左=猪名野神社(宮ノ前3丁目)の境内に残る土塁。この場所に、有岡城の北の守りを固める
砦(とりで=出城)があった。右=神社の西側にある道路。この位置に、昭和の初めごろまで、
有岡城の外堀が残っていたという。その堀を越えた所(写真の右側=清水2丁目)は昔、「堀越町」
という地名だった。少し南に現存するバス停「清水橋」は、外堀にかけられた橋の名前であろう。
有岡城の南の守りを固めた砦跡(伊丹7丁目)。左の写真の石柱に、「鵯塚砦古跡」と
刻まれている。右は、同じ場所にある鬼貫の句碑。なお、この鵯塚(ひよどりづか)は高さ
8bの小山であるが、民有地のため、今はもう立ち入ることはできない。
左=『寛文9年(1669)伊丹郷町絵図』の一部分を接写。絵図の左下が有岡城本丸跡、
右上の森は猪名野神社。下(東)には段丘崖、上(西)には土塁らしき高まりが描かれており、
有岡城が“総構え”の城(町ぐるみの城塞)だったことを物語っている。右=有岡城“総構え”
の領域。本丸、侍町、砦、城下町すべてが土塁と外堀で取り囲まれていたという。
昭和54年(1979)12月、有岡城跡は「国の史跡」に指定された(3月答申)。先に本丸
跡で戦国時代最古とされる石垣が見つかり、その後、古絵図などの研究から有岡城が史上
初めての“総構え”だったことが判明したからだ。
それにしても、天正7年(1579)の落城から、満400年目の快挙である。以前は城の縄張り
すら判然とせず、完全に忘れられた存在だった有岡城跡が、市・県の指定を飛び越え、“3階級
特進”で「国指定史跡」の栄光に輝くのだから、その成り行きは誠にドラマチックであった。