勝谷太治神父様のご紹介
1955年北海道室蘭生まれ
1986年叙階
現在北広島教会主任
(学)北海道カトリック学園
広島天使幼稚園 園長
フィリピン・ミンダナオ島にある養護施設
イースタービレッジ・ミンダナオを支える会の代表
罪とゆるしについて
「あなたがたは、人を奴隷として再び陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」

ロマ8:15
                    
 皆様は、日常生活の中で、こんな私でも神から愛されて、神様にとって私はすばらしい存在だったのだなあと、思い当たる体験をなさったことがありますか?
 創造信仰ということばをご存知でしょうか?
神は神のご意志と望みをもって、すべての存在(私も含めて)を創造なさいました。
ですから、私が今ここにいるのは偶然ではなく、神のお望みで存在しているのです。
 人は神から善いものとして創造されたのに、罪を犯してしまいましたが・・ にもかかわらず、最終的に神の愛と憐れみを体験します。
 放蕩息子のたとえでは、兄は自分を正しいと思い込んでいる。
弟は今までの自分のしたことをふさわしくないことだったと、反省することが出来た。
これも神の恵みによって気付いたのです。
そこでやっと、神様の愛を実感し、回心したのです。
回心とはゆるされ、愛されていることの自覚です。
 神はこんな放蕩息子でさえ(そして私も含めて)神のみ元へ立ち帰るのを待っていらっしゃる、これ程大きな愛があるでしょうか。
そう思った時、神を愛さずにはいられないはずです。
 神は私が愛するより先に、私を受け入れてくださっています。

 盗みを働いた人の救いともなる回心は、被害を被った人への思いであり、罰への恐れではありません。
もし大切に思っている人からは、盗みを働こうとは思わないでしょう。
 殴って悪かったと思うのは先生に知れたら怒られるからではなく、殴られた人の痛みに思いを馳せ、共感した時の思いです。

 私たちの罪について陥りやすい傾向をあげてみますと、ゆるしの秘跡や共同回心式に良心の糾明箇条等をあげて、アカを洗い流す感覚で望むことがあります。
これを何度も繰り返し、相手とは仲直りしていない。
相手に対する自分の態度は変わっていない。
日本人の特徴として(神道)お払い式的な考えがあります。
汚れに対する浄めは、その時はすっきりしますが、人格的には何も浄められてはいません。
 大切なことは、神の愛の招きに応えることです。完全な回心は神の愛を回復したいと切に祈り求めることです。
徴税人ザアカイ ルカ19: 1〜10
 ザアカイは人頭税を多く集め、自分のふところに入れて生活していました。
大金持ちでしたが仲間はずれにされ、神の国から遠い存在の人でした。
現代で言えば、暴力団の組長でしようか。
このザアカイは、イエスがどんな人なのか? と、ミーハー的な考えで見物しようとしたようです。
そして、聖書には家で何を話したのか記されてはいないし、なぜ回心したのかも記述されていません。
イエスがお客になって行った様子からザアカイは、自分が愛されていることを実感し、神の前にふさわしくない人間とわかり、罪に気づいたのです。
姦淫の女 ヨハネ8:1〜11
 姦通の罪で現行犯で捕らえられた婦人の話しです。当時石殺しの刑と決まっていました。
イエスの語りかけによって、彼女は深いあわれみと慈しみを感じ、過ちから解放されました。
 その人の救いとなる回心に導かれるのは、裁かれ論じられているという恐怖からではなく、ありのままの自分が愛されているということを相手から実感したときです。→ 人は愛によってのみ、それまで執着していた心の壁(自分の限界)を越えて自分を変える勇気と力を得るものです。
ゆるしの秘跡
 ゆるしの秘跡は機械的にするのではなく、神の愛のまなざしの中で自分の罪をみつめることです。仲直りをする雰囲気が望ましいです。
私が悪かった、ごめんなさい、と。
しかし、あくまでも、自分は正しく相手を言いわけや正論によって屈服させようとしても、相手に対する自分の態度は、何も変わってはいないではなく、大切なのは、自分の心を変えてゆく、神の前でふさわしくない自分に気づくことが、一番大切なことです。