F西国街道  京都と西方の国々を結ぶ幹線ルート

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             西国街道と多田街道が交差する地点にある「辻の碑(いしぶみ)」。自然石の
             道標で、「從東寺拾里」(とうじよりじゅうり=京都の東寺から約40`)と刻まれて
             いる。その付近の旧地名は、「伊丹市北村字辻村」だった(北伊丹1丁目)

           西国街道(さいごくかいどう)は、京都と西国を結ぶ旧街道である。京都・東寺を起点とする
         このルートは、山崎(大山崎町)、芥川(高槻市)、郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、昆陽(伊丹
         市)の宿駅を経て、西宮へ至る脇往還であった。
           この往年のメーンストリートである歴史街道は、伊丹市域では、下河原→北村→大鹿(おお
         じか)→千僧(せんぞ)→昆陽(こや)→寺本→山田の村々を通る。途中の難所は猪名川の渡し
         (軍行橋付近)と、伊丹段丘を上り下りする伊丹坂ぐらいのもの。あとは武庫川まで、ほぼ平坦
         コースだ。
           現在は、軍行橋の辺りや昆陽寺付近で国道171号線に重なっているが、おおむね国道の
         南側に並行する、狭い旧街道がそれである。

             左=伊丹坂。「辻の碑」のすぐ西、伊丹段丘の東端にある急勾配の坂で、寛政10年
             (1798)の『摂津名所図会(ずえ)』にも描かれている(春日丘6丁目)。右=「芭蕉翁
             あゆみの地」と刻まれた緑色の石碑。松尾芭蕉(1644〜1694)は貞享5年(1688)、
             取材旅行中に、この西国街道を歩いた(北伊丹5丁目=猪名川西岸堤防)

        左=紫竹(しちく)の群生する竹塚。昔、布教のため西国街道を通って大鹿村にさしかかった
        大覚大僧正(1297〜1364)が、旱魃(かんばつ)で困り果てていた村人たちのために恵みの
        大雨を降らせたと伝えられるが、この竹塚に生える竹は、そのとき大僧正が手にしていた紫竹の
        ツエが根を張って成長したものだという。右=「雨乞い伝説」に彩られた妙宣寺。写真は建て
        替えられる以前のものだが、このお寺の前に、竹塚はある(大鹿4・5丁目)

            左=西国街道と有馬街道との交差点に建つ道しるべ。大鹿交流センターの前にある。
            「すぐ中山・ありま」「すぐ京」と彫り刻まれているが、「すぐ」とは、「まっすぐ(行くと)」の
            意味だ。松尾芭蕉や伊能忠敬らも、この道しるべを見ただろうか(大鹿3丁目)。右=
            街道ぞいの松並木が影を落とす千僧界隈(千僧3丁目)

             築地塀(ついじべい)のある街道筋に松の巨木。千僧村の氏神である天神社の前に、
             村のランドマークともいうべき大きな松の木がそびえていた。だが、近年、その松は
             姿を消し、もう写真のような風景を見ることはできない(千僧2丁目)

       左=千僧1丁目にある伊丹市立博物館展示の航空写真(1956年撮影)を接写。長グツの形を
       した池が「千僧今池」である。その池は昆陽池の南の堤防に接していたのだが、現在は埋め立て
       られ、浄水場、国道、市役所、博物館、図書館、中央公民館などに姿を変えている。西国街道は、
       その南側を北東から南西へ延びている。右=宿場町の面影を残した昆陽界隈(昆陽6丁目)

       この付近に、西国街道の昆陽宿(こやじゅく=江戸時代の宿場町)があった。その場所は、稲野
       小学校の少し西だ。天保14年(1843)、昆陽宿は本陣1、旅籠屋(はたごや)7、公用人足25人、
       馬25頭の規模を誇ったという。しかし、もはやその痕跡は残されていない(昆陽5・6丁目)

              左=仁王像が警固する昆陽寺の山門。右手に見える鐘楼は、『今昔物語』にも
              出てくる(寺本2丁目)。右=師直塚(もろなおづか)昆陽里交差点の西、国道171号線
              ぞいにある。観応2年(1351)に武庫川べりで討ち死にした高師直(こうのもろなお
              足利尊氏の側近)を悼(いた)み、大正4年(1915)、山田村の村人たちが建てた供養
              碑だという(池尻1丁目=元山田村の領域)

         伊丹郷町(中心市街地)は昭和40年代以降、めまぐるしく変化したが、この西国街道の沿道には、
       ゆっくりと“時”が流れた。そのため、平成時代になっても、江戸時代にタイムスリップしたような昔日の
       風情がただよっていたのだった。
         ところが、平成7年(1995)の阪神大震災で様相は一変する。古い長屋門や築地塀、土蔵などの
       ある歴史的景観の多くが、一瞬にして失われたのは、惜しまれてならない。

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