《 番 外 編 》


 伊丹今昔  町の移り変わりを写真で検証
                                             (写真88枚)

         30年前の昭和50年代(1975年〜)に撮影した「撮っておきの写真」と、平成18年(2006年)
       に同じアングルで撮影した「撮りたての写真」を、左右に並べてみました。
         写真に切り取った「昭和」の懐かしい風景(昔)と、激しく変貌する「平成」の光景(今)……。
       「30年」もの歳月が流れると、同じ場所なのに、もう“別世界”のようですね。

     JR伊丹駅・有岡城跡の周辺
               左=むかし(昭和50年代)       右=いま(平成18年)

        国鉄伊丹駅(現JR)前の風景。駅の西側に連なる小高い丘が有岡城跡で、城跡は昭和54年
        (1979)、国の史跡に指定された。その高台の上に、同52年まで荒村寺(左の建物)があった。

             有岡城本丸跡の土塁の上から、駅舎の方角(東)を望む。左の写真では、まだ
             付近に高層ビルは建っていない。

           明治の面影を残した古い駅舎は、昭和54年(1979)まで存続した。同56年、
           福知山線は宝塚まで複線電化が完成し、伊丹駅も新しく生まれ変わった。現在は、
           本丸跡のド真ん中を巨大な陸橋が横切り、駅の周辺は様相が一変している。

           南西方向からプラットホームを望む。JR伊丹駅の東側は工場地帯だったが、現在は
           マンション群やダイヤモンドシティ(大規模商業施設)に姿を変えている。

           左=昭和52年(1977)の発掘調査で見つかった有岡城の庭園跡。奥(崖下)に、
           国鉄伊丹駅が見える。右=庭園跡は現在、タクシー乗り場などになっている。

           有岡城の庭園跡。左=現地説明会には当時、多くの見学者がつめかけた。その向こう
           (100bほど北側)が、前年の発掘で古い石垣が見つかった場所だ。右=現在、庭園跡は
           一部が史跡公園となり、カリヨン(右端の構築物)がそびえている。

           駅側(東)から見た駅前通り。昔はどこか郷愁を誘う「昭和」の“原風景”であったが、
           現在は景観が一変。左右の写真は、同じアングルとは思えぬほどだ。

            西方からJR駅前通りを望む。往時は道幅も狭く、ひなびた雰囲気だったが、現在、
            その変貌ぶりは目をみはるばかりだ。右の写真の、奥に見える駅前再開発ビル
            (アリオ)が完成したのは、昭和63年(1988)であった。

       ▼以下に、「古い写真」ばかりを列挙します《昭和50年代(1975年〜)に撮影》

            ローカル線特有のムードをただよわせた、在りし日の国鉄伊丹駅。昭和40年(1965)
            ごろまでは、SL(蒸気機関車)の姿が見られた。しかし、このときはディーゼルだった。
            裏側(東)からプラットホームや駅舎にレンズを向けると、奥に有岡城跡の小山が見えた。

           駅前にあった荒村寺(左)の場所は、有岡城の庭園だった。発掘調査中の、右の写真の
           崖下(東)に、木造のレトロな駅舎が見える。なお、大昔のことだが、太平洋戦争の始まる
           昭和16年(1941)、筆者は荒村寺の南隣にあった幼稚園にかよっていた。“汽車ポッポ”
           の見える「城山」は、子供たちの遊び場だったのである。

           発掘調査が行われた当時(昭和51年)の有岡城本丸跡。発見された石垣は戦国時代
           最古といわれるが、その石組みの中に墓石が突っ込まれていたのは驚きだった。現在、
           付近は史跡公園として整備され、古い石垣や土塁が残されている。右下は、本丸の西側
           (再開発ビル建設用地)で見つかった堀の跡だ。

           左=忠魂碑のある小山から、国鉄伊丹駅の構内を望む。プラットホームの向こう(北東)
           は東洋ゴムの伊丹工場だったが、現在はその跡地に、ダイヤモンドシティ(平成14年開業)が
           ある。
           右=駅の正面付近から、西方(中心市街地)を望む。画面の左奥に、かすかに六甲の山
           が見える。昭和50年代、伊丹の町中からは、西や北に緑の山なみを望むことができたので
           ある。なお、右側の丘が有岡城の本丸跡で、そこに土塁が残り、その内側で戦国時代の
           石垣が発見されたのだった。

           西方から見た駅前通りと、古い町名標識。この付近の伊丹2丁目には、昭和51年
           (1976)まで、「殿町(とのまち)」という旧地名(小字=こあざ)があった。そこは、昔、
           有岡城の侍町(さむらいまち=家臣たちの居住区域)があった場所だといわれる。

     産業道路・宮ノ前通りの周辺
                左=むかし(昭和50年代)      右=いま(平成18年)

           産業道路の「伊丹郵便局前」交差点。後ろに見える巨大な酒蔵は、清酒「白雪」醸造元・
           小西酒造の万歳1号蔵である。この酒蔵の屋根瓦は、阪神大震災(平成7年)で全部ずり
           落ちてしまった(伊丹2丁目)

               猪名野神社の神輿(みこし)が町中を巡行。その後方には、現在、11階建て
               の伊丹シティホテル(右・昭和62年開業)がそびえている(中央6丁目)。同じ
               アングルだが、今は手前が暗く、神輿がビルの谷間を行くような感じだ。

           伊丹シティホテル付近から、北方を望む。祭りの日、神輿がにぎやかに南下。「宮ノ前
           通り」へつづく中心市街地も、昔は狭い道幅だった(中央2・3丁目)

              大手柄酒造の南蔵付近から、東方を望む。以前はこの辺りで絵を描く人たちを
              見かけたが、“絵になる風景”も「今は昔」となった(中央2・3丁目)

               小西酒造の長寿蔵付近から、東方を望む。左は、旧「伊丹郷町(ごうちょう)」の
               面影を色濃く残した場面だ。平成2年(1990)まではこのように道幅が狭かった
               わけで、まさしく隔世の感がうかがえる(中央3丁目)

              旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)。平成4年(1992)、国の重要文化財に指定された。
              築330年超で、日本最古の町屋だ。阪神大震災(平成7年)で全壊したが、現在は
              昔の姿に復元され、「伊丹郷町館」として公開されている(宮ノ前2丁目)

         伊丹有数の規模を誇った「宮前商店街」の南入口。昭和28年(1953)に完成したアーケード
         は、ここから猪名野神社まで300bもつづいた。右の写真の突き当りが神社だから、往時とは
         見違えるばかりだ。ビル街と化した感じだが、宮ノ前地区の再開発事業がすべて完了したのは、
         平成13年(2001)のことであった(宮ノ前1・2丁目)

          歴史ある商店街の面影も、「今は昔」。同じ場所とは思えないほどの変貌ぶりだ。「宮前
          まつり」でにぎわう右の写真の奥は、猪名野神社の鎮守の森。手前を横切る道路は、伊丹
          小学校の前から柿衞(かきもり)文庫の北側へつづく“新”飛行場線(道幅20b)で、その下
          には、326台が収容できる地下駐車場(平成9年完成)がある(宮ノ前1・2丁目)

               「宮ノ前通り」にあった医院(左)。その付近には、現在、“新”飛行場線に
               面して伊丹商工プラザ(産業・情報センター)が建ち、1階に「FMいたみ」の
               サテライト・スタジオがある(宮ノ前2丁目)

           ふとん太鼓が「宮ノ前通り」を巡行。長い歴史を刻んできた「宮ノ前」のふとん太鼓(左)は
           現役を引退し、これに代わって、新調された“2代目”が平成17年(2005)から登場した。
           右の写真は、再デビュー2年目の勇姿である。古い町並みも新しくなった(宮ノ前2丁目)

           猪名野神社の大鳥居付近から、南方を望む。「宮前商店街」のアーケードはここまで
           連なっており、平成3年(1991)まで存続した(宮ノ前3丁目)

      ▼以下に、「古い写真」ばかりを列挙します《昭和50年代(1975年〜)などに撮影》

          酒蔵のある風景。旧「伊丹郷町」(中心市街地)は、江戸時代、日本一の“酒造産業都市”と
          して栄えた。今に残る古い酒蔵は、その酒造史を伝える、かけがえのない歴史遺産である。
          その昔、「本町通り」と呼ばれた産業道路の界隈には、多くの酒造蔵が点在したのであるが、
          もはや、それらは残りわずかとなった(伊丹2丁目・中央3丁目)

         法巖寺のクスノキは県指定の天然記念物昭和40年(1965)に指定された。樹齢500年超
         で、高さ28b、幹囲6b。三軒寺前広場に面したお寺の境内だ。近年、周囲に高層マンションなど
         が出現したため、“背高のっぽ”のクスノキもさほど目立たなくなったが、町中にこれほどの巨木が
         あるのは珍しい(中央2丁目)

          古い町名標識。右端は「北少路」で、江戸時代から存続した宮ノ前地区の旧地名だった。
          こうした古い小字(こあざ)は、昭和50年(1975)ごろ、ことごとく失われてしまった。

          長い歴史に彩られた「宮前商店街」。古くから猪名野神社の門前町として栄えた。中と下の
          左側の写真は、日用雑貨などを商う石橋家の店舗。現在、この建物は旧岡田家住宅(宮ノ前
          2丁目)の東隣に移築されており、平成13年(2001)、旧石橋家住宅として県の有形文化財
          に指定された。

          猪名野神社は昔のままだが……。右下の神社拝殿や境内のたたずまいは、今も昔のまま
          だが、多くの店舗がにぎやかに軒を連ねた「宮前商店街」は、大きく様変わりした。時代の
          趨勢(すうせい)とはいえ、もはや、過ぎし日の面影は感じられない。
            「宮ノ前通り」に面した伊丹アイフォニックホールの北側の歩道に、現在、高浜虚子(1874
          〜1959)の句碑が建っている。「秋風の 伊丹古町(ふるまち) 今通る」……。
            宮ノ前地区は平成時代に入っても、まだ「古町」であった。それが、何という激変ぶりで
          あろう。伊丹で生まれ、伊丹に住みつづけた筆者でさえも、信じられぬような思いだ。久しぶり
          に伊丹を訪れた人なら、「ここは、どこの町?」と思うのではないだろうか。

       伊丹小学校

           “軍艦校舎”から、酒蔵をイメージした新校舎へ。伊丹小学校(船原1丁目)の旧校舎本館
           (左上)は、昭和12年(1937)の築造で、市内最古の鉄筋コンクリート3階建て。戦艦「陸奥
           (むつ)」をかたどったといわれ、“軍艦校舎”の愛称で親しまれてきた。
             余談ながら、終戦当時の昭和20年(1945)、筆者はこの伊丹国民学校の4年生だった。
           “軍艦校舎”はB29の空襲を恐れ、真っ黒に塗りつぶされていた。迷彩(カムフラージュ)が
           ほどこされていたわけだ。卒業写真(左下)のときもまだ、校舎は黒いままだった《左下の写真
           だけは、サクライ写真館が昭和23年(1948)に撮影》
             老朽化したその旧校舎に代わり、昭和58年(1983)、デザインを一新した瓦屋根の新校舎
           (右)が竣工。明治6年(1873)生まれの伊丹小学校は、創立130周年を超えている。

      阪急伊丹駅
                  左=平成7年(1995年)      右=平成18年(2006年)

           阪神大震災で崩壊した阪急伊丹駅と、復旧した新しい駅ビル。思いもよらぬ災害を
           引き起こした大地震は、平成7年(1995)1月17日、阪急伊丹駅がリニューアルしたのは、
           それから3年10ヵ月後の同10年11月20日だった。
             ちなみに、阪急神戸線と伊丹線は、大正9年(1920)に開通。当初、伊丹線は塚口から
           直線コースで、伊丹の駅は中央4丁目(サンロード商店街の近く)にあった。線路がカーブして
           高架となり、阪急伊丹駅が現在地(西台1丁目)へ移転したのは、昭和43年(1968)のこと
           である。

       自分の手で切り取った、懐かしい「昭和」の写真と、変わりゆく「平成」の写真……。70歳という
       節目の年に、「30年前」と同じ場所に立って、ファインダー越しに「その後」を自分で追体験し、
       こうして『伊丹今昔』と題した“自分史”みたいなページを制作することができるのは、まことに
       うれしい限りです
《平成18年(2006年)制作》

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