轟々と音を立てて、城が崩れていく。死闘の余韻をまだそこら中に漂わせたまま、牛魔王の城は刻一刻と城自体が雄叫びをあげるように轟音を立てながら、その姿を瓦礫へと変化させていく。
 舞い上がる土煙の中、出口を求めて駆け出した三蔵らは、一際大きな音を立てて崩れ落ちてきた天井を避けようとして床に転がった。
「三蔵!」
 そう叫んで三蔵の真上に振りかかろうとした瓦礫から、悟空はその身体を抱えて飛びすさった。一瞬前まで三蔵のいた場所を石造りの壁の残骸が押し潰す。ふぅっと息を付いた悟空にその新しくできた壁の向こうから悟浄が声をかけてきた。
「悟空、大丈夫か!三蔵も無事か?」
「大丈夫!でもこれじゃあ、そっちに戻れそうにないよ!どうする?」
 着物に付いた埃を手で払いながら立ち上がる三蔵に、悟空は振り返って問いかけた。
「仕方ねぇな。俺達はこっちから出口を捜す。お前等はそっちから出ろ。ジープで待ち合わせだ。いいな?」
 壁の残骸の隙間から聞こえてくる三蔵のその声に、悟浄と八戒は顔を見合わせた。
「仕方ありませんね。」
 溜め息をひとつつくと、八戒はまだ塞がっていない回廊へと足を向ける。彼らが言葉を交わす間にも、崩壊は徐々にその速度を上げていく。

 遠ざかっていく悟浄と八戒の気配に、三蔵は僅かに気遣わしげな顔を見せた。
 今は、できるだけ八戒から目を離したくはなかったのに。バカな気を起こさせないよう、見張るつもりがとんだ計算違いだ。―――俺に、口出しする権利はないけれど。
「三蔵、何してんだよ。もう、行かなきゃ。」
 悟空に急かされて、三蔵も反対方向へ走り出した。


 先にたって走る悟浄の背中を見つめながら、八戒も続いて走り抜けて行く。
 崩れかかっていく城の中に響く、耳をつんざくような轟音さえも八戒の耳からは遠ざかっていた。落ちてくる瓦礫を振り払いながら走って行く悟浄の姿だけが妙にリアルで、他のものはすべて意識の外に追いやられていく。
 この城を抜けたら、僕はこれまで以上の運命と戦わなくてはならない。それは、自分で選んだこと、だけど。    今、この足を止めたら。
 僕は、この想いと生命を放棄できるかもしれない。
 自分自身を、死に至らしめること。そう願うのを戒めていたのは、この身に負った血の重さに他ならない。この手の罪が僕を引き留めなかったら、僕はもっと早くにこの生命を投げ出していただろう。
 だけど。こんな機会はもう訪れないかも知れない。今、走るのを止めれば、自分の意志とは関係なく、生を断ち切ることができる。
 それでもまだ、僕が生きていたのなら、そのときは、生きていくことを受け入れるから。
 八戒の足は次第に遅くなっていった。悟浄の背中が遠くなっていく。

 濛々と土煙が立つ中、視界が完全に遮られた状態で走り続けていた悟浄は、すぐ後ろにいたはずの八戒の気配が消えていることに気がついた。
「八戒?」
 呼びかける声に、焦りが混じる。いつの間にはぐれたのだろう。悟浄の背中に冷たいものが流れ落ちる。
 悟浄は今来た道を、ありったけの大声で八戒の名を呼びながら駆け戻り始めた。

 悟浄は盲滅法に走り出していく。頭の中が真っ白になっていくのを悟浄は感じていた。八戒を呼ぶ己の声に、求める返事は返ってこない。
 先刻通りすぎた回廊が砂煙の中から、突然目の前に現れる。確かここを通った時には、八戒はまだいたはずだ。そう考えて悟浄は少し安堵してそこを走り抜けた。
 しかし、悟浄の前に広がったのは、八戒のいるかもしれない場所などではなかった。そこは、城の外だった。どこをどう間違ったのか、城の中に戻っているつもりが、外へ外へと悟浄は向かってしまっていたらしらった。
 息を呑んだ悟浄のすぐ後ろで一際大きな音がする。はっと振り返った目の前に、今駆け抜けてきた道が全て瓦礫に埋まってしまっているのを悟浄は見つけた。
「うそだろ?」
 呟く自分の声も、遠いところから聞こえてくる。
 がくりと、膝が崩れ落ちる。

「悟浄!」
 遠くから自分を呼ぶ声がするのに気がついて、放心していた悟浄はふらふらと立ち上がった。先に脱出したらしい悟空と三蔵がこちらに向かってくるのを悟浄はぼんやり見ていた。
「おいっ!八戒はどうした!」
 三蔵は珍しく切羽詰まった様子で問いかけた。
「――――はぐれた。」
 うなだれる悟浄に三蔵と悟空は息を呑む。――ーでは、まだ八戒は中にいるのか?
「だ、大丈夫だって。八戒のことだからきっと別のところから抜け出してるって!」
 悟空は少し顔を引きつらせたまま、悟浄の肩を叩こうとした。
 険しい顔をして、悟浄はその手を振り払う。

「―――戻る。」
「戻るったって、どこへ?」
 あわてた悟空に返事もせずに、悟浄は後ろを振り返った。
 いつのまにか城は既に崩れ落ちており、その形すらもう留めてはいなかった。静寂の中、耳鳴りのように轟音の幻聴が聞こえてくる。
 廃墟の中へ駆け戻っていく悟浄を、三蔵と悟空はなすすべもなく、ただ追いかけていく。

 八戒の名を悟浄は叫び続けていた。何も考えることはできなかった。どくどくと、頭の中の血管が立てる音だけが聞こえてくる。
 月明かりの下、透明な笑顔で自分を見つめていた八戒の姿が浮かぶ。
 まだ俺は、何も言ってないのに―――。

 崩れ落ちた広間の入口で悟浄は立ち止まった。淡い日差しが幻想的に瓦礫の群れを彩っていた。
 その真ん中に、八戒は倒れ伏していた。悟浄は喜びと恐怖のない混ぜになった顔で、八戒によろよろと近づいていき、そっと、瞳の閉じられた顔に手を触れる。
 温かい。悟浄は深く息をついて、天を仰いだ。

 遠いところで名を呼ばれたような気がして、八戒は半覚醒の頭でぼんやり考えた。
 やはり、生き続けなくてはいけないのだろうか。僕だけ先にいくことは、赦されないらしい   。


 悟浄はぐったりとした八戒を抱え起こそうとして、手を伸ばした。まだ意識があやふやなのだろう、八戒はぼんやりとした顔のまま起き上がろうとして、片腕を付き反対の手を悟浄に差し出した。
「大丈夫か?立てそうか、八戒?」
 悟浄は心配そうな声で、八戒を気づかう。
「ええ、たぶん。」
 よろよろと立ち上がる八戒を悟浄は抱きかかえて、傷に障らぬようそっと支えた。
「肩、貸してやるから、掴まれ。」
「大丈夫ですよ。」
 八戒はなおも触れてくる悟浄に気づかれないよう、そっと身を離した。少しふらふらとしながらも歩き出した八戒を、悟浄はじっと真顔で見守った。

 その光景を、砂丘の影からじっと見つめる人影があった。牛魔王の城の生き残りであろう、その妖怪からは城を滅ぼされた恨みと、偶然が作り出した幸運を喜ぶ輝きでぎらぎらとしたものが溢れ出していた。
 その瞳がまだふらふらとしている八戒の無防備な背中に向けられる。にぃーっと奇妙にねじれた笑顔を浮かべると、その妖怪は肩に担いだ大口径の銃の引金を引いた。
 ズキューンっと突き刺さるほどの青い空の下に、銃声が響き渡る。

 一瞬何が起きたのか見当も付かず、悟浄らは慌てて周りを窺った。
 悟浄の目の隅に、赤いものがちらりと映る。はっと振り向いた悟浄の目の前で、赤い血が滝のように八戒の胸から流れ出していた。
「八戒!八戒!」
 悟空の声が、遠くに聞こえる。悟浄は八戒の名を呼ぶこともできずに、目の前の光景に凍りついていた。
 モノクロームの世界に、八戒の血の赤だけが溢れ出してくる。
 八戒の瞳は、衝撃に見開かれていた。その右手が何かを求めるように、悟浄に向かって伸ばされていく。
 口許が微かに動いて、「悟浄」と自分の名を声にならない声で囁く。
 真っ赤に染まった八戒は、うっすらと悟浄に微笑いかけた。
 そのまま優しく目許を細めると、八戒はこれまで一度も見せないようにしてきた顔で、悟浄を見つめた。
 
 その顔には、隠しようもない愛しさが浮かんでいた。

「―――八戒。」
 悟浄が呟いた声は、風にかきけされた。
 これは、悪い夢だ。真っ赤に染まって、もう、何も見えない。
 八戒。今、俺に、何を伝えようとした?
 もう一度、その顔を見せてくれ。
 なくすわけにはいかないのに。何があっても、絶対喪えないってこと解ったのに。

 八戒の手に、届かない。
 衝撃のあまり茫然と立ちつくす悟浄の前で、八戒はのけぞりながら、ゆっくりと倒れていく。悟浄へ手を伸ばしたまま。

 永遠とも思われた時間は、引金を引いた妖怪の高笑いで突如として断ち切られた。目の前で繰り広げられた光景に反応できなかった三蔵は、その耳障りな笑い声を耳にすると、はっと現実に立ち戻り、隣で同じように茫然としている悟空に向かって怒鳴りつけた。
「悟空!あの胸クソ悪いツラを叩きのめせ。今すぐ!」
 三蔵の叫び声によって、悟空はスイッチが入ったかのように飛び上がった。
「分かった!」
 一声大きく返事をすると、悟空は妖怪に向かってナリフリ構わず突進していった。

 倒れた八戒の前に、悟浄はよろよろとひざまずいた。無意識にぶるぶると震えてくる手を、ゆっくり八戒へと伸ばす。
 いくつもの死を越えて来た者にだけ解る、あの勘がざわめいてくる。


 馬鹿な。こんなこと、あるわけない。
 それだけが、悟浄の頭のなかで繰り返される。八戒の胸を貫いた銃弾は、正確に心臓の真上を射抜いていた。胸に咲く赤い花のような風穴から、今このときも確実に八戒の生命の火が流れ続けていく。
 人間とは桁違いの生命力を持つその身体ですら抗えない、死の気配が世界を支配していく。
 悟浄の手が八戒の頬に触れる。微かにひんやりとしたその感触が、悟浄の臓腑を締め上げる。
     
 八戒が、死ぬ。
 悟浄は、自分から八戒を奪い去ろうとしている闇から守ろうと、八戒をギュッと抱きしめた。流れ出す血と命を食い止めようとするかのように、八戒にすがりつく。
 八戒のいない世界が、現実になろうとしている。
 悟浄は八戒を抱く腕に更に力を込めた。
 声にならない、しかし聞くものの心さえ切り裂くような悲鳴をあげる悟浄の背中に、三蔵はかすれた声で囁いた。
「八戒は心の底では、死にたがっていた。お前だってそれに薄々気がついていたはずだ。気がつかなかったなんて言わせない。―――このままにしておけば、あと数分もしないうちに八戒の生命は、消える。―――どうする?八戒の望み通りにしてやるか?―――お前が、決めろ。」
 悟浄は三蔵の言葉を、肩を震わせて聞いていた。血に染まった胸に、顔を埋める。
「決まってる。死なせねぇ。八戒が死にたがってようが、俺は認めねぇよ。絶対に死なせねぇ!おい三蔵、お前何とかできるのか?こんなに血が流れ出ちしまったのに!」
 悟浄は初めて顔をあげ、三蔵を振り返った。八戒の血に染まった悟浄の顔や手を見て、三蔵は痛みを堪えるような顔をした。
「何とかする。」
 三蔵は横たえられた八戒の傍らに膝を付いた。その口から、低く真言が流れ出してくる。低く、高く風の渡る荒野に三蔵の声が響いていく。
 傷にかざした手のひらから、何かが八戒の中へ流れこんでいくのが解る。
 悟浄は、押し殺した声で呟いた。

「頼む。八戒を死なせないでくれ。」





「様子はどうだ?」
 三蔵は部屋に中に入ってきた悟空に声をかけた。
 そこは、牛魔王の城があったところから最寄りの集落の宿屋の一室だった。八戒が銃弾に倒れてから、既に四日が経とうとしていた。三蔵の真言の効き目で、八戒の心臓は弱々しいながらも再度規則正しく脈を打ち始め、とりあえず出血も一旦は収まったようだった。しかし、一刻を争う事態であることは変わらず、彼らはジープを飛ばして一昼夜駆け通したのだった。
「んー。あいかわらずだったよ。俺が声かけても、悟浄全然気がつかなくて、ずっと八戒の枕許にひっついてた。メシも食ってないみたい。」
 さすがの悟空の声も、今は沈みがちだった。少し落ち着いたとはいえ、八戒の容体はまだ思わしくない。というより、まだ生と死の境から戻ってきたとはとてもいえない状態なのだ。
「助かるよね。死んじゃったりしないよね?」
「たぶんな。」
 三蔵は煙草の煙と共に、吐息混じりに返事をした。
 三蔵は宿に着くまでのことを思い浮かべた。悟浄は八戒を抱いたまま、片時も離そうとはしなかった。その手を離せば、八戒の生命も失われてしまうと思っているようだった。
 悟浄の手に白く筋が浮かび上がるほど、力が込められているのが、傍目からでも見て取れる。「死なせないでくれ」と言った後は、悟浄はもう一言も口を聞こうとはしなかった。心配した悟空がどれだけ声をかけても、反応すらしなかった。
 あれから三日間、まだ一度も目を覚まさない八戒の元を、悟浄は一歩も離れようとしない。
「悟浄があんなふうになるなんて、思ってもみなかった。八戒死んじゃったら悟浄、どうなっちゃうんだろう。今でさえ、あんななのに。」
 椅子に掛けている三蔵の腕を、悟空は掴んだ。
「三蔵が死にかけたら、きっと、俺も。」
 腕を掴むその力の強さに三蔵は顔を上げて、俯く悟空をじっと見つめた。
「俺は死にかけちゃいねぇよ。八戒も戻ってきてもらわなきゃ、困る。―――大丈夫だ。」
「だよね。」
 悟空は少しだけ顔をほころばせると、三蔵の隣に腰かけた。



 静まり返った宿屋の一室で、悟浄は八戒の枕許にじっとひざまづいていた。
 静かなのは、今が夜のせいか。
 悟浄はぼんやりと時間の感覚すらなくなった頭でそう考えた。

 八戒、頼むから戻ってきてくれ。やっと解ったのに。
 どうしても喪うことのできないものがなにか、ずっと気がつけないでいた。おまえが側にいてくれることが、それがどれだけ奇跡のような運命だったのかも俺は気づきもせずに、それを安穏と享受していた。

 八戒が隣にいるのが、当然だと思っていた。だから八戒の心が少しずつ俺から遠ざかっていくのさえ、気の所為にしてして見過ごした。
 今考えれば、八戒の様子が変だったのには随分前から気がついてはいたのに。
 信頼という名の甘えで、あいつを追い詰めた。
 取り返しがつかないほど八戒が遠くなって、初めて気がついた。
 八戒のいない未来。そんな未来が存在しうることすら、これっぽっちも想像していなかったのに。
 八戒が、いなくなる。それだけは、どうしてもいやだ。何を引き換えにしても、全てを捨てることになっても、八戒を喪うことだけは、絶対に出来ない。

 ぞくりと、背筋が凍る。
 でも、もし、このまま八戒が目を覚まさなかったら?
 気がついたときには、その身体が冷たくなっていたら?

 跡がつくほど頭につきたてた指が、ぶるぶると小刻みに震えているのが闇の中に浮かび上がる。
 怖い。なくすわけにはいかないのに。
 八戒。早く目を覚ましてくれ。俺を置いていかないでくれ。おまえの目が覚めたら、もう二度と絶対に離したりしないから。
 しんしんと静けさが夜に降りつもる。悟浄はその手から喪いかけている、かけがえのない存在を取り戻そうと、ひたすらあがき続けていた。


 真っ暗な世界に、一筋の光が差しこんでくるのを感じて、八戒はぼんやりと目を覚ました。冷えた空気と静かな気配を感じて、うっすらと目を開ける。
 そこは真っ暗で、八戒はそれが夢の続きか現実か見極められずに身じろぎをした。
「八戒!」
 押し殺した叫びが、耳に届く。ゆっくりと八戒は声のしたほうを向いた。
 そこには憔悴しきった悟浄が、しかし瞳にはまぎれもない歓喜の色を浮かべて、じっと八戒を見つめていた。
 八戒はすこし微笑って、小さく呼びかけた。
「僕を呼んでたのは、あなたですか?悟浄。」
 悟浄は八戒の手を取って、額に押し当てた。
「おまえが目を覚まさないから、俺は―――。おまえが死んじまったらって思ったら」 
 堪えきれずに悟浄はそこで口をつぐんだ。まだ夢うつつのまま、八戒は不思議そうな顔をした。
「悟浄、どうしたんですか?―――泣いてるんですか?」


 悟浄は答えなかった。口を開けば、堪えている嗚咽が洩れてしまう。八戒は身体が痛むのも忘れて、悟浄の様子をいつまでも見守っていた。


「何やってんだ。まだ一人で出歩くなって言っただろ?」
 悟浄は宿屋の階段の踊り場で、息を整えている八戒に向かって、かなり強い口調で言い募った。
「出歩くっていったって、すこしお茶を貰いにいっただけですよ?そんなに心配してもらわなくても。」
 苦笑混じりで八戒は悟浄に答える。しかし悟浄は納得していない顔で八戒の元まで歩み寄ると、その腰に腕を回した。
「わ!何をするんですか?一人で歩けますから。」
「階段上るのに、休憩がいるのに?」
 問答無用で抱え上げようとする悟浄に、八戒は慌てて身を離した。
「大丈夫ですって。」
「いいから。」
 歩き出そうとする八戒を、そう言って後ろから悟浄は悠々と抱え上げた。
 悟浄の手が触れた瞬間、八戒はビクッと身をすくませた。
「降ろしてください。」
「嫌だ。」
 傷の痛みなんて、どうにでもなる。けれどこうやって悟浄が無造作に触れてくるたび、心はひどく痛むのに。
 僕は、友人のふりを上手くこなせているだろうか。
 八戒は一度ギュッと目をつぶると、何気ない顔を作った。
「まったく、こんな格好を悟空たちに見られたら、いい笑い者ですよ、僕は。」
 憮然とした声色で、八戒は抗議の声を上げる。
「笑うんなら、笑わせときゃいいじゃねぇか。気にする必要ねぇだろ?」
 悟浄は八戒を抱き上げたまま、器用に部屋のドアを開けた。そのまま、八戒をベッドの中にそっと横たえてやる。
「おまえ、少しは自分が死にかけだっつー自覚持てよ。いいか。そこでおとなしくしてろよ。」
 八戒に口をはさむ隙間も与えず、悟浄は一方的に言い立てると、そのまま部屋からでていった。
 後ろ手でドアを閉めると、悟浄はそっとそのまま背を預けて片手で顔を覆った。
 びくりと、この腕のなかで八戒は身体を硬くした。それだけのことが、こんなにも胸に突き刺さる。ひどくいたたまれない気持ちが胸の奥を支配していく。


 もう、俺には、心を許してくれることはないのか。俺の撒いた種だとは、重々承知しているけれど。
―――吐きそうだ。
 俺は、おまえの荒んでしまった心も、痩せてしまった身体も、全部欲しいのに。
 遠ざかってしまったおまえの心を、どうしたら手にいれられる?
 ただの友人としてなら、このまま月日を重ねていくこともできるだろう。でも、一度気づいてしまった以上、見せかけだけの関係のまま、生きていけるわけない。
 飢えて、死ぬ。
 八戒のすべてを手にいれられなければ、一度知ってしまった喪失の恐怖から逃れることは出来ない。側にいるだけでは、足りなくなる。

 ――――八戒。


 いつのまにかうとうとしていた八戒を、悟浄は肩をそっと揺すって起こした。
「悟浄?どうしました。」
「起こしてすまねぇな。ちょっと聞きたいことがあって。」
「何ですか?」
「おまえ、この旅が終わったら、どうするんだ?長安に戻るんだろう?」
 すこし切羽詰まった様子の悟浄の問いかけに、八戒は訝しげな顔をしながらぽつぽつ話し始めた。
「いえ。まだ何も考えていないんですけど。長安に戻るかどうかなんて、まだ分かりませんよ。」
「そうか。―――なら、俺と一緒に暮らしてくれないか。」
 ひどく真摯な顔をした悟浄に、八戒は傍から見ても解るほど動揺した。
「一緒にって言われても……。第一長安に帰るなんて、僕、言ってませんよ。 そうだ。また旅に出るのもいいかなぁと思いますし。今度は一人で北に行ってみようかな、なんて。」
 俯いて口ごもる八戒の肩を、悟浄は強く掴んだ。
「おまえが旅に出るなら、俺もついてく。いいな。」
「―――何で、いきなり。そんなことを。」
「おまえから離れないって、決めた。ずっとだ。」
 はっと、八戒は悟浄の顔を見上げた。
 ずっと、かちあうことのなかったまなざしが、絡み合う。
「返事は?」
 囁くように、悟浄は促した。
 八戒のなかで、悟浄の言葉がゆっくりと形になっていく。


 自分の心など捨ててしまおう、そう覚悟を決めたはずの八戒の瞳に、少しづつ悟浄への想いが浮かび上がっていく。
 八戒は息をするのすら忘れて、自分を愛しげに見つめてくる悟浄の瞳の奥を覗き込んだ。
 悟浄の心が、欲しかった。誰かの内の一人にではない、自分だけに向けられる、心が。 是と言えば、叶うのだろうか。それとも、この痛みが更に増すだけの結果になるだろうか。
「 ―――八戒、返事は?」
 耳元で、微かに悟浄が囁く。

「―――解りました。ずっと、―――側に。」
 聞こえるか、聞こえないか解らない程の小さな声だった。それでも八戒は悟浄の耳元に、これまで隠し続けてきたものをありったけの想いを込めて、囁き返した。




 次の晩、悟浄は三蔵を表に呼び出した。辺境の地だけあって、宿場町としてその存在が成り立つのか危ぶまれるほどに、通りすぎる人影は少なかった。
 宿屋の庭の奥の誰もいない場所で、悟浄はようやく立ち止まる。
「何だ、話って。」
 憮然とした顔で三蔵はそっけなく尋ねた。
「俺、長安に戻ったら、八戒と暮らすことにしたわ。」
「そうか。」
 さりげない悟浄の言葉に驚く様子もなく、三蔵は淡々と答えた。
 悟浄は煙草に火をつけると、ふーっと大きく煙を吐き出した。
「お前の言ってた、なくせないものって意味、ようやく解った。」
「そうか。」
 三蔵は無表情に繰り返した。

 沈黙が、降りる。二人はそれぞれ、ここにたどりつくまでの長い日々を思った。
「すまない。」
 悟浄はぼそりとつぶやいた。
「間に合って、よかったな。」
 その言葉にはっと振り返った悟浄は、腕を組んで胸をそびやかす三蔵の姿を見て、苦笑いを洩らした。
「サンキュ。ま、でも、これからだから。」
 遠ざかってしまった八戒の心を完全に手に入れるのには、まだしばらく時間がかかるだろう。悟浄はそう考えると、にっと笑って、三蔵に背を向けて歩き出した。
 こうして、三蔵と悟浄の関係は、うたかたのように終わりを告げたのであった。


「まだ、起きてたのか。」
 悟浄が部屋に戻ると、八戒は背中に枕をあてがって身体を起こしていた。
「横になっていなくていいのか?」
 悟浄は八戒に優しく声をかけると、枕許に腰を降ろした。そして、そっと手を伸ばして八戒の髪に指を絡ませ、愛しげに頭を撫でた。
 しばらく八戒はされるがままになって、悟浄の瞳を見つめていたが、ふと視線を外すと目を逸らして俯いた。
 やはり、いくら考えても、悟浄の真意は解らない。是と答えてはしまったけれど、僕はまだ、足を踏み出す勇気を持てない。
 三蔵のことはどうするのだろうか。心の奥でくすぶり続ける、いつか見た雨の晩の愛を交わす悟浄と三蔵の姿が、また八戒の脳裏に浮かびあがる。
 悟浄の手は温かい。けれど、何をどこまで信じていいのか、解らない。
 八戒は言い様のない不安に襲われて、冷えた頬をわななかせた。
 その様子に気がついた悟浄が声をかける前に、八戒は悟浄の手から身を振り払う。
「もう、寝ます。」
 そのまま背を向けて横になろうとする八戒を、悟浄は後ろから抱きよせた。
 八戒の傷に障らないように、しかし想いのたけを込めて抱きしめる。
「ご、じょ……。」
 目をつぶって八戒は天を仰いだ。心が、痛い。顔を歪めて、身をよじる。
 一番大事なひとのことさえ、信じれないなんて。
「―――八戒。」
 吐息が耳にかかるほど近くで、悟浄は低く囁く。その声色に八戒は、胸の痛みも忘れて目を見開いた。
 張り詰めていた力がふっと抜けた八戒の顎を引き寄せ、悟浄はそっと接吻ける。それは厳かな、ともいえるほどの光景だった。

 放心した様子でされるがままになっていた八戒が我に返ったのは、かなり長い時間がたった後だった。
「悟浄!止めてください!からかわないで。」
 強く抱きしめてくる悟浄の腕から抜け出そうとして、八戒はしきりにもがいた。
「これがからかっている顔に見えるか?」
 悟浄は八戒を抱きかかえる腕を弛めようともせず、真剣な声色で問いかけた。

 はっと、八戒は振り返る。そこには、八戒がこれまで見たことのない顔の悟浄が自分を見つめていた。
 時間が止まったような静寂の中、八戒も悟浄を見つめ返した。
「おまえが俺から離れていこうとしても、俺が追いかけていく。誰にも、おまえをやらない。―――ずっと、気がつけなくて、すまなかった。でも、やっと、解ったから。」 
 八戒はもう抗うのをやめていた。真っ直ぐに見上げてくる八戒に目を細めて微笑うと、悟浄は再び接吻ける。深く、熱く、頑なな八戒の心を癒すかのように悟浄は接吻けた。

 長い、長いキスのあと、悟浄は八戒の頬に顔をすりよせて囁いた。
「――――。」
 八戒は瞳をあげた。赤い瞳と絡み合う。静かに心が触れ合っていくのが、解る。
 まだ、完全に心を委ねることはできない。けれど。
  
 ここに、こうしてふたりでいること。それが、この長い旅路の果てに見出だした、未来。
 八戒はいつか見た夢を、思い出していた。悟浄と心を重ねて生きて行くこと。あの頃はそれは叶うはずのない夢だと思っていた。
 だけど今。それは予感から、確信へと変わっていく。

 
 それは、見果てぬ、夢。










 夕闇が押し迫り、風に冷たさが混じる頃になっても、藍俊と晃瑛は街外れで来るか来ないか分からない人影をじっと待っていた。もう、何日待ち続けたか解らない。求める人影は今日も現れる気配もなく、諦めかけて街に戻ろうとした時だった。
 地平の向こうから土煙を立ててやってくる、一台のジープが彼らの目に入る。
「帰ってきた!」
 二人は待ちきれずに、ジープに向かって走り出した。

「謝るの忘れてたの、ずっと気になってて。」
 藍俊は悟浄の前に立って、俯いた。しばらくそうしていたが、息を一つつくと遥か高いところにある悟浄に向かって顔を上げた。 
「ごめんなさい。」
「別に、かまわねぇよ。」
 悟浄は最初、何を言われているのかすら、ピンとこないようだった。その様子を見て、傍らの八戒はくすりと微笑った。
「お兄ちゃんたち、何か、感じが変わった。」
 晃瑛がじっと八戒の顔を見上げてくる。
「あ、仲直りしたんだ、よかったね。」
 ギョッとする悟浄を尻目に、八戒は笑顔を浮かべたまま答えた。
「そんなところです。」
「晃瑛。何の話してんだよ?」
 藍俊が弟に不審そうに尋ねる。
「何でもないってば。」
 くすくす笑う晃瑛を胡散臭そうに悟浄はねめつけた。
「こえぇ、ガキ。」
「晃瑛のが、強そうですねぇ。藍俊負けちゃいますよ?」
「お兄ちゃんは僕がいないと駄目だからね。僕がしっかりするしかないんだ。」
「いい加減なこと言うなよ。」
 八戒は悟浄と顔を見合わせて、目だけで笑った。
 この少年達を羨ましがることは、もうない。



 八戒は悟浄に近づくと、もう一度、笑った。










付記: このお話を書くために同人をやり始めたと言っても過言はないです。すごい前に書いたお話ですけど、私の中では永久ナンバー1かも。たとえば空の青さのごとくと2大かな。私の中では(笑)。