伊丹《再》発見G    伊丹の歴史探訪をつづけます。 


     2011年12月、「いたみホール」(伊丹市立文化会館)に
         憧れのグレン・ミラー オーケストラが登場!!

                                                    (写真7枚)
                                         《平成24年(2012年)12月制作》

                       「いたみホール」(宮ノ前1丁目)。グレン・ミラー オーケストラが
                       ナマ出演した日、大ホールはあふれんばかりの超満員だった。

         「ムーンライト・セレナーデ」「真珠の首飾り」「茶色の小瓶」など、魅惑のサウンドが
        ボリューム一杯に……。  残念ながら、その演奏の場面を写真に撮ることは許されなかった
         けれど、不滅の名曲をナマで満喫することができた。よくもまあ、あのグレン・ミラー楽団が伊丹へ
         来てくれたものである。
           グレン・ミラーのえもいわれぬ見事なサウンドが世界を席捲したのは、昭和30年代(1955〜)
         のことであった。関西学院大学の学生だった筆者は、当時、レコードを何枚も買い込んだもので
         ある。折りしも、ジェームス・スチュワート、ジューン・アリソン主演の映画、『グレン・ミラー物語』が
         大ヒットし、それがブームに拍車をかけた。筆者がその映画を見たのは、社会人になったばかりの
         ころだったのだろうか。もう、半世紀以上も前だ。
               
           【グレン・ミラー(1904〜1944)】  アメリカのトロンボーン奏者で、スウィング・ジャズの
         作曲・編曲家。バンド・リーダー(指揮者)。独特のサウンドを生み出し、人気を博した。
           しかし、第2次世界大戦さなかの1944年(昭和19年)、軍用機もろとも、ドーハー海峡の空に
         消えたという。39歳の若さだった。不世出のミュージシャンであった彼が不慮の戦死を遂げたのは、
         惜しまれてならない。
               
           「いたみホール」でグレン・ミラーのサウンドに“再会”できたのは、2011年(平成23年)12月
         11日――。このとき筆者は76歳、妻は70歳になる直前だった。老夫妻が並んでグレン・ミラーに
         耳を傾ける機会に恵まれたのは、まことに幸運であった。

                
60年前、「いたみホール」の場所は、筆者の母校だった。

         その昔……、「いたみホール」の場所(宮ノ前1丁目)は、伊丹市立「東中学校」だった。
         筆者は昭和23年(1948)、伊丹小学校を卒業し、その東隣にある東中学校へ入学した。終戦
         直後に発足した新制中学校である。それまで青年学校などに使われていた古い校舎は、一部
         2階建て。講堂だけが2階にある、横板張りの小さな木造校舎だった。
           上の写真は、在りし日の東中学校だ。上段の2枚は撮影者不詳。上段左側のいちばん上の
         少年は筆者。右側は東中学校の正門である。下段の卒業記念写真は、「宮ノ前通り」にあった
         サクライ写真館が撮影。前から3列目の左端が、筆者である。
           いずれも昭和25年(1950)ごろの写真で、もうすっかりセピア色に変色してしまって
         いるが、あの木造校舎が懐かしい。
           しかし、昭和30年(1955)、東中学校は国道171号線ぞいの高台2丁目へ移転し、現在に
         至っている。北中学校の「北」に東中学校があるのは、そのためだ。
           なお、当初の東中学校の北側には、大きな酒蔵があったように思う。それらを含めた角地(伊丹
         小学校の東側)に、文化会館が設けられたのは、昭和38年(1963)のことだった。阪神大震災
         (1995)のあと、それが建て替えられ、現在、「いたみホール」となっているわけだ。
           それにしても、母校の跡地にある「いたみホール」で懐かしのグレン・ミラーに会え、また
         60年余り前の東中時代を回顧することができたのは、ことのほか有意義であった。


       2012  猪名野神社の神輿(みこし)
            ♪♪ 村の鎮守の神様の 今日は楽しいお祭り日 …… 
                                          (写真23枚)
                                     《平成25年(2013年)7月制作》

         3年ぶりに姿をみせたお宮さんの神輿(みこし)。拝殿・本殿の周りを巡回し、町中巡行へ…
        …(宮ノ前3丁目)。
2012年(平成24年)10月14日(日)、午後2時、猪名野神社の神輿が、3年
         ぶりに、その優美な姿をみせた。シャンシャンシャンと装飾金具の格調高い音を響かせ、神輿は威勢
         よく走る。いつ見ても、涙が出るほど感動的だ。

         前日(宵宮)から拝殿に奉納されていた神輿が、いざ出陣! 神主さんの祈祷を受けたあと、
         階段を下り、地面に降り立って境内を3周する。かつぎ手のいでたちは昔と変わらず、伝統の重み
         を感じさせた。

           【猪名野(いなの)神社のあらまし】 「伊丹郷町(ごうちょう)」の最北端(宮ノ前3丁目)に位置
         する、古くからの氏神。祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)。境内の総面積は11,309uで、全域が
         国の史跡に指定されている。この場所には、戦国時代、有岡城(摂津守・荒木村重の居城)の北の
         守りを固める砦(とりで=出城)があったからだ。神社の境内には、今も、当時(430年前)の土塁が、
         長さ100b以上にわたって残っている。
           有岡城は、史上初の“総構え”(町ぐるみの城塞)だった。その領域は、北は猪名野神社(宮ノ前
         3丁目)から南は鵯塚(ひよどりづか=伊丹7丁目)まで。淡路島の形状に似た、南北1.5`の高台の
         町が、そっくりそのまま有岡城であった。
           落城後の江戸時代、その同じ領域(城下町)が日本一の“酒造産業都市”として栄え、「伊丹郷町」
         と呼ばれた。小さな町でありながら、猪名野神社のたたずまいが立派なのは、伊丹が裕福な町だった
         せいだろう。
           境内に建ち並ぶ多くの石灯籠の中に、「坂上勘三郎」「文政十二年」(1829年)との刻字が見え
         る。同氏は、伊丹の銘酒「剣菱(けんびし)」の醸造元(オーナー)であった。「剣菱」といえば、2012年
         (平成24年)、猪名野神社のすぐ前にオープンした伊丹市立図書館「ことば蔵」は、「剣菱」の酒蔵の
         跡地である。その建物(4階建て)は白壁、黒い瓦屋根で、酒蔵をイメージしたような雰囲気だ。
           なお、猪名野神社の秋祭りの“主役”である神輿は、「伊丹郷町」が生んだ元禄俳壇のスーパー
         スター、鬼貫(おにつら/1661〜1738)の生家である造り酒屋の上島家から、江戸時代に寄進され
         たものだと伝えられる。そのとおりなら、文化財としての価値は高いと思われる。
           文化財といえば、『猪名野神社神幸絵巻3巻』が平成3年(1991)、伊丹市の文化財(歴史資料)
         に指定された。元禄16年(1703)から始まった、御神幸(おわたり)と呼ばれる時代パレードの様子を
         描いた絵巻物だ。その現物は、伊丹市立博物館に収蔵されている。

         神輿は境内を3周したあと、鳥居をくぐって町へ。 阪神大震災(1995年)で倒壊した鳥居や
         玉垣もすっかり装いを新たにし、参道には昔ながらの露店が並ぶ。そのにぎわいの中を、神輿は
         おごそかに近づいてきた。

         図書館「ことば蔵」の前を、「宮ノ前」のふとん太鼓が行く。 猪名野神社の門前町だった「宮ノ前
         通り」は昔、伊丹有数の商業ゾーンだったが、市街地再開発のため、大きく様変わりした。
           右の写真、神輿はふとん太鼓の横をすり抜け、にぎわいの中を足早に遠ざかって行った。次は
         いつ、神輿に会えるだろうか。

       【回想シーン】――神輿の出てくる風景(40年ほど前)
             以下の写真(12枚)は、いずれも昭和50年(1975)ごろに撮影したものである。

       ≪宮ノ前通り≫……猪名野神社の南側

         「宮ノ前通り」は、猪名野神社の鳥居の前から、現在の“みやのまち3・4号館”(宮ノ前再開発ビル)の
         前まで。昭和50年(1975)ごろまでは、この南北300bほどの通りに、背の高いアーケード(昭和28
         年〈1953〉完成)があった。かつては伊丹一の商店街で、誓文払(せいもんばらい)の日などには、近隣
         の市町村から大勢の買い物客が押しかけたという。
           上段と中段の、それぞれ右側の写真=画面の左に見える建物は、石橋家だ。現在は100b余り
         東(旧岡田家住宅の東隣)に移築されており、平成13年(2001)、「旧石橋家住宅」として県の有形
         文化財に指定された。
           中段の左=小東医院の前を行く「宮ノ前」のふとん太鼓(先代)。下段のモノクロ写真=「宮ノ前通
         り」の南の入口。「旧岡田家住宅」(国指定重要文化財)の100bほど西の交差点付近に位置した。
         なお、上段と中段の写真に写っている石橋家は、当時、このモノクロ写真のアーケードを北上して、す         ぐ左側、東向きに建っていた。

        ≪中央地区≫……「宮ノ前通り」の南側

         「中央地区」というのは、「宮ノ前通り」の南側で、大通りは現在、伊丹シティホテル(中央6丁目)
         付近まで伸びている。この地域には、昭和43年(1968)まで阪急伊丹駅(中央4丁目)同47年
         (1972)まで伊丹市役所(中央3丁目)や官庁街(中央6丁目)があったのだ。
           上段のタテ長の写真=中央2丁目の交差点付近。神輿の背後には、現在、伊丹シティホテル
         (昭和62年〈1987〉開業)がそびえている。上段の右=「植松」(伊丹6・7丁目界隈)の太鼓。今も
         ときたま、姿をみせる。中段の左=旧市役所前の大通り(現在の伊丹シティホテルの北側)。ふとん
         太鼓のそばを神輿が行く。
           中段の右のモノクロ写真=画面の左側に写っている、俳人・鬼貫(おにつら)の巨大な句碑(鬼貫翁
         240年祭顕彰句碑)が、中央2丁目の交差点わきにあった。≪この句碑の背後に、筆者は昭和60
         年(1985)まで住んでいた。画面の奥に見える土蔵は、筆者自宅の一部≫。現在、その巨大な句碑          は、JR伊丹駅前に移設されている。下段の右=右側の建物は、中央3丁目にあった「大手柄」酒造の         酒蔵。阪神大震災(1995年)で倒壊し、姿を消した。

           以上にみてきた「宮ノ前通り」も「中央のメーンストリート」も、現在は、歩道のある広い道路である
         が、昭和60年(1985)ごろまでは、写真で見るような狭い道幅だった。しかも、その沿道には、古色
         蒼然たる酒蔵や、古民家、土蔵なども残っていたのだ。伊丹の中心市街地でありながら、わずか30年
         ばかり前は、まだ、レトロな雰囲気に彩られた、古い町だったのである。


       黒田官兵衛は、430年前…、
       有岡城のどこに、幽閉されたのか?
                                          (写真など11枚)
                                     ≪平成25年(2013年)9月制作≫

           伊丹市内では、いま(2013年の夏〜)、戦国のヒーロー「黒田官兵衛」が脚光を浴びている        らしい。来年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の“主役”で、ドラマが始まれば、必ず        伊丹の有岡城(JR伊丹駅前)が出てくるはずだからだろう。
           しかし、官兵衛は捕らえられ、有岡城内に1年間も監禁されるのだ。ということは、有岡城主・荒木
         村重が間違いなく“悪役”だろう。それでなくても、村重は、戦国武将としてすこぶる評判が悪い。その
         負のイメージが上塗りされることはあっても、好転するとは思えない。
           にもかかわらず、伊丹で“官兵衛人気(?)”が盛り上がるのは、なんとも不思議な気がする。ある
         いは、黒田官兵衛が閉じ込められた牢獄が有岡城のどこにあったのか――に、関心が集まるの
         だろうか。

           ちなみに、2013年7月19日付の『朝日新聞』は阪神版で、8月1日発行の『広報 伊丹』は第1面
         で、黒田官兵衛に関連する記事を取り上げている。以下に、それらを転載させていただく。

           さて、筆者自身も、『軍師官兵衛』にあやかり、 
                  2013年8月21日(水)、伊丹における歴史講演会(サンシティ歴史講座「黒田官兵衛と         有岡城」)で、講師を務めさせていただいた。
           演題は「“総構え”の有岡城と黒田官兵衛」(1時間30分)、肩書きは「郷土史研究家」。会場
        は伊丹市立サンシティ・ホール(中野西1丁目)だった。内容は、「官兵衛は有岡城のどの場所に幽閉
        されたのか」を、中心ポイントとした。

           以下に、当日の資料(レジュメ)をそのまま転用したい。文章ばかりで、ずいぶん長いので、一部を
         中略した。なお、最後の部分に、筆者が推理して特定した、「官兵衛が幽閉されたと考えられる
        
場所(有岡城内)」の写真を、7枚載せておきたい。


                  “総構え”の有岡城と黒田官兵衛

           JR伊丹駅前にある有岡城跡は、郷土・伊丹の誇るかけがえのない歴史遺産です。しかし、「有岡
         城」という名称の城としては、わずか6年間という“短命”でした。にもかかわらず、有岡城が戦国史に
         名を残すのは、一体なぜでしょうか。
           それは、城主の荒木村重が主君の織田信長に叛旗をひるがえして籠城するという、ショッキングな
         出来事の舞台となったからでしょう。そのとき、村重が黒田官兵衛を捕らえて、有岡城に幽閉したこと
         も、衝撃的でした。
           今回は、来年(平成26年=2014年)に放映されるNHK大河ドラマ、『軍師官兵衛』(主演:岡田
         准一)にちなみ、
                (1) 有岡城のあらまし    (2) 有岡城を訪れた著名人たち
                (3) 黒田官兵衛が幽閉された場所はどこか――
         といった項目で、「黒田官兵衛幽閉のナゾ」に迫ってみたいと思います。

             (1) 有岡城のあらまし
           有岡城のルーツは、伊丹城であった。その歴史は古く、鎌倉時代に始まる。今から700年前、嘉元
         元年(1303)の史料に、「攝津國伊丹村」との記述があるので、このときすでに伊丹城の城下集落が
         形成されていたのであろう。この地の豪族・伊丹氏が250年もの長期にわたって本拠を構えた、JR
         伊丹駅前の有岡城跡の場所が、現在の伊丹市の“原点”ともいえよう。
           さて、天正2年(1574)、戦国の風雲に乗って頭角を現した荒木村重(1535〜1586)が、伊丹氏
         を倒して伊丹城へ入城。織田信長配下の摂津守(37万5千石の戦国大名)となり、「有岡城」と名を
         改める。村重によって新たに構築(改造)された在りし日の有岡城は、「本丸」と、その西側に連なる
         「侍町」や「城下町(町人町)」を、すっぽりと城壁(土塁と外堀)の中に包み込んだ、“総構え”の城で
         あった。
           その領域は、下の地図に示したように、北は猪名野神社(宮ノ前3丁目)から南は鵯塚(ひよどり
           
づか・伊丹7丁目)まで。淡路島の形状に似た南北1.5`の高台が、そっくりそのまま「町ぐるみの
         城塞」(“総構え”の城)だったわけだ。

           その高台は伊丹段丘の上に位置しており、有岡城の地形は、東端が高さ10b余りの天然の
         段丘崖だ。その崖の上(段丘面の東端)に「本丸」がある。崖の下には南流する水路があり、絶好の
         “外堀”となっている。崖の東側、猪名川までの幅200bほどの低地は、アシ(芦)の生い茂る湿地
         帯だったらしい。
           一方、西端は2b程度の高低差しかなく、防禦が心もとないので、段差の下(西側)に深い外堀
         を設け、掘った土を城側(段差の上)にうず高く積み上げて、土塁が築かれた。土塁の高さは、5b
         を越えていただろう。そうした外堀・土塁という凹凸2条の人工的な防禦ラインが、猪名野神社から
         鵯塚まで、およそ2`にわたって、長々と連なっていたようだ。
           こうして天正2年(1574)ごろに拡張・リフォームされた荒木村重の有岡城は、北と南、それに西の
         防禦ラインにも2カ所、さらに猪名川の西岸にも砦(とりで)を新設。しっかりとガードを固め、史上初め
         ての“総構え”の城に生まれ変わったのである。

           しかし、天正6年(1578)、村重が突如、主君の信長に反逆。黒田官兵衛が幽閉されたのは、この
         ときだ。1年後、信長の大軍に包囲され、天正7年(1579)、有岡城は落城する。官兵衛はそのとき
         救出された。その後、城は再興されず、廃城となる。「有岡城」という名の城は、6年余りの“短命”に
         終わったのだった。 

           それっきり、400年もの長い歳月が流れた。
           すっかり忘れられた有岡城の「本丸」の西北隅で、昭和51年(1976)7月、400年前の石垣
         発見された。国鉄福知山線の複線電化に伴う伊丹駅前再開発に先立って、緊急発掘調査が行われ
         た結果だった。
           こうして、昭和54年(1979)12月、有岡城は「国の史跡」に指定された。先に本丸跡で戦国時代
         最古とされる石垣が見つかり、その後、古絵図(『寛文9年(1669)伊丹郷町絵図』=下の図:右側が
         北)などの研究から、有岡城が史上初めての“総構え”だったことが判明したからだ。

           ちなみに、『信長公記』天正7年(1579)10月15日の条(有岡城落城の場面)は、「城と町との間
         に侍町あり。これをば火を懸け、はだか城になされたり」と伝える。この証言は、有岡城が「町全体」を
         城壁(外堀・土塁)の中に包み込んだ、“総構え”の城であったことを如実に物語る、きわめて貴重な
         史料といえよう。
           それにしても、有岡城跡の「国史跡」指定は、奇しくも落城から満400年目の快挙である。
 
        それまで完全に忘れられた存在だった荒木村重の有岡城跡が、市・県の指定を飛び越え、“3階級
         特進”でいきなり「国指定史跡」の栄光に輝くのだから、その成り行きは誠にドラマチックであった。

            【有岡城についての詳細は、下記のホームページをご参照ください】
                        ホームページ『伊丹の歴史グラビア』
                  (アドレス)  http://www13.plala.or.jp/adachiitami/
                               (「伊丹の歴史グラビア」でも検索できます)
                  (関連項目)  @有岡城跡    G伊丹の発掘……有岡城跡
                           伊丹《再》発見A……有岡城時代の「土塁」が現存
                           伊丹《再》発見C……有岡城時代の「中堀」が出土
                           30年目の有岡城跡

             (2) 有岡城を訪れた著名人たち
           有岡城に君臨する摂津守・荒木村重は、戦国武将である一方で、“利休七哲”の一人に挙げられ
         るほどの「茶の湯の達人」であり、また「キリシタンのシンパ(同調者)」でもあった。そのため、そうした
         人脈のビッグ・ネーム(著名人)が、しばしば有岡城を訪れている。

                  ≪中略(22行分)≫

            さて、いちばん最後に遅れてやって来たのが、本日の“主役”黒田官兵衛であった。彼が荒木
         村重に捕らえられ、城内の“土牢(つちろう)”に閉じ込められたのは、周知のとおりであろう。
           それから1年後の天正7年(1579)10月、有岡城落城のとき、家臣の栗山善助に救出された
         官兵衛は、左脚のヒザに障害が残り、歩行が困難になっていたという。その後の合戦のとき、彼が輿
         (こし)に乗って現れるのは、そのためだ。
            【黒田官兵衛(1546〜1604)】  姫路・御着(ごちゃく)城の小寺政職(まさもと)の家臣から、
         織田信長〜羽柴秀吉の軍師となる。三木城や鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めなどに大活
         躍。キリシタン大名。福岡藩主・黒田家の始祖となった。

           話を戻し、有岡城での幽閉シーンをもう少し詳しく――。
           天正6年(1578)9月、官兵衛33歳のとき、荒木村重謀叛(むほん)の報に接し、主君である小寺氏
         の命を帯びて有岡城へ。官兵衛は村重とは旧知の間柄であったが、謀叛をいさめる説得は成功せず
         捕らえられて幽閉される。
           それにしても、村重はなぜ、官兵衛を捕らえたのか――。一説には、小寺氏から「官兵衛が着いた
         ら、殺せ」との通報があったともいう。懇意の間柄だから、村重はそれに従わなかったのだろうか。ある
         いは、生かしておけば役に立つと思ったのかも知れない。いずれにしても、毛利の手が伸び、播磨や
         摂津の情勢が緊迫していただけに、その真相はわからない。
           帰ってこない官兵衛は村重方に寝返ったものと、信長は判断。人質に取っていた官兵衛の嫡男
         (10歳・松寿丸=のちの黒田長政:福岡藩黒田家初代藩主)を「殺せ」と命じた。しかし、竹中半兵衛
         が機転を利かせ、これをかくまったという。
           天正7年(1579)10月、有岡城は信長の大軍に攻め滅ぼされて、灰燼(かいじん)に帰した。官兵衛
         は救出され、松寿丸も無事だった。のちに黒田家の家紋が「藤巴(ふじどもえ)」となったのは、官兵衛が
         有岡城の牢獄から見た「フジ(藤)の花」の美しさに心をいやされ、そのことが忘れられなかったからだ
         と伝えられる。

             (3) 黒田官兵衛が幽閉された場所はどこか――。
                   猪名野神社の境内だったのではないだろうか。
           黒田官兵衛が投獄された場所については、有岡城の「西北」との説がある。そこには「森」があり、
         後ろは「池」だったらしい。このことを記した文章には出典が明記されていないので、いささか信憑性に
         欠けるが、どうであろうか。
           以下に、「西北」「森」「池」といったキーワードを手がかりに、最大の関心事と思える“官兵衛幽閉
         の場所”を推理し、検証してみることにしたい。
           “土牢(つちろう)”があったのは、城の「西北」といっても、まさか本丸内部の「西北」部ではないだろ
         う。有岡城の本丸は、わずか200b四方という狭さだった。現在はそのうちの東半分がJR伊丹駅や
         線路、道路などに姿を変えており、「西北」部には古い石垣や土塁が残っている。石垣の近くには、往
         時、荒木村重の居館があり、その南側(カリヨンのそびえる辺り〜タクシー乗場)には、築山に池を配し
         た本格的な日本庭園があったのだ。しかし、その庭園の「池」ではあるまい。
           村重は風流好みの“茶人”でもあったから、日本庭園の一画には、瀟洒(しょうしゃ)な茶室もあった
         ことだろう。その茶室に、千利休、今井宗久、津田宗及など茶の湯の巨匠を堺から招いて、村重はいく         たびとなく茶会を催しているのだ。そのような風雅な場所(本丸)に、官兵衛を監禁した無粋な“土牢”
         があったとは、考えられない。
           では、有岡城の「西北」とは、どこか――。本丸の「西北」の方角には、猪名野神社(宮ノ前3丁目)
         がある。そこは、“総構え”の有岡城の最北端。村重の居る本丸からは、700bばかり離れた地点だ
         が、間違いなく“城内”である。
           そこには当時、北の守りを固める砦(とりで)が設けられていた。その猪名野神社の境内には、今も
         有岡城時代の土塁が、幅5b、長さ100bにわたって残存しているのだ。
           この神社は江戸時代から、酒づくりで栄えた「伊丹郷町」の氏神で、境内は11,309uと広大で
         ある。土塁が残されているのは、拝殿・本殿に向かって左手。神社の敷地の西端から北端だ。その
         土塁の高さは現在3〜4bだが、古木の根っこが土塁の上に大きく露出していることからみて、官兵
         衛が幽閉された430年前、土塁は5b以上の高さに及んでいたことだろう。
           さて、当時、その土塁に横穴を掘り、“土牢”が造られたと考えられる。牢獄のスペースは、2〜3b
         四方ぐらいであったろうか。半地下式だったかも知れない。前面(開口部)だけが頑丈な柵(さく)で仕切
         られ、残る三方は分厚い土の壁だ。天井と床は、板張りだったろうか。空気の流れも感じられないよう
         な、狭くて湿っぽい「密室」に、官兵衛は閉じ込められていたのであろう。
           そうした劣悪な環境の中、官兵衛はどんな思いで1年間を過ごしたのであろうか。
           食事は朝夕の2回、与えられたらしいが、助け出されたとき、彼は左脚のヒザを痛め、頭髪が抜け
         落ち、痩(や)せ細っていたといわれる。

           猪名野神社は、今も松やクスノキなどの巨木が生い茂る“鎮守の森”である。土塁の外側(西)に
         あたるバスの通る幹線道路の部分には、当時、城の外堀(水濠)があったのだから、有岡城の「西北」
         「森」「池」といった条件に当てはまる。官兵衛の家臣・栗山善助がときたま、「池」を泳いで城内に忍び
         込んだと伝えられる「池」は、水量の豊かな城の外堀だったのに違いない。
           しかも、伊丹在住だった劇作家・香村菊雄先生(故人)の『荒木村重と伊丹城』(1983年刊)は、官
         兵衛幽閉の場所を、「城からは相当離れているらしく、人の声も聞こえない(中略)。野々宮砦の辺りで
         もあろうか」としているのだ。
           ここに出てくる「野々宮砦」は、猪名野神社にあった砦(出城)の名前である。「野々宮」は「猪名野
         の宮」(古くから猪名野にあったお宮)を縮めた表現で、同神社の旧称であった。
           こうしてみてくると、黒田官兵衛が閉じ込められた“有岡城の土牢”は、現在の猪名野神社の場所
         にあった――とみて、ほぼ間違いないのではないだろうか。

           ここまでが、受講者の皆さんに配布した資料である。 以下に、補足として、関連する写真を
                                               7枚、掲載しておきたい。

         ▼筆者が推理して特定した、「黒田官兵衛が幽閉されたと考えられる場所」
                              (有岡城内=猪名野神社の境内=宮ノ前3丁目)

         猪名野神社の境内に残る有岡城時代の土塁(宮ノ前3丁目)。古木の根っこが大きく露出して
         いることからみて、430年前の有岡城在りし日、土塁はもっと高く、5b以上はあっただろう。
           しかも、当時の土塁は法面(のりめん)も崩れておらず、垂直に近い状態だったはずだ。その土塁に
         横穴を掘り、牢獄が設けられたのではないだろうか。まさしく“土牢”である。

         有岡城本丸跡から700b離れた、「西北」の方角に位置する猪名野神社(宮ノ前3丁目)。
         土塁は拝殿・本殿の左手にある。その昔、この場所には、北の守りを固める砦(とりで)があった。むろん         そこは“総構え”の有岡城の“城内”だ。現在も、境内は閑静な鎮守の「森」である。     

         土塁の外側(西)にある道路は、昔、有岡城の外堀で、堀の向こう側は「堀越町」という地名
         だった。
黒田官兵衛の家臣が泳いで城に忍び込んだと伝わる「池」は、ここにあった外堀(水濠)だ
          ったのかも知れない。
            これで、「城の西北」「森」「池」といったキーワードに、すべて合致するともいえよう。

         猪名野神社のある「鎮守の森」全景(宮ノ前3丁目など)。旧「伊丹郷町」の最北端で、戦国時代
         には、ここに有岡城の砦があった。神社の境内に今も土塁が姿をとどめているのは、そのためだ。
             それにしても、黒田官兵衛が伊丹で過ごした1年間は、いったい何だったのであろうか。


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