂したのは覚えている。と、同時に、心の奥がさあーっと冷えていく感触もまざまざと思い浮かんでくる。
 ―――怖い。
 そう思って、悟浄ははっとした。怖いなんて感情、もうずっと忘れていた。いくつぐらいからだろう、怖いものなんてこの世にないと思ってた。まだ、子供と呼ばれるような年頃から。
 たくさんの死も、強い者との闘いも、恐怖を味わうものではなかった。
 大した怪我じゃないのは解ってる。ただ、何故この恐怖は消えないのだろう。
 何が、俺は怖いのか。
 ギュッと目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは、血の霧の中の八戒の姿であった。

    離してください。




 八戒の言葉が頭のなかで、何度も響く。
 硬質なその声色に、何かが腕の中からすりぬけていく予感がした。
  

 何かが。




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