G伊丹の発掘  地下に眠りつづけた埋蔵文化財

    (1)有岡城跡 ―――石垣、庭園跡、堀の遺構などが出土

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               昭和51年(1976)7月、JR伊丹駅前にある有岡城本丸跡の西北隅で、
               400年前の石垣が発見された。石垣は、天正2年(1574)ごろ織田信長配下
               の摂津守・荒木村重(1535〜1586)が築いたもので、戦国時代最古といわ
               れる。      〔小さい写真の上をクリックすると、画像が大きくなります〕

             JR伊丹駅前の高台にある有岡城跡(本丸跡)で発掘調査が始まったのは、昭和50年
           (1975)7月のことであった。このページを制作しているのは平成18年(2006)だから、
           もう31年も前だ。
             国鉄福知山線(当時)の複線電化計画に伴い、伊丹駅の駅舎改築や駅前再開発構想
           が具体化し、その着工に先立って、城跡の緊急発掘調査が行われることになったわけで
           ある。城跡の丘陵を「破壊」(駅前広場新設)するのか、「保存」(公園化)するのか、その
           成り行きが注目された。
             元来、有岡城の本丸は狭く、わずか方2町(約218b四方)ともいわれた。そればかりか、
           明治中期(1890年代)に鉄道が敷設されたとき、すでに、本丸跡の東半分は失われている
           のだ。しかも、残る西半分の段丘上には、発掘調査が行われる直前まで金光教会、荒村寺、
           保育所などが建っていて、そこが城跡だと知っていても、それらしき雰囲気はあまり感じられ
           なかったように思う。
             ところが、昭和51年(1976)、その忘れられた城跡で、自然石で築かれた古い石垣が
           発見され、翌52年には、築山に池を配した庭園の遺構が出土したのである。
             それ以降も、有岡城の本丸跡周辺や旧城下町などで頻繁に発掘調査が行われたのだ
           が、身近な場所で突如、貴重な埋蔵文化財が姿を現してくる光景は、筆舌に尽くしがたい
           ほど、感動的であった。

         左=本丸跡の発掘調査現場。この場所からは石垣のほか、居館の礎石、井戸、溝石などが
         見つかった。右=石垣は“野面(のづら)積み”で、高さ5bの土塁の内側に埋もれていた。
         その石組みの中に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎など、幾つもの墓石が混入していたのは、
         驚きだった。《有岡城の古い石垣の写真は、「@有岡城跡」「E伊丹の文化財」「H阪神大震災」
         のページにもあります》

        左=姿を現した庭園の泉水跡(池の底)。城主の荒木村重は「利休七哲」の一人に数えられる
        ほどの茶の湯の達人だったから、池のほとりには、風流な茶室もあったのだろうか。右=庭園跡
        の発掘風景。画面の奥の崖下に、国鉄伊丹駅が見える。庭園の遺構が見つかったのは昭和52
        年(1977)だが、古い駅舎は同54年まで存続した。

        左=庭園跡の発掘現場で行われた現地説明会。マイクを持っている人(左端)は鈴木充・
        発掘調査団長(当時大阪市立大学講師)。場所は、いまカリヨンがそびえている辺りだ。右=
        現地説明会では、出土品も展示された。「天目(てんもく)茶碗」は、村重がひそかに所蔵して
        いた名物茶道具だったのかも知れない。

       本丸跡のすぐ西側の発掘現場。堀跡や井戸、礎石などが見つかった。現在、アリオ1(駅前再開発
       ビル)が建っている場所だ(伊丹1丁目)。右の写真の建物の手前が国鉄伊丹駅前通り、奥の左上に
       「白雪」(小西酒造)の四季醸造工場が見える。

           本丸跡の南西の発掘現場。村重時代の建物跡が出土したが、城郭の防禦施設らしき
           ものは見つからなかった。現在、アリオ2(再開発ビル)のある場所である(伊丹2丁目)

       中心市街地の道路(伊丹停車場線)でも発掘調査が行われた。場所は産業道路の東側。付近
       一帯は「城」と「酒」の歴史に彩られた“都市遺跡”であるが、この場所からは、侍町(さむらいまち)
       関連する遺構や遺物が出土している(伊丹2・3丁目)

             城下町だった区域にも、用意周到な「中堀」があった。“総構え”だった有岡城の、
             城内を仕切る防禦施設とみられるが、町中で堀の跡が発掘されたのは衝撃的だった。
             以前に見つかった堀跡ともつながっていて、この「中堀」の長さは南北200b以上に及ぶ
             という。場所は伊丹シティホテルの北、大手柄酒造の南蔵跡である(中央3丁目)

        産業道路ぞい(東側)の発掘調査現場。平成15年(2003)から翌16年にかけ、小西酒造の
        富士ホールやテニスコートなどのあった場所でも、大規模な発掘が行われた(伊丹1丁目)

          古絵図に描かれた「大溝筋」の遺構が出土。上記の産業道路ぞいの遺跡で見つかった。
          『伊丹郷文禄年間之図』(市指定文化財)に「大溝筋」と書き込まれている場所だ。城下町の
          真ん中にも、“総構え”の内部を分断するための、土塁や堀があったのだろう。しかし、廃城
          後の江戸時代、堀は改造されて用水路となっていたらしい(伊丹1丁目)

       「大溝筋」の場所からも、巨大な「中堀」が出現。上に述べた用水路の下の地層に、堀は長々と
       横たわっていた。それは南北に連なっており、幅6.5b、深さ2.6b。先に大手柄酒造の酒蔵跡で
       発見された「中堀」より、この「中堀」の方がはるかに巨大だ(伊丹1丁目)
         有岡城の在りし日、この「中堀」の東側(写真の左手)が家臣たちの住む侍町、西側が町人らの
       住む城下町だった。有岡城は“総構え”の城(町ぐるみの城塞)だから、城下町は「城内」にあったの
       である。つまり、段丘上の東端(JR伊丹駅前)に本丸があり、その西に侍町、さらにその西側に城下
       町が連なっていたわけだ。
         その有岡城が信長の軍勢に攻められて落城する場面を、『信長公記』は、「城と町との間に侍町
       あり。これをば火をかけ、はだか城になされたり」と伝えている。
         写真は、上記のごとく産業道路の東側、現在、ニトリ(大型店舗)のある場所だ。右手に、伊丹
       シティホテル、小西酒造の本社ビル、長寿蔵などが見える。  

         城の遺構と酒蔵跡が“同居”する発掘現場。右の写真に「堀」の文字が見えるが、付近に
         あった有岡城の出城(上臈塚砦=じょうろうづかとりで)の防禦施設と考えられる。落城後、堀は
         埋められ、そこに酒蔵が建てられたのであろう。堀の場所から、酒造用のカマドや男柱(おとこ
         ばしら)の跡が現れたのが、印象的だった。場所は産業道路の西側、伊丹シティホテルの南の
         マンション建設用地である(中央6丁目)
           “総構え”だった有岡城跡(戦国時代)と、酒造業で栄えた伊丹郷町遺跡(江戸時代)は、
         同じ領域に重なる、きわめてユニークな「複合遺跡」だ。上に示した写真は、それを象徴的に
         物語る光景といえよう。

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