少年達を最寄りの街の役所に預けた悟浄と八戒は、死に絶えた街に残してきた三蔵らと合流を果たし、再び西への旅に出た。
 別れ際、晃瑛はじっと八戒の見上げて、何か言いたそうな顔をした。
「どうしました?」
 にっこりと笑った八戒の腕を引っ張って、晃瑛は悟浄と藍俊から離れた。
「―――あのね。喧嘩はよくないと思うよ?僕達だってよく喧嘩するけど、お兄ちゃん達のとは違うもの。誤解されちゃうよ。」
 聡明そうな晃瑛の前で、八戒は愕然とした。笑顔でかわすこともできず、返事をすることも忘れて、その場に立ちつくす。
 待ち切れなくなった藍俊の呼ぶ声に晃瑛は振り返った。そして、もう一度八戒の手を握りしめると自分を待つ兄の元へと走って行った。

 ジープのハンドルを握るのは八戒だった。三蔵達の元へ戻る途中は、悟浄が八戒に運転するのを頑として許さず代わりに運転していたのだが、もう何ともないと言い張る八戒にそれ以上悟浄は強く言えなかったのだ。
 道々、事の顛末をかなりあっさり説明する八戒を悟浄は不機嫌そうに後部座席からねめつけた。と言うより、女を倒してからずっと、悟浄は不機嫌さを隠そうともせず、むっつり押し黙っている。
その憮然とした悟浄の表情に反比例しているようなにこやかに機嫌良く振舞う八戒の様子を見比べて、三蔵はこの二日間に何があったのか、うすうす想像をつけていた。
「八戒、八戒!今日はちゃんとしたメシ食える?」
 ジープの中の水面下のいたたまれない雰囲気にまるで無頓着に、悟空は呑気な大声を出した。
「そうですね、夕方には次の街に着けると思いますよ。それにしてもちゃんとした飯って僕のいない間、何を食べてたんですか。」
「すげーワビしい食事だったよ。俺、涙出そうでさあ。」
「だあ、ばくばく食いやがったくせに。八戒たちが戻ってくるのがあと半日でも遅かったら、もう食うもん何にもなくなるとこだったんだぞ。」
 片眉を吊り上げて冷たく言い放つ三蔵に八戒は、はははと笑い声を上げた。
「食べ物のなくなった悟空ですか。そりゃ、怖いもんなしですねぇ。手に負えなくて。」
「八戒までそんなこと言わなくてもいいじゃん。」
 ちぇっ、と悟空は舌打ちをした。


「あー!これ美味そう!」
 悟空の嬉しそうな歓声が店中に響く。その晩は街道沿いの街に予定通りたどり着くことができ、数日ぶりの手の掛かった食事とベッドにありつけることになったのだ。
 がつがつと料理を平らげていく悟空は、正面に座る八戒が彼の前に置かれている皿に全然手を付けてないのに気がついた。
「あれっ、八戒、もう食わないの?」
 口に中にものを入れたまま、悟空は無邪気にそう尋ねた。
「ええ、ちょっと、調子が……。悟空、良かったら僕の分食べていいですよ。」
「本当っ?やりい!」
 満面の笑顔で八戒の皿に手を延ばそうとした悟空の頭を、ばしっと音がするほど悟浄は思いきり殴りつけた。
「わ!いきなり何すんだよ、このカッパ!」
 掴んだ料理をもう少しで落としそうになった悟空は、悟浄を口汚く罵り始めた。いつもならそれにムキになって対抗する悟浄は、今日に限って悟空の罵倒がまるで聞こえないかのように無視して、隣に座る八戒を真顔で睨つけた。
「食えよ。」
「あ、でも僕、本当にいらないんで……。」
「いいから、食えって言ってんだよ!」
 困ったように苦笑って答えた八戒を、悟浄は突然立ち上がると卓を殴って怒鳴りつけた。 いきなり上がった怒声に、一瞬店中が静まり返る。文句を垂れていた悟空もびっくりした様子で悟浄を眺めた。
 しんとした空気の中、八戒も目の前に立ち塞がる悟浄を真顔で見上げた。そして、ふっと口の端だけで微笑い、悟浄からすっと視線を逸らす。
「解りました。いただきます。」
 静かな声で八戒はそう言うと、ゆっくり食事に手をつけはじめた。

 会計を済ましてくると言った八戒を残して、他の三人は先に店の外に出た。一人先を行く悟浄に聞こえないように、声を潜めて悟空は傍らの三蔵に囁いた。
「なあ、さっき、悟浄ムチャクチャ変じゃなかった?あんなふうに八戒を怒鳴りつけるとこ見たの、俺初めて。」
 悟浄の背中を眺めたまま、三蔵は何も答えなかった。同じように悟浄を見ていた悟空はちらりと横目で三蔵を見上げる。悟空の視線に気づいた三蔵は、はたと歩みを止めた。
「ちょっと忘れ物をした。店に戻る。お前等は先に宿へ行ってろ。」
 分かった、と一言答えた悟空は悟浄の元へ走っていった。
 
 その頃、八戒は店の洗面所で、今食べたものを全て吐き出していた。調子が悪いと言ったのは嘘ではなかった。本当に胃が食べ物を受け付けないのだ。
それは今日に限ったことではなかったけれど、同行者たちに気づかれたのは、今回が始めてだった。
 胃を空にして少し落ち着いた八戒がドアを開けると、そこには腕を組んだ三蔵が壁に寄りかかって待っていた。
「吐くくらいなら、最初から食うんじゃねぇよ。」
「―――そうですよね。でも食べないと、あの場は収まらないかと思ったので……。」
 俯きがちに八戒は答える。その口許に自嘲的な笑みが浮かぶ。三蔵はその様子をじっと見つめていた。

「おい、悟空。」
「なんだよっ。」
 夜の賑やかな盛り場の中を、ひょいひょいと人込みをかきわけて悟浄と悟空は宿へ向かっていた。
「なあ。八戒って最近急に痩せたよな。」
「そうだっけ?」
 低く尋ねられた問いに、悟空は声高に答えた。
「ああやって食べないこと、いつぐらい前からあったっけな。」
「え、悟浄,なんて言った?聞こえない。」
「いや、何でもない。」
 悟浄は不機嫌そうな顔のまま、盛り場の女達の視線も無視して歩いていった。


 その晩遅く、悟浄は三蔵の部屋を訪れた。
「三蔵、起きてるか?」
 遠慮がちにノックされた音に、三蔵は窓際の椅子からドアを振り返った。
「開いてる。」
 許しをえて悟浄が入ってくるのは珍しいことだった。ドアにもたれかかってはあーっと大きい溜め息を付く悟浄を、三蔵は冷たい目付きで睨む。
「人の顔見るなり、溜め息付くな。鬱陶しい。」
 三蔵はふんっと鼻を鳴らして手に持っていた新聞に目を落とした。
「―――なあ、三蔵。」
「だから、なんだ。」
 素っ気なく言い返されて、悟浄は口籠った。
「俺さ。いや、八戒のことなんだけどよ。」
 八戒、と聞いて三蔵の指がぴくりとして、新聞を読む手が止まった。
 どくりと、心臓が鳴るのが聞こえる。
 
 とうとう、来たのか。この、全てを傷つけることしかしない関係が終わろうとするときが。
 三蔵は悟浄に気がつかれないように、拳を固く握りしめた。
「―――八戒ってさ、いつからあんなふうだっけ?」
 悟浄はらしくもなく弱々しく続けた。
「あんなふうって、どんなふうだ。」
 三蔵は自制心をもって答える。
「どんなって言われても困るけど。なんか最近、別人みたいな気がして。って、違うか、別人って言うか全然ヤツが解んねぇっつうか。」
 一呼吸おいて、悟浄は続けた。
「――― 他人に拒絶されんのが、こんなにキツいなんて思ってもみなかった。」
 床をじっと見つめていた悟浄は、三蔵の視線に気づいて顔を上げた。
 まっすぐな瞳が悟浄の瞳を見つめてくる。それに引き寄せられるように、ふらふらと悟浄は三蔵の元に歩み寄った。
「三蔵。」
 悟浄は三蔵の肩に頭を預けて、その背中に縋り付いた。
「解んねぇよ。どうしたらいい?知ってんのなら、教えてくれ。」
「離せ。」
 三蔵の毅然とした声が、悟浄の心臓に突き刺さる。
「俺はそんなにヒマじゃない。どうしたらいいかなんてこと、他人に聞くんじゃねぇよ。自分で考えろ。甘えるのもいい加減にしろよ。」
 三蔵の瞳に本気の冷たい怒りが浮かんでいるのを感じて、悟浄は腕をほどいた。


 息さえつけない冷たい時間が流れていく。
「そうだな。お前に言っても、仕方ねぇことだよな。すまねぇ。今言ったことは、忘れてくれ。」
 随分長いこと黙りこんでいた悟浄は、ふーっと息を付くと二、三歩後ずさった。そのまま後ろ手でドアを開けて、悟浄は暗い廊下に出ていく。それを見送って、三蔵は机に肘をついて頭を抱えた。

 八戒。悟浄はとうとう気がついた。全てが明かるみに出て、全てが崩壊していく日も、もうすぐそこに来ている。
 それは、明日の話かも知れない。
 お前はその時がきたら、どうする。何を選ぶ?ぎりぎりの境界に立っているお前の選択一つで、未来は変わる。
 
 全てを道連れにして、闇に堕ちるか、八戒?

 じじじ、と燭台の灯が燃える音が、部屋の中に響く。三蔵はその火を見つめ、炎より赤い瞳の男のふてぶてしい笑みを思い浮かべた。
 悟浄はいつだって自分を、いや「三蔵」という存在を脅かそうとしてきた。俺の心に潜んでいる弱さをさらけだして、抑圧され続けた心を解放させる。
 悟浄に抱かれているときは、三蔵の名を捨て、ただの愚かな人間として振舞えた。
 それは別に悟浄じゃなくてもよかったのに。こんなことになるのなら、悟浄を突き放して置けばよかった。そうすれば、全部無茶苦茶にすることもなかったのに。
 三蔵の口から、くっくっと嗤いがこみあげる。
 俺は馬鹿だ。最初からこうなることは想像がついてたのに、それでも拒絶しなかったのだから。
 けれど、悟浄との関係も、今日で終わりだ。俺を脅かし続けた男は、もういない。あれは偶然が見せた、ただのまぼろし。
 悟浄は、自分から心をさらけだすことが出来ずにいた、俺の弱さを無理やり引きずり出した。
 他人に頼って、甘えてたのは誰だ。俺のほうじゃないか。自分の後ろをいつも追ってくる、あの無垢な瞳の前で強くあり続けようとした。俺は強くない。そう悟空に伝えられなかった所為で、悟浄と八戒を道連れにした。

 あいつらには、何の関係もなかったのに。俺の問題に引きずりこまれた為に、あいつらはいつか自然に気がつくはずだったものを見失って、傷つく必要のない処で、二人とも苦しんでいる。
悟浄との関係に後から割り込んだのは、八戒、お前じゃない。俺のほうだ。
 早く引き返さねば、と思いながら、とうとうここまできてしまった。まだ間に合う、と言い聞かせて、壊れていく八戒から目を背けた結果がやってくる。
 俺が選ぶ前に、事態はもう転がりはじめてしまった。ここまできてしまった以上、自分に手出しする権利は、もうない。全てが壊れるのを八戒が望むのなら、最後までそれに付き合うまで。俺の所為で悟浄と八戒が進むはずだった未来を無茶苦茶にした咎を引き受ける覚悟は、出来ている。
 ただ。

 三蔵は何も知らずに、自分だけを追い続けてくる悟空のことを想った。
 悟空だけは、このまま、未来へ送り出してやれるだろうか。悟空まで俺の道連れにする訳にはいかない。それだけは、何があろうとも、必ず。
 
 黎明の近づいた空は、闇を更に深くしていた。三蔵の顔を照らす小さな明かりだけが、世界とを繋ぐ唯一の証のようだった。

 同じ頃、悟浄も暗い部屋で、ぼんやり宙を見上げていた。
 先刻の三蔵とのやりとりがふっと心に浮かんでくる。しばらく考えこんでいた悟浄は、闇のなかではっと目をみはった。
 いつのまにか、三蔵に対して、俺は何も感じない。先刻だって、抱きしめてどうこうしようという気があった訳でもない。
 始まった時と同様に、何かが唐突に終わっていくのを、悟浄は漠然と感じていた。


 誰もが、何かを手に入れようとして、全てをその手から失おうとしていた。






 恐ろしいほど、月が冴えざえと光を投げかける夜だった。白銀の月が夜空に高く輝きわたり、世界を幻想的に染めあげていく。草や木もその光を受け、さわさわと耳障りの良い音を奏でていた。風の音がするばかりの、妙に静かな夜であった。
 旅は終盤に差しかかっていた。明日、明後日には、この旅の目的であった牛魔王の城に到着するだろう。嵐の前の静けさとも言うべき、夜襲の気配も感じさせない夜がしんしんと更けていく。
 野営の火の前で、悟空は膝を抱えて座り込んでいた。焚き火の炎が、悟空の顔をゆらゆらとオレンジに照らし出している。
「三蔵。」
 ぼそりと悟空は呟いた。ちらりとこの様子を視線で追うだけで、三蔵は返事もせずに、煙草をくゆらせた。
「ねぇってば。」
「だからなんだ。」
「明日にはもう、牛魔王の城に着くよね。」
「そうかもな。」
「どんな奴がでてくんのかなあ。」
「さあ。」
「何か、すごく静かだよな。」
「おい、悟空。ワケ分からんことぶつぶつ言ってんじゃねぇよ。何か言いたいことがあるなら、解るように話せ。」
「別に、言いたいことなんかないけど。たださ、三蔵と初めて会った日の晩も、こーやって月眺めてたなあとか思い出してさ。」
 三蔵の顔を覗きこんで、へへっと悟空は笑った。
「気持ちわりーな。」
「いいじゃん。」

 ふと顔をあげた三蔵は、森の奥に一人消えていく八戒の姿を見つけた。暗い森の奥に分け入っていく八戒が、そのまま帰ってこないような気がして三蔵は腰を浮かせた。
「三蔵、どーかした?」
「いや、別に、ちょっと。」
 そのまま歩き出した三蔵を見上げて、悟空は問いかけた。
「なあ、悟浄、八戒を見て来るって行って随分経つけど、俺も捜しに行ったほうがいいかなあ?」
「ふん、おまえが捜しに行ったらおまえのほうが迷うだろ。ここで待ってろ。俺も別に捜しにいくわけじゃない。」
「そっか。」
 安心したように悟空はばたっと仰向けに寝転んだ。
「じゃ、火の番してる。」
 ちらっと悟空を振り返って三蔵は何か言いたそうな顔をしたが、そのまま無言で踵を返した。悟空は向こうを向いていて、気がついてないようだった。

 三蔵は森の中を確かな足取りで歩いていく。八戒が向かっていたのは、確かこの辺りだと思ったが、見失ったか   。
 今夜の月もこの辺りまでは明るく照らしておらず、ちらちらと生い茂る葉の影が余計に視界を曖昧にしていた。
「―――三蔵。」
 物陰から急に声を掛けられて、三蔵はぴくっと立ち止まった。人影が木立ちの奥からひっそりと現われてくる。
 八戒だった。
「いいところにきてくれましたね。少し、話がしたかったんです。」
 話があると言った割に、八戒はそれから随分長い間話し始めようとはしなかった。互いが背負ってきた沈黙が、そのまま重くのしかかる。
「三蔵。」
そう再び呼びかけると、八戒は俯いていたまなざしを、真っ直ぐ三蔵に向けた。月の光は木々に遮られており、八戒の表情は三蔵にははっきりと窺えなかった。
「―――長い間、御迷惑をおかけしました。もう、この先、あなたに当たり散らすこともないと思います。―――覚悟を、つけましたから。」
 何の覚悟、とは八戒は言わなかった。
淡々と告げるその声色に、三蔵は言葉を返すこともできずに、じっと立ちつくしていた。
 ざぁーっと、風が大きく吹き渡った。木々の隙間から皓々とした月の光が、八戒を照らしだす。
 その瞳には、静謐な色だけが浮かんでいた。三蔵はギュッと拳を握りしめる。
「―――俺を、許せ、と言うつもりはない。」
 木々のざわめく音が、二人の耳を掠めていく。
 三蔵は小さな声で続けた。
「許されるとも、思っていない。」
 静かな声のまま八戒もひっそり続けた。
「あなたがそんな風に思う必要はありません。」
「―――どうして。」
 三蔵は顔をしかめた。
 風がふと止んだ。また森の中に、暗い、静けさが戻ってくる。八戒のいるはずの場所も、再び闇の中に閉ざされた。

「僕が、いけなかったんです。僕がこの想いに気づいた時には、悟浄はもうあなたを選んだ後だった。だから、僕は何も言えなくなった。なんて、それはただの言い訳です。
―――本当は、あなたと張り合う勇気が、僕になかっただけのことなんです。」

 八戒の声が、心なしか震えているように聞こえる。

 あなたに勝てるわけがない。僕の想いを知ったとしても、それでも悟浄は三蔵を選ぶだろう。その現実に、僕は耐えられる自信が、ない。
 僕の存在は、悟浄の中で特別なものではなかったと、そう思い知らされるのが怖くて、僕は、この想いを隠すことにした。
 それが、すべての誤りだったのだから。
「僕を壊していったのは、僕自身です。」
 八戒は歯を食いしばって、溢れそうになる感情を堪えようとした。しばらく何かと葛藤していた後、八戒はまた先刻の静かな声色に戻って話し始めた。
「―――だから、僕は自分の心を、捨てることにしました。」
 目を閉じて、八戒は薄く微笑う。こんなときでさえ、僕は嘘ばかりだ。
 どれだけ捨てようとしても、この想いを捨てることは出来なかった。だから、それを、心の奥底に封じて、一生抱えて歩いていく。
 

 全てをなかったことにして、それでも僕は、悟浄と共に生きていく。
    ただの、友人として。

 もしくは。

 もう一つの可能性を思い浮かべて、八戒はうっとりとした表情を微かに見せた。
 自分の手で、自らの命を絶つことは許されない。けれど、もし、この闘いで生き絶えられるのなら。この想いを抱えたまま、死んでいけるのなら。
 そんな幸せを願うことを、僕はまだ、許してもらえるだろうか。

 八戒は、死を求めている。すべてを壊す代わりに、己自身の死を。
 明日にもやってくるかもしれない恩寵を望む八戒の顔に気づいて、三蔵は傍らの木立ちに拳を何度も叩きつけた。
「お前、どうして!どうしてそこまで!何故だ?」
 荒れた三蔵の口調に、八戒は不思議そうな顔をした。真摯な瞳がその顔に浮かぶ。
「何故?理由を聞くんですか?
    ひとを欲しいと思う心に、理由なんて、いるんですか?―――あなたには、必要なんですか?」

 また風が出てきたようだ。ざあぁーっという風が吹き渡る音が、森中に響いてく。
 凍りついたかのように身じろぎしない三蔵を残して、八戒は森の奥へ消えていく。

 暗い道を辿り始めた八戒を連れ戻すすべを、三蔵は見つけることが出来なかった。





 小高い丘の上で、八戒は一人たたずんでいた。空にかかる皓々とした月は、既にかなり沈んでおり、夜も更けた刻限だと暗に示していた。
 この場所には月の光を遮るものは、何もなかった。雲一つない、漆黒の空に浮かぶ、白銀の月。
八戒はぼんやりと、その月と月が照らしだす青白い世界を声もなく見つめていた。 ふらりと出て行ったまま、なかなか戻ってこない八戒を捜しに、悟浄は随分前から野営の場所を離れていた。八戒を偶然見つけた三蔵にも行き合わず、一人で森の中を捜していた悟浄は、森を抜けたこの丘でようやく求める人影を見つけたのだった。
 声を掛けようとして、月に照らされた八戒の横顔に、悟浄は言葉を失った。

 八戒は、あんなに綺麗だったろうか。

 自分に向けられるまなざしに気づいて、八戒はふと振り返る。そこに悟浄の姿があるのを認めて、八戒はふわりと微笑った。その笑顔は、どきりとするほど透明な色をしていた。
「―――悟浄、どうしたんですか?こんな夜更けに。」
 ふーっと息を吐いて、悟浄は八戒の隣に歩み寄った。
「おまえがいねえから、捜しにきたんだぜ?」
 ぶっきらぼうに言う悟浄に、八戒はくすりと笑った。
「それは。―――すみません。」


 肩を並べた二人の間を、静かな時間が通りすぎていく。伝えたい言葉は抱えきれない程あったのに、いざとなると何を言ったらいいのか、彼らは互いに、もう解らなくなっていた。
 するりと滑るように、八戒は数歩前に歩みでた。悟浄からは後ろ姿しか見えない場所に立つと、八戒はひっそりとつぶやいた。
「―――随分遠くまで、来てしまいましたね。」
 何の感情も窺うことのできない淡々としたその声色に、悟浄は沈黙のまま立ちつくした。
 八戒の背中が、遠い。月の光に照らされた、以前より幾分華奢になった肩がひどく曖昧で、まるでそこだけが別世界のようだった。
「―――八戒。」
 低く悟浄は問いかけた。
「何ですか?」
 ふっと振り返った八戒の顔に、微笑みが浮かぶ。
 あまり他人に見せることのない、真剣な色をした赤い瞳が八戒を見つめる。そのまなざしに真っ向から向き合うのを避けるかのように、八戒は薄く微笑みを浮かべたまま、わずかに俯いた。

 月明かりの下、八戒はこれまでの旅路に、想いを馳せた。

 長安からここまで旅をしてきた距離よりも、僕達が出会ったあの日からの月日の方が、果てしなく遠い。
 あの日、あの雨の中出会ったとき、自分達がこんな途を辿るなんて、誰が思っただろう。こんな日が来るなんて、思いもしなかった。
 共に歩んでいると思っていたのに、気がつけば、僕と悟浄の立っている場所は、こんなにも離れてしまった。
 こうやって側にいても、とても遠いことだけが解る。
 どこで、見失ってしまったのだろう。

 全てを捨てれば、自分の心も想いも全て捨てて、望んだ明日さえこの手で殺せば、再びあの日の出発点に戻れるだろうか。
そのためになら、何を失っても、惜しくはないのに。
 悟浄と共に未来を歩もうとした、あの日の予感。
     
 それすらも、ただの夢にすぎないだろうか。




 数歩先で、淡く微笑う八戒を、悟浄は茫然と見つめていた。
 こんなに近くにいるのに。

 気のせいなんかじゃ、ない。
 ずっと、気のせいにしていた。この現実に気がつかないで済むように、無意識のうちに俺は逃げてたんだ。

 八戒が遠い。手を伸ばせば、その肩に触れることだって、出来るのに。
 遠ざかったのは距離ではなく、心なのだと、悟浄も気がつかざるを得なかった。
 前は、八戒の考えてることは、全部解っていた、と思う。背中合わせでいるときも、どんな表情をしてるかぐらいヤツのことなら解っていた。
 何も言わなくても解りあえる、心を分かち合える存在だと、俺は思っていた。
 そう思っていたのは、俺だけだったのか。

 背を向けられたら、八戒が何を考えてるかなんて、もう随分前から解らなくなっていたというのに。
 いや。こうやって、向かい合っていても、八戒が俺に笑いかけてさえいても。まるで解らなくなった。

 遠い。
 悟浄は顔を歪ませた。一番近くにいたはずだったのに、いつからこんなに遠い存在になってしまったのだろう。

 声も無くして見つめあう二人の姿を、白銀の月が照らしだす。時間など存在しないかのように、全てが息を詰めて、ひそやかに世界を見守っていた。

 八戒が遠くなる。では、その先は?
 どくんと悟浄の胸が痛み始める。
 こんなに離れてしまったのに、これ以上さらに離れていってしまったら?
 八戒のいない未来。なくなるはずがないと信じていた存在が、消える可能性。
 悟浄はようやく、そのことに気がついた。


 求めるものは同じだったはずなのに、すれ違う気持ちは、求めあうほどに距離を作り出していく。

 静かに、静かに、夜は更けていく。




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