B伊丹郷町  江戸時代に酒づくりで栄えた旧市街地

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              伊丹有数の商店街だった宮ノ前通り。猪名野神社は伊丹郷町(いたみごうちょう)
              氏神で、「宮ノ前」はその門前町として発展した(宮ノ前1・2丁目)
                         〔小さい写真の上をクリックすると、画像が大きくなります〕

            JR伊丹駅と阪急伊丹駅との間を南北に走る産業道路の界隈は、江戸時代、日本一の
          “酒造産業都市”として栄えた。“総構え”だった有岡城の廃絶後、その城下町がそっくり
          そのまま、江戸積酒造業の町として、華麗なる変身を遂げたのだ。そこが、「伊丹郷町」で
          ある。郷町とは、地方の商工業都市という意味であった。
            伊丹郷町は、寛文元年(1661)、五摂家筆頭・近衛家の領有地となった。領主の庇護の
          もと、酒づくりに拍車がかかり、かつての城下町にズラリと酒蔵が建ち並ぶ。
            当時、伊丹で醸造される清酒は「剣菱」「白雪」「老松」などが有名ブランドで、合わせて
          20万樽(72g入り)が毎年、伊丹郷から江戸へ出荷されたという。
            産業道路は古くから「本町通り」、猪名野神社の門前は「宮ノ前通り」と呼ばれた。付近
          一帯は現在の伊丹市の中心市街地であるが、昭和50年(1975)ごろまでは、その界隈に
          古き佳き時代の面影が色濃く残されていたのだった。   

             左=猪名野神社の大鳥居の前から南へつづく宮前商店街(宮ノ前3丁目)。
             右=宮ノ前通りにあった医院。歴史あるこの医院の土間には、以前、人力車が
             停めてあった(宮ノ前2丁目)

        左=産業道路の周辺(北方を望む)。左側の白い建物は、清酒「白雪」醸造元・小西酒造の
        本社(中央3丁目・伊丹2丁目)。右=産業道路の上方からJR伊丹駅方面を望む。付近には
        まだ、高層ビルは建っていない(伊丹2丁目)

          左=南側から猪名野神社方面を望む。右=西側からJR伊丹駅方面を望む。どちらの
          写真も、酒蔵や寺院や町屋などの黒いイラカが連なっている。伊丹郷町の昔をしのばせる
          “原風景”ともいえようか(中央3丁目)

          左=伊丹郷町の面影を残す「白雪」長寿蔵前の通り。平成2年(1990)までは、この
          ような狭い道筋だった。右=清酒「大手柄」を醸造する大手柄酒造の南蔵。この道の
          先に、長寿蔵や産業道路、JR伊丹駅がある(中央3丁目)

              酒蔵のある風景。一歩裏通りへ入ると、江戸時代にタイムスリップしたような
              懐かしい光景が残されていた(伊丹2丁目)

             左=旧伊丹町の中心を示す「伊丹町道路元標」。産業道路に面した小西酒造
             本社の北東角にある。付近は昔、「本町」という地名だった(中央3丁目)。
             右=「北ノ口」の坂の上(池田道)にあった常夜灯。そこには、「能勢山妙見宮」
             「寛政四年」(1792)と彫り刻まれていた(北本町1丁目)

             伊丹郷町の区域内には、昭和50年(1975)ごろまで、珍しい地名(小字)が
             数多く存続してきた。左=「伊丹外城」と記された町名標識。外城(とじょう)は、
             有岡城の出城を意味する地名であろう。右=「大坂道」と呼ばれた古い街道。
             この道の近くに、有岡城の南の守りを固めた出城(鵯塚砦=ひよどりづかとりで)が
             あった(写真はいずれも伊丹4丁目)

             左=墨染寺にある俳人・上島鬼貫(1661〜1738)の墓。伊丹生まれの
             鬼貫(おにつら)は、「東の芭蕉、西の鬼貫」と謳(うた)われたほどの、元禄俳壇の
             スーパースターであった(中央6丁目)。右=「鬼貫翁240年祭」の一環として、
             昭和53年(1978)、巨大な顕彰句碑が建立された。右端は、その除幕式で
             祝辞を述べる岡田利兵衞先生(故人)。先生は鬼貫研究の第一人者で、元伊丹
             市長だった(中央2丁目)

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             柿衞文庫の庭に実る「頼山陽遺愛の柿」。台柿(だいがき)と呼ばれる珍しい柿で、
             渋柿だという。岡田利兵衞先生の収集遺品を主体とする同文庫は、日本3大俳諧
             コレクションの一つだ。先生の雅号である「柿衞(かきもり)」は、柿を衞(まも)るという
             意味であった(宮ノ前2丁目)

             左=伊丹第一ホテル(当時)前の交差点わきにあった「鬼貫翁240年祭・顕彰
             句碑」。高さ2.7b、幅3.2bの超大型だ。碑陰には、岡田利兵衞先生の撰文が
             刻み込まれている。右=昭和60年(1985)、市街地改造のため句碑は撤去。
             JR伊丹駅前の「古城橋」の南側へ移された。後ろの建物は、旧伊丹市役所。昭和
             47年(1972)まで、市役所は中央3丁目にあった(中央2・3丁目)

        左上=伊丹歴史まつりのパレード(中央2・6丁目)。右上=パレードには有岡城主「荒木
        村重」や正室「だし」も登場。阪急伊丹駅は昭和43年(1968)まで、この通りに面した中央
        4丁目にあった(中央1・4丁目)。下=旧家の前をお馬が通る(伊丹3丁目)

            左=お地蔵さんのまつられた路地裏。昔日の風情が感じられる。右=表通りに
            面した古い建物の下をくぐると、その向こうにも路地がつづいていた(伊丹3丁目)

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            古色蒼然たる伊丹郷町特有の路地裏。新しいマンション(アリオ=JR伊丹駅前
            再開発ビル)との対比が絶妙だ(伊丹2・3丁目)

       左=手前から法巖寺、正善寺、大蓮寺と並ぶ、三軒寺前の通り(中央2丁目)。右=狭い
       道幅だったJR伊丹駅前の通り。奥に見える再開発ビル(アリオ)が完成したのは、昭和63年
       (1988)のことだった(伊丹1・2丁目)
         一方、宮ノ前地区の再開発は長期間に及んだ。伊丹アイフォニックホールだけは平成3年
       (1991)に完成したものの、道路の拡幅、“新”飛行場線の新設、地下駐車場、残りの3棟など、
       すべての事業が完了したのは、平成13年(2001)であった。

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