俳聖・鬼貫(おにつら)――生誕350年
(写真27枚)
《平成25年(2013年)8月制作》
伊丹生まれの俳人・鬼貫――。その墓は、伊丹シティホテルのすぐ南、墨染寺(ぼくせんじ/
曹洞宗)の境内にある(中央6丁目)。墓は「故郷墓」で、6歳で夭逝(ようせい)した長男の墓に、
78歳で没した鬼貫の遺髪、分骨を納めたものだという。
「鬼貫」といっても、もはや、知名度はさほど高くないのかも知れない。しかし、その昔、鬼貫は
芭蕉と並ぶ、元禄俳壇のスーパースターだったのである。
【上島鬼貫(うえしま・おにつら/1661〜1738)】 江戸時代前期の俳諧師、俳諧宗匠。寛文
元年(1661)、「伊丹郷町(ごうちょう)」の造り酒屋に生まれた。生家は前記した墨染寺の100bほど
北(中央3丁目)にあり、清酒「三文字」を醸造する、伊丹を代表するメーカーであった。
鬼貫はその上島家の御曹司(おんぞうし)。三男だった。幼少のころから、近くにあった俳諧塾・也
雲軒(やうんけん)に入り、腕を磨いたという。その後、大坂へ出て、談林派の総帥・西山宗因(1605〜
1682)に師事。25歳のとき、「まことの外(ほか)に俳諧なし」と大悟し、新境地を開く。その翌年、45
歳の松尾芭蕉(1644〜1694)が「古池や――」の句で開眼しているわけだから、鬼貫の方が先覚
であったといえよう。
こうして、「まこと」の俳諧を標榜する鬼貫は、「わび」「さび」の芭蕉とともに、元禄俳壇の最右翼を
占めた。「東の芭蕉、西の鬼貫」――というのが、当時の世評だったという。ちなみに、2011年(平成
23年)は、鬼貫翁の「生誕350年」であった。
なお、鬼貫が大坂の絵師・大岡春卜(おおおか・しゅんぼく/1680〜1763)と共作した、『鬼貫賛春
卜画四季花の画巻』は、伊丹市立博物館に所蔵され、市の文化財(歴史資料)に指定されている。画
巻物は享保14年(1729)の作で、極彩色の見事な長巻(幅1尺×長さ36尺)だ。
三井住友銀行伊丹支店の場所(中央3丁目)が、「鬼貫出生の地」だった。そこには昭和
時代の中期まで、上島家の酒蔵があったのだ。 上段のモノクロ写真の、右奥に見える白壁
の建物が、その酒蔵である。
昭和29年(1954)、この場面を撮影したとき、筆者は県立伊丹高校の3年生。火災で焼失した
伊丹市役所(当時・中央3丁目)の跡地を、西側から撮ったものだ。当時の市役所は現在の伊丹シティ
ホテルの北側にあり、細い道をへだてた、その東隣に酒蔵があったわけである。
昭和38年(1963)、その場所は住友銀行となり、通りに面して鬼貫の句碑が建てられた。中段
の左側=「にょっぽりと秋の空なる富士の山」の句とともに、「鬼貫出生の地」と、彫り刻まれている。
中段の右側=句碑の裏面。昭和38年1月、鬼貫の旧宅跡に支店を設け、句碑を建てる、との趣旨
が刻まれている。
下段の2枚は、平成23年(2011)にリニューアル・オープンした三井住友銀行の伊丹支店だ。
元禄14年(1701)9月、赤穂浪士の大高源五が、伊丹の鬼貫宅を訪ねた。そのときに詠んだ
二人の句が、支店前の句碑に……(中央3丁目)。その日は、浅野内匠頭(たくみのかみ)の殿中
刃傷事変から6カ月後のことだった。箕面(みのお)に同志の萱野三平を訪ねた帰路、源五は伊丹に
立ち寄り、鬼貫と伊丹の銘酒を酌(く)み交わしながら、句会を催したという。
上の写真は、左が鬼貫の句、右が大高源五の句だ。互いに相手の名前を詠み込んだ、交歓句碑
である。現在、この句碑は、三井住友銀行伊丹支店の西側に移設されている。
【大高源五(おおたか・げんご/1672〜1703)】 「赤穂四十七士」の一人。討入りに際し、吉良
邸の動静をさぐる役目を果たしたといわれる。
俳諧をたしなんだ。俳号は「子葉(しよう)」。伊丹を訪れたときに詠んだ句は、「一日は鬼貫にとめら
れて」の詞書(ことばがき)とともに、『ニツの竹』(大高子葉遺作集)に収められているという。
昭和53年(1978)、伊丹市内で「鬼貫翁240年祭」が盛大に……。幅3.2bの巨大
顕彰句碑が登場した(中央2丁目⇒伊丹2丁目)。 句碑は最初、伊丹シティホテル前の交差
点わき(中央2丁目)に建立された。そこは、「鬼貫出生の地」の50b余り西、墓のある墨染寺の
100bほど北だ。付近には6年前の昭和47年(1972)まで市役所があり、10年前の同43年(19
68)まで阪急伊丹駅があったのだから、伊丹で一番の目抜き通りである。
その句碑は、高さ2.7b(別途礎石の高さ1b)、幅3.2bという、ジャンボ・サイズの黒御影
石だ。当時は鬼貫研究の第一人者だった岡田利兵衛先生(故人・元小林聖心女子大学教授/
元伊丹市長)もご健在で、句碑は先生によって除幕された。上の写真の中段右側=マイクを持って
いる人が、岡田先生である。
しかし、そこに巨大な顕彰句碑が登場してから、わずか7年後の昭和60年(1985)、句碑は
移転を余儀なくされた。伊丹第一ホテル(昭和61年開業/伊丹シティホテルの前身=中央6丁目)
の建設に伴う市街地改造で、句碑のある場所に、伊丹市農協(現JA)が移設されることになったから
だ。そのあおりを受け、記念のモニュメントである大型顕彰句碑は、いま、JR伊丹駅前の陸橋わき
(伊丹2丁目)へ追いやられている。上の写真の、下段の2枚が、それである。
なお、私事で恐縮ながら、筆者は昭和60年(1985)まで、中央2丁目にあった大型句碑の背後
に住んでいた。先祖は江戸時代から、「伊丹郷町」で酒樽づくりを家業としてきた。屋号は「樽文(たる
ぶん)」だったという。上段や中段の写真=画面の奥に見える白壁の土蔵は、筆者自宅の一部であ
る。市街地改造のあおりを受けて、句碑はJR伊丹駅前へ押しやられ、筆者は春日丘4丁目へ“都
落ち(?)”を余儀なくされたのだった。
与謝蕪村が描いた鬼貫の肖像画が、伊丹小学校前の句碑に(船原1丁目)。上の写真が、
それだ。その原画は、蕪村(1716〜1783)作の『俳仙群図会』(伊丹市指定文化財)で、伊丹の
俳諧コレクション・柿衞(かきもり)文庫に収蔵されている。
小学校前の句碑に彫り刻まれている句は、「行水(ぎょうずい)のすてところなし虫の声」。鬼貫の
作では、この句がいちばんよく知られていよう。
160年前に建てられた鬼貫の句碑が、「伊丹郷町」の氏神・猪名野神社の境内に(宮ノ
3丁目)。 句碑は、古色蒼然たるおもむきだ。碑の裏面(右の写真)には、「嘉永七年甲寅初秋」
(1854年)とある。嘉永年間といえば、ペリーの黒船が来航した時代である。
左=昆陽池(こやいけ)公園にある鬼貫の句碑(昆陽池3丁目)。 「月なくて昼ハ霞むやこやの
池」――大きく埋め立てられる以前の、昆陽池の広大なさまを詠んだ句だ。この句は元禄元年(16
88)、鬼貫27歳のときの作である。
右=荒村寺の境内にある鬼貫の句碑(伊丹2丁目・JR伊丹駅前=有岡城跡)。 「古城
(ふるじろ)や茨くろなる蟋蟀(きりぎりす)」――落城したあとの、有岡城跡の荒涼たるさまを詠んだ句だ。
ちなみに、江戸時代、「蟋蟀(きりぎりす)」とは、コオロギのこと。現代のパソコンでコオロギと打てば、
「蟋蟀」の文字が出てくる。
このように、伊丹生まれの鬼貫には、ふるさとの風物を詠み込んだ作品があり、それが句碑として
残されているのは、うれしい。上の俳句に詠まれた昆陽池は、奈良時代の高僧・行基(668〜749)
が築いた灌漑用水池だ。阪神間で最大といわれた巨大な池だったが、昭和40年代(1965〜)に大き
く埋め立てられ、その水面は往時の3分の1ぐらいになった。それでも、現在は渡り鳥たちが飛来する
風光明媚な人気スポットである。
一方、有岡城は、織田信長配下の戦国武将で、摂津守だった荒木村重(1535〜1586)の居城
だ。城は天正7年(1579)、灰燼(かいじん)に帰したのであるが、史上初めての“総構え”(町ぐるみの
城塞)だったことから、その城跡は落城から満400年目の昭和54年(1979)、国の史跡に指定され
た。昆陽池も、有岡城跡も、伊丹の誇るかけがえのない歴史遺産である。
芭蕉と鬼貫が“そろい踏み”した珍しい句碑が、エベッさんで知られた、西宮神社の境内に
現存(西宮市社家町)。 表大門(赤門)を入ってすぐ右側、松の樹林の手前にある。彫り刻まれて
いる句は、右に芭蕉の「はるもやゝけしきとゝのふ月と梅」、左に鬼貫の「にょっぽりと秋の空なる富士
の山」……。二人の巨匠が、一つの石に“同居”しているのだ。
碑は170年も前の天保14年(1843)、伊丹の俳人・郷土史家だった梶曲阜(かじ・きょくふ/1798
〜1874)によって建立された。梶さんは、芭蕉と並び称せられた郷土の偉大なる先輩・鬼貫翁をたた
え、エベッさんの境内に、この句碑を建てたのであろう。東西の俳聖が同じ石に“そろい踏み”する図
は、まさしく圧巻といっても過言ではない。