魚菜王国いわて

リーズングについて

私はできるだけ理由付けを行って、文章を書いているつもりです。
ただ闇雲に書いていたのでは、それほど読む価値もなく、読んだとしても、ただの時間の無駄でしかありません。
私自身読書した時に、「時間の無駄だった」と思うこともよくあり、読む本も、そんな後悔を生むような選択はしないようにできるだけ心がけています。
残念ながら、私は速読の才能もないのです。
ですから、無駄な時間を費やした読書というのは、できるだけ避けたい。
そんなわけで、「風が吹けば桶屋がもうかる」的な書き方になっていると思います。

題名の「リーズニング」ですが、これは「学問道場」の「今日のぼやき」からの紹介となります。
有料情報ですが、大事なことなのであえて載せたいと思います。
その前に速読について、ちょっと・・・・。

今年医大(それも自治医大)を卒業した従妹は、ただページをめくっているだけのようなスピードで読書します。
とても真似できる芸当ではなく、やはり生まれた時点ですでに、ある程度の頭の良し悪しはできあがっているのかもしれません。
あんな読書の仕方を見せつけられると、“努力”なんて言葉は、貧弱な頭脳を持ったもののために存在するもので、“慰め”とか“励まし”とか、そういう意味が背後に感じられてきます。
東大卒で、大蔵省なんかにいる官僚群は、ほとんどそんな感じで読書できるんだそうで、やはりエリートというのは、すごいんだなあ、と思います。

みなさんの中には、「東大出だろうが京大出だろうが、罪人もいるし、ヘマもするだろう」と反論する人もいるかもしれません(方向が違う反論って、よく聞くんですよね。こうなると議論になりませんよね)。
しかし、個々の生み出す論というのは、知識あってのもの。
元々の知識無くて、それから生まれる論というのは、たかが知れているものでしかありません。
日本を代表するエリート層は、この速読から獲得する膨大な知識量に裏付けられて、論理展開するわけで、それに対し、私のようなものすごく低レベルの人間が太刀打ちできるわけがありません。
やはり血筋か!

この血筋や先ほどの「東大出だろうが京大出だろうが、罪人もいるし、ヘマもするだろう」には、実は学問があるんです。
これも、「学問道場」の「今日のぼやき」でやっています。
当然、寄稿者は副島隆彦先生です。

その論文は「ネイティビズムと ビヘイビアリズム」という題名で、それを端的に説明している文章をちょっとだけ引用します。

ネイティビズムとは、「人間は、生まれつき(生来)、その能力や性質が、決まっている」と考える立場である。生来決定論と言ってもよい。ルネ・デカルトが、この学派の創始者の一人とされる。
もっとさかのぼると、アリストテレスが、この学派である。だから、近代の自然法派( natural law ナチュラル・ラー、 自然界の法則と同じように、人間界にも自然の掟があるとする派)もここにつながる。中世のノミナリスト(個物派)もすべてここだ。だから、ヘーゲルも、ニーチェも、ハイデガーなどの、個物派系の思想家たちも、こっちだ。
個人の能力は、それぞれ、生まれながらに決定されている、とする。このネイティビズムの立場では、生まれた後の、環境や、教育によっても、その人は、ほとんど変らない、とする。
それに対して、ビヘイビアリズム「行動科学主義」の立場では、「人間は、生まれた時は、真っ白な紙( tabla rasa ,タブラ・ラサ)である。それが、環境と教育の力でどんどん書き込まれて、改善されて行く。人間は、より優れた人物になることができる」という思想である。これは、ジョン・ロックの思想(ロッキアン)の系譜とされる。さかのぼれば、プラトンのイデアリズム(理想主義)にまでゆくだろう。
このビヘイビアリズムが、現在のリベラル派の思想の土台であることは、分るだろう。それに対して、ネイティビズムが、保守派の思想である。私は、当然、ネイティビストである。
(「今日のぼやき」053)

従妹と私との速読の差をどうにもならないもの、と考えれば、ネイティビズムの立場で、この速読の差は努力で解決できるもの、と考えれば、ビヘイビアリズムとなります。
読書の速さは、ある程度読書量を積めば速くなりますが、ただページをめくるだけのスピードで読むのはとてもじゃない、できない。
これは生まれながらの才能というしかないと思います。

「東大出だろうが京大出だろうが、罪人もいるし、ヘマもするだろう」の罪人についてですが、現実社会ではその通りのことが頻繁に起きたりして、テレビのニュースや新聞紙上を賑わしています。
例えば、医者が患者の全裸写真を撮ることを趣味にしていたとか、警察官が悪さをしたとか。
学歴の高い人たちや権力のある人たちがこんなことをすれば、批判の格好のターゲットとなります。
が、ネイティビズムの立場で言えば、どんな世界あるいは社会でも、ある一定の犯罪気質をもった人がいるわけで、それは何も不思議ではない、仕方がないものだ、となるわけです。
考えてみれば、そうなんですよ。
同じ人間でも頭の中身は違うし、当然性格も違う。
好き嫌いも違うし、趣味や性癖も違う。
ということは、医者であろうと、政治家であろうと、野球選手であろうと、どんな社会の人間でも、問題を起こす人が出現する確率はゼロではない。
このことは、その後の「今日のぼやき」で書いています。

ネイティビズムの掟みたいな「バカは所詮バカで、エリートを越えることはない」のは、知識を獲得しようとする領域での話に限定していいんじゃないかなあ、と私は思っています。
今の日本では。
というのは、ここでようやく触れる“リーズニング”についての話に理由があるからです。
“リーズニング”は字のとおりで、しっかりした理由付けをして論理展開していくことです。
再び「今日のぼやき」から引用します。

日本は近代社会ではない、デモクラシーの国ではない、というのは、英語で平易に欧米人、東アジア人と話していればすぐに分かることだ。彼らは必ずそう言う。日本国内でだけ嘘をついて信じ合うのは、もう、みんなやめにしましょう。私たちは、正直でなければならないのです。勉強(学問)の基本は、正直であること、です。
まっすぐな気持ちで、簡単な事実を、正確に組み立てながら、どんどん、思考(考える)して、リーズニング(reason=理性?  reasoning、「なぜならば、こうなって、それで、こうなって、、なぜならば、こうなって」と考えを筋道に添ってずっと続けてゆくこと)してゆくこと、だからです。リーズニングということさえ誰も習っていない。
(「今日のぼやき」274)

この「今日のぼやき」274は、今年になってから読んだことを告白しておきます。
「今日のぼやき」はすでに650を越えていて、ダウンロードは全部してあるんですが、何しろ不勉強ですから、まだ半分ぐらいまでしか読んでいません。
そんなわけで、私は274を読む以前から、勝手にリーズニングして、「漁師のつぶやき」を書いてしまっていたわけです。
引用した文章を読むと、断片からわかると思うんですが、副島さんは、日本の知識人といわれる連中が欧米から誤った知識を移入したから、その時点ですでにウソだらけで、その後の論理展開もリーズニングなしの理解不能で、その結果、“ダメ論”を私たち一般人に公表しているのだ、と常々書いています。
だから、引用文の冒頭の「日本は近代社会ではない、デモクラシーの国ではない、というのは、英語で平易に欧米人、東アジア人と話していればすぐに分かることだ。彼らは必ずそう言う。」がでてくるのです。

一般に学歴の高い公務員の人たちは、「融通が利かない」とよく言われます。
法律に縛られていますから、ある程度その辺を勘案しても、やはり「融通が利かない」のは事実です。
これはリーズニングができていないからではないでしょうか。
その公務員の中にも、仕事ができる人もいたりしますが、その人こそ、リーズニングができているのです(たぶんですよ)。
でも、そんな人はきっと少数だと私は思います。
そんなわけで、今のところ、私たちのような低レベルの人間にとって、このリーズニングの鍛錬こそが、ネイティビズムで遅れをとった知識領域の狭さを挽回できる手段なのです(“挽回”という意味は、ビヘイビアリズムの立場を表すものです。だからネイティビズムだけがいいというものでもなく、両方あってちょうどよいのです)。

もっともわかりやすい「風が吹けば桶屋がもうかる」的思考は、三段論法だとよくバカにされたりしますが、これは学問をするうえでの、最も基本な了解事項で、なおかつ、一般人を理解させるための思考法なのです。
(2005年5月8日)



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