伊丹《再》発見……その2
                   いにしえのロマンを求め、“遺跡ウオッチング”をつづけます。


     有岡城(戦国時代)の土塁が、
     猪名野神社(宮ノ前3丁目)の西境に、今も累々と。

         猪名野神社の場所には、430年前の戦国時代、有岡城の砦(とりで=出城)があった。
         そのため、今も当時の土塁が残っているのだ。土塁は社殿の西(左側)、俳人・鬼貫(おにつら
         1661〜1738)の句碑の背後に連なっている。猪名野神社の境内全域(11,309u)が、昭和54
         年(1979)、有岡城の砦跡として、国の史跡に指定された。

         土塁は高さ3b、長さ100bにわたって残存。地表に古木の根っこが大きく露出していること
         からみて、土塁はもっと高かったに違いない。幅は今も5bほどある。こうした土塁が町ぐるみを
         城塞化した“総構え”の有岡城をすっぽりと包み込んでいたわけで、当時としては、きわめて強固
         な防禦施設だったと思われる。

         土塁を越えると、その向こう側(西側)は、昔、有岡城の外堀だった。昭和50年(1975)ごろ、
         筆者が神社の近くに住む古老に“取材”したところによると、昭和の初めごろまで外堀はまだ残って
         いたという。その堀を掘った土を城側(現在の猪名野神社境内)にうず高く積み上げ、土塁が築か
         れたわけだ。

         外堀の跡地は現在、道路となり、付近に「清水橋」という名のバス停がある。堀の幅は5b
         か、それ以上もあったのだろうか。深さや水量はわからない。しかし、橋が架けられていたことは
         確かのようだ。近世中期の『伊丹村天王町絵図』をみると、猪名野神社の西側に水路(外堀)と
         土塁が描かれ、「石橋」と書かれた橋が堀をまたいでいるのである。
           その橋の名前は、「清水橋」だったのであろう。橋はもうないが、現在、伊丹市営バスと阪急
         バスに「清水橋」という停留所が存続しており、昔、そこに同名の橋があったことを如実に物語って
         いるのである。
           なお、外堀を越えた向こう側(西側=清水2丁目など)は昔、「堀越町」という地名だった。
         北中学校の校地には明治35年(1902)から昭和16年(1941)まで旧制の伊丹中学(県立伊丹
         高校の前身)があったのだが、当時から昭和50年(1975)まで、その付近一帯が「堀を越えた所」
         を意味する「堀越町」だったのである。まさしく、地名が歴史を物語った典形といえよう。

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            左=旧伊丹郷町の最北端に位置する猪名野神社の界隈。緑に包まれた鎮守の森が、
            有岡城の砦跡だ。右=砦跡であることを示す説明プレート。猪名野神社の参道(鳥居の
            近く)に設置されている。


      猪名野神社の狛犬(こまいぬ)が、市内では最古。
      伊丹市立博物館友の会が『伊丹の狛犬たち』を刊行。

           猪名野神社(宮ノ前3丁目)の参道に鎮座する狛犬。“ア(阿)・ウン(吽)の呼吸”が
           ピッタリだ。博物館友の会が平成18年(2006)12月に発行した『伊丹の狛犬たち』による
           と、同神社の狛犬が伊丹でいちばん古く、江戸時代中期の明和5年(1768)に奉納された
           ものだという。
             なお、この冊子では、伊丹市内にある28ヵ所の狛犬たちを紹介。友の会がこれまでに
           刊行した『伊丹の寺院』『伊丹のお地蔵さん』とともに、独自の調査による労作だ。伊丹市立
           博物館(千僧1丁目)で販売されている。

            左=台座の後ろに、「明和五年子八月吉日」の刻字がある。明和といえば、猪名野
            神社の“御神幸(おわたり)”神事が華やかなりし頃だ。明和9年(1772)のパレードの様子
            を描いた絵巻物など、『猪名野神社神幸絵巻3巻』が、伊丹市の有形文化財(歴史資料)
            に指定されている。
              右=大鳥居の前から、猪名野神社の参道を望む。狛犬は、その両脇に鎮座して
            いる。旧伊丹郷町の最北端に位置する同神社は、古くから郷町の氏神であった。


      戦時中(1940年代)、天神川の下を横切る
      このトンネル(荒牧6丁目)を、陸軍施設に向かって汽車が通った!

         旧国鉄中山寺駅から延びる引込線の鉄道を、「鴻池村」(現在の北野地区)にあった
         軍事施設に向かって、汽車が通った。当時のトンネルは、今もそのまま残っている――。
         この話を耳にしたときは驚いた。自分の耳を疑ったほどだ。
           調べてみると、その「知られざる昭和史」というのは、こうである。
           太平洋戦争さなかの昭和17年(1942)、伊丹の北部地区(「荒牧」「荻野」「鴻池」の一部=
         当時は川辺郡長尾村)およそ10万坪が、軍の命令によって買収され、そこに陸軍獣医資材支廠
         長尾分廠が置かれた。その施設での主な任務は、軍用馬の蹄鉄生産、医薬品の保管・管理など。
         そこへは、国鉄中山寺駅(宝塚市域=当時は長尾村)から引込線の鉄道が敷設され、軍用列車が
         乗り入れたという。もう、60年以上も前の話である。
           その“戦争遺跡”(陸軍施設)は現在の「北野地区」「荒牧南地区」辺りと考えられ、今も当時の
         正門の門柱だけが残っているのだそうだ。
           上の写真が、汽車が通ったトンネルである。荒牧バラ公園のすぐ近く(南西)、天神川の
         下をくぐるトンネルだ。天神川は天井川(てんじょうがわ)だから、その川床は高い。下にもぐらなく
         ても、線路は平坦コースだったのであろう。
           右下=天神川の堤防から、汽車の通ったルート(北西方向)を望む。この線路跡の道は、
         現在のJR中山寺駅からどこをどう通って、このトンネルに至るのであろうか――。

         左=JR中山寺駅の近く、福知山線ぞいにある「中筋6丁目」交差点(宝塚市中筋)。高架の
         上を快速電車が走る。写真の奥(左手300b)にJR中山寺駅があるのだが、左側の道は、その
         駅からこちら(南東)へ“斜め”につづいている。中=大きくカーブする道。先の交差点からつづい
         ている。
           右=JR中山寺駅から、例のトンネル付近や、陸軍施設の門柱付近までの地図。オレンジ
         色の〇印は、上が「トンネル」の場所、下が「門柱」の場所。汽車が通ったと思われる引込線跡の
         道路は、ピンク色で示した。以下に述べるような理由で、引込線(鉄道)の跡であることは、ほぼ
         確実と思われる。

         【引込線(鉄道)のルートを訪ねて――。トンネルの手前で、往時の“線路”は
         なぜ、Y字形に? そのミステリーにせまる】
           ある日、JR中山寺駅から南東の方角へ“斜め”に延びる、1本の道を見つけた。それは、東方向
         へJR福知山線としばらく平行したあと、ゆるやかに右(南)へカーブしている。その思わせぶりな形状
         と、付近に“斜め”の道がないことから、「引込線の跡だ!」――との直感がよぎった。
           道路は長尾中学校の近く(宝塚市域)を通って伊丹市域(荒牧)に入り、大阪芸術大学短大部の
         西側をさらに南東へとつづく。この道だけが、過ぎし日の“軌跡”をしのばせるが如く、“斜め”に延び
         ているのだ。
           ところで、『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)によると、この荒牧地区とその周辺の地域は
         古代、「川辺北条」に属する条里地帯であった。近年まで付近に「三ノ坪」「五ノ坪」「九ノ坪」と
         いった“坪地名”が存続してきたのが、その条里制の名残である。明治後期の『川辺郡長尾村之内
         荒牧村実地実測全図』をみても、田畑は正方形ないしは長方形に整然と仕切られていて、“斜め”
         の道路など、全く見当たらないのだ。
           そうしたことからも、JR中山寺駅から“斜め”につけられたこの道は、引込線のレールを敷く
         ため、昭和時代の前期に、新設されたものに違いなかろう。
           ところが、その道は、荒牧4丁目付近にさしかかると、なぜか、弧(こ)を描くようにして東へ
         折れる。そのまま進むと、天神川の下をくぐるトンネルに出くわした。汽車が通ったトンネルが今も
         残っているとの話は以前から聞いていたので、「これだ!」――と思った。“斜め”に延びる道路は、
         やはり間違いなく、引込線の跡だったのだ。
           しかし――。天神川は川床の高い天井川だから下にトンネルがあっても不思議はないのだが、
         道が東へ向かう理由がわからない。方角が違っているのだ。陸軍施設のあった「北野地区」は、
         天神川の手前(西側=荒牧の南)に位置しているからである。
           釈然とせぬ思いで少し引き返すと、南側に巨大なマンション群(県営荒牧高層住宅/市営荒牧
         御影団地)がそびえ、その向こうを中国自動車道が横切っていた。「北野地区」はまだその向こう側
         (南)だから、汽車はここをまっすぐ南下したはずである。
           とすると、レールはY字形をなし、二つの方向に枝分かれしていたのであろうか。
           では、トンネルをくぐって東へ向かう引込線跡の道路(Y字路の左側?)は、どこへ行くのだろう。
         その行く手には、もう一つ別の“戦争遺跡”(陸軍施設跡)が存在するのだろうか。
           史料がなくて難渋していたとき、伊丹市立博物館が刊行する『地域研究いたみ』の第25号(平成
         8年発行)に、「旧長尾村にあった陸軍施設――大阪陸軍獣医資材支廠長尾分廠について」
 
        と題する論考が掲載されていることを知った。それを読むと、引込線の線路は思ったとおり、Y字形を
         なしていたのだ。
           同誌を彩った森美恵子氏(元伊丹市立博物館員)のその文章には、「昭和19年7月には国鉄
         中山寺駅からの引込線用地の買収が始まり、20年初めには獣医資材廠と兵器廠(宝塚市野里)
         への二つの線路が引かれたが、汽車が走った期間は短く、20年10月に線路は撤去された」…と
         記されているのである。
           この記述から類推すると、Y字路の左手(東)には、「兵器廠」があったらしい。極秘のその
         軍事施設では、武器類の保存・管理や修理などが行われたのであろうか。《別の場所に存在した
         造兵廠が、武器・火薬などの製造部門だった》
           念のため、軍用列車の通った鉄道跡の道を東へ進んでみた。つまり、Y字路の左側へコースを
         とり、トンネルを抜けて、さらに東方向へ……。すると、宝塚市域の「山本野里3丁目」にたどり
         着いた。そこには、現在、陸上自衛隊の大規模な宿舎(4〜5階建て)が、ズラリと建ち並んでいる
         のである。
           JR中山寺駅からつづく引込線跡の道路は、ここまでおよそ2.5`。例のトンネルをくぐり抜けた
         あと、いったん中国自動車道に行く手をはばまれるが、またその南側に現れる。そうして、この道は
         自衛隊宿舎の敷地内まで延びているように感じられた。
           しかも、その場所には、現在、陸上自衛隊の施設が目白押しだ。宝塚・伊丹・川西の3市が境界
         線を接するその地域に、自衛隊川西駐屯地、同訓練所、同山本宿舎、同山本団地、同阪神病院
         などが集中しているのである。
           こうしたことからみても、往時は人里離れた僻地(へきち)だったその一帯が、知られざる“戦争
         遺跡”(「兵器廠」跡)であることは、ほぼ確実であろう。      

         左=天神川の堤防(トンネルの上)から、中国自動車道方面(南東)を望む。引込線跡の道は
         その向こう側へつづいている(伊丹市荒牧6丁目)。右=引込線の跡と思われる道路の終着点
         (?)。オレンジ色の給水塔のある辺り一帯には、現在、陸上自衛隊山本宿舎の団地が建ち並んで
         いる(宝塚市山本野里3丁目)。

           さて、次なる目的地は、もう一つの“戦争遺跡”――。つまり、Y字形をなした鉄道ルートの
        右側(南)をたどるコースだ。
しかし、前記のように、例のトンネル付近は巨大なマンションや中国
         自動車道が行く手をさえぎっている。そのため、引込線の痕跡を見つけることはできなかった。
           町並みそのものが大きく改造されていて、引込線跡の道は、もうすっかり消え失せているようで
         ある。
           そこで、やむなく、陸軍施設があった当時の門柱が残っているという場所へ向かった。幹線
         道路に面したよく目立つ位置に、その“戦争遺跡”の門柱は健在であった。

         旧陸軍獣医資材支廠長尾分廠の門柱3本が、今も残っている。伊丹市域では、数少ない
         “戦争遺跡”の一つだ。伊丹市教育委員会が設置した説明プレートには、当時の正門付近の
         写真や、施設内建物配置図も載せられている(北野1丁目)。
           右下=昭和60年(1985)ごろに撮影した正門跡付近。まだ高層住宅などは建っておらず、
         門柱はかなり黒ずんでいたように思う。
           コンクリート製の門柱だけが、ポツンと取り残されたように現存しているのは、市バス「鴻池」駅の
         すぐ北。県道中野中筋線の「北野1丁目」交差点に面した角地である。軍事施設があったのは、
         この場所より北側、現在の中国自動車道の手前(南)辺りまでがその範囲であったらしい。
         その“戦争遺跡”は、今の「北野地区」「荒牧南地区」(天神川と県道中野中筋線との間)と考えら
         れる。そこは当時、川辺郡長尾村で、「荒牧」「鴻池」「荻野」にまたがる地域であった。軍事施設の
         西側に「鴻池」の集落はあったものの、周りに大小の灌漑(かんがい)用水池が点在する、鄙(ひな)
         た場所だった。なお、この地域が伊丹市域となったのは、昭和30年(1955)のことである。       

クリック  軍事施設内建物配置図

           配置図には引込線の線路やプラットホームの位置なども示されているのであるが、今、その付近
         を歩いてみても、むろんそうした“遺構”は全く見当たらない。
           それにしても、62年前の戦時中、幻の軍用列車はどんなルートをたどって、ここまで来た
         のであろうか――。前記したトンネルの手前(西)で、Y字形の線路を右(南)に折れたのに違い
         ない。そうして、下ノ池(現在の荒牧中学校=荒牧5丁目)の東側を通ったはずだ。そこから、さらに、
         天神川の西側にあった西池(現在の市営荻野団地=荒牧南4丁目)のそばを、汽車はまっすぐ南下
         してきたのであろう。
           軍需物資(獣医資材など)を積み降ろししたプラットホームは、北野5丁目と6丁目との中間地点
         にあったと考えられる。
           だが、辺り一帯は、現在、何の変哲もない住宅地に生まれ変わっている。戦後、土地・建物は
         引揚者住宅などとなったあと、昭和39年(1964)に払い下げとなったのだそうだ。その広々とした
         “戦争遺跡”に建ち並ぶ新しい家々は、まるで何事もなかったかのように、静かな住宅街の風景に
         とけ込んでいた。

           ずいぶん長くなったが、最後にもう一言――。江戸時代に視点を移すと、「鴻池村」は歴史に
         残る“清酒発祥の地”、「荒牧村」は隣接する「山本村」(宝塚市域)とともに、日本有数の
         “園芸の里”であった。そうしたのどかで平和な田園地帯の村々が、昭和時代の前期、軍用列車が
         乗り入れてくるほどの、大規模な“秘密基地”(獣医資材廠・兵器廠)だったとは、まことに驚くばかり
         だ。
           当時、地元の人たちは衝撃的だったことだろう。軍部の命令で農地を買収され、そこへ突如、汽車
         が姿を現したとき、その心境はいかばかりであったろうか。
           「6歳のとき、汽車を見た。3両か4両連結だった」「線路は単線で、低い土手になっていた」「土手
         は4bぐらいの幅だったように思う」「鉄道を敷くための土木工事に、村人たちは動員されたということ
         だった」
           「野里(兵器廠)の方へ行く汽車が多かったらしい」「隧道(ずいどう=トンネル)は、煙の煤(すす)
         真っ黒だった」
           「戦後も、(軍事施設の)門柱の奥には、カマボコ形をした兵舎のような建物が残っていた」「(住宅
         地の)地面が高くなっている場所が、プラットホームの跡だと聞いている」
           体験や伝聞を、地元の人々は生々しく語ってくれた。60年以上も前のことなのに、よほど強烈な
         印象だったのであろう。
           終戦当時(1945年)、筆者は伊丹国民学校(小学校)の4年生。9歳だった。記録によると、
         その年の3月19日、軍用空港だった伊丹飛行場はグラマン(アメリカの艦載機)延べ120機の襲撃を
         受けたという。そのとき筆者は、何度も機銃掃射の音(銃声)を聞いた。
           同じころ、旧長尾村の軍事施設(獣医資材廠・兵器廠)にも、激しい空襲(空爆)があった
         のだろうか。そこまでは“取材”をしなかったし、史料もない。けれども、自分の生きた激動の昭和
         時代の、「知られざる戦争遺跡」(鉄道ルート)をたどり、検証することができたのは、それなりに意義
         ぶかいものがあったのではないかと思う。         


      伊丹の中心を示す「伊丹町道路元標」が、産業道路ぞいの
         「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵の前に(中央3丁目)。

         「兵庫県川辺郡伊丹町」の中心を示した標識。産業道路(尼崎池田線)に面した小西酒造本社
         の、北東隅の土塀ぎわに建っている。人通りの多い場所だが、案外、見過ごされているのではない
         だろうか。
           「伊丹町」という名の自治体は、明治22年(1889)、町村制の施行によって誕生。猪名川べりに
         位置する「川辺郡」の“首都”として機能してきた。
           ちなみに、この付近の旧地名は「本町」だった。そこはかつて戦国城下町の中核をなし、その後の
         江戸時代には酒造業のメッカだった場所だ。「本町」という地名はそもそも城下町の地割の原点を
         意味したはずだが、由緒あるその地名が失われたのは、惜しまれてならない。

         長寿蔵の見える場所に、「道路元標」はたたずんでいる。同じ中央3丁目には、昔、川辺郡役所
         や伊丹町役場(のち市役所)があった。江戸時代の「近衛家会所」もすぐ近くだった。
           現在の伊丹シティホテルの北側に、昭和47年(1972)まで、伊丹市役所があった(同年、千僧
         1丁目へ移転)。JR伊丹駅前に残る有岡城跡は国指定史跡、宮ノ前2丁目にある旧岡田家住宅
         (店舗・酒蔵)は国指定重要文化財だ。

         左=「稲野村道路元標」も、稲野小学校の近くの西国街道に(昆陽3丁目)。そのすぐ東側を、
         有馬街道が南北に縦断している。付近には、昔、稲野村役場があった。「稲野村」(中野・東野・西野
         ・池尻・寺本・昆陽・千僧・堀池・山田・野間・御願塚・南野)は、明治22年(1889)から、「伊丹町」と
         合併する昭和15年(1940)まで存続した。
           それと、少し西方の街道ぞい(昆陽5丁目)には、江戸時代、西国街道の宿駅だった昆陽宿(こや
         じゅく)本陣があったと伝えられる。
         右=稲野小学校(昆陽1丁目)の前から、西方を望む。正門前にある古い道しるべ(写真の右端)
         は、以前、少し西の四つ辻(西国街道と有馬街道との交差点)に建っていたのだという。


      「千僧今池」の跡地に、伊丹市役所や博物館など。
      埋め立てられる以前、池は“長グツの形”をしていた(千僧1丁目)。

         左=「文政年間千僧村絵図」。1818〜1830年に描かれた絵図だという。伊丹市立博物館が発行
         した『伊丹古絵図集成』より、許可を得て、転載させていただいた。
         中・右=昭和31年(1956)に撮影された「千僧今池」付近の航空写真。博物館1階ロビーに
         展示中の写真を、許可を得て、接写させていただいた。
           上の古絵図や航空写真が物語るように、「千僧今池」(千僧池)は昔、大きな“長グツの形”をして
         いた。その池は、昆陽池の南の堤防に接していたのだが、現在はほとんどが埋め立てられ、
         “長グツ”の先っぽ(ツマ先の部分)が残っているだけ。埋め立てられた跡地は、北から順に千僧
         浄水場、国道171号線、伊丹市役所、博物館、図書館、中央公民館、総合教育センターなどに姿を
         変えている。

         伊丹市立博物館の東側に現存している「千僧今池」のたたずまい。左上=水門付近から
         北西方向を望む。右上=奥に伊丹市役所、手前に博物館(右)と図書館が見える。左下=池の
         左側(西)にある建物は、手前から中央公民館、図書館、博物館。右下=南西の上方から、池の
         全景を望む。

             おだやかな池畔で、アオサギがひと休み。左=その近くを大きなヒゴイ(緋鯉)が
             泳いだ。=池の南側には高層マンションが出現し、水面(みなも)に影を落としている。

          夕暮れがせまると、「千僧今池」は異なった“表情”をみせる。水面が茜色(あかねいろ)
          染まる、その黄昏(たそがれ)が美しい。

         在りし日をしのばせる「千僧今池」の旧堤防付近。左=水田の風景が懐かしい。写真は、現存
         する池の南側の堤防付近(千僧2丁目)。=昔、この辺りで、昆陽池と千僧今池は堤防ひとつを
         へだてて接していた。写真は、現在のたんたん小道の南側(広畑5丁目)。
           在りし日の「千僧今池」は、総面積およそ7万4千u(2万2千坪)。その水面は昆陽池に
         隣接してまっすぐ南へつづき、“長グツ”のツマ先が東を向いていた。昆陽池の北端から、“長グツ”
         の底(千僧今池の南端)までは、優に1`を超えていただろう。二つの池は、満々と水をたたえ、
         南北に長々と水面を連ねていたのである。
           「千僧今池」は、古くから「千僧村」の灌漑(かんがい)用水池であった。伝承によると、奈良時代
         の高僧・行基(668〜749)はこの地に多くの良田を開拓し、昆陽上池(現在の昆陽池)・下池など、
         幾つもの池を築いたという。「千僧今池」もそのうちの一つと考えられる。
           地元の長老に話を聞くと、池は戦時中の昭和18年(1943)ごろ、軍部の命令で一部が
         細長く埋め立てられたという。軍用物資をトラック輸送する道をつくるためだ。その道路が、
         国道171号線の前身であるらしい。
           その後、昭和30年代の後半に池は北から埋め立て工事が始まり、昭和38年(1963)、千僧
         浄水場が着工。さらに、国道の南側に新庁舎ができ、中心市街地(中央3丁目)から伊丹
         市役所が移転してきたのは、昭和47年(1972)のことであった。
           同時に、博物館、図書館も完成。その翌年には、中央公民館がオープンしている。市役所の
         南西に、時計台のある総合教育センターが登場したのは、平成6年(1994)だった。
           これらの施設が建ち並ぶ場所が、「千僧今池」の跡地(埋立地)である。市役所や総合教育
         センター、中央公民館の南側にある道路付近が、往古の池の南限であった。このラインに沿った
         東側に、現在、“長グツ”のツマ先だけが残されているわけだ。現存するその「千僧今池」の
         大きさは、昔の池の7分の1ぐらいであろうか。

         市役所前の緑地帯に、「千僧今池」の水門遺構(?)。池があったことを記念して保存・設置され
         たのであろうか。この場所に水門があったのかどうかは、わからない。=奥は、国道171号線。
         =奥の左側に、もう1基が見える。

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         左=千僧浄水場(広畑6丁目)から、伊丹市役所を望む。手前に広がる緑地帯は、池を思わせ
         るようなイメージだ。右=市役所などの庁舎配置図。白い部分が、現存する「千僧今池」である。

         左=スワンホール(昆陽池2丁目)から、市役所方面を望む。手前左は千僧浄水場、時計台が
         あるのは総合教育センター。右=昭和44年(1969)に設置された「千僧今池」の記念碑。千僧
         公民館(千僧3丁目)の前にある。

         上空から見た昭和20年代(1945年〜)の「千僧今池」付近。伊丹経済交友会が発行する
         伊丹のグラフ情報誌『いたみティ』第72号(2007年7月号)から、許可を得て、転載させていただ
         いた。
           上の写真は、過ぎし日の様子がよくわかる、きわめて貴重な航空写真だ。少し解説を加えると、
         昆陽池の下(南西)に見える広大な工場は、住友電気工業伊丹製作所(現在の昆陽北1丁目)。
         昭和16年(1941)に操業を開始している。敷地面積は37万uもあるのだという。その南、画面右下
         の規則正しく建ち並んだ家々は、同社の社宅(昆陽泉町)である。
           一方、千僧今池の右、旧西国街道ぞいに、天神社(「千僧村」の氏神)の鎮守の森や、集落が
         見える(千僧2丁目)。画面中央の旧街道ぞい、白っぽく写っているのは、稲野小学校のグラウンド
         だ(昆陽1丁目)。その近辺には、「昆陽村」の集落が広がっている。そこは江戸時代、昆陽宿(こや
            じゅく)本陣のある宿場町だった。
           国道171号線と飛行場線が合流する画面左下。そこの国道ぞいに見える大きな森は、昆陽寺
         (寺本2丁目)である。
           上の写真に写っているその他の場所には、一面に水田が連なっているように見える。この地域
         は旧「稲野村」であるが、「稲野村」と「伊丹町」が合併して市制がしかれた昭和15年(1940)当時、
         「伊丹市」の人口は33,579人であった。現在(2007年)は19万人余りだから、当時の人口はほぼ6分
         の1だったということになる。
           それにしても、この貴重な航空写真は、忘れられた過ぎし日の光景を思い出させはしないだろう
         か。昔、伊丹市域にも、灌漑用の溜池(ためいけ)と水田地帯の織りなす、のどかで懐かしい風景が
         広がっていたのだと、しみじみ思う。


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【この『伊丹《再》発見』のページは、随時に追加していく予定です】