FRAH(*1) & TEGE(*2) in OKINAWA
だらだら日記 7




*1:フラー=沖縄の方言で“キチガイ”
*2:テーゲー=沖縄の方言で“いいかげんな奴”


テレビとFRAH

 頭が痛ぁい。自分が引く胡弓の音で、頭が痛くなった。もーやだ。練習したくないっ。
 沖縄の胡弓は、中国の胡弓のような美しい音が出ない。ビブラートをかけないから、ヒーとキーとイーを合わせたような、習いたてのバイオリンよりたちの悪い、みだらな音がでる。弾いてると、なぜか生唾が出てくるの。
 上手い人が弾くと、ハーモニカのような音が出て、それ聞くと、ただひたすら続くビービー音に、肺が苦しくなってきて、あー! 早く息継ぎしろぉっ、ハァハァ・・。肺を使う楽器じゃないんだけど、そうなる。
 今日もFRAH家から、胡弓の音が響きます。これって、とっても近所迷惑だよねぇ。
 まあ、近所のみならず、同居人の方にも大変ご迷惑なようで、でも、私は練習しなければならないのです。
「あのねぇ、人が電話してる時だけは、胡弓弾かないでよねっ!」(TEGE殿)。ごもっとも。以後気をつけます。
 こうやって真夜中にもかかわらず、呑気に胡弓弾いてるけど、ついさっきまで、巨大ストレスがFRAHを襲っていた。ストレスに超弱いFRAHは、なにを血迷ったか胡弓を練習しまくり、ますます荒れていた。
 ことは先週の月曜日にはじまる。那覇の公設市場に近い中華屋で、のほほんとTEGEとマナティ(いつ事務所に行っても、眠りこけているフリーライター氏)と三人で食事して、ほげほげしながら某地元テレビ局に電話を入れた。
 某テレビ制作部長、
「すぐ来い! すぐすぐすぐ」。ありゃりゃ、お仕事かしらーん。
「こんにちはー」
「お前、今からディレクターやれ、ディレクター」
「はあっ?」
 10月って、必ず新番組はじめなきゃいけないの? 私FRAHは一応ライターですから、テレビの仕事なんてやったことありましぇん。
 ディレクターって、なんざんしょ。
 ?マークが頭の中を飛び交うFRAHを残し、部長は離島ロケへとスッ飛んで行った。状況が次第に見えてくる。2週間後に、新番組がはじまること。新人ネーネー2人が、キャスターを務めること。生番組だということ。番組は15分枠だということ。等々。
 あっ、こりゃ、ハメられたわい。でも、責任者は離島にいる。この某テレビ局は、10月の番組新編成に合わせて、ド素人即席レポーター、キャスターをわんさか採用していた。迷える子羊たちが、私FRAHのまわりに、ゾロゾロと集まってくる。
 彼女たちって、日本語不自由なの。天気予報ですら、なまっちゃう。“割烹”も読めない。なーんでこいつらの教育係を、私がやんなきゃいけないのよ。怒り、あきらめ、また怒り。
 新番組スタートまで、あと一週間。部長が帰ってきた。そのままヤツは編集室にこもる。おいおい、こっちの番組は、どないしたらいーのや。
 新番組スタートまであと5日。専務が怒った。「わしゃ、そんな番組がはじまるなんて、聞いとらん」そりゃないんじゃない? まあ、まだ番組の内容すら決まってないし、無くなったほうがスッキリするけど。
 で、結局、私が担当するはずだった番組の存在が抹殺された。ラッキー!
 ちなみにこのドンデン返しは、今までその時間枠の番組に出ていた、オバサンキャスター3人の嘘っこ涙に起因する。見苦しいよー。
 新番組がスタートする予定だった日まであと3日。FRAHはノコノコと、他の番組の収録を見に行った。
「ねえねえ、あの番組、復活したの、知ってた?」
「あぎゃっ。なんで早く連絡しないのよっ」
「ごめんなさい、名刺、どっかの公衆電話に置き忘れちゃって(某子羊)」!。
 夜、某テレビ局2階会議室。
「月曜日、何します?」グダグダ。
「部長、取材に出掛けられるんですか? 部長、部長、あっ、寝てやんの」
「月曜日、夏バテについてでいーよ」グダグダ。
「飲みにいってもいい?」グダグダ。
「飲みにいくねっ」
 夜中の1:30。くっそー! なんでライターの私が、テレビ番組仕切んなきゃいけないのよー!
 ついでに、友人たちはすでに店を変えていて、私は一人すごすごと家に帰った。
 新番組スタート2日前。こみあげる怒り。人の引っ越しの手伝いで、気を紛らす。夜、電話。
「えっと、明日夕方の4時から、取材にでることになりました」
 勝手に行きやがれっ。
 新番組スタート前日。

ば・っ・く・れ・て・や・る・!
 あーすっきりした。TEGEさそって、魚とかエビとかガツガツ食って、カラオケで歌いまくった。今ごろヤツら、死んでるんだろーなー。ヒッヒッヒッ。
 テレビ局って、みんなこんな? そんなことないよねぇ。2週間前にスタッフかきあつめて、そしたら番組そのものが一旦無くなって、また3日前に復活するなんて、あり? しかも、月から金まで毎日あるんだよ、この番組。
 番組初日。スタジオの音声が入ってない。「それではVTRスタート」の声と共に出るカラーバー。各地の天気予報のマークも、なぜか夜用のお月さまマーク。バタバタしてるなぁ。ごめんねぇ、みんな。
 ノンビリ家で番組見てて。とはいえ、やっぱりどう考えても、私が責任感じることじゃないんだよね。
 さて、恩納村にでも、遊びに行くか。
 顛末記。さまよえる子羊たちのあまりのヒドサに、社長が「全員クビだぁっ」と叫んだとか叫ばないとか・・・。


FRAH & TEGE in OKINAWA
だらだら日記 8




ついでに新しいテレビ局の話

 琉球朝日放送(QAB)が開局した。とはいえ、このテレビ局の番組を見ているウチナンチュは少ない。というのも、QABを受信するためには、UHFアンテナを新たに設置しなければならないからだ。そんな面倒なこと、するわけないさぁ、島の人が。
 我が家には偶然にも室内アンテナがあったから、なつかしのニュースステーションが映った。ウレシイ。あと、ヤジ馬ワイドとかサンデープロジェクトとかも見られるらしい。まあまあウレシイ。
 なによりウレシイのは、ザッピングできるようになったことだ。4チャンネルしかないと、ザッピングしてもすぐ一巡しちゃうのよ。民放が3チャンネルになると、がぜんリモコン君が活躍しだす。英語ばっかりのFEN入れれば、6チャンネルに増えたわけで、ついでにビデオデッキも遅ればせながら手に入れたから、あー、ちょっとは人並みのテレビ生活。それにしても、テレビは見るに限る。


FRAH & TEGE in OKINAWA
だらだら日記 9




突然ですが、八重山に行ってまいりました

 だだっ広い国土を持たない日本にあって、唯一、バス感覚で飛行機が利用されているのが、ここ沖縄だ。
 私は何気ない顔をして飛行機に乗り込む地元民たちが好きだ。那覇空港第二ターミナルには、第一ターミナルの浮かれ観光客とは無縁の、離島面の素朴な人々が集っている。
 気軽な国内線というと思い出すのが、ニューヨーク・ワシントン間のAA。
 たった一人乗っていたスチュワーデスが、もう田舎娘丸出しの陽気ネエチャンで「私ワシントンはじめてなの!」と、それはそれははしゃいでいた。「ネエネエ、あの白い塔はなに? あれは国会議事堂かしら?」などとツーリストである私にたずねてくる。サア、という顔を返すと、仕事そっちのけで窓にひたいをつけ、ワシントンの街の灯に見とれていた。
 ビジネスマンたちがグレーでピリピリした空間を作りだしている機内で、ただ一人浮かれまくる真っ赤な制服のスチュワーデスネエチャンは、とってもインパクトがあった。
 中国でおんぼろイリューシンに乗ったときは、かの悪名高き漢民族スチュワーデスの後ろを、小判鮫よろしくスケベおやじがずっとくどいて回っていた。超・超・超無愛想でおそろしく背が高いスチュワーデスの、どこがそれほど魅力的だったんだろう。
 JTAの機内にそんな微笑ましさを期待するのはムリとして「進行方向左の窓側に乗れ」の鉄則に従い乗り込んだ飛行機の窓から、宮古や八重山の島々を眺めているうち、キーンというB737−400のカン高いエンジン音が一段と高まり、あっけなく石垣に到着した。
 ねえ、高い金払って乗ったんだから、アメだけじゃなくって、サンドイッチもちょうだいよー!
 コーラルウェイ(優れた機内誌)はもらうけどさ。
 石垣空港は好きだ。農協売店や石垣牛の店、八重山そばカウンター、奥にひかえる食堂など、きわめてローカルかつコンパクト。
 八重山ンチュにまぎれて、空港のベンチで一服。
 石垣は雨だった。本島はブッ飛んだ青空だったのに。
 さっそく話しかけてきたタクシーの運チャンの話によると、この三日間ひどい雨が降り続け、午前便もすべて欠航だったとか。そんなこととはツユ知らず、呑気に石垣に足を下ろしているFRAH。
 この八重山旅行の間、昼食はすべて「すぅば(そば)」と決めてきた。そばに思い入れがあるわけではない。ひたすら金が無いだけだ。
 金欠の元凶となる飛行機代の高さについて、運チャンとひとくさり語り合う。
 石垣市内をブラつき、結局、ここしか見つけられなかった、一目でハズレと分かる公設市場前のそば屋で昼食。

1日目 石垣公設市場前のそば屋(名前なんて知らない)
  メン :円柱。もろスパゲティ
  汁  :ひたすらコクなし
  具  :ほぐしたソーキ少々、青ネギ
 つぼ漬けつき  ¥400

駅前立ち食いソバですら、なにがしかのこだわりを持つ昨今にあって、何の感想も抱かせない味。店のおばさん、他の客には「おいしかったですか?」と尋ねるのに、私にはきいてくれなかった。きっと「マズい」と答えそうな顔をしていたんだろう。そういう客の意見こそ、大切なのよ。


 さて、TEGEは私のことを“回遊魚”と呼ぶ。マグロだとちょっと意味がそれるから、カツオあたりだって。止まっていると、死んでしまう。うん、その通り。
 トド・ジュゴン系のTEGEとは対照的に、ひたすらバタバタドタドタしている。
 ウチナンチュは「ヤマトゥの人は、のんびりできないさ〜」となじるけど、これは私の性格なのよー。かっこいい&使い古されたこというと「自分の生き場所=死に場所をさがしてる」ってか。
 のんびりした人というのは、死に場所が決まってるんだと思う。私FRAHは今のところ、どこにいても疎外感ばかり味わってしまう。だから少しはあわれんでよね、回遊魚をさ。
 回遊魚でありながらも、FRAHは“待つ”ことが好きだ。待つ、といっても、人を待つのは大嫌いで、乗り物を待つのが好き。列車が出るまで駅のホームに座り込む時間、飛行機が遅れたときに過ごす空港での時間、そして船の出航までの時間。乗り物自体が好きなのかもしれないし、移動が好きなのかもしれない。これから大きく自分の居場所が変わる、という期待感に包まれながら過ごす時間がシアワセ(結局、とことん回遊魚だ)。
 このシアワセタイムをA&Wで満喫した後、船に乗り込んだとたんバク睡。
 移動中なんかどーでもいいのよ。西表に着いたことも知らなかったし、一瞬、自分がどこにいるのかも分からなかった。よかったぁ。そのまま寝てたら、また石垣にひき戻されちゃうところだった。
 ここはどこ?状態で、体がズシーンと重いまま降り立った西表は、ジャマイカっぽかった。ほんの一瞬だけど。
 確かに本島とは違う。石垣とも違う。南国だ。あまりにセミがたくさん鳴いてたから、あとで民宿のおじさんに聞くと「1月、2月以外はずっと鳴いてるよ」だって。さすが。
「ひどい雨だったから、来ないと思ってたさぁ」と宿のおばさんにいわれ、ありゃ、スゴかったのねぇ、とあらためてビックリ。自分を晴れ女と公言するほどバカじゃないけど、それなりについてるみたい。
 逆に、なんだかとってもついてなさそーなネーネーが、民宿にいた。
 彼女は神戸出身で、理由は知らないけど(地震よりずっと前に)神戸を捨てて来ているそうだ。
 沖縄に知り合いがないままやってきて、本島で1ヶ月もホテル暮らししながらアパート探したけど「ナイチャーには 貸さない」とかいわれてすべてアウト(これが沖縄市及び北谷でのことときいてビックリ。そんな話きいたことないぞ)、しかたなしに離島を回るうちに金もきれ、西表でやっと借りられたボロ家からも追い出され、この民宿に拾ってもらっている。
 宿のおじさんは「どこにも行くとこないみたいだから、おいてあげてる」と彼女の前で言い放つ。彼女はひたすら小さくなるばかり。
 秋から冬はオフシーズンもいいところで、実際、宿の客は私一人。たしかにヘルパーは必要ない。
 夕食後しばらく彼女と話したけど、話すにつれて「この人、だいじょうぶかね?」と暗い気持ちになった。沖縄沈没のつもりで来てるならいいけど、そうでもないみたいで、「私ドンくさいから、生傷たえないのよ」といいながら、あちこちにオキシドール塗ってる姿見てると、おはらいしたら、といいたくなった。

 2日目。各学校で、雨で順延されていた運動会が行われている。そういえば、北谷で、お経のように繰り返される「ガンバレーガンバレー」という平坦な声を聞きながら寝てた朝があったなぁ。
 朝は仲間川遊覧でーす。往復1時間¥1240。団体さんの中に一人まぎれる。どーも、団体さんは東北の人たちみたい。私は東北人ではないけど、仕事でやたら行っていたから、訛りがなつかしい。
 おばあたち「あの声はなんだべ」「なんの虫の声だ」と大さわぎ。どうきいてもセミだけど。
 さかんに鳴く虫がセミだと分かると、今度は「どこでセミは育つんだべ」と心配そう。大丈夫、西表にも土ぐらいあります。
 そんなこといってる私も、マングローブって木があると思ってたんだから、人のこと笑えないわけで。
 マングローブを見て「ながなが見らんねー」「まっだぐ、たいしたもんだなぁ〜」とさかんに興奮のおばあたち。ジャングルと呼ぶのはおこがましいけど、マングローブはそれなりに圧巻だった。
 ボートはいきなり速くなったり遅くなったりの、妙な動きを続けたけど、気持ちよかった。バンコクでチャオプラヤ川を渡ったあたりから、船旅が好きになったFRAH。今度は石垣まで船で来てみよう。そっちのほうが安いし。
 宿の車を借りて、薄幸ネーネーを助手席に西部から東部へ。県で2番目に広い島なのに、農道をぬかすと舗装道路は1本のみ。道は間違えようがないけれど、逆に標識が少ないし、集落らしい集落もないから、行きたい所をことごとく見逃してしまいそうになる。
 えー、西表の旅もまずはそば屋から。

2日目 上原集落の新八食堂
 メン :平ら。太くも細くもない。どちらかというと、細めかな
 汁  :かすかな味噌味
 具  :ソーキ、カマボコ、青ネギ
 きゅーりのしば漬け付き(キューリのキューちゃんかなぁ) 小¥350

 本当はヤキソバが食べたかった。でも、初志貫徹。メンはかむと味がある。汁は味噌味ということだけど、味噌は気持ち程度にしか入ってなく、まあサッパリ。八重山って、ダシをケチる土地柄なの? それとも、薄味好みなのか。やっぱりヤキソバにしとけばよかった。

 予約の電話を入れたがフラれた民宿で、ここの常連でもある薄幸ネーネーを下ろす。この民宿に泊まりたかったなぁ。かといって、明日になってこっちに移ってくるのも気がひけるから、また今度ね。
 月ヶ浜は、もうみごとなまでに弓なりをした浜。砂浜の模範生ともいうべき。かなり遠浅なのか、波がほとんどたたず、ジュボッと一瞬音が立ち、ユラユラシューッと波がひけて、また次のひかえめな波がジュボッ。
 ゆるやかに潮が引いていくから、砂浜は板のようにまったいら。TEGEが洋服をかける枝を探していたことを思い出して、そこいらにいくらでも落ちている流木を拾ってみたけど、この木を持って八重山めぐりもねぇ、と断念。
 星砂の浜は美しい、という前評判だったのに、内地的な風光でつまらなかったから記述Cut。浜を見下ろすレストランで一服していると、ビール飲んでるおやじに誘われた。おごるから一緒にテラスで飲もうって。
 しつこかったけど「書きものするから」ってことわったら、一筆書いて
くれた。以下、おやじの走り書き。
 めがねの女性 星の砂の店で会う。
 何か書き物をするとか。
 清らかな感じのする女性 「ガンバリ屋」みたい
 ゴッツイ顔に似合わぬ文。気持ち悪ぃぞー。私のコーヒー代を払ってくれようとしたけど、もうすでに支払い済なのだった。
 途中、バス停にうずくまるネーネー2人発見、救助。一度寄った雑貨屋に、再度彼女たちを連れていってから、ペンションまで送る。
 さあ帰ろう、と薄幸ネーネーが待つ民宿に立ち寄ると、さっきのビールおやじがまたここに。ビールおやじを宿のみんなが迷惑顔で遠巻きにしている。強引に上がり込んで、酒をかっくらっているのだ。
 酒が入るとアメリカー口をたたく奴は沖縄に多くって、こいつもWhere do you stay? I wish to go with you.
 さらに、俺の好み、一緒に泊まろう、などと言いだす始末。この世に男と女がいる限りは無くならない、この手の 出来事。
 世の男性諸君、女にも一人旅を満喫させろ。

 3日目。去年石垣の民宿で会った、西表青年会長の佐藤君の家へ。
 ウツ病の薬が効いているのか、目が宙を泳ぎ、私を覚えているのかいないのか分からない。だいじょうぶか?
 宿のおじさんと、宿に居すわる“ゆんたくアバサー・ウーマクー(おしゃべり・やんちゃ)”みっこちゃん(もうすぐ3歳)と由布島へ。
 例の水牛車で渡る島です。いきなし水牛のうんこ踏んだ。おきまりですが、クソッ。
 水牛たちは、ペシペシたたかれてかわいそうだった。メイデンシャ気分で島に渡って、あとはもうゆっこちゃんのお守り。
 ゆっこちゃん、今日1回目のすわりションのあと、水牛が水浴びする池で一緒に泳ぎたいとのたまった。ヒェー、汚いですが、それでもよろしければどーぞどーぞ。
 西表野性生物保護センターは、きれいで上等。昼はモチロンそば。

3日目 大原集落、仲間橋たもとの「やすみ屋」
 メン :忘れた
 汁  :アッサリなんてもんじゃない
 具  :ソーキはゆで豚みたいだった
 ¥400

もう、ここまでくると文句はない。腹を満たすだけのもの。八重山そばを食べるのは、ダンゴで腹を一杯にするのと一緒、という薄幸ネーネーの意見も、あながち間違ってはいない。ここまでアッサリしていると、味の変化がなくて一杯食べきるのがしんどい。

 昼食後、行きたがるゆっこちゃんの目をぬすんで、おじさんと二人で縦断道路へ。
 雨で流されたデコボコドタガタ道をひたすら車で上り、もうこれ以上は進めないという所から歩く。
 おじさんは、パパヤーとか狂い咲きパッションフルーツとか何かの新芽とかを採りに、山に入る。FRAHは一人フラフラ、仲間川を見下ろす展望台まで20分のハイキング。
 すさまじい勢いで生い茂る植物、われんばかりのセミの声、強い日差し、脇に迫る大きな水音、幻想のごとく無数に舞う蝶。力強い夢の世界を一人ザクザク進む。
 展望台から見下ろす仲間川のマングローブは、川の両岸だけじゃなく、ずっと海まで密生していた。
 途中、何人もの昆虫屋に出会う。彼らは西表で昆虫を採取し、珍種を数十万で売りさばいているとか。夜にはこれでもかと蛍光灯をつけ、根こそぎ採取して帰るそうで、なんかねぇ、いい話じゃないよねぇ。地元の人も嫌ってるんだけど、それを禁止する法がないんだって。
 夕方、またしてもゆっこちゃんの手を引き、南風見田(はえみだ)浜と忘勿石(わすれないし。この地でマラリアで亡くなった波照間の人々の慰霊碑)へ。
 途中のビニールハウスを見て、おじさんがつぶやく。「あそこで蝶の人工繁殖してた人、大麻育てててタイホされたよー。島の人みんな信頼してたのに。前科もあったみたい。島には大麻やる人なんていないのにー」
 ゆんたくアバサーは浜で2回目のすわりション。
 おじさんは忘勿石保存会会長でもあり、ひたすら周囲のゴミひろい。
 私は客としての待遇を受けているのでしょうか?
 帰り道で空を見上げると、サシバ(ワシタカ科の渡り鳥)が何百羽も輪を描いている。サシバが渡ってくると、八重山も秋なんだってぇ。しばしのサシバ観察。

 4日目。カゼだ。ノド痛い、鼻が出る。思えば、カゼをひいていたウーマクーが、口に入れて吐き出した刺身などを、何も考えずに食っていたわけで、モロ直接にカゼをもらったらしい。
 「ここ〜は地の果て、波照間島〜」でカゼとは。
 さて、どのガイドブックにも書いてないことだけれど、西表から石垣を経由せずに、直接波照間に行ける。
 ほぼ毎日、石垣からのしんざと観光「翔龍」が西表へ朝9時20分頃寄港してくれる。これで、石垣往復の時間と料金が浮いた訳だ(ついでに、結局波照間に着くまで船賃をとられなかったから¥4500くらいトクした。うししし)。
 西表から船に乗り込んだのはFRAH一人だった。ちょっと旅の通気分。
 当初は西表の次に黒島に渡る予定だったけど、宿のおじさんとおばさん(おばさんは波照間出身。マラリア悲惨経験有り)が、「今のうちにハテルマに行け、晴れてるうちに」とそれはそれはしつこくって、急きょ予定を変更したわけ。波照間便は外洋航路だから、すぐ欠航するらしい。
 宿のおじさん「風速15m以上になりそうだったら、即、帰ること」
 西表港のおじさん「ハテルマなんて何もないから、すぐ帰っておいでー。おじさんが待ってるから(・・・?)」
 波照間って、しいたげられてる感じね。強制移民後、マラリアでたくさんの人が亡くなってるし、波照間はかわいそう、という先入観を持ちつつ船に乗った。
 風が次第に強まり、たしかに船は揺れる。上下左右にローリング。
 まわりは濃紺のビニールをしきつめたような深い海。外洋はコワイー。
 特に波照間到着15分前あたりから、揺れがヒドくなった。もっとすごい時は、ジェットコースターみたいに上がっては落ちるんだって。それって好き。
 着いた波照間は、東南アジアの僻地ビーチリゾート的な静けさ。
 海風が渡り、音が無く、人がいない(昼寝タイムが長いだけなんだけど)。
 私は宿に着くなり寝た。タダ弁当が配られる1時過ぎまで寝た。風邪薬買いに行こうと思ったら、共同売店は3時半まで休憩だった。
 ボーッとできる民宿と、ボーッとできない民宿がある。
 ここは薄幸ネーネーの言葉通り、ボーッとできる。ボーッとしながら、窓の外を吹く風を見ていた。なんか、風が強いんでないかい? 「風速15m」の声が頭をかすめる。でも、気にしない。ノド痛い、鼻が出る、頭痛い。病欠子供に 戻った気分で、時間を浪費しよう。
 ・・・と思ってたのに、回遊魚は風邪体をおしてサイクリングにでかけてしまった。
 ここは圧倒的に未開だ。一度は手をつけたんだけどさー、といった雑草・雑木が茂る土地ばかり。人口増加を続ける西表とは逆の道をたどっているのか。
 標識ゼロ、見通しゼロ、当然、道に迷う。雑草の中にうずくまるヤギたち。
 「ああ、オバア」というおばさんの声につられて振り向くと、畑の中からガジュマルの木の根っこのように生えているオバアが笑っていた。
 風がさらに強まり「これからは、毎日こんなよ」とサラリと言ってのける波照間港ターミナルのおばさんの言葉に、ちょっとビビる。
 西表の民宿おじさんに値段を調べてきてほしいとたのまれていた“もちキビ”は、500g一番¥400、二番¥200。米と一緒に炊くとおいしいよ。ターミナルで売ってます。
 風邪薬ぐださい、とあわれな声で、やっと開いた売店のおばさんに言うと、ありゃあきれたねぇ、という顔をされた。しょーがないじゃないの、ひいちゃったんだからぁ。
 民宿のおばさんにも「風邪ひきさん」と呼ばれていた。波照間では、風邪をひくことは悪いことなのか?
 民宿の食事、ウワサ通り量が多い。どうせ残すんだから減らせばいいのに、というのは本土的な考え方か。
 夜まで同宿者たちとおしゃべり。
 本土の人間、特に単なる旅行者、とこれほど話したのは久しぶりのこと。ちょっととまどう。
 沖縄ってヘチマ食べるのねー、とかゴーヤー(ゴにアクセントがあっておかしい)チャンプルはおいしい、とかいう話をきいていると「ああ、私も昔はこんなだった」とババくさい感慨にふけったりして。
 少ない休みを利用して、高い金払って沖縄に来ている人を見るにつけ、沖縄のどこがいいんだろう? と考えさせられる。
 沖縄が日常生活の場になると、良さがどんどん感じられなくなる。良さの中に埋没しているのか、というとそうでもなさそうだし、離島に来ても、島の人々の生活状態ばかりが気になるし、結局、「たまーに来るからいいんだよ」というありきたりなセリフに落ちつくのかな。うーん・・・。
 まあ、堂々と昼寝できるってだけでも、沖縄に来て良かったのかな。

 5日目。嵐に会う夢を見た。
 隣りの部屋の女の子二人は、早朝の便でサクサク帰っちゃう。私は波照間に完成した巨大ホール(夢の中の出来事)の取材があって、帰るに帰れない。しかも、かつて私を発熱にまで追い込んだ病的おしゃべりカメラマンが一緒。
 巨大ホールはおじい、おばあで満席。病的おしゃべりカメラマンは、相変わらずの無礼ぶりを発揮して、でかいストロボをバシバシ観客に発光させている。あーあー、おばあたちがまぶしがってるじゃないのー。外は大荒れだ。もうすぐホールで映画がはじまる。「帰れませんよ」と私がいうと、カメラマンは「僕は6時の便で帰りますよ」と例の不快な調子。あんたのその揺るぎない自信はどっから来るのよー、という所で目が覚めた。
 波照間は今日もいい天気。それでも、天気予報見せてくれー! と朝から不安で一杯のFRAH。
 カメラマンの悪夢にたたられ、私は本当に発熱したらしい。それでも、離島だから寝てりゃいいか。
 以前、某人が沖縄にやってきた時、そやつはあまりの暑さに寝てばかりいた。私が「これじゃ、家にいるのと変わらないじゃない」というと、「沖縄で寝てることに意義があるんだよ」っていってたっけ。ただ寝てるだけでも、所変われば気分も変わる、か。
 うーんしかし。熱があろうとじっと寝てられないのが、回遊魚。気がつくと自転車のサドルの上にケツが乗っていた。
 波照間は道に迷うよー。宿に泊まってる人みんなが言うんだから、間違いない。どれも同じような縦横無尽の道。
 波照間で分かったことその1・・・電柱が立っていない道には入らないこと。急に行き止まりになるけんね。
 道の途中にはヤギがいる。ヤギはねぇ、ロールプレイングゲームの敵のように、いきなり現れる。いきなり「メエッ」て横から鳴かれるとビビるさぁ。振り返っても振り返っても、徐々に体の向きを変えつつ、こっちをずっと見てるのって、こわいさぁ。
 一匹なんて、かなりハッキリした口調で「オイッ」って鳴くから、もーほんとコワかった。オイ、オイ、オイ・・。
 だんだん遠ざかるオイの声。夢に出そう。
 波照間で分かったことその2・・・ヤギはいつもこっちを見ている。
 波照間の大地は限りなく広がっていた。その広がりは、言葉にすることも、写真に収めることもできない。二つのまあるい目で、ぐるーりと見渡すしかない。絵になる光景があまりにありすぎて、カメラのシャッターは一度も切れなかった。
 どこまでも続く大地、まっすぐの道、大きな空、深い色をした外洋、ポツンとたたずむクバ笠おばあ、年月を経たヒンプン、赤瓦。竹富は人工的、波照間は天然。
 昼食は島唯一の食堂で。ここでネイティブハテルマー口をきいた。
 強くアクセントをおきながら語尾を伸ばすから、タイ語やタガログ語のようなヒビキ。フィリピンに近いからかしらん。

5日目 食事処たかな
 メン :ちょっと細めのスパゲティー型
 汁  :甘めアッサリ
 具  :ソーキはやはりゆで豚ふう。カマボコ2枚、青ネギ
 ¥500

まずい、とはいえない。一杯は軽く食べられる。その理由は、砂糖あるいはみりんで甘くした汁にあるようだ。石垣から出向いていたNTT職員に、強引に自分の店の電話機を修理させているオバアのバイタリティーに気押されぎみで、一気に食べた。

 昼食後は昼寝。これが波照間の正しい過ごし方。
 西浜ビーチは、もちろんキレイ。でも、キレイなビーチに感動できない不幸なFRAH。
 またもや拷問に近い量の夕食後、星空観測タワーへ。
 館長の下らない冗談を差し引いても、まだ余る星空観察の面白さ。
 望遠鏡で見た土星は、土星だった。
 なにより、天の川の天の川らしさに感激。
 波照間は有人島として最南端、ということは、日本で一番多くの星が見えるということならしい。しかも、ジェット気流の影響がないから、星がまたたかない。
 星って、空一面にあるのね。流れ星も何度か見たけど、アッ!流れ星、って言うのが精一杯で、その瞬間に願い事祈れる人って、相当にどん欲な人だと思った。
 『マップルマガジン沖縄』の取材に来ているライターと同宿。同業者さんですね。私は「昭文社」ときくと拒否反応がでるので、彼にもあまり近づきたくなかった(彼が悪いわけじゃないのに)。
 旅行ライターなんて、なるもんじゃないよ。旅は仕事ぬきが一番。見たもの全てを書きとめて、その全てに何かを感じなければならないのって、苦痛。旅に出たら、ホゲホゲしてたいもーん。全国の旅行ライターさん、ガンバッテねー。

 6日目。今度は高熱を出す夢を見た。現実的な夢を見ることが少ないFRAHなのに、何かヘン。実際、ビ熱はあるだろう。体温計がないから、気にしないけど。
 船はたいそう揺れました。特に波照間出てから20分過ぎくらいが、スゴイ。持ち上げられてはヒューッ。おしりの穴がしまるよ。
 バシャッと船が上げるしぶきに、虹がかかる。海はアルミホイルのようなギラギラ。
 上がっては落ち、上がっては落ちる。ヒャッホー。30分過ぎにはパッタリ静かになったから良かったものの、これが続いたら死んでたなぁ。
 与那国から来た女の子二人は、この状態に4時間おつき合いし、ヒドク弱っていた。
 「ねぇねぇ、与那国のクバの葉もちって、おいしかった?」の問いに、
 「それを食べた直後に、船に乗ったの。あとは聞かないで」と苦悩の表情。
 与那国へは飛行機で行こう。
 波照間もヒドイ時は石垣まで2時間かかるらしくて(通常50分)、そんな時は1時間たっても島のすぐ横を船が必死にもがいてる感じなんだって。
 石垣で風邪薬を購入。結核患者みたいにかすれたセキをしながら、なぜまた離島へと旅立つのか。それはねぇ、ただひたすら金おしさゆえよー。せっかく高い金払って石垣まで飛んできたんだから(往復¥26,620)、黒島にも小浜島にもはってでも行くでぇ。
 また船でバク睡。気づいたら黒島。
 とろけそう。
 民宿の食堂で、おばあからそばもらう。おばあの愛情たっぷりそばだから、コメントは無し。
 開けっ放しの部屋。適当に使えそうな部屋に、外から入る。宿の前の大きな机で、ここに住みついてる不可思議な横須賀おじさんと、大阪からきて5泊目のドロドロにーちゃんと、ボーッ。
 音がない。・・人がいない。・・太陽強い。・・みんな寝ちゃった。
 民宿の自転車かりて島を回る。牛はいる。人はいない。ダンプが通る。
 見るとこないから、ひたすらペダルをこぎ続ける。標識がキチンと立ってるから、道には迷わない。島を一周。仲本海岸で海の中を歩いてみる。おばあはリーフまで歩けるよっていってたけど、歩いたからどーなるもんでもない。 適当にひき戻る。
 音がない。白く暑い世界。・・・・・・・・・・・・・・。
 夕方、原チャリネーチャン登場。ショートカットに白と黒のボーダーシャツ、短いスカート。恵比寿の古着屋タイプ。強い意思が全面に出ている顔で、誰かに似てると思ったら家田荘子だ。
 このネーチャン、顔に似合わず(いや、似合っているのか)、野宿組。牛小屋に寝たりしているらしい。で、ダイビングをガシガシやってる。
 ダイビングと小ぎれいなボーダーシャツと何種類もの基礎化粧品と牛小屋。恵比寿と黒島の融合体ね。
 すべてが止まってる黒島を、ビービーと動き回る彼女。島民200人強、牛2000頭強の黒島にいても、東京のリズムで動き回れる人って、スゴイなぁ。
 この彼女、翌日には本島に戻って、恩納村や砂辺(うちの近く)でも潜るらしい。ダイバーにとってみれば、海さえあれば、黒島も恩納村も同じよーなもんなのかなぁ。そのあたりが理解できない限り、私がダイビングをはじめることはないと思う。
 この死んだような島の死んだような民宿に出入りする4人
 ・・・ここの一室に居つき、住民票まで移している横須賀出身の元気中年氏、
 大阪真っ黒ニーニー(西宮避難民)、
 ビービーネーチャン(沖縄の高校生は原チャリのことをビービーと呼びます)、
 私FRAH・・・
 に共通するのが、今まで引きずってきたものを捨てて、沖縄に迷い込んでいるということだ。
 しかも、大阪ニーニーとビービーダイビングネーネーは、共にごく最近まで広告業界の人だったとか。またしても、仕事をやめてまで沖縄に来る意味があるのか、の問いにぶつかった。
 仕事をやめ、沖縄に渡り、貯金を食いつぶし、どんどん身動きできなくなっていく人が多い。
 横須賀氏はこれから西表で農業をするという。ビービーネーチャンは東京で建築を学んで、石垣で就職するんだという。そううまくいくのかい? ってなことを、夜中まで、大阪ニーニーと語り合う。

 7日目。やはり白く音の無い世界。横須賀氏が桑の木を切るチェーンソーの音だけがひびく。私は庭で三線をベーンベーン。大阪ニーニーは寝たきり。ビービーネーチャンが、どこからともなくダンプに乗っかってやってくる。
 今日、ここから抜け出ないと、永久に黒島ラビリンスにハマりそう。帰ろう、帰りたくない、でも帰ろう。
 横須賀氏とビービーネーチャンに見送られ、マジックマッシュルームの島、黒島を後にする。旅の終わりが黒島じゃなくてよかった。このままじゃ、社会復帰できそうにないもん。
 八重山の民宿に泊まると、必ずといっていいほど聞かれるのが、「どこ(の島)から来たの?」と「次はどこ(の島)に行くの?」という問いだ。それほど、八重山の島々をグルグルと巡っている人は多い。
 八重山病は静かに深く進行する。この病にかかると、金が続くかぎり島めぐりを続け、金がこと切れるとどこかの民宿のヘルパーになって、しまいにゃ西表に移り住んで農業をはじめるらしい。
 その先は様々だ。西表青年会長のように、ウツ病になって入院するのか、やはりナイチャーの相手をみつけて幸せな結婚生活を送るのか、西表の名物おじい、通称“ターザン”のようにサバイバルするのか。
 ああ、生きていくのは、ムズかしいねぇ。
 本日はそばはお休み。そば食べるの、疲れた。島料理は油が多いから、胃が疲れた。素泊まりにして、売店でパンでも買って食べるかな。
 八重山観光フェリーの待合室で時間をつぶすのも、これが最後か。
 「旅はまず遠くから」西表のおじさんのセリフ。その通りだね。行けるうちに遠くに行ってしまうという意味においても、近くにいるほうが帰りの時間が読めるという意味においても、社会復帰しやすいという意味においても。
 で、八重山の旅のしめくくりは、社会復帰を兼ねて、小浜島です。
 またもや船でバク睡。どうしたことか?
 小浜に着くなり腹がへり、民宿が経営する食堂で、思わず「そばください」。そばFRAH。

7日目 食事うふだき
 メン :かなり平うち
 汁  :今までで一番コクがある
 具  :細切りソーキ、かまぼこ、青ネギ
 ¥450

メンと汁との関係が崩れている。つまり、コクのある汁には細くまっすぐのメン。コクがない汁には平たくちぢれたメン、という鉄則を無視し、八重山そばの中ではコクがある部類に入る汁に、平たいメンが入っている。こうなると、メンに汁がたくさんくっついて、ますますくどくなるのよ。案の定、炭水化物過剰攻撃に苦労させられた一杯。私は、質面倒なことはいわない。メンをもうちょっと細くするだけでいいはずよ。

 ああそうか。この民宿はいつかテレビで見た、南島詩人 平田大一君の家か。忌むべき某テレビ局からの、紅白お祝いビラビラ幕がかかっている。ケンカ売ってんのか。
 島全体の人の多さにはまいった。波照間と黒島で、いつのまにか脳が流れ出てたんだなぁ。
 レンタバイクに乗る。バイクに乗ると、アクセル全開にしないと気がすまないスピードFRAH。ノーヘル全開バリバリ、そんなに急いでも意味ないと知りながら。
 細っこい半島の先っぽ、その名も細崎(くばざきって読むんだったかな)で休憩。目の前にそびえ立つのが西表。小浜と西表の間のヨナラ水道は、マンタが多いことで有名だとか。目を凝らすけど、マンタは見えない。当然か。細崎はキレイな貝殻がたくさん落ちてるところなんだけど、ここまで無造作に落ちてると、拾いたくなくなるってもんだ。
 後になって拾ってくりゃよかった、とか思うのよ。分かってるんだけど、でもやっぱり拾わなーい(なにをツッパッているのか)。
 細崎は糸満ウミンチュが移ってきた部落です。ここの売店で、缶コーヒーをかっぱらった。ごめ〜ん!
 小浜の二大リゾートホテル、コーラルアイランドとはいむるぶしは、やけにひっそりしていた。やってけるのかしらん。コーヒー飲んでやろーと思ってたのに、どっちにもそれらしき店がなくって、しかたなく敷地内をやっぱり全開バリバリで走り回ってやった。でも、ホテルの人間らしき人も一人もいなくて、走り屋FRAHは、ひたすらむなしかった。
 やや人っ気に慣れてきたところで、宿に戻って、日課のゴロ寝。これをやると夜眠れなくなるんだけど、この民宿は夜の宴会が有名だから、いっか。
 夕食。ここでも、もうすぐ三才児(しかも双子)のお相手。夜8時より宴会開始。客はこの宿にはめずらしいことのようだが、私一人。
 宴会参加者は、お父さん、お父さんの悪友二人(これを小浜の三羽ガラスと呼ぶ)、大一くん(途中、〆切りが・・とかいいながらいなくなった。有名人も大変ね)、ヘルパーのみきちゃん、私の6人。
 ところで、沖縄は喪中の間は三線を弾かない。
 西表の民宿もそうだったけど、ここ小浜の宿も、喪中。30代のニーニーが車で海につっこんで、自殺したそうだ。これは全くのオフレコ。死亡広告も出さず。しばらく人生談義。
 臭いオムツ替えて、学校に行かせて、大変な苦労してやっと育て上げたのに、親より早く死ぬとは何事か、と三羽ガラスは憤懣。自殺したニーニーには、母親と奥さん子供がいたそうだから、島の人が「バカ」と呼ぶのも無理はない。
 そのうち盛り上がってくると、お父さんが「みきちゃん、サッシと障子しめれ」と指示。結局、三線、マンドリン、笛、ギター、ハーモニカ、三板入り乱れての音楽大会となった。
 「死んだらソン、生きてるが勝ち」とかなんとか言いながら、喪中の禁もどこへやら。自殺した奴には礼を欠いても よい、ということでもあるようだ。
 かくして小浜のにぎやかな夜もふけ、人にもある程度慣れたところで、八重山の旅は終わったのだった。

 帰り。石垣空港で自衛隊の人とお茶して、だべる。
 本島もまあまあ暑かった。よかった。これで本島がすっかり秋になっていたら、ショック大きかっただろう。それでも、なんかしっくりこないでいる。夜はまた、
そばが食べたくなった。こんなことなら、石垣から与那国に飛んでっちゃえばよかったな。



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