魚菜王国いわて

世界の神様(人口と資源-1)

「神のみぞ知る」
よく聞く言葉ですね。
神様しか知らないことが、この世の中ほとんどです。
なぜ神様は、人間にもっと教えてくれないのでしょう。

ユダヤ教の巻
聖書には、なぜか旧約と新約がありますが、私は「読め!」と言われても読む気になれません。
中学時代だったか、一人の同級生が、旧約と新約の両方が載った分厚い本を手元に置き、読んでいたのを記憶しています。
その時、私はちょっと拝見させてもらったのですが、物語がたくさんあるような感じで、私にはその物語が面白くない。
彼は物語の断片だけを語ってみせ、得意がっていました。

旧約聖書というのは、ユダヤ教の“聖書”であって、新約聖書は、キリスト教の聖書です。
有名な「モーセの十戒」は、旧約聖書、厳密に言えば、書いてあるのはタナクという書物だそうですが、私たちにはどっちでもいい問題です。
そのモーセが、イスラエルの神様から啓示を受け、当時、エジプト王のもとに囚われの身となっていたイスラエル人を、カナンという地へ導きました。
しかし、そのカナンにも人はすでに住んでいます。
この神様は、イスラエル人に対し、非常に肩を持っています。
ちょっと引用します。

イスラエル人はヨルダン川の東に天幕を張って住みつき、対岸の町エリコはカナンの中心地である。エリコを攻め落とせば、約束の地に入ることができる。もちろん神の言葉がおごそかに告げられた。
「カナンの地に入り、その住民をすべて追い払い、すべての偶像を粉砕し、異教の祭壇をこわしなさい。そして、あなたたちはそこに住みなさい。私があなたたちにその土地を与えよう」
なんて、エリコの住民にしてみれば、
「勝手なこと言っちゃって」
と、神を恨みたくもなるだろう。
(「旧約聖書を知っていますか」p82)

このあと、「旧約聖書を知っていますか」の著者である阿刀田高さんは、イスラエルの神様をちょっと弁護していますが、しかし、「モーセの十戒」を読むと、なるほどわがままでえこひいきなのです。

一、私はあなたたちの神、唯一にして、全能の神である。あなたたちは、私以外のどんなものも神としてはならない。
二、偶像を作って神としてはならない。私は嫉妬深い神であるから、私を憎む者には子孫にまで罪を問い、私を愛し、私の戒めを守る者には末代まで慈しみを与えよう。
(以下省略 前掲書p76)

ネット上で「モーセの十戒」を検索すると、こういうふうには書いてありません。
さあ、どっちが正しいのでしょう。

カナン征服の過程では、どうしてもたくさんの人を殺してしまいます。
これを記しているヨシュア記に、「財宝や家畜をぶん取ってもいいぞ」とヨシュアが言ったという記述や、皆殺し、惨殺、処刑といった記述があちこちにあるらしく、私とすれば、「モーセの十戒」にある、「六、殺してはならない」「八、盗んではならない」などを破っているではないか、とツッコミをいれたくもなります。

どうも、イスラエルの神様というのは、かなりわがままだったようです。

ルーマア・ポリティックス
モーセがエジプトからカナンの地へとイスラエル人を導いたのは、先述の通りですが、モーセはカナン征服の前に、他界します。
モーセの跡を継いだのがヨシュア。

ルーマア・ポリティックスというのは、噂を撒き散らし、噂の力によって大衆を操作する政略のことである。政治家ならだれでもやっているだろう。ヨシュアもそれを利用している。
(前掲書p95)

ルーマア・ポリティックスという戦術を使って、結局、ヨシュアらイスラエル人は、カナンの地にいた30あまりの王を滅ぼし、征服します。
このルーマア・ポリティックスを用いる過程で、神の声の通りに行動しても、失敗する例が出てきます。
失敗するということは、神様の威厳が落ちてしまうことを意味します。
これをどうやって乗り切るか?
神様は「私との契約を破った者がいる」として怒り、「私が怒ったから、罰として失敗させたのだ」とします。
そして、不心得者(例えば「モーセの十戒」の八などを破る)を“選出させ”、殺します。
成功すれば、神様は威厳を増し、失敗すれば、神様は怒り、責任転嫁する、というこの構図。
これで、神様は、完璧、完全無欠な存在になります。

カナンの地とアブラハム
話はさかのぼって、ユダヤ教の起源について。
イスラエルの神様の啓示を一番最初に受けたのは、アブラハムです。
彼は神様にカナンの地を与えられました。
ここからすべての話が始まり、現在に至っています。
カナンとは、レバノン南部からイスラエルにかけての一帯を指します。
アブラハムには、超美人の妻サラがいて、しかし二人の間には、なかなか子供ができませんでした。
せっかくカナンの地を神様に与えられても、子孫がなくちゃ、すべてが水の泡。
ここでサラは考え、自分の召使いのハガルを差し出します。
そこでめでたく、ハガルが、アブラハムの子、イシュマエルを生みます。
ところが、その後、正妻サラが90歳で懐妊し、イサクと生むことになり、ハガル母子は、砂漠へと追い出されます。

イシュマエルの血の半分は、アブラハムから授かっていますから、神の恵みが下りて生きながらえ、その子孫がイスラム教のマホメッドへとつながります。
また、イサクの血筋は、ヨセフまでつながり、ヨセフとマリアがイエス・キリストをもうけることになります。

イスラエル人には、もともと12の部族があり、その一つがユダ族。
モーセ、ヨシュアに続く血族が基礎を作り、ダビデ王、ソロモン王を戴く古代イスラエル王国が隆盛を極めます。
しかし、ソロモンの子レハブアムがダメ息子だったらしく、神もあきれ果ててしまい、ユダ族だけをこのレハブアムに与え、ヤロブアムという賢い者には他の部族を与えて、それぞれの王としました。
ヤロブアムの国は北に位置し、神から与えられたのですから、当然イスラエル王国、ユダ族のみのほうは南に位置し、ユダ王国となります。
これが紀元前926年に起こったイスラエル王国の南北分裂です。
その後、北のイスラエル王国は壊滅的に滅びてしまい、残ったのはユダ王国。
ユダ王国も滅ぼされ、バビロンへ連れて行かれます。
これがバビロン捕囚といわれる出来事で、その後現在に至るまで、ユダ族は生き残ることになります。
このため、イスラエル人、イスラエル教とは言わず、ユダヤ人、あるいは、ユダヤ教、と呼ばれるようになったようです。

キリスト教の巻
イエス様とは神の子。
つまり神様。
だから奇蹟を起こすことができるのです。

「パンと魚の奇蹟」って有名らしく、ちょっと引きます。

新約聖書によれば、マタイもマルコもルカもヨハネも、四つの福音書は同じようにこのエピソードを掲げているのだが、ここでは右代表として<マルコによる福音書>第六章から引用しておこう。
“イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆で組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった”
(「新約聖書を知っていますか」p67)

いつの間にか、五つのパンが5000人分になっているんですから、確かに奇蹟です。
これは、明らかに物理学に逆らっており、ないものからは絶対に何も出てきません。
それを覆すから奇蹟といえるわけで、キリストの起こす奇蹟は、地球上の人口問題を一気に解決することになってしまいます(笑)。
でも、イエス様を信じないと何事も成されません。
残念ながら。
とにかく、イエス様を信じること。
ここが肝心。
阿刀田さんは、次のように解説しています。

マタイが記したイエスとペテロのやりとりは、さらに悩ましい。ペテロははじめ少しだけ水の上を歩いた。ところが、恐怖を覚えたとたん沈みかけた。この文脈から判断すると、イエスを信じていれば最後までペテロは水の上を歩けたのである。イエスに対して疑いを持った瞬間に、沈みかけたのである。イエスの嘆きはそこにあった。
だから、と私は思うのだが、イエスを本当に心から信じているならば、・・・・つまり自然の法則よりもイエスのほうを強く信じているならば、今でも私たちは水の上を歩けるのかもしれない。嘘だと思うなら、あなたご自身で実験してみたらいかがだろうか。
「馬鹿も休み休み言えよ。水の上を歩くなんて、できっこないよなあ」
百人中百人が疑いを持つだろう。千人中千人が信じられないだろう。だから沈むのである。あははは。おわかりだろうか。詭弁かもしれないが、もし一点の曇りもない、完全な信仰があれば、奇蹟は起きる。奇蹟の起きないこと自体が信仰の不足であり、奇蹟を書き示すのは私たちに対する永遠の踏み絵であると、そういう考えかたも成立つだろう。
「あなた、信じられますか」
と問いかけているのである。疑うのは、それだけ信仰が薄いから、と、そういうロジックがつぎに待っているわけである。
(前掲書p83)

でも、このロジックは、どの宗教でも利用されています(「ルーマア・ポリティックス」のところに書いてあるのも同じ)。
信者は、「信心」という言葉に弱いですし。

イエスは神でなければならない
聖書の中にある福音書というのは、教義を示したものではありません。
むしろ、その後に出現するパウロの言動やその他の研究書、解説書が、キリスト教の神学的部分を補っているとさえ言われています。
キリスト教の核心部分を引用します。

くり返して言うが、神は全知全能であり、人間を深く愛しているのである。よくしてくれないはずがないではないか。要は疑いを持たずに神を信ずること・・・・。福音書の内容が“そのような神であるか”ということより、“疑いを持たずに神を信じなさい”と、その方向に力点が置かれているのも、当然の帰着であろう。
だからこそ、
“「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」”
なのである。そして実践的な規範として、
“人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」”
が示されているわけだ。ロジックは一貫している。
あとは神の存在を・・・・具体的にはイエス自身が神の子であることの証明を呈示すればそれでよい。証明が明確で、力強ければ、そのぶんだけ元に立ち返って、「私は神の子である」というテーゼが明確に、力強く裏打ちされることとなり、ロジックの一貫性も保証される。
(前掲書p142)

そして、ここからは阿刀田さんの推理です。
イエスが十字架に懸かって一度他界し、ガリラヤで復活する話ですが、これがすごい。
感心します。

神が実在し、自分が神の子であることを証明する方法として、(それだけが目的ではなかったろうが)病人を癒したり、超自然的な技を演じて見せたりしたが、それだけではまだ迫力が足りない。伝聞であったり偶然と思われたりして、説得力を欠く。そんなイエスが、ある日、忽然と得た啓示が“十字架に懸かり三日後に復活する”であった。預言書にもそんなことが記してある。それを実現することが神の子の証明であり、それによっていっさいのロジックが生きて意味を持つ。先に私が“復活はイエスとその信奉者にとって、このうえなく大切なことであった。信教の存亡にかかわる重大事であった”と書いたのは、このことである。イエスは絶対に復活しなければけいなかったのである。
(中略)
話は一気に飛んでしまうが、墓の中にイエスの遺体がなかったのは、だれかが運んでほかへ移したからだろう。そのだれかは・・・・アリマタヤのヨセフ。彼自身が手をくだしたかどうかはともかく、彼の命令によってそれが実行された公算がすこぶる高い。その墓に屍を入れた人がそれを動かすのが一番自然である。楽である。なんの面倒もない。自分の庭に植えた庭木をその庭の持ち主が動かすのはたやすいが、ほかの人が動かすとなると、これは簡単ではない。犯罪的な行為になるだろう。白い衣を着た若者と、もう一人いたらしい若者が運搬の実行者だったのかもしれない。彼等は多分マグダラのマリアたちが遺体に香油を塗りに来ることも予測していただろう。
「イエスは復活してガリラヤへ行かれた」
と、これも予定の言葉だったろう。
なんのために?
もちろん復活を実現するためである。死体があっては、復活もへちまもない。
(中略)
一つの信条を抱く集団にとってはリーダーも大切だが、信条の存続のほうがもっと大切である。イエスが神の使命をまっとうするために十字架へ向けて歩み出したとき、おそろしいほど鋭利な判断力を持ったリアリストがイエスの復活を画策する。まず遺体を隠さなければならない。復活はガリラヤで。エルサレムを遠く離れていたほうがよい。イエスを敬愛していたマグダラのマリアに暗示を与えることなど、そうむつかしくはあるまい。マグダラのマリア自身も計画のメンバーだったかもしれない。復活したイエスが現れたのは、弟子たちの前ばかりである。口裏をあわせることはやさしい。エマオの近くでイエスに会った二人など、いかにも暗示にかかったような報告ではないか。
―でも・・・・そんなこと、本当にやるかしら―
それがポイントだ。
先にも言ったようにイエスは絶対に復活しなければいけなかったのである。絶対にそうあらねばならないことは、そうなる、と書いたのは、まさにこのことであり、それが絶対であればあるほど関係者はどういう手段を講じてでも、それをそうあらしめなければいけない。なぜなら、それは絶対なのだから・・・・。
(中略)
以上が信仰を持たない私の推測である。多分当たってはいないだろう。あははは、私はなにが言いたいのか。
ディテールはともかく、ポイントは一つである。イエスの復活は、その信奉者たちにとって絶対に必要なことであった。まだ脆弱であった集団の基盤を確かなものとするために欠くことができないことであった。だからイエスは復活したのである。ちがうだろうか。
(前掲書p196)

私は、阿刀田さんの推測を、非常に論理的だと思います。
「このようにしてイエスは神となり、キリスト教を、全世界へ広げるための基礎を作ったのです」と、断言してしまいそうです。

イスラム教の巻
預言者ムハンマド(=マホメット)は、610年、メッカ近郊のヒラー山洞窟で、イスラム教のアッラー(アッラーは神という意味)から啓示を受けたとされています。
これは、イエスの時代から6世紀も後のことですが、それまでメッカの地に、神がいなかったわけではありません。

紀元前後のアラビアでは、部族社会が発達していて、それぞれの部族神を祭っています。
メッカを中心として聖所は点在し、マナート、アッラート、ウッザーという三女神が存在していました。
ムハンマドが生まれる以前から、ユダヤ教やキリスト教もこの地に伝来していましたが、部族社会では主に部族神を信仰していたのです。
三女神に関係した代表的な部族がクライシュ族で、この中のハーシム家から預言者ムハンマドは誕生します。
ムハンマドの幼少期の社会背景は、イスラム教に多大な影響を与えています。
メッカの興った大商人たちは、ムハンマドの目の前で、不正と横暴を繰り返し、富を独占します。
そこで、ムハンマドの怒りは、コーランの次の記述で表現されています。

ええ呪われよ。寄るとさわると他人の陰口、宝を山と貯めこんで、暇さえあれば銭勘定。これだけあればもう不老不死と思ってか。(コーラン104章1-3節)
いや、まことにけしからぬ。汝らは孤児は大事にしてやらず、貧乏人に食わせることなど気乗りうす。そのくせ遺産にはがつがつ喰いつき、財産を愛するその愛のすさまじさ。(コーラン89章18-20節)
(「イスラム教入門」p32)

ムハンマドはアッラーから啓示を受け、その布教において、大商人らと対立します。
大商人にとっては、先に引いたコーランの教えは、敵対してしまうからです。

汝らの神は唯一なる神である(コーラン2章163節)
(前掲書p68)
神の御目よりすれば、真の宗教はただ一つ、アル=イスラームあるのみ(コーラン3章19節)
アル=イスラーム以外の宗教を求める者は、何一つ受け入れていただけない。そのような者は来世で損をするだけ(コーラン3章85節)
われは汝らの上にわが恩寵を注ぎ尽くし、かつ汝らのために宗教としてアル=イスラームを認証した(コーラン5章3節)
(前掲書p4)

コーランに記されているように、アッラーが一神教であるからには、あの三女神さえも否定してしまうことになり、ムハンマドは大商人らと争い、結局メッカを出て行くことになります。
その後、いろいろ曲折があって、622年、メディナへ移住します。
ムスリム(イスラム教信仰者)の宗教的義務として、よく耳にするジバードという言葉がありますが、本来は「神の道に奮闘努力すること」という意味で、それが解釈により「聖戦」となったようです。
引用します。

信仰に入り、移住し、神の道に己が財産と生命をなげうって奮闘した者は、神の目からは最高の地位にある。これらの者こそ勝利者である(コーラン9章20節)
戦うことは汝らに課せられた義務である(2章216節)
神の道において汝らに敵対する者と戦え、だが不義を犯してはならない。神は不義をなす者を好み給わぬ(コーラン2章190節)
騒擾がなくなるまで、宗教が神のものになるまで彼らと戦え。だが、彼らがやめたなら、無法者は別として、敵意はすてねばならない(コーラン2章193節)
(前掲書p131)

メディナにいるムハンマドは、アラブ遊牧民と同じように、メッカの商隊を襲撃するようになり、ジバードとして全面的にメッカと戦います。
630年、ついにムハンマドはメッカを征服し、カーバ神殿内にあった過去の偶像を破壊し、清めることになります。
ユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」とも呼ばれますが、ムハンマドにとって、彼らは違ったのです。
再び引用します。

これらは、「啓典の民」でありながら、互いに対立し、さらに与えられた啓典を隠蔽したり改竄したり(2章75-79節)、あるいは使徒を神格化する過ちを犯してしまった(5章72-75節、4章171節)。そして彼らは、ムハンマドの使徒性を認めようとしないだけでなく、彼の活動を妨害しようとさえしたのである。
(前掲書p45)

ユダヤ教徒やキリスト教徒が正しく布教していないため、神はアッラーして、新たにムハンマドに啓示を与えたとされ、ここで彼は最後の預言者となり、イスラム教は一神教として完成します。

以上は、岩波新書「イスラム教入門」によるものですが、岩波らしく、お堅い内容となっています。
ぜひ、阿刀田さんに、イスラム教をたくさん勉強してもらって、阿刀田流の本を出してもらいたいです。

やっぱり、イスラム教の神様も、他の神様に寛容ではなく、わがままだった。
アブラハム系列の神様は、どの神も「信仰すれば、利益があるよ」と言っています。
これって、利己的で人間みたいです。
「お金払えば、利益があるよ」って。
アブラハム系列だけじゃなく、どの神様もそうですね(仏様もそう!)。
神の宿命です。

物語として完成度が高すぎる
中村廣治郎さんの「イスラム教入門」は難解なところもあります(神学的なことや哲学的なところは、さっぱりわからない)が、読んでみると、コーランの紹介において、物語としての完成度が非常に高いのです。
上記の旧約、新約の聖書と比べれば、非の打ち所がありません。
しかし、それが逆に、ムハンマドの戦略面での賢さを、際立たせてしまいます。

ムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教をかなり勉強したと思われます。。
そうでなかったら、先ほど紹介したコーラン2章75-79節やコーラン5章72-75節、4章171節の「啓典の民」の過ちを指摘できるはずがありません。
そしてさらに、アラビアの部族社会に根付くように、上手に“作っています”。
ムハンマドが生まれる前からあった、カーバ聖所をはじめとする各聖所で行われた動物犠牲の名残など、この時代の祭儀の方法が、イスラム教の巡礼に色濃く残っているからです。

結婚によって生活の安定をえたムハンマドは、やがて近くのヒラー山の洞窟に毎年一定期間籠もるようになる。洞窟で何をしていたのか定かではないが、メッカ社会の病弊、息子の死と人生のはかなさやその意味について瞑想し、禁欲的な勤行をしていたのかもしれない。
(前掲書p33)

著者の中村さんはムハンマドをこのように理解をしていますが、山に籠もってイスラム教をどうやって教えようかを考えていたのだと私は思います。
すべてアッラーが考え、預言者ムハンマドに啓示したのだ、と指摘されそうですが、しかし、預言者はすでにいたのです。

これらの人よりさらに重要なことは、ムハンマド以前にアラビア半島中部のヤマーマにムサイリマという一人の預言者が活動していたことである。ムスリムからは偽預言者ということで討伐されたが、自分に従う者に断食と禁酒と童貞を命じ、最後の審判、神は人間の心の中まですべて知ることを説いていた。
(前掲書p30)

だから、ムハンマドは、これらの状況を上手に使って、啓示を口伝したのです。
以上、物語の完成度が高すぎることから、「イスラム教入門」を利用して、私が推理したものです。

そもそもコーラン自体、ムハンマドが直接、書き記したわけではなく、死後に、周囲の記憶や残っていたメモを集めて記録したものなのです。
コーランの成立事情も複雑で、現在あるテキスト本としては、ウスマーン本というのがあります。
これが成立した当時のアラビア文字には、子音文字しかありませんでした。
現在の表記には母音文字もありますから、したがって、母音文字のないウスマーン本をどう読むか、という大きな問題が横たわっています。

ウスマーン本がどのような手続きで決定されたのか、クライシュ族方言に統一されたといわれるが、クライシュ族に伝わった読み方が一つであったのか、複数あったのか、もし複数とすれば、どのようなしぼり込みがなされたのか、ウスマーン本決定後のそれについての読み方の違いが、どのようにしぼり込まれたのか、といったことが不明である以上、コーランは神の言葉を忠実に記録したものだといわれても、文献学的には肯定のしようがないのである。
(前掲書p67)

ユダヤ教やキリスト教を信ずる啓典の民の墜落が、より完璧な神、アッラーを生んだということは理解できるとしても、これでは、それを伝承するムスリムたちがいいかげんであるといえます。
せっかくの神様がもったいない気がします。

ギリシャ神話の神々
今度は神話の世界の神様についてです。
ギリシャ神話というからには神話でしかないのですが、しかし、聖書の記述されている数々の奇蹟も、やはり神話の一つだと私は思います。
ほとんど神を信じない私にとって、聖書も神話も同じにしか見えません。
もしかして「信仰される神話が宗教。信仰されない神話がただの神話。」?

ギリシャ神話のヒーローはいっぱいいるようですが、露出度が高いのは、何といっても大神ゼウス。
全知全能の神。
そのゼウスはかなりの浮気者で、あちこちに子種を蒔いて騒動を起こしますが、でも、その子孫がいろいろなギリシャ神になったり、あちこちの王様になっているわけですから、ゼウス自身が神話や歴史の起源でもあると言えます。

かの有名なトロイア戦争は、トロイア王プリアモスが捨てた王子パリスが、スパルタ王の妻で絶世の美女ヘレネを寝取り、それが原因となって起こりました。
結果は、木馬(これがネットでも有名なトロイの木馬)を使ったスパルタ軍が勝利。
これを事前に予言していたのが、プリアモスの娘カッサンドラ。
カッサンドラは、予知能力を得る力をアポロンから与えられ、その条件として、アポロンの女となるはずだったのですが、予知能力を与えれて即座にアポロンとの将来をのぞいてみたら、「捨てられる」。
ゆえに、アポロンに押し倒される前に、カッサンドラは逃げたのです。
それが面白くないアポロンは、カッサンドラの予言を誰も信じないように願う。
私たちの願いと違って、神の願いは確実に叶いますから、トロイア戦争で木馬を城内へ引き入れようとしたとき、カッサンドラが必死に反対しても、誰も聞く耳を持たなかったのです。

パリスがヘレネを寝取る前に、3人の女神がパリスにちょっかいを出しています。
その3人とは、ゼウスの正妻ヘラ、知恵の女神アテネ、愛の女神アフロディテ。
「3人のうち一番美しいのは誰か?」とパリスは回答を迫られ、「アフロディテ」と答えます。
アフロディテはご褒美に「地上で一番美しい女をあなたの妻にしてあげるわ」とパリスに囁きます(この辺は、ちょっと前後関係が違いますので、その点はご容赦を)。
その一番美しい女が、ヘレネだったのです。

で、トロイア戦争の本当の仕掛け人は、ゼウスです。
引用します。

ゼウスは世界の人口問題に頭を悩ましていた。いつのまにか人間どもが増え過ぎて、このままでは食糧不足が起きてしまいそうだ。
なんとか人口を減らす、うまい方法はないものか。
「そうだ、ひとつ戦争でも始めさせようか」
ずいぶんと無茶な発想だが、神様はもともと残酷な思想の持ち主である。
(「ギリシア神話を知っていますか」p157)

ある結婚式で、この目的を達成するために、エリスという争いの神にだけ、招待状を届かないようにしたのです。
争いの神エリスは怒り、次のような行動に出ます。

黄金の林檎を一つ持って、招かれもしない結婚式場に出かけて行き、神々の臨席している宴の席へ林檎を投げ込んだ。
「あら、なにかしら」
「何でしょう」
女神たちが取りあげてみると、その果物には、“一番美しい女神へ”と、記してある。
女神たちは色めき立った。
それぞれの女神がそれぞれにわが美貌には自信を持っている。
「一番美しい女神と言えば・・・・これは当然私のものね」
「あら、なに言ってんのよ。それは私のためのものよ」
「冗談もほどほどにしてくださいな。私がいただくわ」
とりわけ激しく争ったのが、ゼウスの妃ヘラと、知恵と芸術の女神アテネと、そして美と愛の女神アフロディテであった。
ゼウスはニヤニヤ笑って三人の喧嘩を眺めている。
女神たちは、「じゃあ、だれか公平な第三者に判定してもらいましょうよ」
(前掲書p157)

その第三者がパリスだったのです。

トロイア戦争に登場するキャストは、ゼウスの子孫がいっぱい。
プリアモスは大神ゼウスの6代下の子孫。
パリスの寝取ったヘレネも、ゼウスがスパルタ王の妻を寝取ってできた娘。
前述アポロンは、レトと関係してできた芸術と医術をつかさどる太陽神。
さらにアテネ、アフロディテは、それぞれメティス、デオネと交わって、できた女神たちです。
ギリシャ神話は、女を寝取る物語なのです(笑。当然寝取る話が全部なわけではありません)。

「神」の意味
どんな宗教でも同じですが、結局、聖書やコーランなどの教典と現実とは乖離しており、現実に近づけるために、指導者あるいは学者らは解釈を加えていきます。
この解釈は、神学によってどんどん更新され、おまけのはてに派生し、新興宗教まで生まれてしまいます。
信者じゃないとついていけませんよね。
困ったものです。

ユダヤ教やキリスト教、イスラム教は一神教で、他の神様を否定しています。
その神様を信じる人間たちは、お互い「オレの神様こそ、本物だ!」と言い争い、暴力を使ってまで喧嘩する破目になっています。
これじゃ、大元から争いの根源を作っていて、平和など望めません。
現在の平和は神が作ったものではなく、人間が歴史を省みて作ったものではないでしょうか。
一神教だと主張する神様への疑問は、それならなぜ、神様はたくさんいるのか、という疑問です。
偽の神様を作って、本当の神を信仰できるかどうか、人間たちを試すためなのでしょうか。
それなら、複数の神様で試すという手の込んだ方法をとらなくても、試す方法はいくらでもあると思うのですが。
このような現状を見ると、私は感覚的に、「神様は意地悪なんだなあ」と思ってしまいます。

私的に注目するのは、人口問題に関する記述です。
なぜか神話の世界のゼウスは、人口問題を憂慮していたのです。
一方、「パンや魚の奇蹟」に代表されるように、とにかく信じれば奇蹟は起こる、というキリスト教は、人口問題の敵としか言いようがありません。
しかし、新約聖書自体はそもそも、キリストが神であることを証明し、それを人々に信じさせることが目的ですから、その辺の解釈はのちに出現したキリスト教神学や解説書におまかせすることにします。

“インシャラー”は“なにごとも、神様の思召し”くらいの意味であろうか。日本の商社マンがアラブの地に行って商売をするとき、この言葉には大分悩まされるらしい。契約通りにことが運ばなくても、
「インシャラー」
納品書と中身が一致していなくても、
「インシャラー」
多少の不都合が生じても“それは神様の思召しなのだから仕方がない”となる。哲学と習慣の違いに由来するものだから、怒ってみても、商談はかえってむつかしくなるそうな。
(「アラビアンナイトを楽しむために」p209)

これはイスラム世界の話で、どうやら「神」という言葉の使い方は、世界共通のようです。
誰も知らないけど、「神」だけは、何でも知っている。
成功すれば、「神」のご利益。
失敗しても、「神」の思召し。
「神」は、まったく都合のいいことしか言わないようです。
しかし私たちも、「神」を自分の都合のいいように利用しているのです。
わからないところは、「神のみぞ知る」。
遺伝子操作などにみられるように、倫理面で解決できそうもない場合、「神の領域」という言葉を持ち出したりします。

ところが、政治と密接なつながりのある宗教となれば、話は変わります。
「神」と「人間(個人)」との間に、指導者が介在することになり、その指導者らは、「神」を利用し、他の大勢の人間を動かします。
その指導者たちが、善良である場合は問題ないのですが、歴史でみる限り、必ずしもすべてが善良ではなく、国家権力に利用される場合も少なくありません。
今まで書いてきたとおり、神様たちはけっこういい加減です。
歴史上の紛争の原因も、宗教に関することが何と多いことか!
原因も突き詰めれば、全くつまらないものだったり、他からの謀略に宗教が利用されたり。
今現在、風刺画(風刺画は、批判表現の手法の一つにすぎません)を問題視し、イスラム教国が怒っています。
信仰や主義というものは、おのおの個人のものですから、それが確固たるものならば、他から批判されようが気にしないものです。
言いたいヤツには言わせておけばいい。
しかし、残念ながら、彼“ら”はそのような寛容な態度はなく、完全に怒っています。
個人ではなく、国全体が批判を侮辱と捉え、怒っているのです。
私はこの辺に、指導者の策略を疑っています。
宗教の恐さはここにあると思います。

私は宗教を信じることが悪いと言っているわけではありません。
宗教を信じることが良いのか悪いのかもわからないし、宗教の何が真実なのかさえもわかりません。
しかし、「神」と「人間」との間に介在する指導者に、“利用される可能性がある”ということだけは、肝に銘じてもらいたいと思います。

結論として、私は次のように簡単に考えようと思います。

「神は何でも知っているし、何でもできる」
「人間は、知らないことやできない時は、『神のみぞ知る』と言って自己満足すればいい」

阿刀田高さんへの感謝
以上、阿刀田高さんには非常に感謝します。
とっつきにくいこれらの書物に関し、大ざっぱな理解というものを私たちに教えてくれています。
私が阿刀田氏の著作にめぐり逢ったのは、「ギリシア神話を知っていますか」という文庫本が最初でした。
おもしろいだけでなく、構成もなかなか優れていると思います。
そうなると、関連作品を読みたくなりますよね。
せっかくですからみなさんにも読んでもらいたいなあ、と思い、阿刀田さんへの感謝の気持ちも込め、宣伝しておきたいと思います。

「ギリシア神話を知っていますか」 新潮文庫 400円(税別)
エロス、アポロン、ダフネの月桂樹にまつわる話は、必読です。

「旧約聖書を知っていますか」 新潮文庫 514円(税別)
旧約聖書で救世主を予言しているのもかかわらず、イエスを救世主と認めていないことや、スケベ長老が美女を襲う話など、阿刀田流が随所に見られます。

「新約聖書を知っていますか」新潮文庫 476円(税別)
イエスを裏切ったとされるユダについての見解、また、マリアの処女受胎についての見解など、鋭い考察を書いています。

「楽しい古事記」 角川文庫 552円(税別)
もうこれは、エロ小説の世界?
日本古来からの昔話が描かれています。

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