2015.12.19土曜日14:00リバーウォーク北九州 リーディング「Re:北九州の記憶」。500円。
あと少しで始まる、という時にチラシを見ていたら、キオク、という単語が目に入って、虚をつかれる。記憶、というだけでも、レイアウトは相当異なるだろうと、思わずきょろきょろしたわけではないが、「キオク」、という言い方にウワッとなる。
左右に金属の台を重ねたような階段、その上が舞台。ミニ登山の光景、下手に小学生の女の子、上手に少し年上の男。会話してたか入れ違っていたのか。それから病院の光景。病院でもハンサムがもてていたような。あるいは二人のバイトの女と一人の男が何か文句をいっていたようだったりだが思いだせない。
高齢者にインタビューをしてそれを元に書いたとまでは事前にチラシを見ていたが、始まりで子どもは出てきたものの、その高齢者のひとたちが子どもの頃といったでだしかと思いきや、そうではないようだった。

2015.12.16水曜日12:40KBCシネマ 「パリ3区の遺産相続人」。1100円。
ニューヨークからやってきた文無し中年。本当に文無しでして、片道切符でやってくる、パワーというかすてばちというか。目的は父親の遺産で、パリにアパルトマン、アパートといっても豪華なものだが、それを受け継げる。男は意気揚々。ところがそのアパルトマンには全然知らないひと、母親とその娘が住んでいて、なんとビアジュという形式の不動産契約があって、その母親が死なないと遺産は継げない。なんとか出来ないものか、男は不動産屋さんをあたったり、そのうちばれてもしていくが、こっそりとアパルトマンの椅子を売って当座の生活費等を捻出する。かなり荒れて飲んだりもする。大光景でパリが出て来た気はしないが、立ち止まらないと見過ごす光景、といっても普通のお店とかだったと思うが、かなりアップで出てきていたような。
交渉をしているつもりが性格の合わなささか、いつのまにか口論になっていたりで進む。「昼食は食べないわ、興味がないの」「そんなことで世界はおわらない」といった台詞や、ユリシーズやジャンゴ・ラインハルトが話題にあがったりもする。次第にわかってくる、自分の父親とアパートの母親との古い関係。もちろん父親は出て来ないが、そのひとは、自分はこう選択しようと、きっと思ったに違いないという事が想像されて、派手な言い合いと、クラシカルな広がりとがおしまいには両方並んで来る。

2015.12.12土曜日18:30ぽんプラザホール 万能グローブガラパゴスダイナモス「西のメリーゴーランド」。1800円。
下手にテーブルと椅子5脚、うしろにタンスか戸棚、その横に絵、その右に高さのあるドアさらに障子のある押し入れ、押し入れは上の段もあり、ここから偵察隊2人の女が狭いようといったかどうか、押し合いながら何度か出て来る。その右にサイドボード、その上にラヂカセ、さらに右にビニールの衣装ケース、それらの全面に青いソファー、ソファーの左にはゴミ箱、右にはサイドテーブル、右側壁に時計、さらに右にのれんのある出入口、一番右の床の上にも丸いゴミ箱。ひと目、和洋大折衷。
左のテーブルに女ひとりと男2人、あとから女ひとり、プロポーズの話か、お通夜なのにプロポーズの結果待ちの話か、姉は25、妹は21という設定。みんな知り合いだが、おまわりさんの格好のままあらわれる男、「事件と思われるじゃないですか」、お母さんのこよりさん登場、誰だか「葬式って当たり前に生きているんだなと確かめる場なんですよね」、写真やアルバムを見る。
その、「とばりさんさん、て誰?」。商店街の向こうの坂道の下に、すずらんという理容室がある。そこの夫婦は火事で死んでいる。障子の上の段から少女が2人、「契約書にサインなんてしてないだろうよ」。おまわりさん、銃をだして椅子に背を向ける。携帯が圏外になっている。左の戸棚からおかあさんがあらわれる。空間が曲がっていて、自分が思っているのとは別の部屋からみんなあらわれる。
押し入れから5人、契約の話、来生でも人間に、右足の型をとるのが契約印、みんなまだわかっていない。
おまわりさんの銃で打つと、倒れるが死なない、実ははもうみなさん死んでいるんですから。フグの毒でみんな死んでいる。おかあさんがまず試す。足の裏に朱を警官のうらたくんが塗るが、足形を押そうとする時、上段から少女2人が出てきてストップをかける。生まれ変わりに関する不正取引防止委員会のメンバーで、ここは生まれ変わりブース。人間は人気がない。ノルマがきつい。銀の棒でたたくと、直線上にある、人と人とが入れ替わる。「このうらたけいすけ、やりたいことをやっていくしかない」。棒で入れ替わろうとすると直線上にあったペットボトルと入れ替わる。誰かがそれをゴミ箱に捨てるのだがあとで拾おうとすると、ペットボトルはゴミ箱にいくつもある。どれか。ペットボトルになったうらたくんにプロポーズのおことわりをする、ごめんね。いつか本人がとばりのふりをしておかあさんに聞く。いつかちゃんの耳掃除で子どもの頃左の耳が聞こえなくなったという過去あり。おとうさんのゆういちさんじゃなくて猫、かごめの方がおとうさん、入れ替わりは続く。うらたくんはペットボトルを経験したらもう結構、人間になりたい。ことはの役をこよりさんがひきつぐ、こよりさん、「じゃあね、またいつか」。
こう構想する、こうしたらこうなるでしょ、よし、じゃあそうしてみようと、必ず複数で考えるが、それがなかなか、そうならないようにそうならないようにと進行して行く。邪魔をするわけではなく、まっすぐにまっすぐに疎外要因があらわれる。その要因によって進行していく。「人間は人気がない」に大笑い。

2015.12.10木曜日19:00アトリエ戯座 佐藤順一読演 宇江佐真理作「ひとつ灯せ」。
あとで聞いて知るが、もっと長い話のでだしの所らしく、そのあと百物語、実際は十物語くらいの、メンバーにも異動があったりして一冊になるらしく、ネット注文単行本があったのでしてしまう。とはいえというかそうだからかというべきか、1時間15分超えの長い読演となり、30分あたりでストーリーとしてはここで一段落かと思いきや、なぜならその前だったかに「そこにいるのは誰だ」、という台詞がもう、本当にいるっていう感じで発せられて恐れ入ってたからだと思うが、終わってしまってから息を呑んでた事に気がつく。
話はまたも江戸時代。隠居といっても50代の時代。さて隠居してゆっくりと思いきや病魔に襲われる。原因不明。もう駄目だ。そのとき古い友人が尋ねてきて、前記、「そこにいるのは誰だ」が出てくる。話者が半分近く立ち上がる、半分までではなく、それと発声とが同時で、死にかけていた隠居の人は次の日からもう治り始める。
さすがにあのとき何が起こったのか。もう聞きたくて仕方がない。それで古い友人に尋ねると、真面目だからこんな事がわからないみたいにいわれたか、その友人の行く、月一回の集まりに参加する。それが十物語だが、しかし参加してみると想像とは異なり、思いのほか本人は拍子抜けをする。しかし古い友人の話を聞いているうちに、頭で思っているだけなら怖くはないかも知れないが、実際にそうだったら、といわれているうちに、ホラーとはちがうが、怖くなって来る。そして自分にも何かが聞こえるような見えるような気がしてきたか、実際に起こったか。
何かしら思い当たる事のあるような予感を抱かせつつ、ひっぱられる。ホラーらしきものも潜み続ける。解放感にびっくりする。

2015.12. 6日曜日午後 ギャラリー・エス・ピオーネ「高田清治展」。
たまにいくご縁か、ご案内ハガキだが、その絵がどうも不思議であって、見るにつけ、といってもハガキなので小さいが、これを自分が描いたら、結局塗りつぶして一色になってしまうと思ったことで、どこで絵の進行を止められたのかがひと目気になってしまう。落ち着きのある作品とも思うが、それがまた気にかかる。葉っぱの上の縁のあたりに空気との摩擦がありそうにも見えて、背景の塗りもよさそう。そもそも実際のサイズは。実はハガキに作品名の「どくだみ」と油彩でサイズは何センチと書いてあったのだがそれはあとで知る。
とにかく実物を拝まないとわからない。まずは2階にあがると、パステル画、丁度店主がおられて説明されるので、ちょっと謎が解ける。自分が不思議、塗りつぶしてしまわないのかと思ったあたりは、それ以前にキャンパスの塗りから始められているようで、塗りではなくて、何油かもう忘れたが、下地を塗っていないように自分には聞こえてちょいと納得。逆にパステルの方は、こちらはパステルにしては厚みとかタッチではなくむしろ均一に水彩風に塗られている気がして、版画の系統かと見ていたのだが、なんとこちらは油絵とは逆に、下地に塗りが入っているように聞こえた。そうすれば誰でも出来るかというと出来ないのは、もうどこからその人の絵が始まるからという問題という事にしてしまうが、りんごが3個並んでいる作品がいちばんよくて値段も聞けず、まあ絵を買った事などないが初めて気になる。結局1200円のカレンダーを買うが、数字の部分が小さくて、気に入る。
自分はこの描き方で、よく描くのをとめられたなと思っていたが、店主説明で少しわかった事もある。いくつかの絵に描かれたもの、そこを隠してほぼ背景の部分だけ見ても作品になるでしょ、と店主は説明する。こういわれると作者はきっと困るかも知れないが、自分がハガキを見ていてあれっと思った事は、別に全くはずれた事ではなかったとも思えて安心しつつも、まあ遠いこと遠いこととも思い始める。

2015.12. 5土曜日19:30箱崎水族館喫茶室 「大耳ライブ2015冬のパラノイア編」。1500円。
サチカンズ。幸感ず?。山伏が縦長キャンバスのうしろからあらわれてとりあえず何もしない。左方向から女、「この頃、石が乗っているような、左もしびれるんです」「ふん」「何もないのに聞こえるんです」「ポーン」「助けてください」「チーン」「おまえは魅入られている」。いつのまにか、女は長さのあるお札を顔からぶらさげている。山伏がキャンバスに絵のような文字のようなものを描く。縦にぐらぐら右に左に○のような。「おまえの左手を見ろ」左手二の腕までが電飾されている。「ご注意下さい、人食いスマートフォンに食われてしまうかも知れません」。世の批判かと思いそうだが、どこか見ている方にもほのぼのと伝わる、スマホの必要性を前提とした狂気、狂気はいいすぎか、予告なく始まる。

高杉氏のレジメありの講演、「お金は、遠くの人を結びつけた」から始まって、システムと逃走と、キーワードを2つに絞る。「逃げてふりかえって見てればいい」。逆に自由を引き込みやすくなる。

半元気ライブ。バイオリン白衣、リードギター古い学生帽、ベースギター金髪、ドラム、プログレッシブがわからずクラプトン風に聞こえる、曲想にクルト・ワイル、それとも演劇的だとどこかにクルト・ワイルが入ってしまうのか。みんなの遊びという曲、北のころしや、ドラムのフォロー「あ、宇宙人のせいだ」が大受け、ラスト縁から色取り眼鏡、第2第3の来訪者、もしかしたら私たちの世界に入り込んでいるのかも知れません。ミステリーゾーンかトワイライトゾーンだったかの口調。見、私たちの過去に入り込んでいるのかも知れません。

芝居組公演。月にささるロケット。ムーンリバーの曲、まだ暗い。「うわっ何だここはゴミ屋敷か」「金目のものはないか」「あーあんた、お客さんかい、なつかしいね」「強盗のエリートだ」気力体力冷静な対応力、「いまどき玄関から来るものにろくな奴はいない」、警官来訪、腰紐を何故しているのか、徘徊しないようにとごまかす。「火星に行くなんて嘘さ、月にささるだけさ」、「山田あや、福祉課の者です」「火星に行くのか」「このチケットをくれ」「おれがほんとにほしかったのはこれだ、ばあさんごめん」、たおれるばあさん、どーんどーん、月にロケットがささっている、どーんどーん、再びムーンリバーが流れ出す。見、これが小説だったら一番わるい展開と筒井康隆の乱調文学大辞典にあった奴だが、演劇だと出来てしまう。

2015.12. 5土曜日14:00ゆめアール大橋 劇団きらら「ガムガムファイター」。2300円。
10個の椅子らしきもの、真四角が横に半円状に、照明で白と紫と交互に並んでいる。いちばん左に小さい脚立。背景は紫の照明で、垂れ幕か棒かわからないものが立っている。最初に説明あり。ラブホテルの一室が舞台。そこで働く従業員が主人公たち。
新米の社員が先輩に教えを乞う。トイレはこうしてバスはこうしてベッドはこうしてベッドの上のうんこはこうして、それから毛だけは絶対に残さないように、印象わるくなるからとか、でもって20分以内にとか。合間に雑談もある。ツイッターに燃えていた中年男が実はうざいといわれていたとか、タマコさんは先月うんこに転んで死んだとか、でもときどき出てもいそうである。見られていると燃えるアベックと続くうちに、初めはプライドないですか、といった話から、中年にさしかかったががんばるという盛り上がりへとどんどん移行して行く。アンケートに、あなたの踏ん張り所はなんてのもあり、自分はしれっと中年は過ぎたものの、そこを断崖ととらえるとはいってなかったが、まっすぐに立ち向かう人物たち。なるほど、こうしていた方が人生お得だったのかもと思ってしまう。
確か少し前の作品では、一気に老化していたみたいであれっと思っていたが復活。がんばるんだけど落ち着いてゆっくりかまえるとか、いいメッセージの作品に大化けする。

2015.11.12木曜日14:00KBC 映画「エール!」1100円。
お客さん多め、途中、本筋とは関係なく、いいや大きく関係しているが、台詞ぬきでふるっと笑うシーンが、きらきらっとあらわれて来て、深刻な話でもあるのに、明るさへと引っ張られて行く。高校生の女の子、あとで思うとスクールバスで通学とかんちがいしていたのか、自転車のシーンが多く、自転車を降りた時、ワイヤーの鍵を使っていた時が一回あったが、あとは思い切ってやや横倒しに置いたりとか、道具の扱い方に、ほぼ知らないが、気質とでもいうか、そういえば自転車に空気を入れる時に、タイヤのバルブのサイズが異なるのか、付属品にフランス式とイギリス式があったはずで、ある部品のサイズが異なるというのは、アートは究極へと向かいたがるにしても、究極からみると想定してしまうと、こう組み合わせたらいいのにと思うことがいっぱいあるのかも知れない。ただし、究極なんてとこには立てないからアートは楽しいに違いなく、ところでその楽しさは究極なんてものを通り過ぎていくしかなくなりそうな気分。
je vais t'aime que何々と聞こえたのと、指導する先生が、この女の子が悩んでいるときに、「自分で穴を掘ってそこで悩んでいるんだ」とびしっといって、といってもそのあとに感動の場面があるわけではないが、見ていて、ああ毎度いわれてみて気がつくいい言葉。この先生は、どうやらこの田舎の村にとばされているようで、かんかんになっているが、それをはっきりとはいってないがほぼ公言していて、怒りを生徒ではなく、生徒に歌わせる今回の歌の種類にぶつけているようで、別にいいひとといいたいわけではなく、まず割り切れている所からコミュニケーションしているのかと思ってしまうと、いやいやそんな思い方そのもの、まず割り切れている所って何のことなのかと、態度としてはわかりきれないのが残念、残念て自分に残念だが混乱。
魔の山にゼテムブリーニ氏という学者さんがいたが、全く悪意はないのだが、彼本人はいろいろと新しいものを試しているのに、ひとには「備え」がない、といってすぐに批評しにかかるというくだりを思いだす。備えがない、というのが当たっているにしても、それでは、備えがある、だったら彼はどう続けるのだろうなどと。
見、字幕に出て来る才能talentという単語は聞きとれなかったが、le talentを常々私たちは、天賦の才能みたいに思いたくなるが、もっとハードルを下げて、添付の才能でも、だじゃれではなく、その方が才能という単語に、より肉薄していると考えだす。

2015.11.10火曜日19:00アトリ戯座 佐藤順一独演65 藤沢周平作「品川州崎の男」1500円。
男とあるが、女の方に目が行く。おやっ、藤沢周平なのに、という思い込みでもあったが。みち、という女が結婚する。相手は飾り職人だが、最初はその男の作ったかんざしをみせてもらっていて、それが上出来だったのでピンと来た。今は裏店にいるが、ひとつ自分が表に出られるようにと、みちがこうしたい、こうしてやろうという事は、実はおいおいわかって来る。ほれたほれられたとは少し違うが、まっとうに男を盛り上げてやろうと思っている。ところが男の方が、かんざしを作れたのは昔の事で、今では目が悪くなって、たいした物は作れなくなっている、まあ、へたな職人という状態。
そこからもいろいろあるが、それが一段落ついたあたりで、なんとも、本当はこのあたりから始まる話だったとあとで気がつく。
途中古い知り合いに、あやうくお金だったかを貸してしまいそうになる所もある。ラストは、男と女ではなく、自分の居住まいとして、ちょっとすっきりしたかったんだなと思わせる行為にみちはでる。周平が書くとこうなるのかにはうなる。自分が好きなこと、読書でもテレビでもいいが、それをしているときとは、どういう状態だろう。さらにそれはこういう状態だと思う事があっても、よもや生々流転ではないが、日々は言い過ぎにせよ、前の答でとまっていると、今度はそうならなかったりもする。ドラマチックではないのに、聞きつつ見ているうちに、なんだか見出された時っぽくて、やれ落ち着いてと、日常をふりかえってしまう。

2015.11. 8日曜日14:00FFGホール 小山実稚恵リサイタル「音の旅」。自由席3000円。
かなり前の左端の席、これで自由席なんて得した感じ。指定席が欲しくなるのは、もちろん椅子確保でもあるが、それ以上に、慣れて来ると、自分はここから見たい聞きたいというのがきちんと沸いてくるんだろうなと想像。左端から見るピアノ演奏なので、演奏者の背中側だが、途中で気がつくが、鍵盤をたたく時の手の高さが見易い。
ご本人の会話にびっくり、たどたどしく切れ目なく、その喋りと演奏との落差に好きになっている人も多いのではと思える。詰め込みにならないからだろうか。それでもご本人の話だが、平均律が12、長調短調で24、一日が24時間という話など、話は細かいのだがむしろおおまかに明るく聞こえてしまう。
1曲目はシューマンの花の曲、といっても知らない曲だったが、終わりかけに盛り上がって、ラストは低く、蛙や動物も近くにはいるという感じに聞こえたが、あとで思うと、この1曲目と2曲目とが、演奏の上では呼応していたのかと思えて、そうだったのかなとあとで思う。
2曲目がゴールドベルク変奏曲、実はただこれを実際の演奏で聞けるのかと気がついて、寝てしまった記憶しかないコンサートに。結局、最初のアリアは聞いたが、それからの30の旅はほとんど寝てしまっていて、ラストのアリアの少し前からまた聞くということになってしまったが、手の高さが見えたのは、CDでしか知らない曲だったが、身近となる。小山実稚恵さんだからかどうか、そもそも生で聞くのが初めてだからわからないが、最初のアリアは糸で何かを編んでいるように、糸で編むという言い方は変かも知れないが、毛糸ではない、小さく動くが、それからの手は高くなり、ラストのアリアの少し前は、曲を知らなかったら、一瞬終わったかのように、ちょっとだけ自由演奏で盛り上がってから急に静かになっている、ここいらあたりが1曲目のシューマンとの重なり、そしてまたたんたんとしたアリアへと。
小山さん曰く、最初のアリアが最後だと違うものに聞こえたら幸いだったか、確かにこの曲は、高ぶって聞き始めるとしまいには落ち着いたり、今回の場合は、とにかく初めてなので静かに聞き出したら、ラストは、全体に自分の行動レベルがあがったように感じる。バッハは数字にもこだわったらしく、3曲ごとにカノンが入っているというお話しもあったが、この曲は、そう思うと実際には聞けなくなるが、変換装置ぽいなと理解する。

2015. 10.10土曜日19:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう佐藤順一読演64 杉本章子作「げんまん」。1500円。
題名だと、なんだかほのぼのとした話で、なんだかわかりやすそうに聞き始めて、実際でだしのシチュエイション説明にあたるあたりは、そうなのかと聞いていたのだが。シチュエイション。主人公は伊三郎、料理人で、子連れのおもんという女と暮らしているのだが、ところがそのおもんさんが別の男に走り、なんとおもんさんの連れ子と二人暮らしになるというしょげたでだし。おもんの母、つまりは連れ子の友吉のおばあちゃんも別の所に住んでいるのだが、そもそもおもん自体、そこをとびだして来たので、友吉を実家に戻しかねている。おまけに友吉はなつかない。次第に江戸っ子の大変さが見えてくる、なんて事はどこにも書かれていないみたいだが。聞いているうちに普段聞いている、江戸っ子という言葉が、どんどん小さくなって、小さくなるから逆に身近にもなって来る。せいしち、という、唯一の助言をしてくれる友人が伊三郎にいるのが救い。連れ子の友吉は次第に伊三郎になついてくれるが、ここが決め時と、伊三郎は友吉をおばあちゃんのうちに連れていく。このあたりかそのだいぶ前だったかで、二人が小さい約束をしたのが、「げんまん」の由来だったと後日気がつく。途中で不意に過去の場面がはさまってくるところが、初め少しとまどうが魅力。チラシに、「ほのぼのとした中に、ビリッと山椒のきいた、江戸の話をどうぞ!」とあるが、それ以上にびっくり。昼の部を聞いていた女性が、ハッピィエンドになるかと思ってました、といっていたらしいが、こういってしまってもラストの想像はつかないし、想像以上となってしまう。

2015. 9.30水曜日21:00伊万里市ライヴハウスA-TRAIN 「やなぎライブ」。
相変わらずのいい声。音楽はやる側だったら方向性が肝心だとか、音数おとかずが少ない場合だと逆に聞いている方が自分でその間を埋める良さもあるとか。他のひといわく、イントロやサビとかはいまどきどうでもいいという声。楽器の話なども聞く。楽器は長く人間は短い、そりゃあ、あったりまえよというノリ!

2015. 9.26土曜日14:00北九州市枝光本町商店街アイアンシアター block「バケツ」。1500円。
粋な、絵画的な背景、それも日本のアバンギャルド、少ない知識か、またも村山知義を思いだしてしまう、舞台作り。ところが始まってみるとそれが背景ではなく、さながら巨大はいいすぎにしても、長方形の立体が正面にあり、全面右に出入りできるドアがついている。途中からは左側面がそのままこちらに向かって開く仕組みもあり。そして上面はいわゆる、ふたとなっていて、むかしの長持のような仕組みで、全体に新聞紙が強固に貼ってある。強固というのは糊でしわがよっている所があったためだが。
左側面は風やデーターの出入口、右のドアは個々の具体的日常と非日常、上のふたは、全体を見たい欲求と自然な探求心。周囲にはイスが配置してあるが、それがどうも記号のシャープ#に見える。そんな模様にも途中から見えたが、それはそのままに。
でだしはこうだったか。白いブラウスで赤いスカートのひとが、テレビの話を始める。テレビを見ているとといったかどうか、いわゆるウワサとかはホントに思えるかとか、実はテレビなんてほとんど見ていないひとの感じで喋りだす。続いて6人くらい登場。ストーリーは誰が中心でこう展開するといったものではなく、この商店街に入るまでに靴が壊れるという個人的びっくりアクシデントもあったか、途中から睡眠してしまう。シーンとして覚えているのは、例えば、ゴミ捨て日を守らないひとがいて、注意すると紐をつけたバケツを振り回していたような、しかし誰かが間に入ると、実は最近引っ越ししてきたので知らないだけだったとか、今自分にもあるある、年齢とは無関係に今こういうこと。私の分は私でふやす、オレの分はオレでふやすという発言が別の所であった気もしてこれが救いになっていそう。あるいは、あぶなっかしいと思ったことで、ウワサが本当になる、というのが、昔風の世間についての見立てみたいなものでなく、仕組みとしてそう見えるから注意せよといっている。後半と思うが、上のふたを開けようとするときの葛藤、いやいやしたい気持ちと、何が出てきてもやっつけてやる、それとも上のふたを開ける事自体が意味をなさないといいたいのかも知れない。
バケツにバケツを重ねて行く。小さいのに大きいものだったか、大きいバケツに少しずつ小さいバケツだったか、マトリョーシカを思いはするものの、マトリョーシカだったら時間の連続を感じそうなものだが、そうではなかった。「でもここに来る前にウワサをひとつ創造しよう」、という台詞が、定住しているけど通行人、のイメージをふくらませる。きちんとしているものがセンチメンタリズムに変わっていくことへの注意があったのかも知れない。

2015. 9.25金曜日10:45KBCシネマ 「さよなら人類」。スタンプカード使用。
むかしビデオで見たソ連の映画、「不思議惑星キンザサ」をそっくり思いだす。あまり人をかりたてずに、音楽もシンプルで、会話も多くはないのに、それがじいっと見ていると面白いというパターン。でだしがいちばんおもしろかったのがやや難ありだったが。でだしでいきなり、不可解な死が3件登場する。死にかけているのに、宝石の入ったバッグをとろうとすると急に力を強めるおばあさんなど。
2人の男が、これまたキンザサを思い出すが、一緒に仕事をしている。さえないグッズ、吸血鬼の歯や、音の出るおもちゃを売ったり店に置いてもらったりしている。しかしながら、商品が売れたらしき店に行くと、そこも財政がきびしくとりたてられなかったりと不運が続く。「元気そうで何より」「元気そうでよかったわ」という台詞が何度か出てきていたようで、たいした台詞ではないのに残る。「シェルブールの雨傘」で、最後の場面なのに、まるで入門書みたいにToi, tu vas bien? 元気?Oui, tres bien.ああ元気さ、といってドラマチックに終わるのと比べるわけではないが、ドラマというよりも、ああ存在している、作品には出てこないが政治もある、なんて事が伝わってくる。ちょっとしたユーモアや間の悪さの面白さも相当だったか、ものごとについて、たとえば自分が、いつのまにか簡単な好き嫌いになってしまっていっているようなもの、それでいいとはいえ、そこにつかまりかけるあたりを、そこにつかまらずに見せてくれる。

2015. 9.18金曜日16:25KBCシネマ 「チャップリンからの贈り物」。1000円。
新聞の映画評を見て。本当の話らしいが、最後まで本当なのか、特に調べない。悪い友達、根が真面目な男と、ほらの多い男。チャップリンの遺体を隠すという悪冒険、綿密でもなく結果はよって知るべしだが、隠し場所の穴にチャップリンの棺桶を、ごろっと入れてしまう所が、不謹慎だが、実に最初不謹慎と思ったが、次にはユーモラスに思えて来た。そういえばチャップリンの方は、もちろん本当は綿密だったんだろうが、フィルムの上では、いままさに目の前でやっつけ仕事をやっているような場面が多い気がしているからとあとで気がつく。本人が出ているわけではないが、チャップリンは、とりわけ正面からの顔が実にいいなあと、前にキッドのポスターを見て思ったことをあらためて思った。

2015. 9.14月曜日16:30歌舞伎座「伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ」。6000円。
調べたところ、「伽羅」は、きゃら、と読むのがわかり、どんな香りかは知らないが、ああそれで、銘木にかけて、めいぼく、と読むのかと納得しだすと、じゃあ萩はなんなんだろうと思うと今度は、仙台市の花マークらしき事がわかり、ここまでやってやっと、そもそも先代=仙台だったのかと、語呂の並びにやっと気がついたが、そもそもこういう当て字なら上演OKだったという感覚が、シャレだったのではなく、むしろ昔は論理的だったんじゃないかと想像される。
前段は、菅原伝授手習鏡の寺子屋の段、人気の段らしいが、好きな段ではない所を思いだしたりもするが、何よりも最初に出て来る殿様が、悪い奴にねらわれるというシチュエイションで、もっと単純なストーリーかと思いきや、その殿様も遊郭通いで肩入れにやや難ありの所もあって、これはあとで知ったが、自分がむかしテレビで見た、周五郎の「樅の木は残った」が、伊達のお家騒動だったらしきは覚えていたが、なんとこの話、先代萩も、同じく、伊達騒動だったと知る。但し、菅原伝授と違い、ここで若様を守るのは政岡というという気丈な乳母とその子の千松で、政岡の、若様や我が子に対する懸命さの一方、相手には強く出たりのめりはりが、自分ならいっぺんに両方は無理だと思わざるをえない所で引きつけて来る。結局はお家乗っ取りの側がいったん勝利したかに見えるが、そのあとさらに幕府の上役が出てきて無事おさまるわけだが、破綻はない。ここで破綻はないというのは、単純な勧善懲悪風な終わり方にせよ、休憩をどけても4時間くらい、こまめに人物が描かれていたからで、そちらの方に目移りしていて、正直いって結末にわざわざ胸がすかなくても、見た見たよかったという気になったからだろう。
もっといい席で見れば、この演目の場合、女方の声がさらによく聞こえたと思えるのが少し残念。恋愛物でないからか、男方は声と仕草全開で遠目にもわかりやすかった。
さきにも書いたが、でだしで殿様が襲われる。それをきっぷのいい男が救う。ここで殿様側が正当だとまずは決められる。実際芝居のでだしとしても、テレビのでだしなどとは段違いに印象に残る。画面が区切られていないからか。そもそもお家騒動なるものがあったのかどうか。これは三田村鳶魚に、宇都宮釣天井他、いろいろと出て来る。特に面白いのは、水戸光圀に関するくだりで、いわゆる黄門様とはかけ離れた人物というのは既に知られている事とはいえ、勉強はかなりしたようだが片意地さも生涯つきまとい、自分の正しさとは相容れないひと、もしくはあとになって相容れなくなったひとに、陰険ではないが、もって回った面当てをやる。幕府でも困ったらしい。しかして三田村の書いているのは終始武家社会内の、読みようによっては痛快にも思える話で、庶民がどう思っていたかを想像すると、そこで今にいたる黄門様へのヒントがあるとも読める。
しかして結局わからないのは、どっちが正しい、この場合、正しいといういい方自体がしっくり来ないのではと、自分でいっておきながら思ってしまう。何もみんな善良のひと、なんてことはなかろうが、お家大事で、誰それを支持するひとと、引退した誰それについてた御家来衆の、次の時代への延長が、目に見えるお家騒動となり、民百姓としてはそれをわかりやすく、藩乗っ取りをたくらんだ何々としていた所もあるのではなかったかとも思える。もちろん誰が殿様になるかなんてのは、近くにいる者にとっては大事件なんだということも、まだまだいって置かなくてはいけないが。
先代萩は、普通の庶民、というのも曖昧だが、多くの人が見ていたと取れる。唯一難しそうなのは、栄御前が政岡に連判状を渡すくだりで、ここだけ当時の女同士だとわかるのか、みたいな所がある。若殿や千松に、武士はどうやって武士になって行くのか、習ってしまうことのすごさやごめん被りたい感覚もある。歌舞伎なので、時折名場面らしきあたりで、例えば、大和屋っ!とかいった、かけ声もとぶ。

2015. 9.11金曜日19:30ぽんプラザホール あなピグモ捕獲団 「パンクジェリーフィッシュフロー4AM」。 2500円。
今の時代、オリジナルを作ろうとすると、気持ちが折れてしまいそうになる、いやいや今の時代に限らないか、まあオリジナルになっていくというのが正解だろうとはいえ、そんなことを感じてしまう。
正面と左右に布が何枚かずつ下がっている。照明で赤や青に。一見儀式めいた見栄え。中央に白い服の女、初めは男に見えたが、続いて3人の女がうしろから。海の底のぶくぶくいう音、といっても海の底でぶくぶくという音がするようにこちらが思い込んでいるとはいえ。「クラゲが空をとんでいるのが見える」、といっていたか。かなり前にイッセー尾形と永作博美の、クラゲが眠るまで、という作品で、クラゲを飼っている夫婦の深淵などたばたドラマがあったのを思いだす。このときは、クラゲは夫婦の間を取り持ってくれる役どころだったと思っているが、ここではクラゲはキーワードなのか、途中から、「クラゲがとんでいるのは海が溺れているからにちがいない」と聞こえてしまう。どこかで海に溺れるというのを、こちらで、海が溺れるという表現に変えてしまったのかも知れないが。
別れ話が進行中、「どこまで話したっけ」、とか、別れ話という、普通にドラマの台詞をを使いつつも、どこから動いたのか、「私には見えない、記憶の果て」、といった超感覚的な台詞、あるいはこれはひどかったが、「私は道に落ちているはんぺんだから」、といった投げやりな台詞がよくあらわれる。作者は投げやりな台詞を変更せずに使っているようでもあり、作品としては不自然だが、さあ何かやろうかといったときなどに来る、むしろ今までの拒否感をどうぬぐおうかという時には使うこともありそうで、いいとは思わないが、残る。「私は誰ですか」、いい質問ですね、オーディオとオーディション、「きみは死んでいて下さい」、という台詞も続いていたと思うが、機器を駆使する世界で、ボタンをよく押したりといった活動を、普段の行動に置き換えていると見るところなのかも知れない。
二人の日替わりゲストの登場。ここで実体のあるもの、別物ではないが自分とよく似たものが登場することに糸口がありそうだが、わからずじまい。「過去ではなく未来も回収できるんですか」、という台詞あたり、海の話ではなく、湖に置き換えた方が、前に進むということにこだわらずに、状況を理解できそうに思えたが。100分後あたりか、お店に来ても注文をしない男、あるいは、たどりついた世界はここでもいいんじゃないか、と、述べることによってちょっとだけだが日本語だからか苦しくなってしまいそうな発言、「なぜ生きようとして結局死んだのですか」とかだったか、お店なのか病院なのか、ただ箱の位置というか、周囲にある物、鉛筆でもコーヒーカップでも、そんなものの配置によってわかる事があるんじゃないかといまさら発見、思えだす。
このあたりか、「いらんもん」、という嫌な台詞が出て来る。投げやりの続きで理由はあるのだろうが、本当の私がいないものなんだ、あるいは、私たちこそがゲストだ。海に写っている月とクラゲとのオマージュというか反転、このイメージからモノローグに入って行く。「私、死にたくない、その台詞を本当にするまでこの戯曲は終わらない」、といったか、どこで終わったか、午前4時のファミレス、溶けない時間がようやくやってきたイメージに、包まれはしないが、実際にその時間がどこかで共有されて出来たのかも知れない。中毒しないで作者が作者を追いかけていた感を持つが、ここを美しいといってしまうと、チェーホフがかもめの中で試みた宇宙劇を思い出して茶化してしまうことになりそう。午前4時のファミレス、行くあてはないが、経験するかも知れない。

2015.9. 8火曜日14:00福岡市立中央市民センター 劇団HallBrothers 「中央区今泉」。1800円。
巨大構築物にああっとあきれる。見た瞬間に来て良かったとジーンとなる。急いで作ってあるのか、途中壊れないかなんて思ってたが、頑丈な材料を使っているようだった。それだけに、部材も重そうなものばかりに見えて、大作業だったんじゃないか、それだけでいい芝居だったと、早くも感想がでてしまう。
後日気がついたが、作品名そのものが、中央区今泉、そこの一画の一軒という感じで、背後に、これは看板ではない、おおきな構造物、建物、3階建てくらいで、役者が一番上にあがると、天井に届きかける。1階にある店のカウンターが一応メインの場所で、ウイスキーやカクテルの瓶が3段重ね、その上に屋上部屋みたいな感じで、のれんになってる出入口、さらに右半分は手すりのついたバルコニー、長椅子が2つある。もうわからなくなったのは、そのバルコニーからまた階段があり、さらに上の階にもバルコニーとドアがあること。カウンター正面に背中合わせのソファーが2つと、別にソファーがひとつ初めからある。
美輪明宏の黒蜥蜴でも始まるのか、とも初め思えたが、いやいや話は、この、中央区今泉、そこに、生きる、というと、作者はそういわれているが、まあある日の出来事。一応チラシには、これまたあとで読んだが、永遠に続くものなんて存在しません、と作者?はいわれておるが、こういうふうに型通りにとりあえずはいってしまっていいのだろうが、これまたあとで気がついたが、それだけで芝居になったのか、作った事がないのでわからないが、考えていたら、こうなってしまったというのが本当の所か、詮索してもしょうがないとはいえ、そのあたりに押されたか。
ばらばらのでだしからラストへ、だったか。初めは2階で男2人がCMの真似をしていて、1階には女性がひとり。次に下手だったか、こちらからみて左から女性、「ごめん、遅くなった、だって、スマホ初めてやし」とか「時代に合わせていかないかんしね」、かたや上手からは自転車に乗った男が。黒い自転車、少しして今度は赤い自転車の女、深い意味がありそうに思ったのはこちらの勘違いで、それもわるくなかったが、単に自転車を使いやすいという風景、何のことか、男は鍵をどこにやったかなんていっている。
どこかで、最初に下手からあらわれた女が、「うーん、まあ、まあねー」という。ここの、まあねー、が強烈で、びびる。マスターには悩みがあって、地元の言葉と共通語の両方を混在して使うを気にしている。折れずにストーリーは展開する。
「だっちだっち、はい、リアルトップ」とか、誰の台詞かもう覚えていないが、だんだん人物の違いがわかってくる。下手から出てきた女は、この地でアジア雑貨の店を長くやっている。それほど好きで初めたわけではないが、そういう店作りや行き方にひかれる女性もいる。アジア雑貨の店の女性は、これはこれで充分と思っているのか、ラストには、あとはお願いね、と、さらっとした感じで、店を譲っていたような。
同級生ものの話もあらわれる。実は歳月の間に、誰かは誰かに成り代わり、そして今がある、というふうになっていたのかも知れない、今にして思いだすと。ファッションの話、そもそも「あんたのはまだまだファッションやけんね」、おおっとうなる。
アジア雑貨のひと、ゆかりさんは、同級生の日高さんに、マルチ商法に勧誘される。美顔器だった。ゆかりさんはお父さんの身体が心配なのもあって、実は店をやめようとしていたが、「そうやって割り切ろうとしているんじゃないですか」とか「いつまでもそのままでいてほしいんです」なんていわれもする。別の男たちだったか、「いけいけだった、あの慎吾さんに戻って下さい」といわれる男。すいませんを繰り返していたような32才の男とか、おれには才能ないし、なんていう男。
構築物イコール地上でとめてみせた花火。曲がりきれずに、オーソドックスに発見を求めて行く。

2015.8.30日曜日18:00博多リバレインホール 劇団PA!ZOO!! 「ビルクリ」。2000円。
清掃シリーズ以外を見たいとは思うものの、ビル・クリーニングに発展していた。3ヶ月たって、ビルクリ=ビックリ、のシャレ?に気がつく。ビルの清掃担当者と清掃道具が並んでいる部屋。こちらから向かって左手にトイパー、段ボールに入って少し山。その右に会議テーブルと椅子が2脚、それからずうっと右にかけて、道具類が並んでいる、清掃用帽子が干してあったり、仕事表、ハンカチやふきんを干してあったり、ビル栗日誌がぶら下がっていたり、さらにモップ類、車輪のついた衣類入れ、細かいものを入れるかごもいくつか。
一人登場して、ジャズダンス風に作業。そこに、つばの広い帽子の女、二人がぶつかった所から。
3人が個人情報や制服出勤の話、鬼平犯科帳と清掃業務の話、田中さんの私服、できるできないという分け方が可能性のさまたげになる、といっていたのか、こちらで思っていたのか忘れている。ブログ・ビルクリ日誌を更新しているひと。室内のうしろの壁に、「ニックネームで呼び合おう」という標語がある。
次々と話が出てきて、その間にストーリーが進行する。田中さん加藤さんにヘッドハンティングの話とか、掃除道具の掃除、スパイ事件もあって、営業のひとが、競争している三社で同じ薬剤の注文があるとか、いらないことをブログに乗せてしまったのか。
実はいつもにこにこのよく働く女性が、なんとヘッドハンターで、技量のあるビルクリのひとを迎えたいといっている。でだしのひろいつばの帽子のひとは、田中さんの娘だった話などもありひと騒動。
すごい台詞もでてくる。「できる人ばっかりではだめになる」。賛成も反対もしかねるような台詞が、よく出てくるシチュエイションに随分と笑う。あくまで仮定よ仮定の話、といいながら仮定し続けて作られたのかなどと勝手に想像してしまう。

2015.8.29土曜日18:00北九州芸術劇場小劇場女性の眼と句で綴る演劇 「花、盛ル。」。2200円。
向かって左手に黒いカーテン。その右側に椅子が二つあり、そして正面には、服のハンガー台、そこにドレスが11着くらいかかっている。ドレスは夜の町風で、かなり右によると丸椅子がひとつ置いてある。
二つの椅子に座っているひとがいて、ひとつのドレスを選んで右の椅子に座る、あるいは右の椅子に座っているひとがひとつのドレスをそのときは選び、二つの椅子のどちらに座っているのかわからない、その光景がかなり広く見え、実際は劇場内なのだが、通りを歩いていて正面がパノラマに見える感じを持つ。でだし、「みんなあのひとになる」という台詞があったような。さらに「本番45日前」とか、このあとも、あと38日、あち14日といった合いの手が入るのだが、重要な点だったのかも知れないがわからないまま。
向かって右の丸椅子の右手は、昇りの階段だったのかも知れない。正面から俳人を見る、その正面な所が、プロが高校生に戻って演劇をやっているように見えたのは、必然性がありそうな。「ざぼんさす5月となればひのひかり」。ここで扱われている杉田久女の句か。登場人物達は、正面のドレスをいろいろ着ていたような。そしてこの、句空間とでもいった所から、「この中で台本かけるひと?」と誰かが尋ねたか、エチュードでやるか、あらすじだけで、いやいやぶっつけ本番で、とかいっている。
その舞台の練習なのか、両手を上で重ねたり、スクリーンに単語が裏返しであらわれたり、「村人は一年前の半分になったんじゃ」「ペットボトルを持って来ましたね」、ヒメリンドウが咲き乱れ、「はい、だいたいかたちになってきたね」、あるいは途中で、「エチュードの原則、ノーといわない」、なんという台詞か、ノーというよりもさっきいった台詞を繰り返していくようでもあった。そして休憩時間か、弁当、からあげ弁当の人、チキン南蛮のひと、ビビンバのひと、そのあとかそれと同時にか、二人の女がひとつのショールのそれぞれの端をつかまえてくるくる回る、ここは半身かと思いきや、半分じゃなくて、ひとつとひとつのイメージ。
ラスト近くに、「演劇じゃなくて、あの人が好きだったのに」といってたか。実はきわめてテクニカルな舞台だったのだと、3ヶ月後とはいえ、どうやら分かりかけて来る。チラシもやっと読んでいるが、中に、「夢は叶えるものではなくて、タベモノだったんだと気がついた。」というフレーズを発見。女性の眼と句で綴る演劇、というのがテーマなので、少し及び腰になっていたかどうか。パラレルワールドみたいだけどパラレルじゃない。むしろパラレルでなさすぎるからパラレルワールドや混在に見えるのかなどと思ってしまう。

2015.8.22土曜日午後 ギャラリー・エス・ピオーネ grasp第15回展。
染織の技法をベースに、7人の作家の作品。
上から下がった細い布、ただの布地ではなかったような、10本以上、影も見てくださいといわれてびっくりする。布の円を重ねて作った器は、むしろ影の方に器が乗っているように見える。マネキンに巻いたピンクと白の布、赤い糸が何本かひらりと伸びる。工業製品のナットの穴から、はけのように糸が伸びる。茶色い薄墨というのもがあるのか、白から焦げ茶までのモノトーン、これはパンフレットにあったが見たのは別のだったかも。絵の上に布やビーズで髪の部分を乗せたもの、髪は何色でもいいというか、随分現実に縛られている事に気がつく。立体の箱のようなものに染色したもの。水玉をはじいたような画面。ギャラリーの外には、とげのないまあるいバラをふたつ、強くあしらったようなデザインの幟のぼり。
見ているうちに、実は頭痛のまま見に行ったが頭痛治る。影の説明などを聞いているうちに、自分の周辺を、整理整頓や収納という言葉でつまらなくしていないかと、今になって思う。見た事もないものばかりだったので、かえって自分の日常に置き換えたがってしまった。

2015. 8.20日曜日19:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演62 スタインベック作「敗北」。1500円。
和装でもなく洋装でもなく、胸当てのあるジーンズでご登場にまずは喝采。
エドワード・フィックスという男がいる。場所はカリフォルニアの真ん中。この男、町の人からは金持ちと見られている。どうやら駆け引きがうまいらしく、サメのフィックスとも呼ばれている。2万ドルくらいは貯めているという噂、ところが本当は5百ドル。実はまるで貯めていないが、あんまり人が金持ち金持ちというので、自分でもそう思い込むことにし始め、投資したつもりの帳簿をつくっている。つまりは、前向きの二重帳簿ということなんだろうが、それで自信を持つ、気がよくなる、周囲も楽しくなり、株が下がった時にはその前に売り抜けたなんて顔もする。
妻はキャサリン、さしたる愛情はない。娘はアリス、このアリスの成長に連れて、男には心配事が生まれる。ここからが本番。
アリスはとても美しい、この町にいるには。しかしおつむは大した事はないというよりも、かなり気にかかる、簡単にだまされるんじゃないか、父親である男は、心配のあまり、「あの娘は大丈夫か」と妻にしょっちゅう聞くようになる。
別にジミー・マンローというやさ男があらわれる。ものうげで手慣れた口調。話はホームドラマに知らぬ間に移行しているが、ある日男が留守の間に、そして男が戻ってみるとすごい噂が、男はあわてたか、その気もないのに銃を持ち出し、、、さんざんな目に会うが、そこからも話はすすむ。
聞き終わると、まずは聞けるひとに聞いてみること、それから初めからひとに相談することとか、細分化というほどではないが、と、急にこのドラマ、いまどきよくいわれることでもあるが、ひとつずつ分けて考えてみようという気になりだす。スタインベックのつけた本の題名はぴんと来なかったが、読演の説得力で、世間のひとごとと思いきや、そうではありませんよとくっついて来る。

2015. 8. 2日曜日18:00ヤフオクドーム 「ソフトバンクvsオリックス」。1000円。
ウエスタンリーグ。お客さんが少ないのでそのお客さんたちがよく見える。ボールの危険は本番以上と思った。というのも、雰囲気に飲まれていないのが反対に作用するのか、ボールの行方について、注意がおろそかになりそうだった。何万人もいるよりは涼しい。ファウルボールにお気をつけ下さい、アナウンスもよく聞こえる。選手の出身地もよく聞こえる。よくボールを見ているが、ヤマをはりすぎてるなあなどと、知りもしないくせに思う。滑り込んでの捕球、あるいはキャッチャーフライの捕球、客席ぎりぎりでのフライ捕球、もえろもえろ○○、ファイトファイト○○、連続ホームランあり、タイムリータイムリー○○なんてのも初めて聞く。不調の選手はまだまだそれが得意なのか、やたらとすくいあげるスイングをしている。かたやヒット8本で9点、かたやヒット7本で1点、スポーツとしてはひとこといいたいような所もあるが、おそらくそこが論点ではなかろうし、そのあとヒット11本になるがやはり9点のまま。ピッチャー交代すると客席から、おれと誕生日が一日違いや、のひと声に周囲大爆笑、あんまり声が大きいので見ると、痩せている人だったのにびっくり。

2015. 7.31金曜日20:00。博多レバレインホール バカダミアン 「銀河のくそ野郎ども」。2000円。
アンケート用紙に、いいと思った台詞や場面があったらご記入みたいにあったので、途中いくつか書くが、質問の仕方がよかった。
2時間のいまどき大作。悪いと思った所は、という質問もあり、星々の地理的関係がよくわからなかったみたいに書くが、嘘とはいえども、どこかしらつじつまがここでは必要。宇宙地図がパンフレットあるいは大模造紙にあらば。チケットは小さいビニール袋に飴が2個入ったもの。わかっていてももらうと驚く。
全26編中の3作というふれこみ、実際とは違っていたかも知れないが、事前チラシから一部要約。人類の数が増え宇宙に移民する。まずは罪人を送り込み、成果が出た所で、恵まれない人々など、新天地を求める人々を送り込む。ついには土星まで進出する。ところが地球にいたそもそもの上位者たち層は、このあたりでどうかと利権を貪りに行く。その周りに集まるおかしな連中、あるいは初期移住者たちの、強くなった子孫、宇宙はどっちに、混沌の宇宙の荒野、そこに弱い者の味方をする、変わったひとたちがあらわれた。というもので、土星に土はないはずだとかいうことではない。
舞台、奥の方、左右にゴミ箱らしきものが2個あるだけ。あとで思うと、これとこれとの関係、その連続で宇宙だったのかと深読み、してしまう。それが作戦か、でだしからよく笑い、こんなに笑っててもどうかと逆にあやしむ。
始まり。首に赤いマフラー、白いブリーフの男が4人。ひとりが隊長らしく、かけ声と共に乱れぬ動き、ついには、「覚せい剤、打ち方はじめ」とまでいいだす。勢いよく、しかし自分だけ逃げれるかというムードもあり、それを停めるのか、白衣の女登場。インカと白人の混血ですとか?、それからコズミックフロンティアに関する話。
女医のチエ、さっきの4人の特攻隊にまぎれ込み、技とウェポンに精通した男フィデル・スカトロ、パッションはありますばいというホー、どうやらこの3人が話の軸か、宇宙人間魚雷回転発進といって飛び出す。このあたりで、パッションという言葉を久しぶりに聞く。最後に聞いたのは、コミック交流会とかにあった同人誌名だったのを思いだしてびっくり。
それから数ヶ月。フロンティア203。どうやらはきだめのあたり、「ツルよ来い」といってたか、そこにはチエが現れている。「ドクダミを襲う動物をやっつけてやる」とか、この星の一日は30分で、さっきまでの大ドラマが、ここでいったん生活ドラマに変わる。
やっつけられそうな動物は、実はそこに住むインディアンが放している。先祖からの土地、誰が誰の役かわからないが、背中合わせにぶつかる、インディアンと開拓者か、働く姿が、田植えみたいに、うしろ向きに動く。インディアンさんたちとフロンティアさんたち。なんだか仲良くなり、誓いも立てる。資源が眠る土地を売れという奴もいるが、友情が大事と断るインディアン。そのワイフ、エイラ、かどわかされたエイラを救おうとするが、友情のいたばさみみたいな話もあったか、エイラは悪人ロックフューラー(冨田文子)の秘書になっている。テッドは最初はただだった薬がもらえなくなり、土地を売り、それでも足りずにインディアンを襲う。
貧しい子どもたち、ボランティア、チエの母のヤエ、隕石でダムが欠壊するが、ヤエはひざがわるく逃げられない。スカトロかホーか、パワードスーツをヤエに作ってあげるが、それを口上手に奪おうとするロックフューラー。
そのロックフューラーの速い動きと、秘書のエイラの速いけど少し遅い動きの場面。練習してたら自然にタイミングが合ってしまいそうだがそうならないのが長時間に感じられて名場面。でだしで宇宙にとびだした3人は、そのあとすぐに機械トラブルか、別れ別れになっていたが、いつのまにかまた出会っている。
「ぼくらはゲキダンをやっています」とか「芝居なんかやめてやる」なんて台詞もあったか、ロックフューラーの地位を奪おうとするエイラだったか、チエとエイラとのたたかいに話は移り、乞うご期待となったか。
見所満載、ホーのエア・ギターとか、右手からぱっととびあがってきて、ほんの一瞬弾いただけだが、音が聞こえた感じ。歴史についてのそれぞれの見識ではなく、ちょっと聞いたことのある話の組み合わせだが、世界史の講義としても、これを学んだからこうしよう、という点では難があるだろうが、動詞で動いているという感じにはまってしまう。

2015. 7.26日曜日14:00。ぽんプラザホール 池田商会ノーガード「愛し姫の小箱」。1800円。
近くの席の男性があとでいっててわかった。冷房が強いと思ったのも演出だったのか。舞台にどーんとつい立てが、三角形がいますと鎮座している。格子模様。これが4つの正方形に別れて、各場面の背景、室内の障子とかに変わる。正面一番奥に縦の柱があって不自然に感じたが、実は字幕を写すためのスクリーンだと途中からわかる。
午後9時56分、おきのどくです、じいちゃんの死に、6人が立ち会っている所から。「外はあぶない」、雷の音。ここであることを行おうとしている。怖いのと、整然とした会話が同時。じいちゃんの身体に縄を4本乗せて。
玄関先、別の日か、あけび48とかいっている。会話のタイミングが絶妙で、コンマ以下以下、まるで予測できない。こういった所があとあとの怖さにつながったのか、その会話中には右から左から、隠れているのか、人からは見えないのか、赤い服の女の子がよぎって行く。
しばらく心あたたまる。船着き場に船酔いの男2人女2人、一応アベック2組プラス船着き場の係の人、船着き場の係の人は、左の小さい事務所から少しして出て来る。アベック二組は船酔いのエチケット袋、紙製、裏側がビニールか、それを貸したり、既に満タンになっているのを貸したりしてひと騒動、袋の重量感が伝わる、あたたまっているはずだが、いつのまにか、おえっという感じのみを集中して責めてくる。このあたりからか冷房をきつく感じだす。
同時刻だったか、再びでだしと同じ配置、このあたりから、こちらにも余裕が少しできたかおそらくこんな話ではないかと思いだす。あとでチラシを見るともっと恐い言葉で書いてあったんだが知らず、「いいかこれは掟なんだからな」、男が母娘の2人にいっている。
旅館にたどりつく4人。船着き場の人に車で送ってもらっている。4人のうち2人はこの島に縁がありそう。男2人は知人で、数学者と生物学者、おっぱいの話、話だが学者が論じるという調子で。男のうち一人はどこかで「何々ちゃん、なんでこんな所にいるの」といわれたか、小さい頃にこの島を出ていったらしい。しまいにはおまえの分も俺たちが受け持ったみたいにいわれる。舞台のつい立てとうしろのスクリーンが、そしてそのスクリーンに文字があるのがお墓に見える、あるいは地図記号の墓地にも見えて来る。4人は次第に島の謎がわかって来るが、このあたりからは無軌道にストーリーが走っていくようで、4人と女中さんとの会話、赤い服の女の子が死んだり、ホラー、「これはこの島ではフツーの事なのよ」、ほんとにその島にいて、表面はあわせつつもなんとか逃げ出そうとしている自分に気がつく。とっくにはまり込んでしまっている。
その掟によって、それを守った守らないというあたりからか、守ろうとするのも狂気、しかし守らないとはいってないが、守りたくはないひとの方がむしろ狂気のようになり、男の一人は、過去を思いだしでもしたようにこちらも暴れだす。集団で夢を見ている世界、それとひとりひとりとの異なりよう。ホラーそのもののいでたちだが、どこかで聞いたような歴史をもあとで。「今日は疲れた、ゆっくり薬でも飲もう」、などといってたか、旅館に入って終わるがそこに再び、、、。あー、本当にこわかったと語り継がれているに違いない。
反対に、何でもない島に、掟を持った4人があらわれたらどうか。ホラーと実際の歴史とに変な話だが近接まで感じてしまうが、考えかけて怖くなる。

ルゥイ・ボナパルトのブリュメール十八日。カール・マルクス。高橋正雄訳。
新聞の記者の目、という欄を読んでいたら、毎日新聞2015.7.22掲載だが、「将来、会社員になる学生には、近代経済学の最新理論より、マルクス経済学の基礎である『雇われるとはどういうことか』を教えた方がいい。」と、記者の恩師が、いつかはわからないがいっていたという記事を目にして、気になりだす。
でもって、ブリュメール十八日をひっぱりだしたが、お懐かしどころか、細かいストーリーは追えないままに、これで3回目と思うが、はまり込む。ルポルタージュ文学の最高傑作と思っているのは何かと比較したわけではないとはいえ、「世界の歴史ですべての大事件や大人物は、」で始まる、たまに引用でも見る有名なでだし、続いて「人間の歴史をつくるのは」、それから「初心者というものは外国語をいつも自国語に訳してもどしてみるものではあるが、それをしないでも」と、最初の1ページだけを読むだけでも、うなりはするが、ああできねえなあと思うことの方が多いが、この部分だけであとの110ページくらいまではひっぱり込まれる。途中にシェイクスピアからの辛い引用も2カ所。途中からはもう、誰が誰なのかわからないのは悔しいが、それでも、多くの人間がうごめいていたということが、まさしくルポルタージュといいたいのはそこで、しかも終わり近くにも、うまく意味をとめきれないが、ちょっとそそのかすような言葉もある。
正しくは読めていないと思うが少しおさらいを。1799年に、いわゆるよく知られた方のナポレオンが、ブリュメール十八日と今ではいわれるクーデターを起こす。それからいろいろあったんだろうが、1814年にはまたルイ王朝に戻る。さらに1830年に7月革命というのがあり、それから18年後の1848年の2月まで、わりと長いがルイ・フィリップが王になって政治を行っていた。
この本、というか、そもそもは通信レポートだったらしいが、これはその、1848年の2月から、4年近くの間に、ここをフランス第二共和制というらしいが、4年近い間に、議会や議員がいろんな思惑で動き、マルクスは時に当時の経済事情、景気の好転とか後退についても述べてあるが、ほんの4年近くのち、つまりは1851年の終わりにやがてあのよく知られたナポレオンの弟の子どもの、ルゥイ・ボナパルトが、有名な叔父のナポレオンの真似をしてとは書かれてなかったと思うが、クーデターを起こす、ここまでの実に短期間の記録でもある。
あ、ここの所って、今の何かに似てないかと思う所は多々ありそうだがそこは抜くとして、全体としては、議会や議員、それから党派、分派、結束の仕方とか、自分が代表とする階層や階級、たとえば土地持ち、お金もち、商人、労働者、そんなこんなでいろんな案を出しては否決されたり、憲法修正の票読みとか、いろんな努力をやっているうちに、しまいには議会そのものが空洞化するというか、おおまかに民衆といってしまうが、人々の支持をついに得られなくなり、もはやこれしかなかったのかも知れないが、ルゥイ・ボナパルトのクーデターが起こる、そこにいたる経過をことこまかに描いているわけだ。1ページ目の註にある1899年は1799年のまちがい。岩波文庫に、こちらは「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」伊藤新一・北条元一訳でもある。岩波の方がひとめ読みやすそうだが、最初にある第3版のはしがき、エンゲルスの書いた所だが、そこがどうも、ちとマルクスとエンゲルスとの関係をそっけなく感じたので、そっちが本当に近い訳なのかも知れないし、ストーリーもわかりやすそうだが、高橋訳のままで。
はじめは共和派がリードするも、途中からは秩序派、ブルボンやオルレアンが優勢になり、しかしそれも混乱していくのだが、説明しきれないし、それよりもここでは、文章で描かれた、歴史のダイナミズムにうなっていただきたい所としてしまう。
自分がいちばん反応したのは、謎めいていつつ、いまだによくわからない箇所で、105ページ「これでわかるように、すべての「ナポレオン理念」は未発達の、青春の分割地の観念である。」とあるところ。その前に農民にとっての所有について、分割地という言葉を使っているが、そことはうまくリンクできずに、もしかしたら実に簡単な事で、いってみればヒーロー幻想というものを若いひとは持つもんだ、くらいの意味かも知れないが。自分の中では、全部読んだわけでもないのに、マルクスといえばこの一冊になってしまう。それこそ、こういうことを教条主義というのかも知れないが。

「グズ病」が完全に治る本。S.ロバーツ。伊東明訳。
これこそ自分の求めていた本だとばかりに、念のためにと2冊購入してしまう。もちろんなかなかはっきりとは認識したくなく、かといって人にいわれたらいやだなあと思っている事が盛り沢山。唯一の難点といえば、こういったスキルアップのための本におそらくは共通していると思うのだが、これは本の責任ではなく、それを読むこちらの、特性とでもいおうか、それが簡単そうでいて結局はうまくリンクできず、見えやすい場所に置いているのに、いつのまにか開かないままになるのは何故かということで、それはもう答まで本書では言っていて、39ページ「最初から不安に向き合えば、課題はもはや脅威にならなくなるのだ。」心強いばかりではないか。作者の方がじれったがっている。
ひさびさにまた開く。ああと後悔。しつこいが本の責任ではない。ではどうすればいいのかといえば、おそらくは自分がそのスキルアップ本を書いてみる、あるいはいまさら読んでもむしろ周回遅れだと思うと、急に元気に近いものが沸いてくる、といったところで、自己啓発書だが確認書へとへんぼうさせてしまう。
とここまで打ったら、古い冊子で、ひっぱりだして正確に題名を見ると、「脳の元「ノーソ」補給による新強脳療法」昭和12年。スキルアップなんて言葉は当時の日本語にはなかったろうが、「ノーソ」という薬なのか、それが完成したので、今では使わない言葉と思っているが、神経衰弱等にきくということで、払込通知書もついている。自己啓発本とは少し違うのかも知れないが、何をどう習ったかの大きさに、一瞬がくぜんとしては、同じ大きさで冷静になったりするところに、ひとに聞いた事はないが、読者それぞれのコツがあるのかも知れない。

将棋ソフトについて。
400敗1分あたりからはどうでもよくなっていたので、おそらく500敗以上にてやっと勝てるが、それとても、待った!をほぼ10回くらいやったあげくのこと。早めの仕掛けで、駒を渡さないことをこころがける、たいていソフトは穴熊作戦にでてくる。勝利感は人間同士の対戦と同じ。機械のとる反応が人間と同じだったら、それは人間と同じだ、というのがチューリングの提唱だったような記憶あり。しかし対戦者に気を使わなかったところは人間と違っていた。しかしそれをいうなら律儀に考慮時間を守っていたのはソフトの方でもある。とはいえ、負け続けてもなおもやっていたのは性格というにしても、どこかおかしい。おそらくは悔しさがまるで沸いて来なかったからだろう。プロだったらもっと考え込んでしまったりするんだろうが。前にテレビで青野照市九段が、「ソフトの進化はプログラマーの人達の見事さで尊敬するが、同時にこれだけコンピューターが発展しているのに、人間の方がここまでやれる、というそのすごさをもっと見て頂きたい。」というようにいってたのを思い出す。今後このソフトと時間つぶしでなく対戦するときは2時間勝負でやることとする。もっとレベルをあげると実はまだ強いみたいなソフトだが、最初に始めたレベルのままに。ソフト名をみるとKiryu 1.1.0というソフトで、Bonanza 4.1.2 (Shogi AI Program)を搭載しているということのようだ。画面は普通の盤面なのでそのまま転載。感想戦でああだこうだ、このときはこういかれると困っていたといった会話がないのを難点と思うかどうかは個人持ちか。 以下終了図。6七角以下の詰みを、5手くらい前まで、それも2回は待ってもらった次第。交渉もせずに待ってくれたのに感謝!

shogi

2015. 7.13月曜日15:30ユナイテッドシネマ 「ターミネーター最新作」。1000円。
いきなり未来からハイテクマシンで過去に戻るのだが、あなたの思っている過去と、過去も変わったようにいわれ、年代はとび回り、ストーリーはすぐにわからなくなる。前にパプーシャの瞳を見たときは、それでもある時代の事だろうと、わかりにくいながらも流せたが、こちらは、見ているひとはみんな処理能力があるのか、それとも今までの作品を見ているひとならすぐわかる事なのだろうか、本作では歴史のつなぎ目というか、もちろんそんなものはないんだろうが、タイムトラベルものとしてはむしろ本道にしても、あっちの時間とこっちの時間とか、背景色でも変えてくれるとわかりやすかったかも知れない。あと液体ロボットの利点が今ひとつわからない。だから研究してみるというひとがあらわれそうに感じない。とはいえ並みいるアクションにひっぱられて、あー映画観た、と実際には思ったわけだが、とはいえ第一作の、単純に、どこまでも追いかけて来るロボットのはらはらを久しぶりに思いだす。あわてて家の外に出たひともいたんじゃないかとか。

不思議な少年。マーク・トウェイン。中野好夫訳。
読んだことがあるみたいだが気になりだして。ちなみにハックルベリ・フィンもトム・ソーヤーも、ご縁なくて全く知らない。なんといってもマーク・トウェインというと自分には、新スタートレック第125話の「タイム・スリップ・エイリアン」、今ネットで調べただけだが、これに出て来るアメリカの作家で、頑固なアメリカ人というイメージのみ。
不思議な少年は、あとがきを先に読むが、作者晩年のペシミズムが出ているが、それでもユーモアもあり何とか読ませるみたいに書いてあったが、実際にそれを経験してしまう。ただし、これをペシミズムというのかという疑問と、それにつけても、といっても他の作品を知らないのだが、一応はペシミズムだとしても、なんだかよくぞ書ききったもんだという驚き、カントが晩年に認知症みたいになったがそれでも彼は考え続けたという話を聞いたことがあるが、それを思いだした。
オーストリアのある町、中世、魔女狩りのあったという時代、登場人物は、大人では、強気のアドルフ神父、その神父がしかしかなわない星占師、そして、まっとうというか弱気だが星占師には真っ向から否定的で、貧乏に落ち入ったピーター神父。それから子ども達がおおむね3名。そこに不思議な少年があらわれる。あらわれて奇跡を起こす。ピーター神父の窮状を救う。しかし何故救われたのかと周囲はあやしむ。
でだしは森田草平訳のクリスマス・カロルを思わせて、どこがペシミズムなのかいな、いい話と読めていたが、23ページに来たときに、あれっと思う。この本、読んじゃだめ、と思いだす。不思議な少年とはいうものの、どうも空想の中の純粋機械のように感じだしたのか、しかし短い話でもあり読み終える。
今また開くと、97ページ「だが、恐怖もここまで追いつめられると、かえってまた勇気が湧いた。」。100ページには「・・・風景の変化は心の重荷の肩がわりをしてくれるし・・・」と、いいこともいってるのだが。ついにはユーモア感覚までを否定しと、ええっ、となるが、ラストでも、とてもいいこともいっている。作品の構成もしっかりとしているが、ペシミズムといわれるのは、その構成の、どうにもしっかりしすぎている所と、あと、ラストの金言ともいうべき所が、作者の熱情ぶりにかえってしんどくなるからか。

お貞(てい)の話。小泉八雲。上田和夫訳。
小泉八雲といって、今関心があるのは、神国日本−解明への一試論、という翻訳本で、どうやら戦時中に、日本人について研究するための資料として使われたという話をどこで聞いたか、ああ、研究してたんだなあと、もちろんそれで八雲がどうのこうのという事はないが、確か八雲は最初は、やっとたどり着けたいい国日本が、これだと悪くなっていくというような論調を持っていったように思っているので、どうやら小さい共同体のよさが失われていくように感じたようにも思っているが、多分読めそうにないので手にとることはないだろうが、気にはかかる。
お貞の話は、怪談、の中の作品で、文庫で5ページ、すぐ読めるどころか、以前この話の朗読を聞いたこともあり、ほぼ棒暗記もしているが、怪談というには怖さよりも、ほんの5ページの話にしてはドラマもある上、なんとかハッピィエンドな話でもある。
幼なじみの男女のうち、女の方が死に、いやいやあらすじはさすがに短すぎてパス。むしろ八雲の論理のちからを、これくらいのことでわあわあいってるのかともいわれそうだが、妙に決まっていると思った所が2つある。
まずは2ページの一行目で、男が、「まじめに答えた。」とある所。そして4ページでは、女の方だが、「彼女はこう答えた。」とある所。どうにも対になっているように読める。さらに、2ページ、「彼女は、彼の顔をじっと見つめながら訊ねた。」と、4ページ、「そこで、彼は不思議のあまり、女にこう訊ねた。」とある所。いずれも場面を叙述してあるだけの所だが、この叙述の所で、二人の結びつきが、会話の部分よりも、何回も読むにつけ、いっそう強く伝わってきていると思える。他にもあるかも知れないが、私には、見事な作品構成力と読めてうれしくなるばかり。単にこの訳が自分にはいいだけのことかも知れない。後日、キンドル本の方を読むと、どうも自分とは違っていて残念だった。。

2015. 7.12日曜日午後 ギャラリー・エス・ピオーネ 西頭真美子染色展。
名字の読み方がわからないままに。ろうけつ染め、という言葉にひかれて。この言葉、使ったことがあるかも知れないが内容は知らなかった事もあり見に行く。20点近い、大振り、縦2メートル横1メートルくらいだったか、布を染めている。作品名は、風、実、夜、夕、といったシンプルな表題で、実際に花や葉の図柄が多いのではあったが、ひとつにまとめてみると、これが芸術作品の効果か自分のかんちがいか、その花や葉の図柄を、図柄やあるいは曲線の多さからか、人の横顔や動物にも見えても来るのだったが、そうではなく、何かに似ていると思わない方がいいように感じ始めて見ると、作者に失礼なのだろうか、さらに面白く集中できて来る。
丁度作者がおられて、そのデッサンの具体的な手順が聞けたが、道具の種類はわりとさっぱりしているように感じたが、とっかかりのエネルギー量を感じるとあとは説明されるがまま。1階にあった、透明感のある、ということは薄い布地なのか、フルーツの「印象」を切り取ったような作品が自分には一番面白く、染めといえば藍色で、それもいくつかあったが、あっさりと原色を使った作品の方がよく見えた。オレンジ系の色が油絵よりもよく、油絵だとオレンジ系の色は、いかにも色を置いただけに見えるようにも思っているので。
ところがこれまたあとで見に行ったきっかけの新聞記事をよく読んでいたら、「下絵に時間をかけず即興的に」とあったのでびっくり。下絵に時間をかけてと理解していただけに。ひとまず、そりゃご本人はそう感じてるんだろうなということにしてしまう。まあ、きちんきちんと理解が応答していたら、そもそも作品は生まれないということのひとつとする。今になって感謝。

2015. 7.11土曜日19:00博多リバレインホール 劇団Hall Brothers 「あのひと、賃貸だから」。1800円。
長テーブル2台を並べて折りたたみイスが6脚。遠くから見えやすいようにか舞台が60センチくらい上。舞台後方が少し明るめライト。6人物の謎と表題を変えてもいいかも。男3女3。夏祭りの為の会議だと途中からわかるが、つかみはインスタントコーヒーの入れ方のうまい人について、これほんとにインスタントと周囲が感心する所から。場所は希望ヶ丘。話題はもちろん夏祭り実行委員会だが、ついつい他のひとのウワサ話、事実も含んで、まずはちっとも積極的でないひとについて、あの人は賃貸に住んでいるから熱心でないんだろうとか、まあこれはきつい役をふられたもんだと思っていたら、次の幕からはそのちょっと暗い感じのひとが、ゲームの話題から一転して、熱心になりまくる。
まるでストーリーになりそうにない身近な話、知らない人とのおつきあいからだったはずが、40分過ぎたあたりからは、こわくないけど興味津々となっていくサスペンス感覚におそわれる。幕のたびに、6名とも衣装が変わっているのにもやっと気がつき、日常がそもそもそうだよというのと同時に、それだけにこのあたりから、いいにくい台詞が、どんどんでて来始める。
顔本というから何だと思っていたらそれはフェイスブック、まるで謎がなく一番落ち着いて見えていたひとにも、人から見るとあれれということがあったり、やっとひととおり話は終わってと思いきや、まだまだあって、関心がないとか興味がないといった発言にも、急に苦言があったりと続く。
演劇を見るむつかしさ、といってもただ見ているだけだが、あーもう一回見たいというのと、もう一回見たらかえって最初のインパクトが壊れるのはいいが妙に冷静になりすぎたりしないかとか、もう一回見ると前回とは微妙に変わっていて確かに面白いことの方が多いが、それを期待するのも、舞台の方じゃなくて、見ている自分に期待しているんじゃなかろうかとか、知らん、とか、ひさびさにあわてる。

2015. 7.10金曜日19:00アトリエ戯座。演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演61佐江衆一作「水の匂い」。1500円。
いつものしゃれた劇場内、コーヒーを飲んだあとか、七夕が飾ってあるのに気がつきおおっ。高さの半分が孟宗竹で、斜めに短冊が2枚貼ってある。その半分から上が笹竹で、今までの公演チケットを元にしたらしく、短冊として均等に笹に結ばれている。
丁稚と娘軽業師。娘の方があとでわかるが15才で、丁稚の方が少し下。舞台後方から、おはやしの音。お盆の薮入りだが、丁稚には帰る所がなく、町に出るとちょうど娘軽業師が演じていて、どうやら高い棒の上で獅子の衣装をとるとあでやかな娘に変身して、それから地面にぱっと降りるという趣向。ところが着地に失敗する。実は正月の薮入りの時も見たのだが、そのときは成功していた。ここで丁稚はうるんでしまう。かわいそうに酢を飲まされたり、このあとも怒られたりするんだろうと。といったでだしから始まる。ちょっと泣けつつもほっとする。
長い話ではないが、会話が途中から子ども化していくあたりが抜群。バックのおはやしを聞いているうちに、京都は京都として、日本の古都・江戸、という感じを持つ。手を伸ばしたくなる感じのことを、楽しい、と確かいうんだったかなどとも。

タルチュフ。モリエール。鈴木力衛訳。
モリエールは別に苦手でもないが、読んだ次の日にはもうどんな話だったか忘れてしまっている。現代から見ると平板な話に読めるのか。しかし読んでいる時はそれどころか、現代でも横行している詐欺事件と、全然変わらないのを、むしろ不思議に、出来ればひっかからないようにという教訓はむかしからあったのかと、単純に素直に読んでいるつもりなのだが。
喜劇として終わる、からかも知れない。読み終えると、ひとごとになっているからかとしか、言えそうにない。あとは読む上でのヒントで、登場人物は少ないが、それでも誰と誰が兄弟でとか、先に印でもメモでもとっておくといい。場は変わっても、その前の場に一人加わっただけという事もわりとあるようで、そのこともあり、途中からはもうひといきとなる。古い作家であるが故に、おまけに国王の時代の作家でもあることで、割り引きたい事も多いがしかし、原点に帰るとまではいわないが、ああ、こういう事をニンゲン様はやっぱり思いつくもんだと、このやろうと思うくらいは伝わる。
母、その息子、そのまた息子、そのまたらしくまだカッとなりそうな年代、タルチュフとその召使い、そのまた息子の妻、ところがそのまた息子の義理の兄と、述べるにつかれるが召使い他だが、驚いたことに、最後にあげたこの召使いさんがほぼ主人公といっていい。いろんな機転をきかす。
タルチュフは一段上を行く。都合がわるくなるとこんなことも懇切丁寧に詐欺師はいうのかというくらいには。やっと反撃だが、それでも初めは用心をするタルチュフ。なんとかめでたしとはなるものの、訳者あとがきによると、すんなりと上演されたわけではないらしく、ここのあとがきはもっと欲しかった所で、当時のフランス古典作家の理想が「時代を超え、国境を越えた人間の型を描く点にあり」とあるが、文庫のあとがき故の分量制限だと思うが、はっきりしないのが残念。
ストーリーの、こまかい所も面白いが、こういった信心深いひとは、だまされてみるまでは何をいっても無駄だということが、わりとあっさりと伝わり、ゆううつさにも襲われる。特に演劇のために訳したとある。

白い牙。ジャック・ロンドン。白石佑光しらいしゆうこう訳。
でだしを中心に、翻訳者の権利のなんとか範囲内と思いつつダイジェスト。
イヌを6匹連れて雪の中にいる二人の男。ところが餌をやると犬が7匹いる。オオカミが侵入している。いつのまにかイヌは、5匹になり4匹になる。眠るごとにオオカミの包囲はせばまってくる。ついに憤ってかとびだした男も食われる。残る男一人。火をたやしてはいけない。眠い。近づくオオカミ。飢えているのだ。オオカミと目が合う。気がつくと男は助かっている。その前に死んだ貴族を捜して、捜索隊が来ていたのだ。
獲物を求めてさまようオオカミたち。満足な身体をしているオオカミはいない。
初めて斜面を経験すると悲鳴をあげる。「初めて火星に達した地球の人間みたいに」、とロンドンは形容する。
飢饉が来ると母オオカミはオオヤマネコの子を襲い、復讐とは書いていないが、洞穴に来たオオヤマネコと闘う。「人間のような考え方では考えなかった」、とロンドンは書く。

ようやく人間が出てくる。人間はイヌたちをうまく利用してソリをひかせる。人間の子どもたちへの用心、老犬とのたたかい、1年後に会った母オオカミは、もう子オオカミを忘れている、覚えるようには出来ていないのだった。
127ページに、「本性の暗示にそむけば、本性は必ず内へ向かってはね返るものである」、とあるが、本当にそうなのかしら。やがて灰色オオカミは、コンプレックスのかたまりのような男に飼われいじめぬかれ見せ物にされ、どんどん凶暴になっていく。ボルヘスはロンドンについて、彼は死の中に虚無の寂しい光云々と述べているが、このあたりまで来ると、もう、頼むから、付け焼き刃的でもいいから、ハッピィエンドに、ジャック・ロンドンがどんなに孤独だったにせよ、がんばれ、頼むから、作ったような話にされてもいいからハッピィエンドにさせてくれと願わずにはいられなくなる。願いがかなう。

曖昧の七つの型より、第一の型。ウィリアム・エンプソン。岩崎宗治訳。
文庫で上下。私ははね返されたが、おそらく著作権ありとは思いつつも、ここは単純にいい本みたいだけど読めなかった記録として。
エンプソンはまず、曖昧というという言葉を、ここでは広い意味に使うと宣言する。そしてまたこの研究が、分析的な研究であると立場を述べる。次に猫についての陳述について、そのひとつひとつをおき直すと空間的な関係に置くことができると、分析可能ということについて説明しているのか。800ページくらいの本だが2ページ目からわからない。シェイクスピアをあげてはいるが、あげている例はそのソネット集でここでもついていけない。さらにいうなら、こちらが思ってもいないような反論を、エンプソン自身が考えだして、それに反論しているとしか思えない。批評家としての注意力の強さとはいえ、よさそうな本だがまるで読めない、それこそ空間認識の差ということになるのか。
型の説明以前に、七つの定義の違いからしてわからず。おまけに、曖昧の定義から詩の話へと発展というか説明してくれるのだが、そこでまた反論についての反論らしきが20ページくらいは出てくる。ちょっと面白かったのは、おとなにならないでいられる可能性がいわれだしたのは19世紀以降だといっていること。
70ページ目。ここまで来たのになんと、このあたりまでのかなりの部分は、自分の立場を弁護するために書いたという。それからまた分析の例示となる。さらに15ページほどすすんだ所で、この本に手をだしてよかったという、もちろん作者は英語を扱っているわけだが、唯一出て来る。
ここでエンプソンは、詩が散文よりも凝縮度が高くなることを理由づける。さらにいう。同じ理由によって、以下まるごと引用。「詩人は、ふだん他人の言うことを理解するために現代の会話文体に理解力が集中できるよう習慣づけられているはずであるのに、書くときには会話文体に対して無感覚である。この無感覚が救いがたいこと、すぐ目につくこと」、以下省略。エンプソン自身、詩人でもあり、これはそもそもいい作品について述べていることだが、経験としてこのような事を述べた文章を見たことはあるが、ここまで書かれているのはこの本しかないのではと思える。さらにリズムと曖昧との対立、ここなんぞは、詩を書くひとは音楽に気をつけよう、音楽はもちろん好きだけどと、日本語でもいってたひともいて、興味だけは沸く。そこから50ページ、私には全くわからないままに第一の型については終わる。
翻訳はおそらくよくもまあ訳せたというようなものなんだろうが、ここで脱落。古い解説本、スタンレー・ハイマンというひとの本だと、簡単にかんどころを押さえてはいるんだろうが、簡潔すぎてとっかかれなかった。どういうひとたちがこれを読めるのかとは悩みつつも、やっとあきらめきれた作品。感謝。

2015. 6.20土曜日18:30青年センター とみーさんぷれぜんつ「藪の中」。事前予約500円。
囲み舞台。客席周囲4方向に。開演前から中央で女性が一人、いろいろなポーズ、寝相のようだったり、エクササイズのようだったり、裸足、あきない、いつのまにか立ちあがっていて開演前の挨拶。
5人、登場、裸足、おおまかにいうと麻で丈の長い、春夏用コートというイメージ。しばしエクササイズか、足を前後にやったり、座ってからの前後運動だったり。5人の見かけ上の大小関係。さようでございます、原作のでだし通りの台詞とともに周囲に散らばる。台詞はおそらくすべて原作のままだが、演出にもうびっくりしたこと。男のいいぶんを女がいったり、2人で同じ台詞を、しかも同じ台詞を互いに、同じ台詞なのに私のいっている事の方が真実だと、対抗するように喋ると、それだけで、同時なのにもひとつへだっている世界が出て来る。気がつくと茶色に黒の水玉の男が、ゆっくりと舞台の周囲を歩いている。
原作には、話の不一致はともかくとして、軽い余韻もあったように思っているが、見ているうちに、演じているその外側に、あっさりと別の空間、といっても地球はどこにある、地球は太陽系にあるといったようなものだが、それが派生するような感覚を持つ。誰かひとりが先に偵察にでて、この先に不一致がありますよといいつつも、でも不一致でいいんですよといっているみたいに思えるのは、少し自分が今風にそう思いたいからかも知れない。40分。

2015. 6.16火曜日午前 福岡市立美術館 「山本作兵衛の世界」。1300円。
絵をワンフレーズで説明できもしないだろうが、覚えた絵を以下列記。むかしこのひとの画集が出たとき、新聞の記事だったかで、なんだか漫画みたいな絵が一枚だけ載っているのを、上野英信さんと思うしかないが、とても誉めている文章を見て、不思議に思った記憶あり。そういうレベルということでもあるわけだ。
実物の石炭、黒く光る、黒ダイヤ。おそらく美術館準備。
陸蒸気が橋を渡る、機関車のてっぺんのふただけが銅の色と解説、川に棹をまっすぐに立てて、てやんでえ、仕事をとりやがってからにと、しかしキゼンとした男。
15度以上の角度で木製の運搬車をバックさせる、キケン、女の方が力自慢の男よりもバランスがとれたという、頭を車にあててふんばる。
低炭層での採掘、自分の頭が邪魔になる。
けんか、斬り合い、真剣。
軍隊や警察が出た、米騒動、炭鉱の方が他所よりも米は高かった。
電柱に登ってマイトを投げる男、下からはもっとやれのような声も、降りて来ない、軍隊が打つと一発で冥土へ。
けがをした坑夫のうちに、医者とか見舞客がおしよせてくる、そのあとにまた見舞客がくると男は死んでいる、キツネが多く、特に皮膚の傷は大好物だったらしい、本当の話だから仕方がない。
リンチ、逃亡、男女のもつれ、火の上で逆さに吊って、入山したばかりの若者に、こうならないようにとか、メシの時間に見せる。
いれずみをしていないと男じゃねえ、という認識があった。
ぼた山、昭和になって水洗機が出来てから、平置きですんだボタが増えて山になる、その山にまたボタをのせるために、ボタのてっぺんまでレールをあげて、運搬車でボタを山の頂上にのせる、火がつくと消火出来ない。
命と泡が同じ。
手掘りから昭和には機械化へ、1メートル、2メートルの細長いドリルの先。
ダイナマイトが発火せず、近づいた時に爆発、簡単に死んだ。
運搬車の横にちょい乗りする男、赤い胴巻きに吊りズボン、女にもてたらしい。
子どもの遊び、魚釣り、川の、河童が出るあたりには誰も近寄らないがそのためか魚が多い、なんとか魚だけとれないかと考えていた。
風呂、浴場、混浴、真っ黒で尻もふかず、ドーンととびこむ男が多かった。
きらわれ者、天秤の両方に酒樽を下げて、どっちに入っているか当ててみろという、ものを借りても返さない、ほしいものがあると真剣を出して、どうするどうするとおどしたという。
天井に向けて採掘する男、熟練者でないと出来ない。
天井が落ちないように、木を組み合わせて補強する、崩れるときはひとつ崩れるか、いっぺんに崩れるかのどちらか。
メタンガス、いっぺんにやられる、あかり、より安全になっていくがまだまだ
二人一組が基本、小さい採鉱堀では女一人のときもある。
十人以上の集会禁止、こっそりとやる盆踊り。
かけごと、休みの日は読書する者も。
学の少しある坑夫で酸いも辛いも分かるひとだったが、戦後のショックもあったのだろう、メチルアルコールで死ぬ者
奉公炭というものあり、戦中。
絵に文章がついていることもあるが、こんなに長く、2時間以上も美術館の中にいたことがないので、帰宅してびっくりする。さらに驚いたのは、思いだしたら、相当覚えてしまっていた。

2015. 6.13土曜日19:30ぽんプラザホール あなピグモ捕獲団 「ユリイカの罠」。2500円。
字幕、いつも思い出している―この場所を。3人の女とイヌのオクルス登場。ツバキ、カマチ、エノキ。カマチが、「私はハルオミが好きです」といい、冷やかされる。消去していったらハルオミが残ったという。星のおしまいが見えるかもと集まっている。おしまいの光が見えるかも。「すげえ長く吠えるね、このイヌ」。はじまりがあればおしまいもある。「輪廻天性の彼方まで恨んでやる」。2人あらたに登場。沈黙。襟に水玉、黄色や緑、ジーンズ柄の男と、水玉模様のついた服の女。女はカメラおたく風な、しつこい人風で出て来るが、実は別の目的があるが当分はわからない。男は写真嫌い。写真について、「こんなに早く過去に葬られるなんて」、などという。これからが実に長く複雑、多く勘違いして見てる所もあったと思う。
オシリスとか石版が浮かんだり、なんだかアダムとイヴは複数いたような気がしてくる。総括という言葉もあったが、ちょっとこの作品ではどうかと思った。触媒としてのマンガンの軌道、触媒だと一軌道に一電子だったか、などと別の事を考え出してもいつつも、途中で、じゃあ8日目はどうなるんだろうと思っていたら、8日目がすぐにあらわれる。役者18名、2時間。帰りの電車内でそれこそ、はじまりと持続、持続といえば持続といえば、エンプソンじゃないしエリク・エリクソンでもないし、上の名がジャックかジャンか、ああっとアンリが出て、またエリク・エリクソンとかに戻りつつも、アンリ・ベルグソン、やっと駅に着く前に思いだす。後日チラシを見ると、なくてもいい世界なんて書いてあったが、そりゃちがうと思う。ストーリーはわからなかったが、人物も犬も、しっかりしていた。

浪曲。天保水滸伝より笹川の花会その二。二代玉川勝太郎。
政吉はびびる。親分の代わりに来てみたものの、しかも親分が5両しかださないのをさすがに少ないと思い、自分でつけ足して25両にして繁蔵の所に来たのだが、二階にあがったとたんにあっと思う。雰囲気がまるで違う。よく見れば大前田や国定忠次やらの、大親分たちが座っている。親分は病でと親戚の者が居合わせてフォローしてくれるが、今後よろしくと挨拶をして行く途中、国定忠次につっかかられてしまう。何が親分が病でだ。ほんの近く、7、8里じゃねえか。ここには遥かに遠くから来てくれた者もいる。戸板に乗って来てそこで横になっていても誰も文句ひとついわねえぜ、と忠次がたんかをきる。それともお前んとこの助五郎と、この花会の主催者繁蔵との間には、何か遺恨でもあるのかと問いつめる国定忠次。しかも今日の花会、相撲の祖である野見宿弥の碑を建てるための花会、近頃飢饉やらよくない事が世間には続いているので、堅気の衆への応援のつもりで建てようという趣旨で、もうすぐ誰々がいくら寄進したか紙に貼られて出てくる。これだけの100両単位の親分衆の中で、25両という端数のある金額。ああ、おれもこれまでだ、と政吉。「人間いつかは死ぬときもあるとはいえ、おれの死に場所はここだったのか」。しかしひとりじゃ死ねねえ。よし、忠次を道連れに一暴れして死んでやろうと腹をくくる。
ところがいきなり、忠次がいいだす。すまねえ、おれはどうしてこうも、余計な事に顔をつっこむんだ。そりゃあ助五郎は病がきつくて来れなかったんだろう。帰っても親分に、おれが怒っていたのは内緒にしてくれといいだす。それまでうつむいていた政吉が、張り出された寄進額をそうっと見あげると、自分の親分の助五郎が200両で、その子分の自分たちは50両ずつと出ている。実は政吉の親分助五郎と繁蔵とは、争っている間柄だが、このときは、つまりは大親分たちが集まる場所だったのでとはいっていないが、気を使ってくれたのだ、笹川の繁蔵は。なんという人間の大きさだ、とはいってないかも知れないが、しかしおれにもメンツがある。どうなるのか。政吉は忠次に、なにおーっ、といって手を出す。

2015. 6.10水曜日19:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演会60 菊池寛作「入れ札」。1500円。
さすがに著作権終了と思い、以下にずらずらと。とはいえただ50年後の読者というだけでは図々しいが、聞いているうちに正確ではないだろうがいい作品でもあり、数日後にメモ。青空文庫で読めるようだが読まず。
上州から榛名を越えて信州へと向かう国定忠次の一行。代官を切り、追われている。夜に川を渡って流される者あり。残る子分は11名。初めは50人くらいいたが、捕まる者もおったか、こっそり逃げ出す者もいたか、しかし逆に、こいつがここまでやるかと驚かせる者もついて来たり、ようよう関所、ひと騒動かと思いきや、関所の役人は4、5名で、こわがってか知らないふりをして通す。これから先は山また山。あらためて見ると忠治をはじめとして子分も表情がややほっそりとしてすさまじくなっている。衣服もぼろぼろになりかけ。ちょうど故郷の赤城山が見える。見納めか。ここで休もう。切り株がちょうどあって忠治は座る。実は考えを巡らせている。信州の知り合いの所に行こうと思っているが、11人ではひと目につきすぎて行けそうにない。かといって子分ひとりもなしに、自分だけ行くのもばつがわるい。おい、誰と誰と誰、おれについて来い。あとは今生の別れになるかも知れねえが、といいたいところだが、さすがに忠治も弱くなっているのか、ここまでついて来てくれた11人に、とうてい言い出せる気力はない。
意を決してしかし言いだす。11人では追手はかわせねえ。ここに150両あるから、ひとり12両としてあとはおれがもっていく。みんなここで別れようといいたいが、3人はついて来てもらいてえが、どうしたものか。しばらくシーンとなる。すると、子分になってまだ2年の男が、威勢よく、じゃあくじ引きでは、といいだす。実は忠治としては、ついてきてもらうならあいつとあいつとあいつと、腹の中では、そうなってほしいと思っているが、とにかく話が進んでくれてるので、少しは安心する。もちろんすぐに反論が出る。冗談じゃねえ、親分、このおれに、ついて来い、といってくださいとか、何をいってるんだ腕っぷしならおれが一番だと、確かにそうなのだがいいだす奴、いやいやこの先を通って行くには、ちからだけじゃだめですぜ、親分ちからでは負けるかも知れないが世間を渡るならこのおれだと、子分たちもいちいち理のあることをいいだす。
忠治、はたと思いつく。入れ札、にしよう。それならお互いうらみっこなしだ、ということで、紙を札に切って入れ札が始まる。
ここに、さっきから黙っていたが、いなりの九郎助という子分がいる。子分だが、子どもの頃は忠治とよく遊んだ。しかし少し前の喧嘩騒動で、格好わるい所を見せる羽目になったのか、いつのまにか軽んじられて、兄い兄いとはいわれるが、声でわかる。5年くらい前に自分を兄いといってた奴も、今は別のいきのいい子分についていて、そいつのことを兄い兄いといっている。はなはだ面白くない。そこにこの入れ札。これで3人の中に入らなければ、古株の面目丸つぶれだと思う。気がきではない。他の子分の票を読む。自分と同じくらいの扱いに今はなっている、弥助なら一枚入れてくれそうだ。しかしあとは、あああいつがもしかしたら、と思いつつも期待するしかない。11票で3人だから、3票はないと無理だろうと読む。ほぼ絶望。
ところが筆が回って来た時、筆を回して来たのは弥助で、ちょうど自分の前に書いたらしく、顔を見ると、にやっとしている。おれはあんたの名前を書いたぜ、だからあんたもおれの名をよろしく、と表情からは読める。おい、早く回せよと他の子分からの声。九郎助は見られぬように、自分の名前を書く。書いて丸めて真ん中のかごに投げ込む。その瞬間から青くなる。とんでもないことをやってしまったというのと、これで3人の中に入れれば顔も立つという、ふたつの気持ち。札が読まれると、4札入ったのが2人、2札が1人。なんと九郎助に入ったのは、1枚。札の多く入った3人が忠治に着いて行くこととなる。
驚いたことに、この3人は、初めに忠治が、ついて来てもらいてえと思っていた3人。不満はあるが、忠治について行かせるなら、こいつと、札を書くときにはさすがに、それぞれに思ったのだろうか。背の高い忠治の姿は、かなり山にのぼるまで見えていた。見送ったあと残りの者のうち、5人は草津の方へ行くといい、恨みがましい気持ちも残るが、いつのまにか去って行く。九郎助はみんなの顔を見ることが出来ずに、遠縁を頼ろうと、ひとりで山を降りる。みんな忠治のことを考えていたのに、おれだけメンツにこだわっていたと悔いながら。
歩いていると、さっき自分ににやっとして見せた、弥助が追いかけてくる。おれも縁を頼って行くが方向が同じなので途中まで。こいつがにやっとして見せたので、魔がさしたとはいってないが、自分で自分の名前を書いてしまったと、弥助の顔など見たくもない、切ってやりたいくらいだと思う九郎助。弥助がいう。それにしてもひでえもんだ。あんたこそが忠治についていってやんなきゃならねえのに。あんたに入れたのはおれだけだという。
人情・不人情・引き際を見つけようのない世界のきつさもあり、偽りからどんどん悪い方向へいってしまう九郎助。あとの解説にて佐藤氏曰く、今の時代だったらこんな事考えないで、素直に自分をアピールするが、こういう感覚の時もあった所が面白くて演じたとのこと。少年時代に読んでおきたい本100冊に入っている話とのこと。「街道をはずれて街道を見失わず」、文中の台詞。今では今の力学があって、それを読み解いて行くのも自分らをも含めて今のひとしかいない、といってたのは誰だったかしら。なんだかシチュエイションを思うと、関係ないのだろうが、自分向きの時間感覚とでもいおうか、欲しいと思ってもそう思っているうちはそうはならないなどと、禅問答でなくそう思えて来た。

RAGTIME TUMPIEラグタイム・タンピー。Alan Schroeder。
翻訳について思ったことだが、まずは以下の自己訳から。
「ラグタイムはひとをハッピーにさせるピアノ音楽だった。そしてその音楽はタンピーに、エディ、ホンキイトンクな彼女の父を思いださせた。彼、エディはもう彼女らと共にはいない。彼は長い間出かけたままだ。新しい父がやって来た。タンピーは、彼女の父が帰って来ることはないと知った。でも彼女はピクニックの時やバレルハウス、川舟や賭け事の場所で、エディがスティックを打ったり、ドラムをセットしたりする時のふざけ方を思い出すのが好きだった。」
13ページの絵本で、あまりにも面白そうなので訳したが著作権ありと思うので、3ページ目の前半分のみあげてみる。ちなみにポール・オリヴァーのブルースの歴史をむかし読んだせいだが、ホンキイトンクとかバレルハウスとかは、定義には困るが、自分にはなじみの言葉だったのでそのままとした。14ページ目があとがきで、タンピーは踊る気持ちを失わずにジョセフィン・ベイカーとなり云々という記述がある、といえば何の本だかわかるひともいるかも知れないが、ファンではないがこの本はひとめ面白そうであった次第。
話にも感じいったが、初めは自分が読みたいだけでもありそれは変わらないが、翻訳というものについて、考えもしなかったこと、やったことがなかったので以下。
まずは電子辞書だが、ちなみに翻訳サイトには行っていない、古い電子だからかも知れないが、熟語や前置詞つきの語を捜すと、もう途中でボタンを押すのに疲れる。紙にしてくれとは思うものの、紙だとなかなかページをだせないのもわかりつつも、しかし電子ほど滅入らないのは、紙の方が自分の能力の限界がわかりやすく、大損をしている気はするものの、滅入りはしないということ。それから、おこがましいが翻訳技術。プロは凄いもんだと思う。主語を入れるかはずすか、むしろここは主語を入れた方がいいんじゃないかとか、はたまた形容詞の位置や、気がついたら元本にはない副詞を入れかけたりもする。意訳つまりは自己流にどんだんなだれをうっていくのを、むしろ防ぐのが翻訳かと思うと、情景を描いているのに、それを主人公が見た聞いたというふうに訳そうとしているのにも気がついて、でも英語だとそういういい方もあったかなとは思いつつもどうしようか迷う。私は原作に失礼ではないと思うが、タンピーでよかったと思う。まことに語学は、好きでなくては続きそうにないと納得する。

2015. 6. 7日曜日テレビ 「自転車泥棒」。
階段の上に職業案内の係のひとがいて男の名を呼ぶ。男は少し離れた所で休んでいる。誰かが気をきかして男を呼ぶ。2年ぶりに仕事につける。すぐ自転車を持って市役所へ行けといわれるが、ちゅうちょする。実は自転車を今は持っていない。質屋にあずけている。その自転車を何とか取り出す。仕事は街中でのポスター貼り。どころがある日の事、大事な自転車を盗まれてしまう。この設定から自転車を捜す必死さとともに当時の社会のいろんなひとがあらわれる。
今だったら、なんで自転車にひもをつけておかなかったのといわれそうだし、自転車がそんなに貴重だったのかといわれそうだが、それは映画をみればすぐにわかる。むしろこの作品の時代に自転車に鍵なんてかけていたら、きっとこの男は、おくびょうな奴だと笑われ、あなどられたかも知れないし、逆にいえばもし犯人を見つけたら、怒るんじゃなくて説教するだけで、本来はこぼんのうでおおらかな性格にちがいなかったろうとも思える。
大菩薩峠の、もうみんな忘れてしまったが、どこかで旅の女のひとが、「だれそれはお金のありがたみを知っていて云々」という説明があったのをなんだか思いだした。

吉里吉里人。井上ひさし。
 この奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが照明の当て方ひとつではじつに滑稽な、また見方を変えればまことに他愛もない、それでいて心ある人にはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の政治権力を握るお偉方には無性に腹立たしい、一方材料不足のテレビや新聞や週刊誌にはなはだおあつらえ向きの、したがって無責任な弥次馬にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの因となったこの事件を語るにあたって、いったいどこから始めたらよいのかと、正直いってずいぶん迷った。(終末から1973年6月号より)
 この、奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが照明の当て具合ひとつでは信じられないほど滑稽な、また見方を変えれば呆気ないぐらい他愛のない、それでいて心ある人々にはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の権力を握るお偉方やその取巻き連中には無性に腹立たしい、一方常に材料不足を託つテレビや新聞や週刊誌にとってははなはだお誂え向きの、したがって高みの見物席の弥次馬諸侯にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者や言語学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの原因になったこの事件を語り起すにあたって、いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係はだいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない智恵をずいぶん絞った。(1981年新潮社刊行本より)
 どう推敲されているのか、という関心で引用してみたが、よく読まなくても1973年の方は一人称で、それが1981年になると、「記録係はだいぶ迷い」云々とつけ加わっている。悩める第三者があらわれる。これでこころおきなく大長編になったのかとついつい想像してみたくなる。1981年ではこのあと、数ある登場人物の中から、このひとに書き手を頼んでみる、とは書いてなかったが、たまたまこのひとに頼んでみたという風に書かれてあったように思う。比較してみてわかったことは小さいが、たまたま両方あったので思いついた。最初の句点がここまでだったのも言い訳めいているが、長文引用ご容赦。

2015. 5.29金曜日19:00、2015. 5.30土曜日19:00ぽんプラザホール 風三等星 「十二階セピア」。1500円。
ストーリーを追える体力なし。ひとつ前の東京と、そのもうひとつか半分くらい前の東京が、ひとつになって行く。ふんだんに乱歩のよく知られた作品が散りばめられているので、そちらへの関心も最高に高まるが、むしろそっちをあえて見ないするようにするのにとても強いちからが必要で、抵抗しながら見る観客となって、かなりの爽快感。時代考証がまたどうどうとしていて、凌雲閣も台本も、右から左への横書きというこりようで、途中からまたも乱歩にひきずられもするが、確か乱歩の本名が平井太郎だった事などを幸いにも途中で思いだして、一部先回り出来た。
関東大震災までの凌雲閣あるいは12階とも呼ばれた建物の歴史を想像して描いた作品だが、見終わるとまだあらわれてもいない高さに感じる。簡単に述べてしまうが、こちらも闘ったような気分が残る。風三等星は前回確か2日見たが、お客さんが多いので遠慮してしまう。

2015. 5.23土曜日19:30湾岸劇場博多扇貝 最新旧型機クロックアップ・サイリックス「二者択一」。2000円。
あまりにも展開がめまぐるしいのでストーリーほぼ省略。終わり近くになって、それまで対になっていると思えた場面が、いっぺんにひとつのストーリーになるようなカタルシス。オークションについての造詣の深さ、それもオークションに出す側の心境も、そこは想像しただけかも知れないが、さもありなんと思わせられる。スピード感を目にしつつも、たんねんにつくりこまれている所まで見ることが出来る。そんなことはいってないが、これをヒントに自分を考えると、オークションとはご縁がないが、実にちょこまかと動きたくなる。

2015. 5.13水曜日11:30KBCシネマ 「パプーシャの黒い瞳」。1800円。
この映画を見て定義してみると、常に移動することによって集団の内圧を避けている村落、ということだろうか。とはいったものの、移動するのと内圧とどう関係するのかと、説明不足を感じもするが、あとで思うと「ジプシーには記憶がない」という言葉があったのがその伏線と受けとめられるし、読み書きへの嫌悪に反して、これまたそういっているわけではないが画面からは演奏することへの愛着が伝わって来る。集団から出ることがこれほどまでに大変で、それからずっと疎外されるパプーシャ。それもいじめとかいうのではなく掟というスタンスで疎外される。それがきいたわけだろうが、老元青年が年を重ねたパプーシャに、なんとかワルシャワに住まわせることが出来るよと、そのひとなりにかけずり回ったんだろうが、提案したとき、パプーシャにはその気力はなくなっている。パプーシャはそもそも、言葉を覚えたいという所から出発したわけで、しかしながらそのことによってひどい目にもあったわけで、きっと断るとは思うものの、とはいえここはきっと事実だろうと思えるだけに、そうだろうとは思いつつもこちらは疲れてしまう。老元青年の方は、おそらくもう少しゆるく暮らせば、パプーシャにはまだまだいいあらわせることがあると、そんな場面はないのだが、そもそもパプーシャに聞いたわけでもないのに、ある意味のんきな展望で、一生懸命動いているにせよ、その老元青年だって自分の生きてるうちにくらいの気持ちもあったんじゃないかと思うとさらに。解決しがたい行き違いとするしかない。
モノクロでコントラストが強い。映像の線もくっきりとしていて、同じくポーランド映画で古い作品だが、灰とダイヤモンド、を思い出す。後日録画をひっぱりだすと、配給元なのか何というのか、始まるまでの画面が同じようであった。

2015. 5.12火曜日。テレビ。チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」。
コンビニを舞台とする。店員さんが3人、ひとりが店長で、さらに女性の新人アルバイトが加わっての話となる。レジから見たお客さんという視点が面白いのか最後まで見る。バーコードを機械が読めないときの気まずさとか、ちょっと会話のノリが、スターウォーズを連想したり、もしかしたらこの店の外では、大事件が起きているのかも知れないがそれはわからないまま、上から下へ勝手に変わるマニュアル、何のことはない、やっぱり元の方がよかったとか、商品名を見るとヴァージョンアップしたかと思ったらまるで違う製品。これだからラクだなあと思うのと、これでは私だったら持ちそうにないと思う所が続々出て来る。お客さんもよくわからない、何も買わないひととか、私ならたまらん。「わけわかんねえよ」という言葉も、思考停止はわかるし、そうしたいときもあるわけだが、それがどこから来ているのかといったあたりで、面白かったけど、自分がわかるにはどこからかがわからなくなってしまった。

2015. 5.10日曜日15:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演会59 澤田ふじ子作「竹のしずく」。1500円。
どこからこういう作品が引っぱりだされてくるのか。1時間10分の長丁場に感激。劇場も夏模様。
太市が吉右衛門に怒られている。商売物の豆腐を丸太町で売り歩いていたら、ある公家のうちに呼ばれて、献上かたじけなく頂く、ととられてしまう。この当時丸太町付近には公家といっても貧乏な公家が多かったらしく、商売には不向きな場所だったようだ。いつのまにか見ているこちらももご近所の人になって吉右衛門の怒りを聞いている。
一段落すると吉右衛門は売れ残りの豆腐を持ってご近所を回る。豆腐屋は朝から豆をひくのでご近所迷惑、そのお返しに10日に1回は挨拶回りをする。吉右衛門と太市、それが佐助にまで至るひろがりで町に入る。
驚いたことに、ここで怒られている太市は、このあと台詞としては全く登場しない。どうなっていくのかは読まれてくださいというしかないが、当時の社会階層の違う人々が、階層というよりも、それぞれのタイプでおつきあいすることになる。こういうとそれはよかったといわれそうだが、いやいやそれはそれで大変だろうと思いつつも、本作、男女ともいろいろと人物があらわれて、読演者の人物の使い分けのうまさはいうまでもないが、人物たちが、みんないい所で出張ってくる。

2015. 5. 9土曜日15:00ぽんプラザホール 非・売れ線系ビーナス 「キリエ礼讃」。1800円。
劇団名の「れ」の字が、今回クエスチョンマーク?に急に見えだして、これがイメージだったらぱっとしないなあと思っていたが、何のことはない、よく見るとそこだけ、ひらがなだったからで、少しはこちらも頭が固くなっていたのかとはいえ、少しはほっとする。
キリエちゃんという、拾われた子を、みんなでアイドルにしようというでだしからで、ライバルがあらわれたり、異常なファンもあらわれたりで、でもってキリエちゃんは引きこもったかといわれるとそうでもない。
チラシによると、アイドルというと、昔のひとは偶像と理解したが、現在では人気者をアイドルというらしい。ところが自分は逆に思っていて、ストーリーとは関係ないが、おっと思う。それよりもアイドルの話とは別に、見終わったあとでは、どうも、どう説明してもうまく説明できない事に挑戦していたように感じてしまった。
ヒントはある。キリエちゃんが280円の牛丼を頼んだときに、取巻きが気をきかして600円の弁当を買って来るとキリエちゃんは怒る。怒りながらも、「でもその親切にありがとう」、という。そのときの彼女のすらっと出てくる台詞に、いい台詞とは見えないが、異和感はない。このあたりで実際には、アイドルの中身をいったんストップさせているのではないかと思うと、本当はアイドルが問題なのではなく、それは肯定するとして、さてその先、どう対応したらいいのかという、考えにくいことがテーマになっていたのではと後日思えた。
舞台はパイプを組んだハードな構成。全体の面白さという点ではもの足りなかったが、キリエが切り絵を連想させる単純さと、逆にこれは相当練習したと思われる、ミュージカル仕立てのこりよう。
アイドルを捜せla plus belleという歌もあるが、いずれにしてもアイドルという言葉は、年季奉公しすぎているから、葛藤が起こるのかなどとも思う。やや逃げ腰で。

2015. 5. 5火曜日19:00ライヴハウス チープサイド 「大耳ライブ」。事前予約1500円。
予定を越えて3時間。5組のアーティスト。5分休憩がそのつどあり。予約が多くてテーブル席をはずされたとのこと。お客さんは大人から、ときに前衛そのものもある公演なので、連れてきていいのかお子さんまで、ひとの事はほっといてくれといわれるだけだが、実際にはそのお子さんたちが生き生きと見ている。かえって度胸がつくのかも知れないとこれまたいらないことを。表現というのは、肩肘はらずに誰でもできる、できてしまうと、今いってるのは私だが、ホントに表現する。前々回に感じたが、特にパフォーマンスという分類を、それまでは単なるよせ集めのように思っていたのに、それが誤りだとわかったのもこのライブであったので特に注目。
パフォーマンス。3名。一人がうしろの白い幕に金色のテープを貼り四角い枠をつくり、さらに枠の中を塗り始める。一人がシンセサイザーで音はチューブラ・ベル風、3人目は初めから床の上にいて、少しずつ立ち上がる、やがて、あとは見た者だけの話とするが、終わってみると、あるものを構成することそのものが道しるべだと思ったというか、あらためて確認しつつも自分でやるのはむつかしいと思ったのと、3人のパフォーマンスだから、3人で一つのことを何かしら表そうというふうに、まあまっとうに受けとめているが、いやいや、そうではなくて、その一人ずつの中で、何かに影響されるあるいは影響するという事が一人の中にもあらわれていて、3人でやっているから逆にそれが見えるんじゃないかとも思った。
このライブ、ここでやるのは年に一回だが、気がつくと録画の準備やら飲み物の手配やらで、どうもこのあと出演しそうな人が動き回っていたりなど、ちょっとした緊張として伝わってくる。本番前は緊張するんですなんて話は聞くが、そういう事がホントにホントだとわかる。
どなたか、前にも来ておられて、この世界ではよく知られている人らしいが、そのひとが帰りしなに前回もいっておられたが、今回も店を出たあとで、この料金でこれだけいろいろと楽しめるのを他に知らないとまたいわれる。実は自分もそれがまたも不思議だった。

2015. 5. 2土曜日午後。大分県立美術館 「開館記念モダン百花繚乱展」。
開館記念ということで、百花繚乱。わるくいえばこれといった特定の目線もなく、面白いオブジェもあるが、いろいろと借りて来ている。しかしそれをいうなら、例えばひとりのあるいひはひとつのテーマでやるものの、その作品数が余りにも多すぎて途中から体力負けしてしまうような展覧会もよくある。だからといって逆に期待したわけではないが、よくも見つけて来た、あるある、村山知義の、写真やら板やらを組み合わせた、MAVOの作品が、素材のせいでボロボロになってるが、立派な額縁に入っていて、ご本人が生きていたら、びっくりしたか鼻高々だったか。マチスとクレー、どちらがどちらか私には区別できない人、ピカソありアンリ・ルソーあり、ちっともわからないが人気のあるモネの睡蓮あり。高山辰雄や香月泰男の本物あり、三岸好太郎の貝の絵にもついに出会い、やっぱりシェルピンクだろうと思ったりした。
美術館にはよほどの目玉展示のときくらいしか行かないが、常設展示を見るのが文化としてはまっとうなのかも知れないなんて思う。ただ作品保存の為なのはわかりつつも、メモをとれないのと、いったん出たら入れない所が苦しい。外国ではちがうように聞いた気もするが。全体に白を基調とした美術館で、ドアのつくりなどは、どこがドアなのかときにはわからなかったりもしたが、これが最新の保存形式なんだろうと思うと、そこは新鮮。
モンドリアンと村山知義がやっぱり記憶に残る。あの二人、そもそもああいった作品をひとに見せようなんて、どんなふうに思ったというか決めたんだろう。こころづよいのと気が遠くなるのが半々。

2015. 4.29水曜日午後&5. 6水曜日午後 伊都郷土美術館 亀山ののこ写真展「うまれてきたこの世界」。
忘れかけた写真がひとつ気になって2回行く。
羊の毛を糸にする手作業の写真で、かいこだったら、7本の糸をよじりながら一本にしていくはずだが、短い毛の場合は初めから少しずつよじっていくんだったか。最初に行ったときは丁度作者のトークがあり、メインの、女性が子どもを抱えている写真では、他のひとが質問していたと思うが、ラブアンドピースというコンセプトで写真を依頼されたときに、初めはラブアンドピース、って何だろうと、とっかかりにちゅうちょしたらしいが、そのラブアンドピースといわれるものの反対にあるものを、多分何となくなどとはいっておられなかったが、想像してみて、それからこの写真にいたったという、こういうと回りくどいが、粘りとは、始めてしまえば量としては私などはギブアップするが、質としては簡潔なものかなとも思える気配あり。簡潔だからこそ大変というのは省く。
それともうひとつ別のことをこの展覧会で思う。といってもこれは写真というもの全般について思った事になってしまうが、空間にあるのは、分けることの出来る過程(ゼノンの矢とかアキレスと亀とか)ではなくて運動(連続そのもの)だと型通りに習っているつもりが、なんだかシャッターを押すときだけは、運動ではなくて過程(切り取るといういい方もある事だし)なのかも知れないと思った。そんなこと思って写したりなんかしませんよ、そもそもそんな事を思っていたら、シャター押すひまがありません、とすぐにいわれるだろうが、そういう発見もあった。

2015.4.10金曜日15:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演会58 坂東眞砂子(1958-2014)作「生霊」。1500円。
枕の部分のすぐあとだったか、演者の「そこのお方」という台詞にぎょっとなる。後日思うと、蝉太郎は特に変わった人ではなく、その行動にしても、ちょいと面白いみやげ話を故郷に持ち帰って、ついでに少しは自慢もしたいくらいの気分の人で、それって普通の自分たちでしょと気がつくのだったが、これがこれからどうなっていくのか、多分当時の社会はそうだったんだろうともいえると思うが、これからの高齢化社会まで感じてしまう。ひしひしと感じるのは、高齢化社会といったり社会の高齢化といったりする、そのいい方にもよる。
ちょっと好きだったのは、京を出る時に、焼き米を持ってという箇所がある。焼き米は今ではほとんど目にしない。以前よく人に勧めていたが、評判はわるく、何故か変な食べ物と思われているらしく、今では承認が低い。味も食感も現代人にはあわないのだろうか。おいしいのに。しかしみなさんあぶないと見て食べられない。一度など、私がおいしいからというので買ってはみたが娘から、こんなものを食べているひとと知り合いなのおとうさん、といわれて困ったというひともおられて、そのひとが残りを全部くれたこともある。

埋木。水末集、という本(春陽堂発行)の中の一作。岩波文庫の方で読む。春陽堂の方は寝て読むには重いが、訳者鴎外(森林太郎)の短い解題が載っている。ステルニイ氏というのがまず出てきて、音楽家だが、新作を発表するという。彼の心酔者もいれば、彼をやや怪しいと思っている人もいる。結果は大成功で、怪しいと思っていた人、つまりはそんな才能がステルニイにあるか、とまでは書いていないが、怪しいと思っている人をも納得させる成功。しかしその公演のあとの帰り道。ステルニイ氏は、ある人物を見て車の中で倒れ込む。探偵もののようなでだし。この男は誰ぞ、と続く。この男はゲザ、といって、元はステルニイとも仲が良く、というよりも、ステルニイに賞賛されて援助も受けた、才能のあるバイオリン奏者。ちなみにこの時代の老人は45歳くらいの時代で、デリレオという老人もあらわれて、時間を持った作品になっていく。ステルニイ氏は悪い奴っぽいが、元々はピアノもうまく指揮の力も人あたりの良さもあり、思うように生きて成功したようだが、それはもちろん主テーマではないみたいで。
ゲザのほとんど生涯を描きつつ、あるときは作り得た名作、しかし同じものやそれ以上のものを作ろうと考えだすと、何故か、もう本人には残っていないのに、残っていない方の伎倆の鬼になってしまったりするとか、読むにつけ、当たっているような芸術論。読み終えると、例えば若書きのはしくれがあったとして、それがそれなりに完成されてはいるがただの小悪意だったり妄想だったりだったとしても、その最初の感覚、その段階ではまだまだ偏見に近いものということもありそうだが、そこを忘れないでいると、かえって飛躍するというか、乗り越えていくような展開になっていたのかも知れないなどと、今頃知っても遅い気もしつつ、思わないではいられない。埋木という単語は、卒塔婆小町の中にも確かあったかなんてのも思い出す。

十三夜。青空文庫にて。少し読むと、鬼の良人のもとへ云々と、急に引き込まれる。身分の高い人にみそめられて、ことわりようもなく妻にはなったものの、そのうちに夫のものいいがおかしくなる。最初は冗談かと、とは書いていないが、軽く受け止めていたが、いつのまにか何をいわなくてもいっても、みんなくだらない、解らぬ奴めという夫になってしまう。旧暦十三夜の日、その家を出て実家へ向かう。実家では始めは身分違いで、でしゃばってはいかんと、あえて嫁ぎ先を尋ねはしなかったが、よくぞ来てくれたなんて話を親がする。しかしもう何年も辛抱してきたが、とうとう嫁ぎ先で生まれた子が気になるものの、離縁を決めて来たという。そこでこれまでのいきさつを云々。しかしお前があそこに嫁いでいてくれるからこそ、それに嫁ぎ先で苦労するのも、ここで苦労するのも、同じ苦労をするのなら、あるいは世間の奥様達だっていつも楽しいばかりではあるまい、今なら間に合うといわれて帰る。父親が、今まで辛抱できたんだから、これからも辛抱出来ぬ事はあるまい、なんていう所が、今読むと、あきれてしまうが。という所までが前半で、とはいえ具体的解決策が予期されている訳でもなく、おそらくなかったんだろうという所。
後半は、人力車に乗って帰る途中の短い話。その車夫が、実はむかしなじみだったわけで、と続く。
こんな作品を残したのか樋口一葉は。なみだを、涕と書いたり涙と書いたりしている。実際には出て来ないが主人公の弟が、土手からあらわれて来そうに思える。

2015. 4. 4土曜日15:00甘棠館 劇団ショーマンシップ企画「BUNGO-NIGHTS−今宵文豪の名作夜話に耳とグラスをかたむけて−」。3000円。
チラシをちゃんと見るのはたいてい後日。でもって、豊後の話と思っていたら違っていた。なんとかついていく。後日チラシを読むと朗読劇となっていた。
樋口一葉「十三夜」。ああ、「たけくらべ」を何回読みかけたことか。劇になったうれしさにしみじみとなるが、そのしみじみが身勝手なもので、ここで樋口一葉がわかるぞと気負ったのが、間違いの始まりで、寝てしまう。気がつくとカーテンコール。若い役者さんから80歳の大御所元アナウンサーまでが登場していたらしく、あのアナウンサーのひと、知ってるよ、年はとられておられるが、それでもいつも練習されているんだろうね、と他のお客さんが尊敬しているのが聞こえる。またも樋口一葉を逃すのだが、この失敗がどう作用したのかはわからないが、後日あっさりと樋口一葉が読めることとなる。きっかけというのは、大変失礼なときもあると思うしかない。
2本目が森鴎外の「高瀬舟」。こちらは、知っているつもりだったが、やはり忘れている。高瀬舟で罪人を運ぶ、誰もがいやがる役。それをおおせつかった役人が、罪人と話をするうちに、そうは書いてないのだろうが、自分がこう出来たらとか、思っているにちがいない。舟の中でのしんみりとした会話。「目の前でふみとどまっているのがこのキスケだ」と、役人はいう。次第に高瀬川を下っているんだろうが、何だか湖に浮かんでいてただただ揺れているような、むかしの、意識の海の上にときおり無意識がぽっかりと浮かぶという、今ではあまり見聞きしない感覚におそわれる。実はコミュニケーションについて何かいっているような気がしてならなかったが、つかめなかった。

2015. 4. 1水曜日10:00KBCシネマ 「パリよ、永遠に」。1100円。
パリを占領しているドイツの将軍を、整然とした議論、ときには嘘もあったかで追い込む、追い込むはいいすぎかもしれないが、スウェーデンの外交官はいう。「町の破壊者として汚名を後生に残すのか」。舞台の映画化。83分。この発言をも含めて外交官の粘りはどこから来ているのか。本当は熱風があるんだろうが、ここまで粘ればこのあとにまた状況が変わっても、そこでもまた新たな交渉になると、しぶとく思っているのかも知れない。完結してしまっては、かえって危険なのかとも思えだす。日頃のおつきあいなら、生死をも含めて、ご縁もこれまでということもあろうが、ここは、お隣りの国とのおつき合い。題名がどうも、と、これは見たあとで思っただけだが、調べたらDiplomatieディプロマスィ、外交、というのが原題で、ほぼ実話ということらしく、舞台の映画化だったのもあとで知る。83分。感情でまず態度表明はするのだがそれからは、あくまでも整然とした議論と駆け引きで目的を通そうとしていく態度。爆破されなかったことを知っていてもはらはらとする。

2015. 3.26木曜日20:00玉名市ライヴハウス バッカス 「やなぎソロライブ」。ワンドリンク2500円。
次の日から仕事リタイアの挨拶があり、自分では途中は乱れるだろうが、初めと終わりの型まで忘れては、花束買ってきてくれてるひとその他にもいい迷惑。気を強く持てますようにと、げんかつぎも元気をもらうもご迷惑だろうが、夕方でかける。
帰宅後バス・地下鉄、JRまで走る、間に合わない、改札口で、もしやと思いバスカードをだして、このカードで入れますか、そこまでなら行けますよ、といっていただけて改札を抜け、特急に間に合う。車内で途中駅までの特急券。玉名駅に着くと既に真暗でいきおいタクシー。駅なのにバスはあまり走っていないようで、後日地図を見ていて、どうも駅より遠くにバイパスがあるようで、そちらが今はメイン道路になっていると読む。バッカスは、旧通り側となるようで、帰りは偶然にも、停車していたタクシーに出会えるが、後日あそこで停車中のタクシーにお願いできなかったら、帰宅は次の日だったとわかる。帰りは特急は既になく普通車両。24時帰宅。結局、ライヴを聞けたのは50分くらいで、あとから入って先に出るいやな客。しかし、自分には達成感ありで、ほんとに本筋ではないが、次の日からやなぎさんにはわるいが効果があらわれる。
「ウイスキー、ウイスキー、光を集めてつくった水よ」、という歌詞のよさ。「爪がのびる」、という曲の、単に具体的であるのがむつかしいと自分が感じることが多いからか、かえって抽象を感じさせる所。おおむね骨太の曲が多く、自分の日常と直結するものはないが、実にCDをよく聞き、特にあせってしまいそうな時に、ガラガラガラと窓が開くこと多々。合間の喋りで、ご本人いわく、自分より若いひとが自分の歌を聞くと、何だかコワイひとのように思うひともいるらしい、とのことで、他のお客さんともども、へえっ、ちょいと笑。何かしらライヴハウスと交遊があれば勝手に応援したい所だが、そもそも何事についても、そうは生きて来なかったので個人的に応援するのみが残念。

春告鳥。為永春水。自分のは大正4年の禁止物刊行会という所が発行したものらしく、伏字の上、つまり黒く消された箇所の上に、新たに消された箇所を印刷した紙を貼っており、実際には伏字なく読める。ネットでも今では読めるのを今回知るが、どうも読みにくい。先に紙の本で知っているというカタルシスがあるからそういってるんだという事は割り引かないと行けないかも知れないが。
艶っぽい話。要するに若旦那が色恋の道に走り、おいらんや奉公人とちょっといちゃいちゃ、といえばそれまでだが、ここまででは、おそらくは捕物帳に出てくるパターンを思い浮かべられるに違いない。会話のレベルが違う。春告鳥では、登場人物たちの会話に、それはそれは微妙なかけあいがある。若旦那の鳥雅が、おいらんの薄雲となれそめになったり、あるいはごくごく自然に奉公人のお民の背中の方に回っていたり、嫉妬心の表し方とか、ちょっとした色恋の駆け引きもある。そうはいっても江戸なんだから、上下関係のきびしさつらさがあったろうと思い、そこいらへんはねちねちと念頭に置きつつ割引ながら読みつつも、微妙ないいまわしがふいっと出てくるのにうなる。当時のベストセラーだったらしく、人物達はどうなって行くのか。3分の1近くまで。このあと九鬼をいくつかめくるが、引用した箇所が全く見当たらない。勘違いはしていないつもりなので後日とする。

2015. 3.20金曜日19:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演会57 杉本章子作「夕化粧」。1500円。
疲れている気はしなかったが、アトリエに着いた安心感からか病気がらみかたちまち熟睡してしまう。帰宅。
後日チラシを読む。「江戸、浅草諏訪町の居酒屋「ちどり」。二十七になったおふじが、鏡台の前で、夕化粧・・・。人と人との出会いや、すれちがい・・・。懸命に今を生きる人々の幸不幸。」
ここを読んでいたら、春告鳥という本を思いだす。九鬼周造がどこかで引用していた作品だが、この夕化粧の作者、杉本章子さんにも、これまたあとあとだが、「春告鳥」という作品があるのを知る。

2015. 3. 8日曜日13:30戸畑市民会館 文楽協会 「曾根崎心中」「義経千本桜道行初音旅」。3000円。
お初徳兵衛、生玉社前の段。お茶屋さん、要するに一軒の喫茶店らしき所である。真ん中にのれんがあり、その左に、はすめし、と書いてある。とざいとうざあい、と黒子の人の声。押しつけられた祝言を断ろうとするお初徳兵衛、徳様、うれしい。ところが悪人の九平次がいる。この段のすぐ前でどうやら、徳兵衛は悪人の九平次にお金を貸しているらしいのだが、ところが九平次はこんなことを言う。はて何の事やらさっぱりわからぬと。なんと、お金を借りたという証文に判は確かに押したが、それは28日の事で、その前の25日に、その判を失くしたとお上には申し立てている。落胆する二人。というか、こういうのって、ありだったんだろうか。開き直られると弱者が、この世でたった二人みたいになってしまう。とぼとぼとする二人。このあと天満屋の段、天神森の段と続く。

道行初音旅。にぎやかしい部分。どんどんどんどん、太鼓、拍子木。唄が3人、三味線が4人。かなりの厚み。赤と白の垂れ幕、赤が横に5本、白が6本、それがさっと落ちて来たのだったか、静御前の登場、黒い傘が場に映える。舞。客席のうしろからウグイスの声。忠信は、白いキツネとして登場。手で頭をかく仕草、尻尾を桜の木の陰に重ねる、浄瑠璃だから出来るとはいえ、キツネから忠信に変身。静の衣装が、きんらんどんすから、赤と白に。花に嵐の中のあざやかさ。見せ場は、扇を矢に見立てて静が忠信に投げる、失敗しても全くおかしくない距離だが、忠信がつかむと同時に大拍手。「土田六田も遠からず」、といっていたか、後日地図にて奈良県の地名とわかる。ここは華やかな段で、忠信の由来も、あるいは船弁慶での静のきちっとしたふるまいとかとも無関係とあえてして、ひたすら忠信の、スーパーヒーローぶりに泣かされる。

ハムレット。T・S・エリオット。工藤好美訳。
短い小論。ハムレットといえば、悩める人の典型みたいにいわれていたが、今でもいわれているのか、新語に変わっている公算大。To be,or not to be,that is the question.という事で、自分が習った頃は、人のタイプを、ハムレット型とドン・キホーテ型に分けて説明している論など、納得の行くことだったが。
エリオットは、まず、ゲーテとかが、作品としてのハムレットではなく、人物としてのハムレットについて論じている事をあげ、そこがおかしいという。しかもゲーテとかには、人物としてのハムレットを論ずる能力があっただけに、そのことによって、読む人を惑わしている、という。要するにハムレットはあくまでも、人物ではなくて作品ですよ、という。
ここからが小論文ながらさらに面白いわけだが、どうもエリオット(1888-1965)の著作権が28年なのか70年なのかわからず、さらに翻訳権もあるにちがいなく、と思ったらダウン。
エリオットさんにそういわれても、自分にはやっぱりハムレットは人物としてのハムレットとしか思えないが、そう思っているのに面白い。

2015. 2.15日曜日17:20TOHO CINEMAS 「忌野清志郎ロックン・ロール・ショー」。2000円。
顔をシェルピンクで塗られた自画像が、ちからがあるのが誰にでもわかるようでよく出てくる。そんなにハンサムでもないが、本人が出てくるたびに、何というか、ライヴを見たこともないが、映画館で座って見ているのがちょっといいのかなという気になる。そういう事例にもご容赦をと、祈るばかり。

郷愁。織田作之助、オダサクの小作品。しぶちん、とも通じるように思ったが違うか。小説家の主人公が、阪急宝塚線の清荒神という駅のプラットホームにいる。やっと書き上げた原稿を、夜の8時、今から大阪の中央郵便局に持っていけば締切に間に合う。ホームに立っていると、反対方向の電車が停まって、みすぼらしい感じの女が降りて来る。ここは清荒神なのだが、女は荒神口はここですかと尋ねる。大阪で人に聞いたら、荒神口というのはないが、清荒神という駅があるというのでここに来た。主人とここで待ち会わせる事になっているらしい。書いてないが、荒神口はむかしあった京都の市電の駅名。大阪行きの電車が来る。女に引き返したらというが、結局自分だけが乗る。電車の中での二人の男の会話。お札の新券と旧券がらみの話で、旧券の時に電車の回数券を一万冊買った奴がいて、それを50銭安く売れば儲かるとか、今のうちに古本を買っておいて新券になってから売ろうと思ったが、その本の置き場所がないのでやめたとか、生産を伴わねば失敗に終わるよとか、しかし主人公はさきほどの女と、その女と主人の関係について思っているうちに寝込む。阪急梅田に着くや、原稿をだして少し歩くと浮浪者が寝ている横に、その子どもがきょとんとした顔をしている。そこでまたさっきの女のきょとんとした眼を思いだす。そして、「「世相」などといふ言葉は、人間が人間を忘れるために作られた便利な言葉に過ぎないと思った。」1時間後に元の清荒神の駅に戻ると、さっきの女はまだベンチに座っていた。

2015. 2.10火曜日19:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演会56 山崎豊子作「しぶちん」。1500円。
けち、といわれた男がいる。でっち奉公の時から始まり、番頭さんにはしょっちゅうタバコを買いに行かされる。近くにタバコ屋さんはある。しかし、彼はわざわざ少し遠い所にあるタバコ屋さんに行く。なぜだろう。やがていつしかひとかどの財界人になるが、それでも、けち、という評価は残る、本人は気にしていないが。ころがあるとき、こんな事があって、というこった話。織田作之助の作品にあったと思うが、五代友厚の名が出てくる。

2015.1.10土曜日19:00アトリエ戯座 演戯集団ばぁくう 佐藤順一読演会55。藤沢周平作「うしろ姿」。1500円。
いい結末を思いつつもやっぱりはらはらする。酔っては人を長屋に連れて来る男がいて、ある晩のこと、ひと目凶悪そうな男を連れて来る。まあなんとかおさまるが、さて次に連れてきたひとはおばあさんで、と、結末まではまだまだ。
今では考えられないシチュエイションだが、さてちょっとのつもりで住まわせたおばあさん、どうする、出て頂こうと思うと、ちょうどおばあさんがいてよかったという場面があったりと、わりきれない。ひとつひとつの事例は正直疲れるが、一見するとそんなに正面から向き合っているわけではないが、まとまってみると、なんだかこれがいちばん便利で効率もいいのかという気になってくる。
途中で大家さんが出てくるあたり、梅雨小袖昔八丈にあるがごとく、江戸時代、大家さんには悪人もかなわなかったという話を確認。実は今でいうところのルームシェアみたいな展開かと思いきや、少し気持ちをラクにすると、気にしなくてもいい事っていまどき多いですよという気にもなってくる。うまく落着するのは作者のスタイルとするが、しかして、「答があると思っている人が、年輩のひとにも多い。」途中にこんな科白がある。