秋の早い夕暮れが街に訪れる頃、悟浄と八戒は家出騒ぎをどうにか納めて、家路についていた。
「一週間しか家を空けていなかったのに、何かとても久しぶりのような感じがしますね。今日の晩御飯は少し豪勢にいきましょうか。何がいいですか?」
「そうだなあ。」
そう言って指折り料理の名を挙げていく悟浄に八戒は思わず噴き出した。
「誰がそんなに食べるんです。」
一歩足を踏み出すごとに肩が触れ合う距離で、二人は薄暗くなりかけた路地を歩いていく。
「いーや、何でも。お前の作ってくれるモンなら、何でもうめーし。」
「じゃあ、買い物してから帰るとしましょうか。どうせ家に何にもないんでしょう?」
「あるわけねーだろ。」
悟浄は無頓着にそう答えた後、家の惨状を思い出してはっとした。
(やべー。家ん中ムチャクチャだったんだっけ。)
顔色の変わった悟浄を八戒かは訝しげに覗き込んだ。
「どうかしましたか?何か気になることでも?」
「いや、別に大したことじゃねぇよ。ああ、それにしても腹が減ったわ。」
八戒は目を細めて微笑むと、そっと悟浄の手に触れた。温かな気配が触れるか触れないかの刹那、悟浄は八戒の手を強く握り返した。
手のひらから互いの温もりを感じながら、彼らはそのまま言葉を交わすでも無く、満ち足りた沈黙の中を歩いて行った。
「 ─── 悟浄。」
家のドアを開けるなり、八戒は低く押し殺した声で呟いた。
「何だよ。」
「何だよじゃありません。この散らかし様は一体何ですか!」
「いや、何って言われても、ほら、おまえ捜すので手一杯でさぁ、家のことまで気が回らなくてよー。」
ずんずん小さくなる悟浄の声を物ともせず、八戒は強気に言い募った。
「手一杯って言ったって、この状態はひどいです!」
確かに八戒が指し示した先に広がる光景は、惨憺たるものだとしか他に言い様はなかった。服は脱いだ順に散らかりっぱなし、食べた残り物やごみはテーブルから転げ落ちて、床に無造作に散乱している。
「一週間でどうしてこれだけ無茶苦茶にできるのか、それこそ知りたいですね。」
「まあ、そんなに言うなよ。とりあえず飯にしよーぜ。それからベットだ。逆でもいいけど。」
八戒は肩に回されたてをぴしゃりと撥ね除けた。
「何言ってんですか。先刻言ってたのは全部取り止めます。悟浄はまずこれを片付けてください!いいですか、全部ですよ!」
八戒の肩を抱こうとしていた手が、宙を掴んで無造作に落ちた。
「そりゃねーよ。片付けなんて明日でもいーじゃねーか。な?飯はなくてもいいからさ。」
ギロリと睨む八戒の気迫に悟浄は思わず肩を竦めた。このまま八戒の機嫌を損ねてまた家出されてはかなわない。そう考えて悟浄は溜め息をついて観念した。
「分かったよ。片付けりゃあいいんだろ。おまえはそこで座って見てろ。」
「座る場所なんてないじゃないですか。」
苦り切った顔の悟浄を見て八戒は心底嬉しそうな笑顔を浮かべると、それでも言われた通り椅子に腰かけて満足気な吐息を付いた。
翌朝、悟浄は鏡の一件で大騒動を巻き起こした女郎屋に向かっていた。浮かれさざめく繁華街のなかで、意気消沈した悟浄の背中が妙に人の注目を引いた。
─── 気が進まねー。いっくら後始末放り出してきたっても、誰もそのままほかりっぱなしにするなんて信じられねえ。
その女郎屋を飛び出した経緯を思い返すほどに、悟浄の歩みはのろくなっていく。
あれ、痴和喧嘩だって花街の奴らにゃあまるバレだろうし、その後で俺、八戒にブっ飛ばされたんだっけ。 ─── 最悪だ。
ふぅと溜め息をついて悟浄はたどりついたその問題の女郎屋を見上げた。そして覚悟を決めると、がらりと格子戸を開けた。
「邪魔するぜ。」
「あら、悟浄さん。久しぶりねぇ。どうしてたの?」
馴染の芸姐が声をかけてくる。
「女将さんは?」
「奥よ。あ、上がって頂戴。」
「あー。この間はスマんかった。途中で帰ったりして。」
気まずげに悟浄は頭を掻いた。
「いえ、ウチはなんもあの後困ること無かったし、そんなに気にせんでもよろしいのに。」
ころころと女将が笑う。その背後ですぅっと襖が開き、悟浄の苦手な艶やかな太夫の姿が入ってきた。
「おひさしゅう、悟浄さん。どう?あの後?」
「あの後って、俺、今日はその後始末をしに来たんだけど。ウチの事務所の奴等、誰もフォローしんかったって、平気で言うし。」
「やあだ。事務所の皆さんにはえらくようしてもらったわよう。もう部屋も何事もなかったかのように元通りだし、もちろん変なあやかしに狙われることもなくなったし。鏡もさるところへ引き取ってもらったことだし。」
「は?じゃあ、全部カタがついてるってことか?」
「いえ、ただひとつ、悟浄さんがあの後どうしたのかが知りたくって。本当に今日はいいところに来てくれたわねぇ。ね、おかあさん?」
二人で顔を合わせて頷きあっているのを見て、悟浄は自分がどうやらハメられたらしい事にだんだん気づき始めた。
「俺、帰るわ。」
「やだ、何言ってんの?今来たとこなのに。
ねぇ、あの怒鳴り込んできたひと、恋人なんでしょ?男のくせにえらく綾麗なひとだったわねぇ。あれじゃあ、ウチの女のコ達、鼻にも引っかけたりしない訳よねぇ。
──── で、仲直りは出来たの?」
悟浄はひくひく片頬を歪ませた。
だから、太夫なんて女嫌いなんだよー。
そんな悟浄の心の叫びに気づいているのかいないのか、当の太夫は有無を言わせない笑顔で続けた。
「事務所の人にもちらりと聞いたんだけど、悟浄さんあのひとに逃げられちゃったんですって?災難だったわねぇ。でもちゃんと仕事なら仕事だって言ってこなかった悟浄さんが悪いのよ?」
「ちゃんと、言ったって。」
「まあ、本当?」
太夫は口元を袖で隠して笑う。全部口裏が合わせてあるようだ。
「じゃあ、俺もう帰るから。」
脱力感を覚えながらずいっと立ち上がる悟浄を見上げて、太夫はとどめをさした。
「でも、良かったわねぇ。戻ってきてくれて。これからはちゃんと捕まえておくのよ?」
よろよろしながら悟浄は女郎屋を後にした。脱力感が少しづつ消え去ると代わりに怒りがふつふつと込み上げてくる。
みんなでぐるになって、ヒトをコケにしやがって。許せねー。
事務所まで帰りついた頃には、悟浄の怒りは頂点まで達していた。ドアを足で乱暴に蹴り開けようとして、中から爆笑する声に無意識に足を下ろす。
「それにしても傑作っスねー。ふだん男前を気取っている悟浄さんが奥さんに女郎屋に乗りこまれて、派手な痴話喧嘩して。それで逃げられたなんて傑作以外の何もんでもないですよぅ。それにしてもあのひと綺麗でしたねー。あれだけ綺麗なら男も女も関係ないか。」
どっと爆笑の渦が沸き起こる。放心したようにそれを聞いていた悟浄ははっとして顔を真っ赤にさせてドアを蹴破った。
「てめーら、何笑ってやがる!ヒトの不幸がそんなにおかしいか!ええ?」
「いいじゃん。八戒ちゃんと帰って来たんだし。これが本当にどっかいなくなっちゃったんなら、俺も慌てて捜すけどさあ。」
と、腕を頭の後ろで組んで悟空はあっけらかんと言う。
「でもおれ外にいたから、八戒が乗りこんできたとこ見そびれちゃったんだよなー。凄かったらしいじゃん。店の人達すげー驚いてたぜ?」
悟浄の拳がぎゅっと堅く握りしめられ、ふるふると震えているのに気づかずに悟空は続けた。
悟浄の鉄拳が悟空の顎にヒットして、悟空の身体が宙に吹き飛ぶ。
「いってー!なにすんだよ、このカッパ!」
「そりゃあこっちの台詞だ、バカザル。べらべらべらべらつまんねーことしゃべりやがって、その頭にはデリカシーっつうもんはねーのか!」
「悟浄に対する気づかいなんてあるわけねーじゃん。あたりまえだろ?」
「なんだとう!」
とうとうつかみ合いが始まった。被害が及ぶ前に慌てて避難しようとする者達を押し退けて奥の部屋から三蔵が出てくる。
「おめーら、うるせぇんだよ!少しは静かにできねーのか!元はと言えば、悟浄、お前が悪いんだろう?ヒトに当たり散らす資格があると思ってんのか?」
「当たり散らしてなんかねーよっ!」
「それのどこが違うんだ?とにかく今回のヘマは次回にきっちり返してもらうからな。」
凶悪な顔をして凄む三蔵に悟浄はがっくりと肩を落とした。
その日、八戒はなかなか帰ってこなかった。悟浄が気を揉み始めた頃、ようやく八戒は足早にその姿を見せた。
「すみません、遅くなっちゃって。今、御飯の支度しますね。」
「おう。どっか行ってたのか?」
新聞を広げ、今の今までやきもきしていたことなどまるでなかったかのように悟浄はさり気なく尋ねた。
「ええ、冀広のところに、ちょっと。」
「冀広?え、おまえ、なんのつもりであんな奴ンとこ行ってんだよ。」
「なんのつもりでっていい人ですよ、あのひと。」
「だあ、マジかよ。あいつおまえのこと狙ってんだぞ?自覚あるのか?」
八戒は少し困ったように首をかしげた。
「自覚って、まあそりゃあ。」
「勝手におまえにキスしたりよー。思い出すだけでもむかつくぜ。いいか、あいつのとこには金輪際出入り禁止だからな。」
むっとして八戒は強い口調で反論した。
「なんで悟浄にそんなこと決められなきゃいけないんです?
──── それにキスだけじゃないですけどね、してもらったのは。」
「八戒?」
口をあんぐり開けた悟浄に、八戒は邪気のかけらもなくにっこりと笑いかけた。
「ちょ、ちょっと待て。そりゃ、本当か?」
「ええ、まあ。でも悟浄が悪いんですよ、すぐ追いかけてきてくれなかったから。」
「 ───── 嘘だろ?」
信じられないといった様子で頭を振る悟浄に、八戒は背を向けた。
「本当ですよ。さあ、もうすぐ晩御飯が出来ますよ。」
「メシなんてどうでもいいって。おい、嘘だって言えよ。」
「だから、本当ですってば。」
手を口に当てて、八戒はくすくす笑い出した。悟浄はがしがし髪をかきむしっていたが、
八戒のあまりに楽しそうな姿にピキっとして肩を強く掴んで揺さぶった。
「からかうのもいい加減にしろよ。マジで怒るぜ?」
とうとう八戒は身体を折り曲げてくっくっと笑い始めた。
「悟浄っ、すごい顔っ。」
笑い続ける八戒の姿に悟浄ははあーっと大きく溜め息を付き肩を落とした。
「頼むからさぁ、冗談でもよせよ、そーゆーこと言うの。」
少し落ち着きを取り戻した悟浄の声色に気づき、八戒はぴたっと笑うのを止め真っ直ぐ向き直った。
「何言ってんですか。僕の言ったこと、全部本当ですよ。
─── 滅入ってた僕を慰めてくれたんです、冀広は。」
「 ──── 慰めたって、おまえ。」
呆然と悟浄は立ちすくんだ。
「そりゃあ、まあ、そういうことですよ。」
目を逸らす八戒を悟浄はそれ以上問いつめることもできずに、その場で凍りついた。目を見開いたまま、無言で八戒を見つめる。
八戒も真顔のまま悟浄を見つめ返す。
ふいに、悟浄は手を伸ばして八戒を強く抱きよせた。そのまま八戒の頭を抱えて、自分の胸に押しつける。
「やらねーよ。おまえが別のヤツのところに行きたいって言っても、絶対にやらねー。離さねーから。」
白くなるまで力を込めた手が、小刻みに震えているのを八戒は感じた。広い胸に顔を埋めたまま、うっとりと微笑って呟いた。
「 ─── なんか言ったか?」
下を向く悟浄に八戒は顔を上げて笑う。
「 ──── 冗談ですよ。」
「はっかい?」
プシューっと音がするほど、悟浄はへなへなと椅子に倒れ込んだ。
「頼むわ。そーゆー心臓に悪いことせんでくれ。」
頭を抱える悟浄を八戒は更に笑った。
「怒んないんですか?」
「怒る気力も失せた。」
「 ──── 口説かれはしたんですけどね、丁重にお断わりしましたよ、当然。」
悟浄は再び八戒をぐいっと抱きよせた。そのまま深く唇を重ねると、舌を絡ませる。
悟浄の接吻けに、八戒は頭の芯が甘く溶けていくのを感じていた。背中から力が抜けていく。ガクンっと身体が崩れ落ちそうになるのを、悟浄が強く抱きとめる。
「俺をかついでただで済むと思うなよ?」
八戒は何も答えずに、両腕を悟浄の首に廻した。
また、いつものように夜はこうして更けていった。
付記: これもイベントで配ったおまけ本です。なんだかほのぼのだなあ(^_^;)