(3)周辺の古代遺跡 ―――木棺墓、埴輪、堰の遺構などが出土

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             口酒井遺跡「穴森第1号木棺墓」発見! 昭和55年(1980)、猪名川流域(東岸)
             にある同遺跡の穴森地区で見つかった。当初「穴森遺跡」と呼ばれたこの遺跡では、
             その後も住居跡や円形周溝墓など、多くの遺構、遺物が出土。とくに、畿内最古の
             籾痕(もみあと)が残る浅鉢型土器(縄文晩期)が検出され、注目を集めた。
               この口酒井遺跡は、現在、埋め戻された状態であるが、伊丹市域のみならず、
             近隣では最も重要な遺跡の一つだ。将来、「国史跡」となる可能性を秘めていると
             思われる(口酒井2丁目)

       口酒井遺跡の木棺墓は、ヒノキ材、長さ198a、幅58a。写真が物語るように、このような深い 
       場所での発見だった(口酒井2丁目)。25年以上も前に見た、臨場感あるこの発掘現場の光景は、
       今も忘れられない。
         なお、口酒井遺跡から出土した2000年前(弥生時代)のこの木棺墓は、現在、樹脂をしみ込ま
       せて、大切に保護され、「穴森第1号木棺墓」として、伊丹市立博物館(千僧1丁目)の2階に展示
       されている。      

     40年前の「田能遺跡」の写真を発見! 《昭和40年(1965年)の発掘当時に撮影》

       発掘調査が行われた当時の田能遺跡(尼崎市域)。昭和40年(1965)、園田配水場(猪名川                東岸)の建設工事中に、弥生時代の大規模な集落跡が発見され、おびただしい土器類とともに、
       人骨の入った箱式木棺、碧玉製の管玉(くだたま=ネックレス)、白銅製の釧(くしろ=ブレスレット)
       などが出土した。それが、田能遺跡である(尼崎市田能6丁目)
         写真はセピア色に変色しているのだが、この遺跡の発掘当時、筆者は30歳であった。
         なお、田能遺跡は昭和44年(1969)、国の史跡に指定された。その遺跡は、先に述べた口酒井
       遺跡の300bばかり南にある。注目すべき二つの遺跡が、隣同士の至近距離に存在するわけだ。    

           御願塚古墳(ごがづかこふんに、二重目の周濠があった。以前から“二重濠”の存在が
           知られていたが、平成10年(1998)のこの発掘調査で再確認された。写真の場所は、
           現存する周濠の外側、北西部だ。御願塚古墳の被葬者は不明であるが、大王陵(天皇
           陵)級とされる“二重濠”がめぐらされていたのは、注目に値しよう(御願塚4丁目)

       左=御願塚古墳の二重目の周濠跡。阪急稲野駅の西側にあるこの古墳は、ほぼ原形のまま
       残されており、昭和41年(1966)、県の史跡に指定された。右=「造り出し」と呼ばれる祭祀(さい
       し)のためのスペースが出土。広さは、幅5.8b、奥行き5.2b。前方部と後円部の間の、周濠
       ぎわの土中から発掘された(御願塚4丁目)

         「造り出し」に、円筒埴輪(えんとうはにわ)の列。平成10年、御願塚古墳で発見された。埴輪の
         上部は壊されていたが、底部の直径は30a以上もあったように思う。それが、「造り出し」の
         両サイドに列をなして並んでいた。東側に8基、西側に7基である。そうした古墳時代の遺物が
         タイムカプセルのように姿を現してくる光景は、誠に感動的であった(御願塚4丁目)
           なお、この御願塚古墳で見つかった円筒埴輪は、前記の口酒井遺跡から出土した土器類
         などとともに、失われた部分を補って復元し、伊丹市立博物館の2階に展示されている。

       高台遺跡の集落跡に、多数の柱穴。緑ケ丘公園の東、国道171号線とコニカミノルタとの間の
       マンション建設用地で、住居跡や土器などが発見された(高台4丁目)。ちなみに、3`北方の同じ
       高さの台地(伊丹段丘)の上に、大規模な加茂遺跡(川西市域・国指定史跡)がある。

       伊丹空港近くの岩屋遺跡、深い地層で大発見! 平成15年(2003)から翌年にかけて発掘
       調査が行われ、弥生時代前期の大がかりな灌漑(かんがい)施設が見つかった。稲作が盛んになった
       頃のもので、川から水を引き、周辺一帯の水田を潤すための設備だという。「国内最大級」との報道
       に、現地説明会には、多くの考古学ファンがつめかけた(岩屋1丁目)

       2400年前の大規模な灌漑遺構。岩屋遺跡で発掘されたのは、木製の堰(せき)3ヵ所と、V字型
       をした用水路、護岸のための杭列など。当時としては本格的な灌漑施設で、画期的に高度な技術
       が駆使されているという(岩屋1丁目)

         姿を現した堰(せき)は、“新鮮”だった。適度に水分を含んだ土中に埋もれていたため、堰は
         往時の姿を保っていたのであろうか。長い眠りから覚めた弥生時代の遺構を間近に見るのは、
         実に感動的だ(岩屋1丁目)
           岩屋遺跡で見つかったこの灌漑施設は、すぐ近くにある口酒井遺跡のほか、田能遺跡(尼崎
         市域)、勝部遺跡(豊中市域)など、猪名川流域の弥生集落で共同利用された可能性が高いと
         いわれる。伊丹空港の近辺に点在するこれらの集落遺跡群は、今後ますます注目度が高まり
         そうだ。

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